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支持率0%の男が、日本を作り直すまで  作者: 霜月 七日
第4章『独裁者の最後の決断』

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100/100

第100話 日本が普通に続く日

国を変えることと、国を守ることは、必ずしも同じではない。

改革を進めれば、反対する人がいる。決断を下せば、その結果に責任が生まれる。

そして、どれほど強い支持を集めた政治家であっても、いつかはその役目を終える。

一人の男が始めた改革は、その男が去ったあと、どうなるのか。

物語は、一つの答えへとたどり着く。

2037年5月21日。

午前6時42分。

東京都内の病院。


黒崎玲司(くろさきれいじ)は、窓際の椅子に座っていた。

カーテンの隙間から差し込む朝日が、病室の床を照らしている。

左目には、何も映らない。

四月二十一日の襲撃事件から、ちょうど一か月。

胸と腹部の傷は少しずつ回復していたが、左目の視力が戻ることはなかった。

黒崎は、机の上に置かれたコップへ手を伸ばした。

指先が、思っていたより手前の位置で止まる。

もう一度距離を確かめ、ようやくコップをつかんだ。

「……まだ、慣れないな」

苦笑しながら、水を飲む。

以前なら、何も考えずにできたことだった。

しかし今は、廊下を歩くにも、階段を下りるにも、意識して距離を測らなければならない。

医師からは、退院後も継続的なリハビリが必要だと言われている。

黒崎は、机の上の日程表を見た。

今日の日付には、赤い丸がついていた。

五月二十一日。新内閣発足予定日。

数日前、黒崎は総理大臣の辞任を表明した。

その後、五月十九日の臨時閣議で内閣総辞職を決定した。

現在は、新しい内閣総理大臣が任命されるまで、職務執行内閣として必要な業務を続けている。

そして今日、国会で新しい総理大臣が指名される。

黒崎は、日程表を見つめた。

「……今日で、終わるのか」

声に出してみても、不思議な実感がなかった。

総理大臣になった日のことは、今でも覚えている。

支持率0%から始まった政治家人生。

国民の負担を減らすと訴え、税金の使い道を変えると約束した。

政治家になれば、日本を変えられると思っていた。

実際には、思いどおりにならないことばかりだった。

それでも、何も変わらなかったわけではない。

黒崎は、静かに息を吐いた。

そのとき、病室のドアがノックされた。

「総理、おはようございます」

秘書官の小野寺航(おのでらわたる)だった。

「おはようございます、小野寺さん」

小野寺は、いつものように資料を持っていた。

ただ、その量は以前よりずっと少ない。

「本日の予定について、最終確認をお願いします」

「はい」

小野寺は椅子に座り、資料を開いた。

「午後に衆参両院で首班指名が行われます。その後、親任式と認証式を経て、新内閣が発足する予定です」

黒崎は、うなずいた。

「分かりました」

「総理には病院で待機していただきます。新内閣の成立まで、緊急案件があればご判断をお願いする可能性があります」

「はい」

「また、医師からは、今日も長時間の公務を避けるよう指示されています」

黒崎は、少し笑った。

「……最後まで言われますね」

小野寺も笑った。

「最後まで、です」

黒崎は、資料を受け取った。

「ありがとうございます」

小野寺は、少し間を置いた。

「……総理」

「はい」

「本当に、お疲れさまでした」

黒崎は、顔を上げた。

そして、苦笑した。

「まだ終わっていませんよ、小野寺さん」

「……そうでした」

二人は、小さく笑った。


* * *


午前8時03分。

東京都中央区。

一軒の弁当店では、開店前の準備が進んでいた。

店主の女性が厨房でご飯を炊き、夫が配送先の一覧を確認している。

「今日の仕入れ、全部届いた?」

「野菜は届いた。肉も、あと十分くらいだって」

「よかった」

四月のサイバー攻撃以降、仕入れの管理システムに障害が発生し、何度も配送が遅れた。

発注した商品が届かない日もあれば、同じ商品が二重に届いた日もあった。

電子決済が使えず、現金払いをお願いしたこともある。

まだ完全には元に戻っていない。

それでも、今週に入ってからは配送の遅れが減っていた。

夫は、店のテレビをつけた。

『本日、国会では新たな内閣総理大臣を指名する予定です』

画面には、国会議事堂が映っていた。

女性は、手を止めた。

「……黒崎さん、今日で辞めるんだね」

「そうらしいな」

「まだ若いのに」

夫は、配送表を机に置いた。

「身体が大変なんだろ。片目も見えなくなったっていうし」

「そうだよね……」

女性は、少し黙った。

「次の総理、大丈夫かな」

夫は、しばらく考えた。

「分からないな」

「そうだよね」

「でも、誰が総理になっても、うちは弁当を作らないといけないから」

女性は、笑った。

「それはそうね」

「政治がどうなるかも大事だけど、今日の注文は待ってくれないしな」

炊飯器から、炊き上がりを知らせる音がした。

女性は、しゃもじを手に取った。

「じゃあ、今日も頑張ろうか」

「おう」

店の外では、通勤する人々が歩き始めていた。

誰も、特別な一日だとは思っていない。

いつものように会社へ向かい、いつものように仕事を始める。

日本の朝は、いつもどおり動いていた。


* * *


午前9時17分。

警視庁。

滝沢修一(たきざわしゅういち)は、捜査会議に出席していた。

黒崎襲撃事件から一か月。

捜査は、国内外の複数の組織へと広がっていた。

東都政策研究センター。

東亜政策開発機構。

北辰デジタルサービス。

そして、海外の華龍国際情報研究有限公司。

いずれも、偽情報の拡散や世論操作に関係していた疑いがある。

「長峰啓介の供述について、整理しました」

捜査員が資料を配った。

長峰啓介(ながみねけいすけ)は、H-3という符号が自分の業務上の識別名だったことを認めていた。

しかし、サイバー攻撃への関与や黒崎襲撃事件への関与は否定している。

「四月十一日のJP-0412承認記録については?」

滝沢が尋ねた。

「本人は、自分が承認したものではないと説明しています。ただし、関連する業務用アカウントの記録と一致する部分があります」

「本人が操作したと断定できるか?」

「まだです。端末の利用履歴と認証記録を確認しています」

滝沢は、うなずいた。

「分かった。推測で結論を出すな」

別の捜査員が報告した。

「海外の日本大使館に保護された情報提供者については、引き続き安全が確保されています」

「本人の意思は?」

「必要な範囲で、証言への協力を続ける意向です」

「そうか」

滝沢は、資料をめくった。

情報提供者が持ち込んだ記録には、四月十二日の攻撃より前の日付が残されていた。

『EX-04』

『EX-09』

『JP-0412』

『A17-RESPONSE』

『PHASE2』

それらの一部は、実際に起きた事件と時系列が一致していた。

だが、中央連絡室と呼ばれる承認経路の実体は、まだ明らかになっていない。

梁文浩(りょうぶんこう)が海外側の計画に関わっていた疑いは強まっていたものの、外国政府が直接指示したと断定できる証拠も、現時点では得られていなかった。

そして、三枝直人が黒崎を襲撃したことと、組織的な世論操作の間に、どのような関係があったのか。

それも、解明の途中だった。

「……今日、総理が代わる」

滝沢が言った。

捜査員たちが顔を上げた。

「はい」

「だが、捜査は変わらない」

滝沢は、静かに続けた。

「誰が総理になろうと、証拠に基づいて進める。政治的な都合で結論を急ぐことも、捜査を止めることもない」

「承知しました」

滝沢は、資料を閉じた。

「続けよう」

その言葉とともに、捜査会議は次の議題へ移った。


* * *


午前10時36分。

国会議事堂。

神谷蒼士(かみやそうし)は、会議室で資料を確認していた。

机の上には、今後の政策方針が並んでいる。

消費税率引き下げ後の財源問題。

行政改革の実績検証。

重要インフラの危機対応。

政府の情報公開。

サイバー攻撃からの復旧支援。

どれも、黒崎政権から引き継ぐ課題だった。

宮原奈緒(みやはらなお)が、部屋に入ってきた。

「神谷さん。首班指名の準備、整ったそうです」

神谷は、うなずいた。

「分かりました」

宮原は、机の資料を見た。

「……ずいぶん、課題が多いですね」

神谷は、少し笑った。

「そうですね」

「黒崎さんが辞めても、問題は残りますね」

「ええ」

神谷は、資料を閉じた。

「ただ、問題が残っているからといって、黒崎政権が何も成し遂げなかったわけではありません」

宮原は、うなずいた。

「そうですね」

「行政の契約や予算について、以前より詳しく説明するようになったことは評価できます」

「はい」

「ですが、消費税率引き下げに伴う財源問題は、避けて通れません」

宮原は、椅子に座った。

「神谷さんは、税率を戻すつもりですか?」

神谷は、首を横に振った。

「今すぐ結論を出すつもりはありません」

「……そうですか」

「まず、財政の実態を確認します。削減見込みと実績を分けて、何ができていて、何ができていないのかを明らかにする」

神谷は、少し間を置いた。

「そのうえで、必要なら政策を修正します」

宮原は、うなずいた。

「黒崎さんとは、違うやり方ですね」

神谷は、少し笑った。

「違っていいんですよ」

「……はい」

「次の政権は、黒崎さんの考えをそのまま守るために存在するわけではありません」

神谷は、窓の外を見た。

「国民に対して、責任を負うために存在するんです」

宮原は、静かにうなずいた。

「……そうですね」

神谷は、時計を見た。

「そろそろ、行きましょうか」

「はい」

二人は、会議室を出た。


* * *


午前11時48分。

東京都内の病院。

黒崎は、最後の引き継ぎ資料を確認していた。

小野寺が、一つずつ説明している。

「消費税率引き下げに伴う税収減については、年間約四兆八千億円の見込みです」

「はい」

「行政改革の契約見直しについては、約十八億四千万円の削減見込みですが、実際の削減額は今後の確認が必要です」

黒崎は、うなずいた。

「そこは、必ず区別してください」

「承知しています」

「百八十七事業の見直しについても、対象予算の全額が削減できるわけではありません」

「はい。その点も明記しています」

黒崎は、資料をめくった。

「サイバー攻撃からの復旧状況は?」

「金融、物流、行政サービスごとに整理しています。利用者への影響が残る部分についても、継続して公表する予定です」

「分かりました」

黒崎は、少し考えた。

「……小野寺さん」

「はい」

「俺が辞めたあと、この資料は新しい政権に渡るんですよね」

「はい。必要な手続きを経て、引き継がれます」

黒崎は、うなずいた。

「……よかった」

小野寺は、黒崎を見た。

「総理」

「はい」

「引き継ぎ資料には、総理の判断で進めた政策についても、未解決の課題をすべて記載しています」

「ありがとうございます」

「……本当に、よろしいんですね」

黒崎は、少し笑った。

「はい」

そして、静かに続けた。

「次の総理が困るような資料を残しても、意味がありませんから」

小野寺は、うなずいた。

黒崎は、資料を閉じた。

「これで、全部ですか?」

「現時点で整理できるものは、すべてです」

黒崎は、深く息を吐いた。

「……ありがとうございます」

小野寺は、静かに頭を下げた。

「こちらこそ、ありがとうございました」


* * *


午後1時22分。

衆議院本会議場。

新たな内閣総理大臣を指名する投票が始まった。

議員たちは、一人ずつ投票を行う。

議場には、独特の緊張感が漂っていた。

黒崎が辞任を表明してから、各党は次の政権のあり方について協議を続けてきた。

与党内でも、新しい代表を選ぶための調整が行われていた。

一方、野党側では、神谷を中心とする政権構想がまとめられていた。

今回の首班指名は、単に黒崎の後任を決めるものではない。

サイバー攻撃による混乱が続く中で、誰が政府を率いるのか。

その判断でもあった。

やがて、開票結果が読み上げられた。

衆議院では、神谷蒼士が過半数の票を獲得した。

議場に拍手が起きる。

神谷は、静かに立ち上がり、深く頭を下げた。

続いて、参議院でも首班指名が行われた。

しかし、参議院では一度目の投票で過半数を獲得した候補者がいなかった。

決選投票の結果、衆議院とは異なる候補者が指名された。

両院の議決は一致しなかった。

そのため、両院協議会が開かれた。

だが、協議会でも意見はまとまらなかった。

最終的に、憲法の規定により、衆議院の議決が国会の議決となった。

新たな内閣総理大臣に指名されたのは、神谷蒼士だった。

神谷は、再び深く頭を下げた。

かつて、黒崎の政策を厳しく批判してきた男。

その男が、次の日本を担うことになった。


* * *


午後2時47分。

東京都内の病院。

黒崎は、テレビに映る神谷の姿を見つめていた。

「……神谷さんか」

隣にいた小野寺が、うなずいた。

「はい」

黒崎は、少し笑った。

「厳しい人が総理になりますね」

小野寺も、少し笑った。

「そうですね」

黒崎は、テレビを見た。

神谷が、記者団の質問に答えている。

『黒崎政権の政策については、成果と課題の両方を検証します。必要な政策は継続し、修正すべきものは修正します』

黒崎は、うなずいた。

「……いいですね」

小野寺は、顔を上げた。

「そうですか」

「はい」

黒崎は、少し笑った。

「俺の政策を、ちゃんと検証してくれそうです」

小野寺は、うなずいた。

「そうですね」

黒崎は、窓の外を見た。

「……小野寺さん」

「はい」

「俺が総理を辞めても、国会はちゃんと動いていますね」

小野寺は、静かにうなずいた。

「はい」

黒崎は、少し笑った。

「……それが、うれしいです」

小野寺は、何も言わなかった。

ただ、静かに頭を下げた。


* * *


午後4時18分。

首相官邸。

神谷は、新内閣の発足に向けた最終調整を行っていた。

閣僚候補者の確認。

危機対応体制の継続。

行政機関への指示。

重要な政策課題の引き継ぎ。

担当者たちが、慌ただしく出入りしている。

「神谷先生、金融システムの復旧状況について、最新の報告です」

「ありがとうございます」

「物流事業者への支援についても、継続の判断が必要です」

「現行の支援は、必要な範囲で継続してください」

神谷は、資料を受け取った。

「また、サイバー攻撃に関する捜査については、関係機関が引き続き対応しています」

「分かりました」

神谷は、少し考えた。

「捜査については、政治的な圧力をかけないようにしてください」

担当者がうなずいた。

「承知しました」

「ただし、国民の安全に関わる情報については、必要な範囲で説明を続けます」

「はい」

神谷は、資料を閉じた。

「……黒崎政権が進めた改革についても、検証を始めましょう」

「承知しました」

「削減見込みと実績を区別し、数字の根拠を確認してください」

「はい」

神谷は、静かに続けた。

「前の政権を批判するためではありません」

担当者が顔を上げた。

「……では?」

「次の判断を、間違えないためです」

担当者は、うなずいた。

「承知しました」

神谷は、窓の外を見た。

総理大臣になることは、特別なことだった。

しかし、総理大臣になったからといって、すべてを自分一人で決められるわけではない。

国会がある。

行政がある。

司法がある。

そして、国民がいる。

神谷は、静かに息を吐いた。

「……始めましょう」

その言葉とともに、新しい政権の準備が進められていった。


* * *


午後5時36分。

東京都内の病院。

黒崎は、新内閣の成立を知らせる報告を受けていた。

神谷蒼士が内閣総理大臣に任命され、新しい内閣が発足した。

それにより、黒崎内閣の職務は正式に終了した。

小野寺が、静かに頭を下げた。

「……黒崎前総理」

黒崎は、少し驚いた。

「……前総理、ですか」

小野寺は、うなずいた。

「はい」

黒崎は、少し笑った。

「なんだか、変な感じですね」

小野寺も笑った。

「そうですね」

黒崎は、机の上に置かれた資料を見た。

総理大臣として確認する書類は、もうない。

新しい政府が、仕事を引き継いでいる。

黒崎は、静かに息を吐いた。

「……終わったんですね」

小野寺は、うなずいた。

「はい」

黒崎は、しばらく黙った。

そして、静かに言った。

「……小野寺さん」

「はい」

「今まで、本当にありがとうございました」

小野寺は、深く頭を下げた。

「こちらこそ、ありがとうございました」

黒崎は、少し笑った。

「……大変でしたよね」

小野寺も笑った。

「……かなり」

黒崎は、思わず声を出して笑った。

しかし、胸の傷が少し痛み、すぐに表情をしかめる。

小野寺が、慌てて立ち上がった。

「黒崎さん、大丈夫ですか?」

黒崎は、苦笑した。

「……大丈夫です」

そして、少し笑った。

「最後まで、心配をかけますね」

小野寺は、首を横に振った。

「……いえ」

少し間を置き、続けた。

「総理と一緒に仕事ができて、よかったです」

黒崎は、静かにうなずいた。

「……俺もです」

二人は、最後に握手を交わした。


* * *


午後6時32分。

東京都内の病院。

桐生美月(きりゅうみづき)は、黒崎の病室を訪れていた。

「……お疲れさま」

黒崎は、少し笑った。

「お疲れさま」

美月は、椅子に座った。

「……終わったんだね」

黒崎は、うなずいた。

「うん」

美月は、黒崎の顔を見た。

「……どう?」

黒崎は、少し考えた。

「……変な感じ」

美月は、笑った。

「そうなんだ」

「うん」

黒崎は、机の上を見た。

「今までは、何かあるたびに連絡が来てたから」

「……うん」

「今日は、もう来ないんだなって」

美月は、少し笑った。

「やっと、ゆっくりできるね」

黒崎は、うなずいた。

「そうだね」

美月は、少し考えた。

「……ねえ、玲司」

「ん?」

「総理じゃなくなったら、何したい?」

黒崎は、少し考えた。

「……まず、退院したい」

美月は、笑った。

「それはそうだね」

「それから、ちゃんとリハビリして」

「うん」

「……生姜焼き、作る」

美月は、笑った。

「覚えてたんだ」

黒崎も笑った。

「もちろん」

美月は、少し間を置いた。

「……そのあと、旅行も行きたいね」

黒崎は、うなずいた。

「行きたいね」

「どこがいい?」

黒崎は、少し考えた。

「……静かなところ」

美月は、笑った。

「それだけ?」

「うん」

黒崎は、少し笑った。

「しばらく、静かなところがいい」

美月は、黒崎の手を握った。

「……じゃあ、探しておくね」

黒崎は、静かにうなずいた。

「ありがとう」

美月は、少し黙った。

そして、静かに言った。

「……玲司」

「ん?」

「これからは、もう少し自分のことも考えてね」

黒崎は、少し笑った。

「……うん」

「仕事のことばかりじゃなくて」

「うん」

「ちゃんと、楽しいこともして」

黒崎は、静かにうなずいた。

「……そうする」

美月は、安心したように笑った。

「約束ね」

「約束」

二人は、静かに笑い合った。


* * *


午後8時04分。

東京都内。

ニュースでは、新しい神谷内閣の発足が報じられていた。

『神谷新首相は、黒崎政権から引き継いだ危機対応を継続するとともに、財政改革の検証を進める方針を示しました』

『サイバー攻撃に関する捜査についても、引き続き関係機関が対応しています』

『政府は、復旧状況を定期的に公表する方針です』

ニュースは続いた。

新しい内閣。

新しい政策。

新しい課題。

しかし、その一方で、街ではいつもの夜が続いていた。

居酒屋では、仕事帰りの人々が食事をしている。

駅では、電車を待つ人々が列を作っている。

スーパーでは、明日の朝食を買う人がいる。

家庭では、子どもが宿題をしている。

誰もが、明日のために生活していた。

総理大臣が代わっても、その生活は止まらなかった。

政治は変わる。

制度も変わる。

時には、間違った判断が下されることもある。

それでも、国民の生活は続いていく。

そして、その生活を守るために、政治は存在している。

一人の政治家が、すべてを決める必要はない。

一人の政治家が、すべてを解決する必要もない。

国民が考え、国会が議論し、政府が判断し、司法が法に基づいて審査する。

その仕組みが続いていくことこそ、民主主義だった。


* * *


午後9時37分。

東京都内の病院。

黒崎は、病室の窓際に立っていた。

東京の夜景が広がっている。

今日、自分は総理大臣ではなくなった。

あれほど欲しかったわけではない。

それでも、手放すときには、少し寂しかった。

黒崎は、静かに考えた。

政治家になったとき、誰も自分に期待していなかった。

支持率0%。

それでも、自分は日本を変えたいと思った。

そして、総理大臣になった。

消費税率を引き下げた。

行政改革を進めた。

多くの人と対立した。

批判された。

支持された。

命を狙われた。

左目の視力を失った。

それでも、日本は続いている。

黒崎は、窓の外を見た。

遠くに、電車の明かりが見えた。

道路には、車が走っている。

ビルの窓には、まだ灯りがついている。

誰かが働いている。

誰かが帰宅している。

誰かが、明日の準備をしている。

黒崎は、少し笑った。

「……よかった」

小さくつぶやいた。

自分が総理大臣でなくなっても、国会は動いた。

新しい総理大臣が選ばれた。

政府は仕事を続けている。

警察は捜査を続けている。

行政は、国民の生活を支えている。

そして、国民は、いつものように暮らしている。

黒崎は、静かに息を吐いた。

すべてが解決したわけではない。

問題は、まだたくさん残っている。

それでも、自分がいなくても、誰かが考え、誰かが決め、誰かが責任を負っている。

黒崎は、窓に映る自分の顔を見た。

左目の周囲には、傷痕が残っている。

以前と同じ顔ではない。

以前と同じ身体でもない。

それでも、自分は生きている。

そして、日本も続いている。

黒崎は、静かに笑った。

もう、総理大臣ではない。

ただの、黒崎玲司だ。

そのことが、今は少しだけ、うれしかった。

窓の外では、東京の夜が静かに続いていた。

黒崎は、最後に、心の中でつぶやいた。

「俺がいなくても、日本が普通に続いた」

『支持率0%の男が、日本を作り直すまで』を最後までお読みいただき、ありがとうございました。


全100話をもって、本編は完結となります。


支持率0%から始まった黒崎玲司の物語は、政治改革、対立、危機、そして一人の人間としての選択を描いてきました。


本作で描きたかったのは、強い政治家が国を変えることだけではありません。

政治家が変わっても、制度が機能し、国民の生活が守られ続けることの大切さです。

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