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「あ…あっ、サラ様、そんなにしちゃ…」
「マリー、大丈夫だから、僕にまかせて」
「だ、だめ、そんなふうに触られたら、わたし、んっ」
「マリー…
駄目だよ、はい、薬塗るよ」
「いたい痛い痛い痛いいだいいだいいだいいだいいだい!!」
お約束である。
ひりひりする頬をさすりながら私は溜息をついた。
あの誘拐事件から、頬の傷は次の日からどんどん青黒くなり、ご令嬢には見合わぬ大きなあざがででんと鎮座していた。最初の数日はぶっくりと頬が腫れ上がって口を開くのも億劫だったが、時間がたつにつれあざの色は気持ちの悪い黄色に変化していき、次第に腫れも収まってきた。
サラ様とのお忍びデートのあと、このあざをこしらえて帰ってきた私を見た両親やメイドたちは失神しそうになっていた。男性に力加減もなく殴られたのだと誰が見ても明らかだっただろう。誰がやったんだと息巻くお父様に私は平然と、はしゃいで走ったら階段で転んだとあからさまな嘘をついた。
言っておくが、パトリック・フィオデニールをかばったわけではない。あの誘拐事件の顛末を知れば、怒り狂う父がフィオデニール家を破滅に追い込むのは目に見えていたが、それが気になって真実を伏せたのではない。というか、サラ様を蹴り乙女の柔肌に傷をつける侯爵令息などさっさと社交界から追い出されればよいのだ。まあ、私が怪我をしたのは無理矢理サラ様と奴の間に割り込んだせいだけど。
気にかかっていたのはテオのことである。
転んだのを止められなかったのであればともかく、誘拐されてあまつさえ怪我をしたなどと言えば、どう考えても護衛だったテオの責任が問われるからだ。別にあの生意気な従者が首になろうと私個人の知ったことではないけれど、勝手に護衛を撒いたのはこちらなのだから、主の不手際のツケを従者が払わされることになるのはお門違いというものだろう。こう見えて私はそこそこ寛大な主人なのである。
「しかし、お嬢様、旦那様にはやっぱりお話ししたほうが…」
「くどいわよ、テオ。ふふん、罪悪感を感じるなら、怪我が治るまで精々私に尽くしなさいな」
「いや、罪悪感とか特にないですけど」
この不遜な従者はなんだかんだ言って職務に忠実なので、自分のお嬢様を傷つけたフィオデニール家の次男にいかにして復讐してやろうかと画策しているようだ。感情に左右されずに淡々とそういうことを考えるテオはなんというか、末恐ろしい。裏では「うかつなまねをするお嬢様が悪いんですよ、そのパトリックとやらのことは言えませんね」とか思っているのだからあなどれない。
しかし、怪我をしてよかったこともある。サラ様は責任を感じているのかなんなのか、私の怪我が治るまで屋敷に日参すると言い出したのだ。
「サラ様に毎日お越しいただくなんて申し訳ないですわ…」
やっと舌が平常運転で回るようになり、私は肩を落としながら言った。内心では歓喜に荒れ狂っているけれど、そんな様子はおくびにもださない。
サラ様は塗り薬の蓋をしめながらにこりとした。
「マリーが怪我をしたのは僕のせいでもあるんだから、気にしなくていいんだよ。僕は毎日アレッサンドロ侯爵閣下の書斎に来られて嬉しいしね」
「でも、サラ様に手ずからお手当てをしていただくなんて、やっぱり恐縮で」
そう、サラ様はなぜか私の頬の怪我に毎日薬を塗りこめて、ガーゼを貼る作業を買って出ている。怪我をした次の日、ちょうどサラ様がいらっしゃったときに薬を塗る時間になってしまい、テオがやっているのをじっと見てから「僕がやりたい」と言い出したのだ。
サラ様のなめらかな肌が、指が、私の頬を往復するたびに悶えそうになるのだが、しかしそんな余裕はなく、薬の激痛にもんどりうつ羽目になっている。あの塗り薬は効きがいいけれど異様にしみるのだ。乙女心としては痛みに顔をゆがめてギャーギャー言う姿など好きな人に進んで見せたいものではない。
「来月の末には僕たちの婚約式があるから、それまでに治さないとね」
指先で私のガーゼのふちをなぞりながらサラ様が言った。嬉しいやら痛いやらで私は涙目だ。
もうすぐサラ様の13歳のお誕生日がやってくる。そしてその誕生パーティと一緒に、私とサラ様の婚約式が執り行われる予定だ。
教会の司祭様と国王陛下に婚約の旨をご報告し、そのあとパーティで貴族の面々に披露することで婚約は成立する。貴族たるもの、自分たちだけで結婚を決めることはできず、さまざまな人の承認を貰ってはじめて認められるしくみだ。
とはいえ、まだ成人もしていない男女が国王陛下のもとに馳せ参じるわけにはいかないし、いちいち貴族のカップルたちが陛下にお会いするなどはた迷惑に過ぎるので、基本的に国王陛下には書面に承認の王印をいただくのが通例だ。一応、今回の私たちの婚約は王宮内の勢力図を大きく動かすことになるので、貴族の間では注目されているけれど、末端の男爵・準男爵などの承認などは陛下ご本人がされているかも怪しいものだ。
天上人にとっては貴族の結婚など、サインをしなければならない面倒な儀式だろうけれど、一方で当の貴族にとってはやっぱり節目の日になる。間違ってもあざを残したまま挑むわけにはいかないのだ。
だが、サラ様が私との結婚に、まったく渋る様子を見せないのも腑に落ちなかった。一応、ゲームの設定上ではサラ様は私を婚約していることを疎ましく思っていたようだったが、現実にはそんな様子は彼からは全く見て取れない。そればかりか毎日私のところで怪我の手当てをして一緒に本を読み、時に一緒に家庭教師の授業を受けたり、お庭を散策したり、傍から見れば普通に仲のよいカップルである。
もちろん、没落回避のためにサラ様に自分を好きになっていただく大作戦は決行中だし、それでなくとも想い人にこんなに献身的に尽くされて、天にも昇る気持ちなのだ。なのだが、どうも本編開始4年前にして、既にゲームとは別の展開を辿っているような気がして落ち着かないのも事実だ。
「お嬢様、言っておきますけど」
どうなっているのかしら、と相談したときのテオは半眼で私を見た。最近ニョキニョキと背が伸び始めたらしいこの男は、声変わり特有の掠れたハスキーボイスで言った。
「そのお嬢様が見たとかいう夢の展開と未来が変わるからといって、良い方向にばかり転ぶとは限らないんですから、あんまり無茶はしないでくださいよ。もっとお嬢様が痛い目に遭う可能性だってあるんですからね」
「サラ様に振られて、家が没落して、市中引き回しに遭って死ぬよりも痛い目ってどんな未来なのか興味があるわね」
とりあえず私が現時点で想像しうる最悪の未来である。
「俺からしてみればご令息に輿入れするのが幸せな未来かどうかも怪しいモンですけどね」
とうとうサラ様にまで毒舌の矛先が向いた失礼な口は私がクッションで塞いでおいた。そのまま窒息してしまえ。
「そもそも、最初からその夢が正しいとも限りませんよ」
テオは私の前世…と、とりあえず呼んではいるが、夢の中の女がやっていた「ドキロマ」のこともあまり信用していない。いや、彼の出生を言い当てたのだから、私の話が信じられないわけではなさそうだが、夢はあくまで夢だと思っているようだった。
「第一、その夢の中でご令息はどんな方だったんですか」
「クールで人を見下してる冷酷無比な次期公爵。ヒロインと出会って真実の愛に目覚め、婚約者である悪役令嬢マリーのことを疎んでいる」
「果たしてあの魔王みたいな方が本当にそのヒロインなんとやらに出会って真実の愛に目覚めるものですかね」
そもそも真実の愛とかいうフレーズからして胡散臭い、テオはそう付け足した。私はむうと唸ってゲーム展開の記憶をたどる。
「確か、ヒロインが公爵令息の人間不信から解放するのよ。それがきっかけでヒロインと仲が深まるとか、そんな話だったような」
「でも、その人間不信の原因になる出来事がこのあいだの事件だったんでしょう?」
テオはもはや呆れ顔だ。「お嬢様、あれはどうもご令息ご自身がフィオデニール侯爵令息を踊らせて仕組んだことみたいだって言ってたじゃないですか」
「そうなのよねえ」
まさかあのサラ様に限って公爵閣下に構ってほしいゆえの愚行、とかいうオチはないだろう。あの事件はサラ様のほうも誰にも話していないようだったし、公爵もまたしかりだ。あの公爵様なら何か掴んでいてもおかしくはないけれど、サラ様は純粋にパトリックで遊びたいがゆえにあの事件に巻き込まれたように感じられた。
まして、あの事件でサラ様のお心になにか傷が付いたとも思えない。そればかりか嬉々として私を構いにやってくるくらいだから、人間不信って何、という話だ。
「お嬢様にかばわれて、なにか思うところがあったんでしょうか」
「そう思う?やっぱりそう思う?」
私は胸を張った。頬にあざを作ってやや格好がついていないが、私は誇らしく腕組みをして鼻を鳴らした。
「サラ様もようやく私の魅力にお気づきになられたということかしら!」
「随分とご令嬢らしからぬ魅力ですけどね」
にっこりと爽やかに毒を吐くテオには蹴りをお見舞いしておくとして、私は尊大に言い放つ。
「サラ様のうつくしいご尊顔に傷がつかなくて私は万々歳だわ!」
「お嬢様、恋愛において世間一般では『顔が好き』は倦厭される好きになった理由のひとつですよ」
「お声も好きよ!それから指も!」
「中身を知れば千年の恋も冷めそうなものですけどね」
まったく失礼なやつだ。サラ様がいかに悪逆非道だったとしても、一生お慕いする覚悟はとうにできているのである。
ここから先は、私が随分あとになってから知った話なのだけれど。
今日もふらりとアレッサンドロ侯爵家に足を運び、私の傷の手当てをしてから書斎で何冊か本を見繕ったサラ様は、ちょうど私が席をはずしているときにおずおずと話しかけてくるテオに顔を向けた。
「あの、ご令息…お伺いしても宜しいでしょうか」
「なんだ」
私と一緒にいるときは比較的笑顔を見せてくれるけれど、彼がテオに向けた表情はもっと硬質だ。テオはたじろぎながらも言った。
「ご令息は、どうしてあんなにお嬢様を構われるんですか?恐れながら、お嬢様のことを…お好きだというわけではないようですが」
テオが言い切る前に、彼はやはり声をかけたことを後悔した。サラ様は薄らと冷ややかな笑みを浮かべて、手にしていた本の表紙を閉じると、その甘い声音で歌うようにつぶやいた。
「好きだよ、マリーのことはね」
僕のかわいいおにんぎょうさん、サラ様はいつか馬車の中で言った言葉をもういちど繰り返した。
「あからさまに僕をキラキラした目で見る、無垢で打算的で欲にまみれた僕のお姫様」
それからサラ様はちょっとだけ首を傾げてテオを見た。
「間違っていないだろ?」
「はあ…ま、まあ、お嬢様にも良いところはあるはずですが」
「君は本当に出来た従者だな」
突然評価されたので、テオは反射的に頭を下げた。この少年には、まだ齢12だというのに、なぜか屈服してしまいそうな威圧感がある。
サラ様はしばし沈黙してから、ふと思いついたように言った。
「テオ、君のことは信頼しているんだよ。なんならマリーが輿入れするときに君も公爵家に貰い受けて、引き続きマリーの傍に置いてもいいくらいにはね」
「え…」
テオは心底嫌な顔を隠すことができなかった。
「ありがたいお話ですが、俺はお嬢様がご結婚されましたら、アレッサンドロの旦那様の下で勉強したく」
あの我侭お嬢様のお守りはこれ以上ゴメンだと顔に書いてあった。不満げ極まりない婚約者の従者の姿に、サラ様は冷たいアイスブルーの目を細める。
「君はマリーを守ることに人生を尽くしてきた、言わばマリーの最強の盾だからね。その立場を気軽に捨てられるマリーや君はちょっと信じられないな」
「いや、それは」
「まあ、僕が隣にいないときは守ってくれ。よろしく頼む」
そのサラ様の台詞になにか含みがあるように感じられて、テオは失礼ではあるがサラ様の顔を見つめてしまった。なんとなく嫌な未来を予期するような、そんな含みだ。テオは思わず尋ねていた。
「お嬢様を、お守りしていただけない瞬間が来ると?」
「ふふ」
サラ様は腰掛けるソファの肘置きにもたれた。
「僕は気付いたことがあるんだ。あの子がニコニコしているのも滑稽でいいんだけど。…マリーは泣き顔が最高にかわいいってことをね」
「……は?」
テオは耳を疑った。サラ様はにこりと笑ってみせる。
「手当てをしているときの彼女の顔を見たか?涙目でうさぎさんみたいにプルプル震えてるんだ。はは、昨日なんてちょっと意地悪してやりたくなって爪を立ててしまったよ」
「…その、つまり?」
サラ様は私の泣いているさまを想像しているのか、どこか恍惚とした表情で虚空を見上げながら、悪質な笑みでもってテオにささやいた。
「あの子が僕のためにもっともっと傷ついて、追いすがって泣き喚くのが見たいんだ。その間の慰めが君の仕事だよ。もっとも最後はちゃんと僕が存分に甘やかしてあげるけど」
たぶん、あの誘拐事件の日、マルティーナ・アレッサンドロ侯爵令嬢は意図せず運命を変えた。本人はまるで気付いちゃいないけれど、あの日起こったイベントのイレギュラーは、確かに今後の展開に支障をきたしたのだ。
けれど、この少年の元でズタズタに傷つけられてドロドロで甘やかされることになるであろう未来の主人を思って、テオは目の前の少年の嗜虐趣味に戦慄を覚えつつ、しばらくは本人に何も明かすまいと固く誓ったのだった。




