奥さまと野兎 ③
トリスタン曰く、もしかすると、私はここから始めると良いかもしれないそうだ。
ちゃんと一から馬の世話をして、絆を育む。
当初は、あくまで私が非常時に馬に乗れるようになるだけでよかったから、訓練された馬の操作方法だけを習得する方針だった。
けれど本来、馬の扱いというのはそうじゃない。ちゃんと普段から世話をして、人間と同じような機嫌や癖をわかったうえで、乗馬で互いの呼吸を合わせる。
そういうわけで改めて、私が世話をする馬が選定された。
トリスタンはその馬の名前を「リューヴ」と言ったみたいだけれど、知らない響きだったので、聞き返した。
「リューヴ、ですか?」
「そう。言葉通りだが……そうか。野ウサギは、方言か。王都では、えー、リェーヴルと言うのか?」
「ああ、リェーヴルですか。なるほど」
たしかに、このくすんだ栗毛は野ウサギらしい。
加えて、ランキエールの馬にしてはずいぶん体が小さくて、王都の馬くらいだ。この大きさなら私も世話しやすいし、乗りやすいかもしれない。
「この子はランキエールの馬にしてはかなり小さいですが……仔馬、ですの?」
「いいや、若いほうだが成馬だ。もう七歳になる。調教自体は済んでいるし、賢い馬でな。気性も荒くない。暴れるようなタチでもない」
あら?
──それなら、今までやってきた乗馬の訓練もこの馬で良かったはずだけれど。
と思ったところ、このリューヴのちょっと反抗的な佇まい──桶の馬草を食べたあと、大きな馬房の奥で丸まってそっぽを向いた──を見れば、なにか問題を抱えていそうな馬なのは明らかだった。
私がそう思ったことを気取って、トリスタンが言う。
「だが、うーむ、言葉が難しいのだが、簡単に言うと……その、ひねくれものでな」
「そんな馬に私が乗ったところで、振り落とされる気がしますが」
「いや、人を乗せないとか、蹴ってくるというわけでもないんだ。ただこう、妙にニュアンスがあるというか、素直じゃない、みたいな感じだ。知恵があるゆえに」
トリスタンは柵にフックで掛けてあったブラシを取り、私に渡してくる。そして、とりあえず毛づくろいをしてみろ、とリューヴのほうに目配せする。
ブラッシングのやり方はさっき習っていた。私は指示に従ってブラシ片手に馬房の扉に手をかけて、まず、声をかけてみるところから始めた。
「もし、ほら、そこの」
言っても、反応はなし。
「リューヴさん。毛づくろいをさせてちょうだい」
ちょっと扉を揺らしてみる。リューヴは耳すら動かさない。
「もしー?」
声を張ってみても、無反応。
どうすればいいかわからなくて、トリスタンのほうを振り返る。
けれど、とりあえずやってみろ、という姿勢は変わらないままだ。
馬房の中に入っていいということだと思うので、扉を開けて中に入って、枯れ草とその下の土をくしゃっと踏み潰す感触を覚えながら、進んでいく。そうしてようやく、リューヴはこちらを向いた。
そのときのリューヴの視線は、自分の空間に入り込んできた私を認めたうえで、どうも、それについて怒りとか嫌とかいう反応で返すよりは、もっと素朴に、
──なんだおまえ?
と言っているようだった。
その言いざま(いや言われてないんだけども)に、なんだか久しぶりに腹の虫がちょっとうねった気がして、そして、自分より圧倒的に大きな生き物に近づくということに慄いたこともあって、多少近づいたところで私は足を止めてしまった。
「け、毛づくろいをしますよー? うん、ほら」
リューヴの毛色を改めて近くで見ると、良い具合にシックでくすんだ栗色をしているものだと思ったけれど、毛並みが揃ってないところとか、たぶん、フケみたいなものがちょっと重なっているようにも見える。
勇気を出す。
ひと思いにたったった、と近づき、ちょっと首とぴぴっと撫でてから、頭とか脚とかが近くない背中にとりあえずブラシを当ててみる。
すると、リューヴはパッと立って、私から離れ、馬房の扉のほうに行ってしまう。
「りゅ、リューヴさーん?」
毛づくろいのときは、まず馬を安心させねばならないと聞いた。だから私は高すぎもせず張りすぎもしない声で、
「大丈夫ですわよー。綺麗になるだけですから」
と、馬房の中をぐるぐると回ってリューヴを追いかける。けれどそのたびにこの馬はあっちいったりこっち行ったりをし、たまに急停止して動いたりして翻弄してくる有様だった。
私はついにやるせなくなって、開き直り、
「あなたね。自分で自分の背中がかけるわけじゃないでしょう。大人しく綺麗になりなさいな」
と言った。
その言葉だけは通じたのか、リューヴは初めて私のほうに意識的に顔を向ける。
──あら、従う気になったのかしら?
と思ったところ、リューヴは、いっ! と歯を見せてきた。
……挑発だ、これは。
「ちぃっ!」
私は思わず声を入れた舌打ちをした。
所詮は畜生。言葉を解さぬ獣。知略と言葉を駆使して戦ってきた私の出る幕ではないかもしれない。
私はブラシを柵のフックにかけ直し、馬房の外に出て、しずしずと厩舎の入口に引き返すことにした。
「こら、逃げるな」
それを咎めて、後ろからトリスタンが、中指の関節で小突いてくる。
「だって言うことを聞きませんもの!」
「そう簡単にはいかん」
「でもあの馬、明らかに私を舐めてますわ!」
「まあ、馬からすれば、君は小さな人間の小娘に過ぎないからな。そういうことも起きる」
「……うー」
「次は俺と順番にやろう。こいつにとっての序列もそれで変わるかもしれん」
今度はトリスタンがブラシを持って、私と一緒に馬房に入る。
彼は慣れた足どりと手つきでリューヴに近づいて、さっ、さっ、と背中の抜け毛とフケを落とし始めた。
リューヴは、心地良さそうな表情こそしないものの、私のときと違って逃げる様子を見せない。
「……あなたの言うことは聞くのね」
「まあ、少し世話をしたことがある、というのはあるが、それよりももっと気持ちの部分が大きい」
トリスタンはブラシを丁寧に、一定方向に動かしながら、語り始めた。
「たとえば、リューヴは、ランキエールの巨馬の中ではいっとう小さい部類に入る。そういう意味で俺と重なるところもあるわけだ。馬にも群れというものがある。仔馬のとき、こいつは群れの中でもいじめられる立場にいた」
彼は私に呟きつつ、リューヴの毛づくろいを淡々と行っているようだったけれど、その語り口には確かな温度があった。
「だが、根本的にこいつと俺とは気質が違ったんだよ。俺は正面から戦ったが、こいつはそういう戦いから抜けて逃げおおせ、調教もさっさと終わらせたんだ。すばしっこく賢く、要領よく生きる道を選んだ。その生きざまをして、こいつの毛並みからついた野ウサギという名前に、みなの間で腹落ちがあった」
背中の一面の毛づくろいが終わると、トリスタンは手でリューヴの首を掴んで、回転するように促した。リューヴはちょっと気怠そうに指示に従いつつ、トリスタンも折衷案だという感じで自分も横に回る。
そして、彼は次に、私にブラシを渡す。
「話が逸れたな。要は、そういう人となりというか……馬それぞれの性格や個性、それを騎手自身に重ねたり、逆に重ならない場所まで見つけたら、その馬についての理解が深まるということだ」
こうして、リューヴの側面にブラシを持って佇む格好になって、にわかに緊張する。
リューヴはトリスタンを含めて私を見ていた。トリスタンが逃げないようにちょっとした圧を加えてくれているからか、今度はぱっと離れそうにない。
勇気をもって、さっ、さっ、とそのくすんだ栗毛を梳かす。
それができた数は、五回。それ以上は許してくれなくて、トリスタンがいるといっても、リューヴはさっと馬房の奥に引っ込んでしまった。
ブラシには、根本が白くて毛先にむけて濃くなる、栗色の毛が絡まっていた。





