奥さまと野兎 ②
落馬の訓練自体は、そもそも二人乗りのときは習得済みだったこともあって、予想よりもずっと早く済んだ。
その期間、たったの三日。
なんとこの私が、たった三日で安全に馬から落ちられるようになったのである!
破いた服はたったの四着。実家では馬に蹴られないこともままならなかったのに!
私がうまく手綱を握ったまま、馬に引っ張られつつ地面をとっ、とっ、と歩み、手を離して綺麗に停止したとき、後ろのトリスタンが感慨深そうに「よし!」と叫んだ。
自分の成長具合に恐ろしさを感じつつ、うきうきしながらトリスタンのもとへ行くと、彼は膝に手をつき、ぜえ、ぜえ、と息をしていた。
「よく頑張った。ヴィヴィエンヌ」
「思ったよりすぐできてとっても嬉しいですわ!」
「……左様か」
彼の視線が私の脚に向いていたので、そちらに目を落とす。
ズボンはボロボロ。土だらけ。頭巾をぽんぽんと触ってみればもうぐしゃぐしゃで外れかかっている。
「今日は終わりにしてもいいところなんだが、まだ体力は残っているか?」
「ええ! この勢いのまま、次に行きましょう!」
「さすがだ。うん」
改めて馬の前に立ち、トリスタンが講師然と立ちながら、息を整えて、始めた。
……心なしか、背後の馬も、息を整えているようだった。
「ようし。ではヴィヴィエンヌ、乗馬の歩法と拍子は覚えているか?」
「三種類! 常足、速足、駈足、の順に、四拍子、二拍子、三拍子なのですが、ひっかけもあって、駈足は全力疾走になったら四拍子です!」
「うむ。座学は完璧だな」
もちろん、王国式の伝統馬術の用語・趣旨は頭に叩き込んでいる。
この馬術は古くにあった国王の親衛隊の騎馬隊に由来するもので、白の教官団の馬術、などとも言われる。これは長い時間をかけて、王国内なら王都でもランキエールでも広く使われるようになった実践的なものだ。
大切なのは軽快さ。馬への指令は最小限に、馬が活き活きと自分の解釈で走る様と、騎手の姿勢が調和を目指すらしい。
まあ、私は、そんな高度なこと以前の問題なのだけども!
とりあえずいったん、問題は知識ではなく技術であるので、馬術を少しずつ体感しながら進めようということになった。
つまり、まずは常足の拍子に慣れつつ、馬上で余裕を持てるようになって力の入れどころ・抜きどころを弁えてから、知識に体を追いつかせようということである。
まず私は馬に乗って、馬の正中線を考え、股がそのちょうど中間に来るようにし、手綱を握って浮かせ、姿勢を整える。
目線がすごく高い。一人で背筋を立ててみればよりいっそう。
落ちる前から落ちそうな予感がするくらいだ。
「うむ。佇まいはさすがだ」
トリスタンが褒めてくれて、続ける。
「軽く前進と停止をやろう。まず両脚を一度締める。締めて緩めるんだぞ。それが発進の合図で、常足に移る。それから俺が合図するから、手綱を引いてくれ。停止する。いったんそれだけ試そう」
「わかりました」
「よし。じゃあ、常足だ」
ギュッと脚を締める。
すると、脚の下の馬が、まっすぐ前に進み始めた。
──お、おお。
ぐねん、ぐねんと大きな筋肉が動いているのを感じる。そう思うと急に、自分がわずかな力で指示して動き始めたものが、乗り物ではなく意思をもった生き物じみていることを意識してしまった。
正直、ちょっと怖い。拍子を感じるどころじゃない。
ほんの十歩ほど進んだときに、トリスタンが言った。
「よし、じゃあ、停止」
不安定な足場の上で、手綱を引こうとする。
そのときに、ちゃんと腰を支えなきゃと思って、ふらつきに注意していたら、案の定ふらついて、手綱を引く前に思わず脚を締めてしまった。
これは再度の発進指令。常足から速足へ移る合図である。
馬が加速した。人間なら早歩きってくらいだろうけど、景色の揺れ動きから、急発進したくらいの印象になって、焦り、もっとあからさまにバランスを崩した。
落ちないようにするために、反射的にもう一度脚を締めてしまった。
またまた、急発進。
速足から駈足へ。
腰から頭にかけてぐわんぐわん揺れる。体が置いていかれそうになって、景色が一気にごちゃまぜになる。
瞬く間に私の体は馬体からズレて、ただぶわん、と揺れ、馬のほうが丈が高いから、地面に叩きつけられていないだけの状態になる。もう恐怖で一色になって、せめて脚から落ちれるようにと訓練したことを体が覚えていたからか、とにかく、手綱にしがみついた。
「こうなると思ったっ!」
トリスタンが走ってきて、馬に追いつき、脚から私を横抱きにして、すくい上げる。
私はそれで安心して、ようやく手綱を離した。
「あ、ありがとう、トリスタン」
「まあ、予想の範囲内だ。問題ない。落ち方も上手かった」
彼は本当になんでもないふうに言って、私をとん、と降ろす。
私としてはとんでもない失敗をした気がしたんだけれど、彼が「さてさて」といった雰囲気で馬の方を見て、私のテンションがちぐはぐなのか彼が余裕を見せてくれているのか判断に困りながら、そちらに目を遣る。
馬はすん、となって停まっている。
しかも、中庭の端になんてとてもたどり着いていない。
そこで私は、自分が馬を走らせた距離が、中庭の半分ほどもなくて、恐怖に染まったあの時間が、わずかな五歩、十歩でしかないことを知った。トリスタンは本当にすぐに抱えてくれたし、馬は即座に変な指示が出たことを理解して、全速力にはならなかったんだ。
彼は引き続き、なんでもないふうで私に言った。
「まあ、初めてだとやりがちなミスだ。脚と腕をバラバラに動かすことと、危ないときの姿勢の耐え方、のようなものを体感しよう。もしもの時は俺が助けるから」
──そう言ってくれる彼は、たいへんに心強かったのだけども。
結局一か月経っても、私はロクに、初歩の馬術すら習得することはできなかった。
トリスタンのほうが地面に立って手綱を握って、加速するときの脚の締め方だけ練習するとか、止まるときにどうしても踏ん張ってしまうことを練習用木馬を使って矯正してみたりとか、やれることはやるだけやってみた。おかげさまで補助がある限りでは、それなりに馬に乗れているっぽい状態になることはできた。
けれど、いざ実践、と補助をなくして、一人で発進・停止をしようとしてみると、どうしても途中でうまくいかなくなる。どこかで力んでしまって必要な順番で馬に最低限の指令を与えることができなくなり、手綱と反対の指令を脚でしてしまうとか、そういう癖がいつまで経っても抜けず、とても一人で監視なしで馬に乗せられる状態にはならなかった。
落馬の仕方だけはたいへん実践的に上達した。これはとても素晴らしいことであるとトリスタンは励ましてくれた。
褒めるところがそれしかなかったのは、致し方ない。
何十回目かの練習で、やれることは一通りもうやり尽くしてしまい、トリスタンは中庭の中央で腕を組んで唸っていた。
「……どうしたものか」
本当は頭を抱えたかったに違いない。戦士ならとっくに見放して歩兵にするか支援部隊に回しているところだと思う。
「いやあ! やっぱり、無理でしたわね!」
私はもう謝る回数とお礼を言う回数が飽和してしまい、悲壮な顔をしているとかえって状況が悪くなるようなところまできたので、自信満々に言い放ってみた。
正直、こういうことは慣れている。
社交界での最低限のマナーを身に付けるため、社交ダンスなども無理やり習得はしたのだけれど、複雑な反応が要るステップなどは終ぞ習得できなくて、まあそこの壁は越えられないのね、と講師に匙を投げられたこともしばしば。
「……君が依然、元気を見せてくれているのは本当に助かるよ。壁に当たってうんともすんとも言わなくなるのが一番困る」
「ですけれど、トリスタン。もう諦めるのも手でしてよ? あなたは十分にやってくれました」
「うーむ。それはなんだか、惜しい。君も頑張ってくれたわけだし」
それからも彼はうんうん唸って、もう一通り考えたが、やはり良い案は出ない。
これ以上は年単位で時間を確保して反復練習を繰り返すということをする(一か月反復してできないものを繰り返してできるかはわからないけども)か、もう諦めるしかないので、私からぼやくように言った。
「……これはきっと、根本的な問題なのです。ほら、私、受け身を取るとか、ゆっくり体操をするのは、できるじゃない? 速くなくていいというか、だだだだー、と動くことを要求されないというか」
「そう、いう分け方なのか、なるほど」
「なのでその、こう、なんて言いますの? 私がこけるとか、脚がもつれるとか、そういうのはわかりますの」
「……わかる?」
「え?」
「あ、いや、すまん遮った。続けてくれ」
「ええ。でも、馬が動くのはどうにもわからないというか、私が脚をぎゅっと閉めて私以外が動くのがよくわからないというか。それでわからなくなるので、自分の腕と脚もよくわからなくなるというか」
「うーむ。そうか」
彼はそれでも考え込んでくれる。
時間が経つ。
そしてふと、思い出したかのように、
「……ちょっと気になっていたのだが、そもそも君はもしかして、動物が苦手か?」
と言った。
それはけっこう、図星だった。
私は素直に答える。
「正直に言うと、まあ、そういうところは、あります。というより、嫌いとか苦手ではないのですが、妙に動物に好かれないところがあると言いますか」
「……思い返せば、君が生き物を可愛がっているところを見たことがないな」
「犬だけはたまーに猛烈に従ってくれる個体がいますわ」
「なるほど」
彼は引き続き考え込み、
「そもそも、できるだけ小さい馬を見繕ったとはいえ、それでも王都人の淑女に合う馬ではないというところもあるし……」
などと呟き、その途中で得心があったのか、その反応は、うん、うん、というふうに切り替わっていく。
「いやはや、俺が片手落ちだったかもしれん。訓練された性格の良い馬なら誰でも乗せられるから、技術の習得はこちらで、と思ったが……生き物というのはそうではない。そうだな、かつては俺も、きっとそうだった」
トリスタンがなにやら意味ありげにそう言って、その日の乗馬訓練は終了した。
*
翌週、トリスタンが私を連れて行ったのは、屋敷から少し離れたところにある厩舎だった。ランキエールの軍で使う馬のほとんどは、ここで育てられている。
厩舎も例に漏れず、ランキエール産の巨馬を収容するため、王都や実家のドルナク家とは比べものにならないほど天井の高い建物になっている。枯れ草の山の規模感も、厩務員の体格も段違いだから、逆に私が小さな人形として場違いな世界に来たかのようだ。
そんな中にトリスタンが私を伴って入り、延々と続く馬房のむこうを指さした。
「ほら、あの馬だ」
厩舎の通路を通り、歩きながら目を凝らして見ると、遠くからでも悪目立ちをするような、一体の馬が見えた。その馬房の前まで行くと、トリスタンが、紹介しよう、と言って始める。
「名を、野ウサギと言う」
そこでは目つきの悪い、くすんだ栗毛の小さな馬が、なんだか憎らしそうに馬草を食んでいた。





