132:けぶる視界
部屋から退出し、重い気持ちを洗い流そうとその足で食事の際教えられた浴場へ向かう。
シリルはお願いしていた道具を受け取るため一旦別行動になった。
脱衣所に続く扉の手前で靴を脱ぎながら、乳白色の壁に視線を這わせる。硝子を塗り込めたような艶やかな壁面に私の輪郭がぼんやりと浮き上がっている。
扉に鍵を掛けて等間隔で取り付けられた燭台を通り過ぎ、絨毯の敷かれていない床の冷たさに身をすくめながら三人位は手を広げて立てそうな空間の中央にのろのろと進む。
浴場に続くらしき白い扉の隙間から僅かな湯気が延びている。
ぐるりと視線を巡らせる。部屋の片隅に置かれた編み籠に、柔らかそうなタオルが積んであった。
蒸気の流れ込む脱衣所のなか、蔦が絡み合う装飾の施された楕円の姿見が目に入った。
教会に置いてある曇った鏡とは違い銀を塗布された高品質な鏡の向こうには、隙間無く全身を漆黒で覆った怪しい姿が鮮明に映っている。
誰も居ない空間で憂鬱な息を吐き出して、ゆっくりと手袋を脱ぎ。考えないようにしていても巡る思考を誤魔化すように、強引に覆面の隙間に指を差し込む。
金具を外して意識を逸らす事も出来ず、結局悪魔の異形が瞼の奥でちらついた。
ウィルの部屋の側、廊下で見つけた監視悪魔の瞳は虚ろでこちらを映しては居なかったが、私達の存在は悪魔を放った人間に感づかれたと考えたほうが良いだろう。
直接的な敵対行動を取ったわけではないが、カフスだけならともかく、胸飾りの悪意も立て続けに祓っている。
監視している相手が、たまたま異常に察知能力の強い悪魔祓いがバリエイト家に滞在する事になって運悪く見つけられた監視悪魔が祓われてしまった。で納得してくれればいいのだが。流石にそれは楽観的すぎる見通しだろう。
更に私は姿を隠していて、いかにも疑って下さいと言わんばかりだ。
ウィルの話を聞いた事で面倒な厄介ごとが降りかかる可能性もある。
彼の話を止めれば頭痛の種を抱え込まずにすんだ。
拒絶しなかったのは拒否する理由が……そこまで考えて私は自分の出した言い訳に目眩を覚える。
違う。拒絶にそんな大層な理由は必要ない。
気に入らない、面倒。それだけで切り捨てるに充分だ。
この世界に来て甘さを多少含んだとしても、皆が思うよりも私には人の悩みに付き合えるだけの余裕はない。
ただの同情や哀れみだけで面倒ごとを背負い込むほどお人好しになれない。そんなのは自分がよく分かっている。
それでも突き放さなかったのは、ウィルの話を聞いて何処か安堵に似た気持ちを覚えたからだ。
優しさや同情はなく、私は無意識のうちに彼らの不自由な境遇を自分の過去と重ねていた。
「……馬鹿馬鹿しい」
留め金を外した覆面を、苛立ち混じりに荒々しく引きはがす。
意味のない感傷で危険に身をくぐらせた己の愚かさに歯噛みする。
浅慮だった。代償に面倒な厄介ごとが舞い込むだろう。それでも。
もう私の秤は彼らを見捨てる方へは傾いていない。
大量の情報が思考に負荷を掛けたとしても、平静を保つ事に慣れた私は表面上程度は混乱していても取り繕える。
理性に亀裂が入る事は希だ。
話を聞いていて理性が途中で断線したのも、慣れない浮ついた意識の影響がある。
――ほだされ掛けている。
目を背けていた気持ちを直視して溜息を吐き、留め具を外したマントを足下に落とす。
束ねた銀髪の一房が表に露出し、床に大きく広がった。
外套を取り上げて、中に結ばれた銀髪を全て解いて引っ張り出す。
視界を掠めた鏡には、黒いドレスを身に纏った銀髪の少女が俯き気味に佇んでいた。
細やかなレースに縁取られた襟元に手をやって眉を寄せる。
襟首と脇の留め具を外すだけだが、ぴったりと身体の線に貼り付いたドレスは脱ぎにくい。
時間を掛けて服を浮かし隙間から抜け出た。長い銀髪と細い手足が視界の端をよぎる。
そう言えば、とそのまま浴場に向けかけた足を止める。アオにこの姿にされた時に水面で自分の姿を映して以降、鏡を直視していない。
初めの頃とは違い、脳の伝令を正確に汲み取るようになった腕で、邪魔な髪を掻き上げ纏め、背中に流す。
自分の姿を再確認するには良い機会だ。決意を固め、足を伸ばして教会ではお目に掛かれない大きな姿見にゆっくりと身体を映し出す。
差し出した白い足が鏡に映りこみ、継いで緩い曲線を描く腰、控え目な胸が映し出された。
表情の乏しい銀髪の少女が鏡の向こうで裸体のまま薄い胸を押さえ、金色の双眸で私を見つめている。
少女が身じろぎするたびに、銀糸が背後で緩やかに広がって光を周囲に散らす。
無表情のせいか、姿を変えられたあの日よりも人形のような印象が強調されているように思えた。
鏡から覗く少女の余りの無愛想ぶりに微笑んでみる。
鏡の少女も僅かに瞳の光を和らげて口角を上げる。
……あれ。
自分では分かり易く笑っているつもりなのに、微細な変化だ。
怒りを表してみる。鏡の中の少女も少し眉が釣り上がる。
悲しそうにしてみる。瞼が僅かに下がり、肩を落とす。
まさか。まさか、まさか、まさか。
あまりにも変化の乏しい姿に、嫌な汗が背筋を滑った。
全身全霊を込めて笑みを作る。鏡の向こうの少女は――やさしくも薄い微笑を浮かべた。
「…………っ!」
弾かれるように鏡から数歩後退った。心臓が嫌な音を立てて脈打ち、毛穴から冷たい汗が噴き出るのを感じる。
教会で目覚めたあの日、私は微笑み一つでアルノーを陥落させた。
つまり、その時は見惚れるほどの笑みを浮かべられていたはずだ。けれど、今は。
自分でも表情がないと思う位は、感情が見えない。
鏡の中の少女は僅かに肌の色に白さが増しただけで、表情を変えず静かに青ざめた私を見つめている。
長い銀髪と同じでこれもアオの仕組んだ呪いなのだろうか。
ぼんやりと考えながら白い指先で、数歩離れた鏡の輪郭をなぞっていく。
「アオ……が?」
小さく口の中で反すうして、胸を覆った靄に首を傾ける。
あの気まぐれな神が原因だと考えれば何もかも辻褄は合う。けれど、その考えは酷く歪で不自然な気がした。
私を半身にすると告げた神は。姿形ではなく、『私』の個の人格を愛おしいと微笑んだ。
もし、アオの言葉から真実を一つ探し出せと言われたのならば。私は、迷わずその台詞を示す。
アオの言葉に半分以上に嘘があったとしても、あの一言だけは真実だと確信が持てるほど。その言葉は真摯なものだった。
嫉妬心混じりに私の感情を僅かに摩耗させたアオだが、感情の変化が消えるほど手を入れたわけではない。
優しい言葉だけではなく、罵倒すら喜ぶ彼が、私の人格に影響を及ぼしそうな部分まで手を加えるだろうか。
それは、無いような気がする。そう思い至ると同時に、違和感を覚えるほどの自分の変化に寒気が昇った。
知らない間に少しずつ身体が作り替えられていく不安感に肩を抱く。自分の身体が得体の知れない物のように思えた。
気持ちが悪い。背筋に細かな虫が蠢くような怖気がのぼり、肩に鈍い痛みが走る。無意識に立てていた爪が食い込んでいる。
冷静な思考の渦に、悲鳴が少しずつ湧き出していく。
怖い。嫌だ。誰か。この違和感の理由を。
「ア――――」
思いのまま、アオの名を口に上らせ掛けて、寸での所で飲み込んだ。
今まで散々あの神を罵倒し、はね除けた。それなのに、心細さを紛らわす為名を呼ぼうなんて都合が良い。
無意識で呟きとは違い、願いを込めて名前を呼べば、きっと私の声にアオは反応する。
肩の皮膚を破り掛けていた爪をゆっくり外す。
咄嗟に縋る程度にはアオを頼りにしているらしい自分に愕然となりながら、肩口から流れた銀髪を掴む。
私の姿を変えた神――憎くはあり、好きか嫌いかで問われれば間違いなく嫌いのはずだ。
けれど、暗い炎を灯した瞳に囁かれた愛は痛いほどで、咄嗟に完全な拒絶は出来なかった。
死の運命から気まぐれでも掬い上げて貰った感謝も、確かにある。
私は自分で思うより内心複雑な感情をアオに抱えているらしいと、こんな状況になって漸く気が付かされる。
果て無き宙の向こうに縋りつきそうになる心を抑え、口を噤んで瞳を閉じる。心のさざ波は、いつもより時間を掛けて奥の方に押しやられていった。
冷や汗を拭って鏡を見る。同じ動作をしている鏡の少女は静かな視線を向けるだけ。
姿だけではなく、表情筋の方まで人間離れしている。
つい最近まではちゃんと笑えていた自覚もある。こんな風になってしまったのはいつからなんだろう。
「私はまだ…………人間?」
小さな問いかけに答える者は居ない。
人外すれすれの美貌で元から不安は覚えていたが、いい加減人類の自信が無くなってきた。
こうして鏡を眺めていても表情に変化は出来ない。軽く唇を噛んでかぶりを振り籠に置かれていたタオルの一枚を掴む。
「シリル、居ます?」
「はい」
悩むのを後回しにして大きめのタオルを身体に巻き付け、表に向けて声を張り上げる。
答えが返ってきたのを確認し、鍵を外して風呂場に足を踏み入れた。
扉を開いたとたん、湿気と湯気を含んだ内側の空気が外に流出していく。
広い浴室に広がった蒸気の向こうに、石造りであろう白い浴槽が薄ぼんやりと見え。
噎せ返りそうなほどのミルク色に目を眇める。
湯気の立ち上り方を考えると、沸きすぎが心配だ。入っても火傷しないだろうか。
数拍もしないうち、更衣室は白い湯気で充満する。
取り敢えず髪だけでも洗おうと、銀髪を片腕で纏めて風呂場へと引きずり込み、外に待機している彼に合図を出した。
「シリル、もう良いですよ」
「は、はい。失礼します。わ、湯気が凄いですね」
私の許可に、ドアノブがそろそろと開かれ。続いて、一抱えほどもある大型の桶がよろよろと脱衣室から顔を出す。
顔の部分は完全に隠れて、盥が自力歩行しているようにも見える。
だ、大丈夫だろうか。六角形のタイルが敷き詰められた滑りやすい足下に不安になる。
「随分大きいタライですね。重くないですか?」
心配する私の脇を通り過ぎ、「よっ」と小さな掛け声を掛けてシリルが浴場の中央に盥を置いた。
「いえ、この位は大丈夫です。ここに置きます、ね――!?」
薄く浮いた汗を手の甲で拭い、顔を上げた彼の返事が裏返る。
「どうしました?」
中央まで歩み寄り、しゃがみ込んで大きな盥に触れながら、奇妙な悲鳴を上げた少年を覗き見る。
一気に赤く染まった顔で、シリルが一歩二歩と後退り。ぎゅっと目を瞑って、勢いよく顔を背ける。
「なっ、な、なんで……はだっ、裸なんですか!?」
絞り出すような彼の指摘に自分の姿を見直す。確かに裸ではあるが、大きめのタオルを巻き付けている。
しかも太股部分は完全に隠れている為、肩紐のないスカートに似ていた。客観的に眺めてみたが、我ながらあまりにも色気がない。
半裸なのに色香の欠片もなく、申し訳なさすら覚えるほどだ。役得も味合わせられない自分の姿が恨めしい。
タオル合わせ目を直し、懸命に視線を逸らすシリルに声を掛けた。
「これですか? 髪を洗うとどうしても濡れてしまいますし、こっちの方が面倒がないですから。
それに、風呂場で裸なのは当然の事だと思うんですけれど」
「え、あ……確かに。いえ、そんな問題ではなく……もう一度尋ねたいんですが部屋で仰られた事は本当ですよね」
納得を交えながらも、葛藤する少年に真面目な顔で頷く。
「はい、私のシリルに対する嘘偽り無い気持ちを吐露しました」
一瞬。様々な感情の込められた複雑そうな沈黙が流れた。
「劇的な変化を望むつもりはないんですけれど、もう少し……こう」
眉間に皺を刻む彼の言いたい事は分かるつもりだ。シリルの葛藤が分からないほど私は鈍感ではない。
「シリルはシリルとしてちゃんと意識はしてます。けれど、手伝って貰わないと洗えないんです」
うんざりと長い銀髪を摘み上げ、長い溜息を吐き出すと、彼は床に広がる銀糸に視線を落とし、苦笑する。
「それもそうですね」
気持ちを切り替えたのか「失礼します」と前置きして、目線を私に向けないように注意を払いながらしゃがみ込み、丁寧に盥の中に銀髪を集め始める。
彼の作業を手伝いながら何気ない口ぶりで唇を開く。
「…………シリル」
「はい?」
私の問いかけに、シリルの声。お湯を満たす水音が重なって湯気の充満する浴室に木霊す。
「私、教会にお世話になってから変わったところありますよね」
唐突な私の質問に、疑問は漏らさず考えるような間を開け。
「変化というかは分かりませんけれど、前より笑わなくなりましたよね。この頃疲れているんですか?」
心配そうに尋ねる。やはり、表情が乏しくなったのは最近の事か。
「どう、なんでしょうね。バリエイト家も面倒ごとが多いですから。今日は疲れたかも――」
正直に答える事は躊躇われ、曖昧に誤魔化す耳に、火花が散るような異音が響いた。
首筋を弱い電気が撫でたような、軽い痛み。
盥に入れようとした手を止め、瞬時に廊下と同じ手順を取って異常を抽出する。
霞がかった浴室の中、黒い気配を削った光の残響が鼓膜を打つ。
片膝をつき立ち上がろうとしたシリルを制し、視線を素早く動かし、相手を探る。
壁際。天井。
違う。
意識を集中し、力糸に加える力を更に不規則にする。
急激な力の変化に、必死に同化を行っていた悪魔が染み出るように表に現れた。
相手を見定め、体勢を立て直そうとした私とシリルの声が喉奥で凍る。
監視悪魔が姿を表した場所は、壁際でも天井でもなく。
私の――正面。
声を潜めた私達の会話が聞こえる位置まで寄ってきたんだろう。瞳の付いた頭部が丁度、胸元にあるタオルの合わせ目に潜り込むよう伏せられている。
ウィルの部屋の側に浮いていた悪魔よりも一回り程大きい。尖った耳を見ればあの監視悪魔よりも精度が良いのだろう。
空気の違和を感じたのは「バリエイト」の単語が出てからだ。恐らくその単語が悪魔が反応する鍵となる。
酷く冷静な意識がそんな判断を下す。
大きく開いた瞳は、恐らく監視の役割を担っている。
幸か不幸か背中の方まで瞳は付いていない。この湯気の量と濃さでは、私達の顔を覗く前に胸元に収まっただろう。
いや、待て、私。ちょっと待とうか。
再確認しよう。脱衣所では全く変化を感じられなかったのを合わせれば、この悪魔は恐らく屋敷を徘徊して特定の単語に反応する高性能な監視悪魔だ。
重要な単語を認識した時点で瞳が開き監視対象の映像は使役する人間か、それを放った人間の元に送られる。
自分の姿を見下ろす。大きめのタオルを纏ったとは言え、白い肩口や細い手足が惜しげもなく晒されている。
美醜を問われるなら整っていると答えられる肢体ではあるが、人に見せるかどうかはまた別の話だ。
監視ならば、一人と言わず何人もの人間が映像を確認するだろう。
生憎ながら、私は不特定多数の人間に観察されて悦に入る趣味は持ち合わせていない。
沢山の人間に……裸を、見られる!?
その光景を想像し、心の中で絶望の呻きを漏らす。
回し見られる可能性に身体が小刻みに震え、胸の奥から沸き上がる羞恥が無意識に右掌に力を送り込んだ。
浴室を警戒していなかったのも悪かったが、風呂場にまで襲撃を掛けてくるとは思わなかった。
全身ではなく、胸元だけ映されるというのが酷く倒錯的だ。
大体、私の姿は十歳前後。そんな幼女とも少女とも付かない入浴姿を撮るなんて言い逃れがきかないぐらいの犯罪行為だ。
僅かに開いた右掌が雷鳴にも似た不穏な唸りを上げる。
目視出来るほど力を注がれ、不気味な音を漏らす瞬く光に膝をついたまま成り行きを見守っていたシリルの表情が強張った。
この……この……っ。
「っ、この――変態!!」
視界を広げようと悪魔が首を捻る刹那。
かぎ爪のように曲がった指先が、悪魔のこめかみを捉え。
私は悪魔祓いでは恐らく史上最速となるであろう速度で監視悪魔の頭蓋を砕き潰した。
一時期静まっていた雷が、雄叫びを轟かせていた。
稲光が青年の背後にある古ぼけた石壁を闇夜に浮かび上がらせ。テーブルに置かれた猛禽類を象った木製置物の赤い瞳が男を睨めつけるように光る。
肺と臓腑を押しつぶさんばかりの空気の振動に、椅子に腰掛けたまま男は身を竦ませた。
雷光の瞬きと、テーブルに置かれた僅かばかりの燭台の灯りが対面に座った二人を照らし出す。
片方は長身痩躯の男で、何処にでもあるようなくすんだ灰色の外套を羽織っている。
目深に被った頭巾で顔は見えないがほんの一瞬だけ垣間見えた頬は薄明かりの下だという事を差し引いても青白く、テーブルに隠れた膝の上で強張った掌を握り込んでいた。
対面に座っているのは身なりの整った育ちの良さそうな格好の年若い青年だ。室内の暗さも気にせずに、優雅な腕の運びで少し遅めのディナーを切り分けている。
男の方にも同じように、湯気の立つ透明なスープ。白い皿に置かれた厚いヒレ肉と温野菜。粉の吹いた丸パンが置かれてあったが、曇りのない銀食器を見る限り手を付けられた様子はない。
もし見知らぬ人間がこの光景を見ていれば、二人の身分の釣り合いの取れ無さだけではない違和感に眉をひそめただろう。机上に置かれた灯りで男の姿は捉えられるのに対し、もう片方の青年の姿は始終ぼやけて印象に残るものがない。
高い魔術の素養があれば青年の身を覆う阻害魔術の緻密さに感嘆の声を上げ、力に対し目端の利く人間が居たのなら、テーブルに置かれた飾りの幾つかが発する違和感に気が付いただろう。
室内に充満する異常な緊迫感の中、青年はナイフを動かす手を止めて小さな含み笑いを喉から漏らす。
「ほら。だから言ったじゃないか。無意味だって」
銀製の食器を置いて、カードゲームで悪手を用いた親友を諫めるかのような口調で肩をすくめる。
ぼんやりとした、金にも銀にも見える曖昧な色彩の髪が揺れた。
彼の左肘の側には、片腕を投げ出したメイドがうつ伏せていた。生気を感じさせない白い肌が、不安定な蝋燭の明かりに照らされて揺らめいて見える。
阻害魔法越しでも分かるほど楽しそうに笑う相手を見つめ、男は悪魔でも神でもなく、他ならぬ自分自身の心臓に祈りを掛ける。
(静まれ。静まれ、静まれ……ッ)
灰色の外套の男は全身の毛穴から吹き出した汗が引くように願い、早鐘のように鳴り続ける心臓を悟られないように必死に正面を向き続けた。
唾液がカラカラに干涸らびて、天井が回るような目眩と吐き気に耳鳴りがする。
「灯りが壊れてしまったから暗くて不便だろう。すぐに灯りを持ってこさせよう」
青年が微かに視線を床に落とし、燭台の僅かな灯りに憂鬱そうな息を吐き出す。
「い、いや。必要ない! ……問題ない」
青年の背後に控えた初老の執事が彼の呟きに頭を下げて、灯りを用意しようと背を向けるのを反射的に押しとどめる。
「そうかい?」と不思議そうな問いかけに頷きを返し、一瞬床に向いた視界が見たくもない闇を捉える。壁際で砕け散らばった硝子の破片のすぐ側に、二つの黒い固まりが折り重なっていた。
緊張で誤魔化されていた嗅覚が徐々に戻ると、室内に充満する臭いに胃の奥を刺激され吐き気が込み上げる。
先程まで純白だったテーブルクロスに広がった液体が一条の線となり、固い床に流れ続けていた。
粘ついた水音が鼓膜を擦り。
不安定にテーブルにもたれ掛かっていたメイドの身体が床に滑り落ち。黒い影が三つになる。
「流石はバリエイト家。僕が予想した以上に一筋縄ではいかない」
息が詰まりそうな程の臭いの中、青年は動揺の色も見せず塩胡椒の利かされた肉にゆっくりと刃の先端を這わせ、
「そして、君達が楽観視していた以上に厄介だと思わないかい。ねぇ、『Mr.アングレイ』?」
楽しそうな問いかけと共に銀のフォークで肉を貫く。
皿と鋭利な先端が擦れ合う甲高い音が静寂を震わせる。
肩を跳ねさせる男に視線も向けず、肉片を目元まで持ち上げた青年の唇が弧を描く。
突き刺された肉から肉汁と、掛けられているはずのない赤い液体が混じりしたたり落ちた。
男――アングレイは、魔法越しでも分かる程悠然とした微笑みを浮かべる今夜の交渉相手を絶望の眼差しで見つめ、経験の浅い若造相手だと喜んでいた数日前の自分を思いつく限りの罵倒の言葉を並べて罵った。