第99話 黒崎玲司、最後の日
黒崎は政治家として最も難しい決断を下そうとしていた。
権力を手にすることよりも、権力を手放すことの方が難しい。
そして今日、日本を変えようとした男が、総理大臣として最後の一日を迎える。
2037年5月16日。
午前6時48分。
東京都内の病院。
黒崎玲司は、ベッドの上で一通の文書を見つめていた。
昨夜、何度も書き直したものだった。
表題は、たった一行。
『内閣総理大臣辞任の意向について』
黒崎は、最後まで読み返すと、静かにペンを置いた。
辞任する。
その言葉を書くだけなら、簡単だった。
だが、その先にあるものを考えると、簡単には決められなかった。
消費税率を10%から8%へ引き下げたことで、年間約4兆8,000億円の税収減が見込まれている。
行政改革も、まだ途中だった。
契約の見直しによる約18億4,000万円の削減見込みは、実際の削減額として確定したわけではない。
187事業、約1兆3,000億円の見直し対象についても、すべてを削減できるわけではなかった。
サイバー攻撃の被害も、完全には収束していない。
自分が始めた仕事を、途中で投げ出すことになるのではないか。
その思いは、消えなかった。
黒崎は、窓の外を見た。
朝の東京。
道路には車が走り、駅へ向かう人々が歩いている。
誰もが、それぞれの生活を始めていた。
「……今日も、普通に朝が来たな」
黒崎は、小さくつぶやいた。
そのとき、病室のドアがノックされた。
「総理、おはようございます」
秘書官の小野寺航だった。
「おはようございます、小野寺さん」
黒崎は、文書を机に置いた。
小野寺は、その表題を見た。
そして、動きを止めた。
「……総理」
黒崎は、静かにうなずいた。
「今日、正式にお伝えしようと思います」
小野寺は、しばらく黙っていた。
「……もう、お決めになったんですね」
「はい」
黒崎は、少し笑った。
「……でも、正直に言うと、まだ怖いです」
「……何がでしょうか」
「俺が辞めたあと、改革が止まってしまうんじゃないかって」
小野寺は、椅子に座った。
「……その可能性はあります」
黒崎は、うなずいた。
「ですよね」
「次の政権が、すべての政策を引き継ぐとは限りません」
「はい」
小野寺は、静かに続けた。
「ですが、それを決めるのは、次の政権と国会です」
黒崎は、顔を上げた。
小野寺は、少し笑った。
「総理が国会でおっしゃったことだと思います」
黒崎は、しばらく黙った。
そして、苦笑した。
「……そうでしたね」
* * *
午前8時12分。
首相官邸。
副総理は、黒崎からの連絡を受けていた。
「……本日、辞任の意向を表明されると?」
電話の向こうで、小野寺が答えた。
『はい。総理ご本人の意思です』
副総理は、しばらく黙った。
「……そうですか」
『午後に、総理から正式に説明する予定です』
「分かりました」
副総理は、資料を見た。
政府の危機対応。
国会での審議。
行政改革の継続。
どれも、途中だった。
「……総理は、いつから考えておられたんでしょうか」
『事件後、少しずつ考えていたようです』
副総理は、静かに息を吐いた。
「……分かりました」
そして、続けた。
「内閣として、必要な手続きを確認します」
『よろしくお願いいたします』
通話が終わった。
副総理は、窓の外を見た。
「……本当に、辞めるのか」
小さくつぶやいた。
* * *
午前9時37分。
警視庁。
滝沢修一は、長峰啓介に関する捜査資料を確認していた。
前日、弁護士を通じて任意の事情聴取に応じる意向が伝えられていた。
そして今朝。
ようやく、具体的な日程が決まった。
「……長峰は、午後に来るそうです」
捜査員が報告した。
滝沢は、うなずいた。
「分かった」
「弁護士も同席する予定です」
「問題ない」
滝沢は、資料を閉じた。
「……海外の情報提供者の件は?」
「引き続き安全が確保されています。証言内容と資料の照合を進めています」
「そうか」
滝沢は、少し考えた。
「……長峰がH-3だったとしても、それだけで襲撃事件への関与が証明されるわけじゃない」
捜査員は、うなずいた。
「はい」
「だが、四月十一日の計画承認記録と、A-17に関する連絡は、説明してもらう必要がある」
滝沢は、立ち上がった。
「……準備しよう」
* * *
午前11時06分。
東京都内の病院。
黒崎は、面会の準備をしていた。
今日は、野党の神谷蒼士と会う予定だった。
政治的には、何度も対立してきた相手だ。
消費税率引き下げの財源問題。
行政改革の成果。
政府の説明責任。
神谷は、そのすべてについて厳しく追及してきた。
黒崎は、机の上に資料を並べた。
そのとき、小野寺が声をかけた。
「総理。神谷さんが到着されました」
黒崎は、うなずいた。
「ありがとうございます」
そして、少し笑った。
「……最後まで、厳しいことを言われそうですね」
小野寺も、少し笑った。
「そうかもしれません」
* * *
午後2時00分。
東京都内の病院。
面会室。
神谷が入室すると、黒崎は椅子から立ち上がろうとした。
「……黒崎総理、そのままで」
神谷が、すぐに声をかけた。
黒崎は、少し笑った。
「……すみません」
「いえ。お身体は?」
「まだ、完全ではありません」
「……そうですか」
神谷は、向かいの椅子に座った。
しばらく、二人は黙っていた。
先に口を開いたのは、黒崎だった。
「……神谷さん」
「はい」
「今日は、少し大切なお話があります」
神谷は、静かにうなずいた。
「伺います」
黒崎は、机の上の文書を差し出した。
神谷は、その表題を見た。
そして、顔を上げた。
「……辞任?」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
神谷は、しばらく黙った。
「……本気ですか?」
「はい」
「……いつ?」
黒崎は、静かに答えた。
「今日、正式に意向を表明します」
神谷は、文書を見つめた。
「……そうですか」
黒崎は、少し笑った。
「驚きました?」
「……正直、かなり」
神谷は、資料を置いた。
「まだ、やるべきことが多いでしょう」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
「消費税率引き下げの財源問題も、解決していません」
「そのとおりです」
「行政改革も、検証が必要です」
「はい」
神谷は、黒崎を見た。
「……それでも、辞めるんですか?」
黒崎は、少し考えた。
「……はい」
神谷は、黙っていた。
黒崎は続けた。
「全部解決してから辞めようと思ったら、いつまでも辞められないと思うんです」
「……それは、そうでしょうね」
「それに、俺が総理を続けることが、日本にとって一番いいとは限りません」
神谷は、静かにうなずいた。
「……なるほど」
黒崎は、少し間を置いた。
「……神谷さん」
「はい」
「俺の改革、どう思いますか?」
神谷は、少し驚いた。
「……今、それを聞くんですか?」
黒崎は、笑った。
「はい」
神谷は、しばらく考えた。
そして、静かに答えた。
「……評価できる部分はあります」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
「行政の契約や予算の使い道について、以前より詳しく説明するようになったことは、大きな変化です」
「ありがとうございます」
「しかし、消費税率の引き下げについては、今でも問題があると思っています」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
神谷は続けた。
「年間約四兆八千億円の税収減を、どのように補うのか。そこを明確にしないまま進めたことは、批判されるべきです」
黒崎は、静かに答えた。
「……そのとおりだと思います」
神谷は、少し驚いた。
黒崎は続けた。
「俺は、国民の負担を減らしたかった」
「……はい」
「でも、その後の財源について、十分な答えを出せていません」
神谷は、うなずいた。
「……そうですね」
黒崎は、少し笑った。
「……神谷さん」
「はい」
「次の政権では、必要なら俺の政策を変えてください」
神谷は、顔を上げた。
「……いいんですか?」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
「消費税率を戻す判断も、あり得ますよ」
黒崎は、少し黙った。
そして、静かに答えた。
「……それは、国会と国民に説明して、判断することだと思います」
神谷は、黒崎を見た。
黒崎は続けた。
「俺が始めた政策だから、絶対に続けなければならない。そんなことはありません」
神谷は、しばらく黙った。
そして、静かに言った。
「……黒崎さん」
「はい」
「あなたは、本当に変わった人ですね」
黒崎は、苦笑した。
「……よく言われます」
二人は、少し笑った。
* * *
午後2時24分。
面会室。
神谷は、資料を閉じた。
「……それで、私に何を求めているんですか?」
黒崎は、少し考えた。
「……特別なことは、ありません」
神谷は、顔を上げた。
黒崎は続けた。
「次の総理大臣が誰になるかは、国会が決めることです」
「……はい」
「俺が、後継者を指名するつもりはありません」
神谷は、うなずいた。
「当然ですね」
黒崎は、少し笑った。
「……ただ、神谷さんには、これからも国会で議論を続けてほしいんです」
神谷は、静かに聞いていた。
「俺の政策に問題があるなら、指摘してください」
「はい」
「良い部分があるなら、残してください」
「……はい」
「そして、俺がいなくなったからといって、政治を止めないでください」
神谷は、しばらく黙った。
そして、静かに答えた。
「……それは、約束できます」
黒崎は、少し笑った。
「ありがとうございます」
神谷は、立ち上がった。
「……黒崎さん」
「はい」
「あなたが辞めても、私はあなたの政策を検証し続けます」
黒崎は、うなずいた。
「お願いします」
神谷は、少し笑った。
「……遠慮はしませんよ」
黒崎も笑った。
「知っています」
二人は、握手を交わした。
政治的には、最後まで対立した。
しかし、その対立を終わらせる必要はなかった。
民主主義において、意見が違うことは、敵であることを意味しない。
* * *
午後3時17分。
警視庁。
長峰啓介が、弁護士とともに事情聴取に応じていた。
滝沢は、机の上に資料を置いた。
「……長峰さん。H-3という符号をご存じですか?」
長峰啓介は、静かにうなずいた。
「知っています」
滝沢は、顔を上げた。
「……ご自身を指す符号ですか?」
長峰は、少し考えた。
「……業務上、そのように呼ばれることはありました」
滝沢は、うなずいた。
「では、四月十一日のJP-0412については?」
長峰は、資料を見た。
「……記憶にありません」
「この記録には、H-3の承認が残っています」
長峰は、静かに答えた。
「私が承認したとは限りません」
滝沢は、うなずいた。
「……そうですね」
そして、別の資料を差し出した。
「では、四月二十日のA-17に関する連絡については?」
長峰の表情が、わずかに変わった。
「……それは、通常の調査業務です」
滝沢は、静かに尋ねた。
「A-17が、翌日に黒崎総理を襲撃した三枝直人だったことは、ご存じでしたか?」
長峰は、少し黙った。
そして、答えた。
「……事件後に知りました」
滝沢は、うなずいた。
「分かりました」
長峰は、静かに続けた。
「私は、誰かを襲撃するよう命じたことはありません」
滝沢は、資料を閉じた。
「……その点も含めて、確認しています」
事情聴取は、その後も続いた。
長峰は、H-3という符号を業務上使用していたことを認めた。
しかし、サイバー攻撃や襲撃事件への関与については否定した。
捜査は、まだ終わっていなかった。
* * *
午後4時42分。
東京都内の病院。
黒崎は、病室で副総理とオンライン会議を行っていた。
「……本日、辞任の意向を正式にお伝えします」
黒崎が言った。
副総理は、静かにうなずいた。
「……承知しました」
黒崎は、少し間を置いた。
「突然のことで、申し訳ありません」
副総理は、首を横に振った。
「総理。謝る必要はありません」
黒崎は、顔を上げた。
副総理は続けた。
「総理が治療を続けながら、公務を再開しようとしていたことは、私たちも見ています」
「……ありがとうございます」
「今後は、憲法と法律に基づいて、必要な手続きを進めます」
黒崎は、うなずいた。
「よろしくお願いします」
副総理は、少し笑った。
「……総理」
「はい」
「最後まで、責任を持って引き継ぎます」
黒崎は、静かに頭を下げた。
「……ありがとうございます」
* * *
午後5時31分。
首相官邸。
政府は、黒崎の辞任意向を正式に発表した。
報道各社が、一斉に速報を流した。
『黒崎玲司首相、辞任を表明』
『襲撃事件による負傷と、今後の政権運営を考慮』
『後継首相の指名へ向け、国会で調整』
SNSには、さまざまな声が上がった。
『まだ辞めないでほしい』
『身体を大切にしてほしい』
『改革が途中なのに』
『次の総理は誰になる?』
『黒崎さんがいなくなったら、日本はどうなるんだ』
支持する人。
批判する人。
心配する人。
安心する人。
反応は、一つではなかった。
そして、それでよかった。
* * *
午後6時18分。
東京都内の病院。
黒崎は、病室のテレビを見ていた。
画面には、自分の辞任に関するニュースが流れている。
「……本当に、発表されたんだな」
小さくつぶやいた。
そのとき、ドアがノックされた。
「……玲司」
桐生美月だった。
黒崎は、少し笑った。
「美月」
美月は、椅子に座った。
「……ニュース、見たよ」
「うん」
「……辞めるんだね」
黒崎は、静かにうなずいた。
「……うん」
美月は、少し黙った。
そして、尋ねた。
「……後悔してない?」
黒崎は、少し考えた。
「……分からない」
美月は、顔を上げた。
黒崎は続けた。
「まだ、やりたいことはたくさんある」
「……うん」
「でも、今の身体で、以前と同じように働くことはできない」
美月は、静かにうなずいた。
「……そうだね」
黒崎は、少し笑った。
「それに、俺が辞めても、日本は続いていくから」
美月は、黒崎の手を握った。
「……うん」
黒崎は、少し間を置いた。
「……美月」
「ん?」
「総理を辞めたら、少し休もうと思う」
美月は、笑った。
「……やっと?」
黒崎も笑った。
「……やっと」
美月は、少し考えた。
「……じゃあ、約束してた生姜焼き、作ってね」
黒崎は、笑った。
「もちろん」
「無理して作らなくていいからね」
「分かってる」
美月は、黒崎の手を握り直した。
「……お疲れさま」
黒崎は、静かにうなずいた。
「……ありがとう」
* * *
午後8時07分。
首相官邸。
小野寺は、黒崎の執務室にいた。
机の上には、まだ整理されていない資料が残っていた。
行政改革。
財政。
外交。
危機対応。
どれも、黒崎が取り組んできた仕事だった。
小野寺は、引き継ぎ資料を一枚ずつ確認した。
そのとき、机の引き出しから、一冊のノートが出てきた。
表紙には、黒崎の字で書かれていた。
『総理になってから、忘れたくないこと』
小野寺は、少し迷ったあと、表紙を開いた。
最初のページには、短い文章があった。
『国民の生活を守ること』
『間違えたら、認めること』
『分からないことは、分からないと言うこと』
『権力を、自分のものだと思わないこと』
そして、最後の一行。
『いつか、自分がいなくても大丈夫な国にすること』
小野寺は、その文字を見つめた。
しばらくして、静かにノートを閉じた。
「……総理」
小さくつぶやいた。
* * *
午後9時26分。
国会議事堂。
神谷蒼士は、黒崎の辞任に関する報道を見ていた。
隣には、宮原奈緒がいた。
「……本当に辞めるんですね」
宮原が言った。
神谷は、うなずいた。
「……ええ」
宮原は、少し考えた。
「……次の総理、どうなるんでしょう」
神谷は、資料を閉じた。
「国会で決めることになります」
「……はい」
「そして、誰が総理になっても、課題は残ります」
宮原は、うなずいた。
神谷は、窓の外を見た。
「……黒崎さんは、最後まで、そのことを分かっていたんでしょうね」
宮原は、静かに答えた。
「……そうかもしれません」
神谷は、少し笑った。
「……さて」
宮原が顔を上げた。
「……何ですか?」
神谷は、資料を手に取った。
「次の日本を、どうするか考えないといけませんね」
* * *
午後11時14分。
東京都内の病院。
黒崎は、ベッドに横になっていた。
今日は、長い一日だった。
神谷との対話。
副総理への説明。
辞任の発表。
美月との約束。
そして、これまでの政治家としての歩み。
黒崎は、静かに考えた。
総理大臣になったとき、自分は日本を変えたいと思っていた。
税金の使い道を変える。
行政の仕組みを変える。
政治家の責任を変える。
そのために、多くの人と対立した。
批判された。
支持された。
そして、命を狙われた。
左目の視力は、戻らない。
身体にも、傷が残った。
それでも、後悔ばかりではなかった。
黒崎は、窓の外を見た。
東京の夜景が広がっている。
明日も、誰かが仕事へ向かう。
子どもたちは学校へ行く。
店は開き、電車は走る。
政治家が誰であっても、人々の生活は続いていく。
黒崎は、少し笑った。
「……それで、いいんだよな」
そのとき、スマートフォンが震えた。
小野寺からのメッセージだった。
『総理。本日はお疲れさまでした。今後の手続きについては、明日改めてご報告します』
黒崎は、返信した。
『ありがとうございます。最後まで、よろしくお願いします』
送信。
そして、スマートフォンを置いた。
黒崎は、静かに目を閉じた。
総理大臣としての仕事は、まだ正式には終わっていない。
次の総理大臣が国会で指名され、新しい内閣が成立するまで、必要な手続きが残っている。
それでも。
今日、黒崎玲司は、権力を手放す決断をした。
誰かに奪われたのではない。
国民に拒絶されたのでもない。
自分の意思で、次の時代へ渡すことを選んだ。
日本を変えようとした男は、最後に、自分がいなくても続く日本を選んだ。
第99話では、黒崎玲司が神谷蒼士との対話を経て、総理大臣の辞任を正式に表明しました。
改革の成果だけでなく、財政や行政に残された課題も次の政権へ引き継ぐことを決めています。
なお、辞任表明によって直ちに総理大臣の職務が終了するわけではなく、今後は憲法と法律に基づく手続きが進められます。
次回、最終話




