第98話 次の日本を担う者
2037年5月15日。
黒崎玲司が国会で最後の大きな演説を行ってから、一夜が明けた。
政治家にすべてを委ねるのではなく、誰が政権を担っても機能する日本を作る。
その言葉を実現するには、黒崎自身がいつまでも総理大臣でいるわけにはいかなかった。
しかし、政権を引き継ぐことは、単に後任を決めることではない。
財政改革の未解決課題。
サイバー攻撃からの復旧。
外国勢力による工作疑惑。
そして、権力を一人に集中させようとする国民の期待。
それらを次の世代へどう渡すのか。
黒崎は、政治的に対立してきた一人の男と向き合うことになる。
2037年5月15日。
午前7時36分。
東京都内の病院。
黒崎玲司は、窓際の椅子に座っていた。
右手には、昨日の国会演説の原稿がある。
最後のページには、何度も書き直した跡が残っていた。
『私がいなくなった瞬間に、止まってしまう国であってはならない』
黒崎は、その一文を見つめた。
昨日は、国民に向けて話した言葉だった。
だが今朝は、自分自身に向けられた問いに思えた。
本当にそう考えているなら。
自分は、いつまで総理大臣の椅子に座っているべきなのか。
「……難しいな」
小さくつぶやいたとき、病室のドアがノックされた。
「総理、おはようございます」
秘書官の小野寺航だった。
「おはようございます、小野寺さん」
黒崎は、原稿を机に置いた。
「昨日は、遅くまでありがとうございました」
「いえ。総理こそ、お疲れさまでした」
小野寺は、椅子に座った。
「今後の政権運営について、ご相談があると伺いました」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
そして、少し間を置いた。
「……小野寺さん。俺が総理を辞めるとしたら、何が一番困りますか?」
小野寺は、すぐには答えなかった。
「……突然ですね」
黒崎は、苦笑した。
「すみません」
「いえ」
小野寺は、考え込んだ。
「総理が退任されれば、政策の継続性について不安が生じると思います」
「はい」
「特に、消費税率引き下げ後の財源確保と、行政改革の検証です」
黒崎は、うなずいた。
「そうですよね」
「それと、今回のサイバー攻撃への対応も、まだ終わっていません」
「……はい」
小野寺は、黒崎を見た。
「総理。退任をお考えなのですか?」
黒崎は、少し黙った。
そして、静かに答えた。
「……考え始めています」
小野寺の表情が変わった。
「……そうですか」
黒崎は続けた。
「今すぐ辞めれば、無責任だと思います」
「はい」
「でも、全部片づくまで辞めないと言ったら、いつまでも辞められません」
小野寺は、うなずいた。
黒崎は、窓の外を見た。
「……だから、考えたいんです」
「何をでしょうか」
黒崎は、静かに答えた。
「誰が総理になっても、困らない状態をどう作るかです」
* * *
午前9時02分。
首相官邸。
副総理は、黒崎から届いた一枚の文書を読んでいた。
件名は『政権運営上の未解決事項の整理について』。
そこには、五つの項目が並んでいた。
消費税率引き下げに伴う財源問題。
行政改革の実績検証。
サイバー攻撃からの復旧状況。
外国勢力による工作疑惑への対応。
危機対応制度の見直し。
副総理は、資料を読み終えると、担当者に尋ねた。
「……これを、各省庁で整理するということですね」
「はい。総理から、政策の成果だけでなく、未解決の課題も明確にするよう指示がありました」
副総理は、うなずいた。
「分かりました」
担当者は続けた。
「また、削減見込み額と実際の削減額を区別するよう、特に指示されています」
「……当然ですね」
副総理は、資料を閉じた。
「これまで、改革の成果を説明する資料は多く作ってきました」
「はい」
「しかし、次の政権が本当に必要とするのは、うまくいっていない部分の情報かもしれません」
担当者は、うなずいた。
「……そうですね」
副総理は、静かに言った。
「各省庁へ連絡してください。都合の悪い数字も、そのまま出すように」
* * *
午前10時18分。
警視庁。
滝沢修一は、捜査員から報告を受けていた。
「……長峰啓介の件ですが、弁護士を通じて連絡がありました」
滝沢が顔を上げた。
「何と言っている?」
「任意の事情聴取に応じる意向を示しています。ただし、日程と方法について調整を求めています」
滝沢は、うなずいた。
「……ようやくか」
捜査員は、別の資料を差し出した。
「それと、海外の日本大使館に保護された情報提供者について、追加の証言があります」
「内容は?」
「中央連絡室についてです」
滝沢は、資料を開いた。
情報提供者によると、中央連絡室は華龍国際情報研究有限公司の通常の部署ではなかった。
梁文浩から提出された計画の評価を行い、必要に応じて修正を求める立場だったという。
「……つまり、梁の上にいた」
滝沢が言った。
「その可能性があります」
「ただし、どの組織に属していたかは分からない」
「はい」
滝沢は、資料を見た。
「……情報提供者本人は、中央連絡室の担当者に会ったことがあるのか?」
「直接はないそうです」
「分かった」
滝沢は、静かに続けた。
「……推測と、本人が見聞きした事実を分けて記録しよう」
捜査員は、うなずいた。
「承知しました」
滝沢は、窓の外を見た。
黒崎襲撃事件から、二十四日。
ようやく、背後にいた人物たちの輪郭が見え始めていた。
しかし、事件の全容が解明されたわけではない。
* * *
午前11時27分。
国会議事堂。
神谷蒼士は、事務所で資料を読んでいた。
昨日の黒崎の演説について、各紙の論評が出ていた。
『権力集中を拒否した総理』
『改革の未解決課題を認める』
『政権の次を見据えた演説か』
神谷は、最後の記事で手を止めた。
「……次を見据えた、か」
そのとき、秘書が入ってきた。
「神谷先生。官邸から連絡です」
「官邸?」
「はい。黒崎総理が、先生とお話ししたいそうです」
神谷は、顔を上げた。
「……黒崎さんが?」
「はい」
「内容は?」
「今後の政策運営について、意見交換をしたいとのことです」
神谷は、少し考えた。
「……分かりました」
秘書がうなずいた。
「日程を調整します」
神谷は、資料を閉じた。
黒崎から直接、意見交換を求められることは珍しくない。
しかし、今回は何かが違う気がした。
* * *
午後0時46分。
東京都内の病院。
黒崎は、昼食を終えたところだった。
今日は、食事を半分ほど残してしまった。
医師からは、回復のために栄養を取るよう言われている。
「……もう少し食べないとな」
黒崎がつぶやくと、小野寺が苦笑した。
「総理、食事も仕事のうちだと思ってください」
黒崎は、笑った。
「……それは厳しいですね」
小野寺は、資料を開いた。
「神谷さんとの面会ですが、明日の午後で調整できそうです」
黒崎は、うなずいた。
「ありがとうございます」
小野寺は、少し考えた。
「……総理」
「はい」
「神谷さんに、どこまでお話しするおつもりですか?」
黒崎は、少し黙った。
「……まだ、決めていません」
「そうですか」
黒崎は、窓の外を見た。
「ただ、聞いてみたいんです」
「何をでしょうか」
黒崎は、静かに答えた。
「……俺がやってきたことを、どう思っているのか」
小野寺は、うなずいた。
黒崎は続けた。
「支持してくれる人の意見は、ありがたいです」
「はい」
「でも、反対してきた人の意見も、ちゃんと聞いておきたい」
小野寺は、少し笑った。
「……総理らしいですね」
黒崎も笑った。
「そうですか?」
* * *
午後2時21分。
国会議事堂。
宮原奈緒は、神谷の事務所を訪れていた。
「……黒崎総理から、連絡があったんですか?」
神谷は、うなずいた。
「ええ」
「何の話でしょう?」
「まだ分かりません」
宮原は、少し考えた。
「……政権の今後について、でしょうか」
神谷は、資料を閉じた。
「その可能性はありますね」
宮原は、椅子に座った。
「……神谷さん」
「はい」
「もし、黒崎総理が退任するとしたら、どう思いますか?」
神谷は、少し黙った。
そして、静かに答えた。
「……驚きますね」
「そうですか」
「ただ、今回の事件で、身体に大きな傷を負っています」
神谷は、窓の外を見た。
「無理に続けることが、正しいとは限りません」
宮原は、うなずいた。
「……そうですね」
神谷は、少し考えた。
「……でも、黒崎さんが辞めれば、改革の責任が消えるわけではありません」
「はい」
「消費税率引き下げの財源問題も、行政改革の検証も、残ります」
宮原は、静かにうなずいた。
「……次の政権が、引き継がなければなりませんね」
神谷は、うなずいた。
「そうです」
そして、少し笑った。
「……誰が政権を担っても、大変でしょうね」
* * *
午後4時09分。
東京都内。
元財務事務次官の久世隆臣は、書斎で一通の文書を作成していた。
宛先は、警視庁。
長峰啓介との過去の関係について、追加で思い出したことを整理していた。
久世は、文章を読み返した。
『政策への批判と、社会的不安の意図的な拡大は区別されなければならない』
久世は、静かに息を吐いた。
黒崎の改革には、今でも反対する部分がある。
それは変わらない。
しかし、政策への反対を理由に、外国の組織が日本の世論を操作することを認めるつもりもなかった。
久世は、文書の最後に署名した。
そして、警察へ送信した。
* * *
午後5時37分。
東京都内の病院。
黒崎は、病室で政府から届いた資料を確認していた。
消費税率引き下げに伴う税収減。
年間約四兆八千億円。
行政改革による削減見込み。
契約見直しによる約十八億四千万円。
百八十七事業、総額約一兆三千億円の見直し対象。
二十三件の統廃合候補、約七百四十億円。
黒崎は、数字を見つめた。
どれも、簡単に解決できるものではない。
見直し対象になった事業の予算が、すべて削減できるわけではない。
契約を見直しても、すぐに支出が減るとは限らない。
消費税率を下げたことで、国民の負担は軽くなった。
しかし、その分の財源をどう確保するかという問題は残っている。
黒崎は、静かに息を吐いた。
「……まだまだ、だな」
そのとき、ドアがノックされた。
「総理、失礼します」
小野寺だった。
「お疲れさまです、小野寺さん」
「お疲れさまです」
小野寺は、資料を見た。
「……財政の資料ですか?」
「はい」
黒崎は、少し笑った。
「……次の人に、ずいぶん大変な仕事を残してしまいますね」
小野寺は、少し考えた。
「……ですが、課題を明確にして引き継ぐことも、大切だと思います」
黒崎は、うなずいた。
「そうですね」
そして、静かに続けた。
「……できれば、もっと解決してから渡したかったですけど」
小野寺は、少し笑った。
「総理。政治に、すべて解決した状態はないと思います」
黒崎は、顔を上げた。
「……そうかもしれませんね」
* * *
午後7時12分。
東京都内の病院。
桐生美月が、黒崎の病室を訪れていた。
「……お疲れさま」
黒崎は、少し笑った。
「お疲れさま」
美月は、椅子に座った。
「……今日は、ちゃんと休めた?」
「昨日よりは」
美月は、眉を寄せた。
「……昨日よりは?」
黒崎は、苦笑した。
「……はい」
美月は、ため息をついた。
「もう」
そして、少し笑った。
「……でも、顔色は昨日よりいいね」
黒崎は、うなずいた。
「少しずつ、回復してると思う」
美月は、安心したように笑った。
「……よかった」
しばらく、二人は静かに話していた。
やがて、美月が尋ねた。
「……ねえ、玲司」
「ん?」
「最近、総理を辞めたあとのこと、よく話すよね」
黒崎は、少し黙った。
「……そうだね」
美月は、黒崎の顔を見た。
「……本当に、辞めること考えてるの?」
黒崎は、静かにうなずいた。
「……うん」
美月は、少し驚いた。
「……そうなんだ」
黒崎は、窓の外を見た。
「……今すぐじゃないけどね」
「……うん」
「でも、いつかは辞める。その時期を、ちゃんと考えないといけないと思ってる」
美月は、うなずいた。
「……そっか」
黒崎は、少し笑った。
「……美月は、どう思う?」
美月は、少し考えた。
「……私は、玲司が決めたことなら、応援するよ」
黒崎は、うなずいた。
「ありがとう」
美月は、続けた。
「でも、身体のことだけは、ちゃんと考えてほしい」
黒崎は、少し笑った。
「……分かってる」
美月は、黒崎の手を握った。
「……本当に?」
黒崎は、笑った。
「……本当に」
* * *
午後8時46分。
国会議事堂。
神谷蒼士は、翌日の面会に向けて資料を整理していた。
机の上には、黒崎政権の政策一覧が並んでいる。
消費税率引き下げ。
行政改革。
政策決定過程の透明化。
公認審査の厳格化。
そして、危機対応権限の見直し。
神谷は、資料を一枚めくった。
「……黒崎さん」
小さくつぶやく。
政治的には、何度も対立してきた。
しかし、黒崎の改革によって、政治の議論が変わったことも事実だった。
以前なら、曖昧な説明で済まされていた予算の使い道。
行政機関の契約。
政策の根拠。
それらが、以前より詳しく問われるようになった。
神谷は、静かに考えた。
黒崎の改革を、すべて否定するつもりはない。
だが、すべてを引き継ぐつもりもない。
次の政権には、次の政権の判断が必要だ。
神谷は、資料を閉じた。
「……明日、何を話すつもりなんだろうな」
* * *
午後10時13分。
東京都内の病院。
黒崎は、ベッドに横になっていた。
明日、神谷と会う。
政治的に対立してきた相手。
消費税率引き下げの財源問題を厳しく追及してきた人物。
行政改革の成果についても、検証を求め続けてきた人物。
黒崎は、静かに考えた。
自分の政策を、すべて引き継いでもらう必要はない。
むしろ、間違っている部分があれば、直してもらいたい。
黒崎は、少し笑った。
「……神谷さんなら、遠慮なく言うだろうな」
そのとき、スマートフォンが震えた。
小野寺からのメッセージだった。
『明日の神谷議員との面会は、午後二時から三十分程度で調整できました。医師にも確認済みです』
黒崎は、返信した。
『ありがとうございます。よろしくお願いします』
送信。
そして、スマートフォンを置いた。
窓の外には、東京の夜景が広がっている。
政治は、誰か一人のものではない。
総理大臣の椅子も、永遠に座り続ける場所ではない。
黒崎は、静かに目を閉じた。
次の日本を担う者が、自分と同じ考えである必要はない。
ただ一つ。
国民の生活を守るという責任だけは、引き継いでほしかった。
第98話では、黒崎玲司が退任を視野に入れ、政権の未解決課題を整理し始めました。
消費税率引き下げの財源問題や行政改革の実績検証など、次の政権へ引き継ぐべき課題も明確になっています。
また、黒崎は神谷蒼士との面会を決め、今後の日本について直接意見を交わす準備を進めました。




