第97話 最後の国会演説
2037年5月14日。
黒崎玲司が総理大臣に就任してから、日本は大きく変わった。
消費税率の引き下げ。行政改革。既得権益との対立。そして、暗殺未遂事件。
その改革は、すべてが成功したわけではない。財源の問題も、行政改革の成果をどう検証するかという課題も残されている。
それでも黒崎は、最後に一つだけ、国民へ伝えたいことがあった。
国民が政治家を信じることと、政治家にすべてを委ねることは違う。
今日、黒崎は国会の演壇に立つ。
それは、日本を変えようとした男が、国民に残す最後の大きな演説だった。
2037年5月14日。
午前7時08分。
東京都内の病院。
黒崎玲司は、ベッドの上で一枚の原稿を読んでいた。
何度も書き直した文章だった。
最初は、政府の危機対応について説明するだけのつもりだった。
しかし、書き始めると、それだけでは足りないと感じた。
消費税率を引き下げた理由。
行政改革を進めた理由。
政治家になった理由。
そして、今回の事件で考えたこと。
すべてが、つながっていた。
黒崎は、原稿の最後の一文を見つめた。
『政治家がいなくても続く国を、政治家は作らなければならない』
「……少し、変かな」
小さくつぶやく。
そのとき、病室のドアがノックされた。
「総理、おはようございます」
秘書官の小野寺航だった。
「おはようございます、小野寺さん」
黒崎は、原稿を置いた。
「……今日の予定、確認できましたか?」
「はい。ただし、医師から条件が出ています」
「やっぱり」
黒崎は、苦笑した。
小野寺は、資料を開いた。
「国会への移動は医療スタッフが同行します。演説は着席したままでも可能な形で調整しています」
「ありがとうございます」
「また、演説時間は短くしてください。終了後の取材対応はありません」
黒崎は、うなずいた。
「分かりました」
小野寺は、少し間を置いた。
「……総理」
「はい」
「本当に、今日でよろしいんですか?」
黒崎は、原稿を見た。
「……はい」
「体調を考えれば、延期することもできます」
黒崎は、静かに答えた。
「それは分かっています」
そして、少し笑った。
「でも、今だから伝えたいことがあるんです」
小野寺は、うなずいた。
「……承知しました」
* * *
午前8時26分。
警視庁。
滝沢修一は、海外の日本大使館から届いた資料を確認していた。
保護された情報提供者から、新たな証言が得られていた。
「……中央連絡室について、追加の説明があったのか?」
滝沢が尋ねた。
捜査員は、うなずいた。
「はい」
「内容は?」
「華龍国際情報研究有限公司とは別の承認経路として存在していたようです」
滝沢は、資料をめくった。
「……政府機関なのか?」
「まだ断定できません。ただし、情報提供者によると、通常の民間企業の業務部門ではなかったとのことです」
滝沢は、うなずいた。
「分かった」
捜査員は続けた。
「また、梁文浩と長峰啓介の間で、複数の計画について連絡があったことを示す記録も確認されています」
「……重要だな」
滝沢は、資料を見た。
「長峰への事情聴取は?」
「引き続き調整中です」
「……そうか」
滝沢は、静かに息を吐いた。
「今日、総理が国会で演説する」
捜査員がうなずいた。
「はい」
「その裏で、捜査は止められないな」
「承知しています」
* * *
午前9時41分。
国会議事堂。
黒崎を乗せた車が、警備された出入口に到着した。
黒崎は、ゆっくりと車を降りた。
左側の視界はない。
足元を確認しながら、慎重に歩く。
廊下には、国会職員と警備担当者が待っていた。
「総理、おはようございます」
「おはようございます」
黒崎は、軽く頭を下げた。
少し進むと、見覚えのある人物が立っていた。
野党の神谷蒼士だった。
「……黒崎総理」
黒崎は、少し驚いた。
「神谷さん」
神谷は、深く頭を下げた。
「お身体は、いかがですか?」
「まだ、完全ではありません」
黒崎は、少し笑った。
「でも、今日は何とか」
神谷は、うなずいた。
「……そうですか」
少し間を置いたあと、神谷は続けた。
「今日の演説、楽しみにしています」
黒崎は、笑った。
「……厳しい質問は、勘弁してくださいね」
神谷も笑った。
「それは、約束できません」
「ですよね」
二人は、短く笑い合った。
神谷は、真面目な表情になった。
「……総理」
「はい」
「私は、消費税率の引き下げについて、今でも財源上の問題があると思っています」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
「行政改革についても、削減見込みが実際にどこまで実現したのか、検証が必要です」
「そのとおりです」
神谷は、少し驚いた。
黒崎は、静かに続けた。
「……批判していただいて、構いません」
「……はい」
「むしろ、お願いします」
神谷は、黒崎を見た。
黒崎は、少し笑った。
「俺が間違っていたら、ちゃんと指摘してください」
神谷は、静かにうなずいた。
「……承知しました」
* * *
午前10時12分。
衆議院本会議場。
議場には、与野党の議員が集まっていた。
議長が、黒崎の発言を認めた。
「内閣総理大臣、黒崎玲司君」
議場が静かになった。
黒崎は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、職員の案内を受けながら演壇へ向かった。
左目の視力を失ったことで、階段の位置を確かめる必要があった。
一段。
また一段。
議員たちは、その姿を見つめていた。
黒崎は、演壇に到着すると、用意された椅子に座った。
マイクの位置を確認する。
そして、静かに口を開いた。
「……議長、ならびに議員の皆さま」
黒崎は、ゆっくりと頭を下げた。
「本日は、発言の機会をいただき、ありがとうございます」
議場は、静まり返っていた。
「私は、四月二十一日の事件によって、長期間、公務から離れることになりました」
黒崎は、少し間を置いた。
「その間、政府、国会、行政機関、そして多くの国民の皆さまが、それぞれの立場で日本を支えてくださいました」
「まず、そのことに感謝申し上げます」
黒崎は、原稿を一枚めくった。
「……私は、総理大臣に就任したとき、一つのことを考えていました」
議員たちが、黒崎を見た。
「日本の制度は、国民のためにあるべきだ」
「その当たり前のことを、もう一度確かめたいと思いました」
黒崎は続けた。
「消費税率の引き下げも、行政改革も、その考えから始めたものです」
「しかし、改革には、必ず課題が伴います」
黒崎は、少し間を置いた。
「消費税率を十パーセントから八パーセントへ引き下げたことによって、年間約四兆八千億円の税収減が見込まれています」
議場が静かになった。
「この財源問題が、すでに解決したとは申し上げません」
一部の議員が、顔を上げた。
黒崎は続けた。
「行政改革についても、契約の見直しや事業の整理を進めていますが、削減見込みと実際の削減額は区別しなければなりません」
「政府が示した数字が正しかったのか。国民生活にどのような影響があったのか」
「今後も、検証を続ける必要があります」
黒崎は、原稿を置いた。
「……私は、改革を進めてきたことを後悔していません」
そして、静かに続けた。
「ただし、改革を進めたからといって、すべての判断が正しかったとは思っていません」
議場が静かになった。
「だからこそ、国会の議論が必要なのです」
* * *
黒崎は、少し水を飲んだ。
そして、再びマイクに向かった。
「……現在、日本は、サイバー攻撃と偽情報の拡散によって、大きな混乱に直面しています」
「金融機関や物流事業者の皆さまには、復旧に向けて懸命に取り組んでいただいています」
「しかし、国民の皆さまの不安が、完全に解消されたわけではありません」
黒崎は、議場を見渡した。
「その中で、私に強い権限を与えるべきだという声が上がっています」
議員たちの表情が変わった。
黒崎は、静かに続けた。
「……私は、その声を無視するつもりはありません」
「国民の皆さまが、早く安心したいと願っていることは理解しています」
「ですが」
黒崎は、少し間を置いた。
「私は、総理大臣に権力を集中させることが、国民を守る唯一の方法だとは考えていません」
議場が静まり返った。
「政治の決断を早くすることは、大切です」
「しかし、早い決断が、必ず正しい決断になるわけではありません」
黒崎は、原稿を見た。
「もし、政府が間違えたとき」
「誰が、それを指摘するのでしょうか」
「もし、総理大臣が誤った判断をしたとき」
「誰が、それを止めるのでしょうか」
黒崎は、静かに続けた。
「そのために、国会があります」
「司法があります」
「報道があります」
「そして、国民一人一人の声があります」
黒崎は、顔を上げた。
「政治家を信頼することと、政治家にすべてを任せることは、違います」
議場の空気が変わった。
「私は、国民の皆さまに信頼していただきたいと思っています」
「しかし、私を疑う権利も、同じように守りたいのです」
黒崎は、少し笑った。
「……私も、人間です」
「間違えることがあります」
「知らないこともあります」
「判断に迷うこともあります」
黒崎は、左目の周囲に残る傷痕へ、そっと触れた。
「そして、今回の事件で、私は、自分が決して特別な存在ではないことを、改めて思い知らされました」
議場が静かになった。
「私も、傷つきます」
「病気にもなります」
「いつか、総理大臣を辞めます」
黒崎は、少し間を置いた。
「……そのとき、日本はどうなるべきでしょうか」
誰も答えなかった。
黒崎は、静かに続けた。
「私がいなくなった瞬間に、止まってしまう国であってはならないのです」
* * *
議場の後方では、宮原奈緒が、黒崎の言葉を聞いていた。
隣に座る議員が、小さくつぶやいた。
「……あの人、本当に権限を欲しがらないんだな」
宮原は、静かに答えた。
「……だからこそ、今の議論が難しいんだと思います」
黒崎の声が、議場に響いた。
「私は、日本を変えたいと思って政治家になりました」
「しかし、日本を変えるのは、総理大臣一人ではありません」
「行政で働く人」
「企業で働く人」
「地域を支える人」
「家族を守る人」
「そして、政治に疑問を持ち、声を上げる人」
黒崎は、ゆっくりと続けた。
「そのすべての人が、日本を作っています」
「私は、その力を信じています」
黒崎は、原稿の最後のページを開いた。
「……議員の皆さま」
議場が静かになった。
「私たちは、国民から権限を預かっています」
「その権限は、私たち自身のものではありません」
黒崎は、はっきりと言った。
「政治家の仕事は、国民に従わせることではありません」
「国民が、政治家に頼りきらなくても暮らせる社会を作ることです」
黒崎は、少し間を置いた。
「私は、残された任期の中で、そのためにできることを続けます」
「そして、いつか次の世代へ、責任を引き継ぎます」
黒崎は、ゆっくりと頭を下げた。
「……ありがとうございました」
しばらく、議場は静まり返っていた。
やがて、どこからともなく拍手が起きた。
それは、すぐに大きくなった。
与党席。
野党席。
すべての議員が拍手したわけではない。
腕を組んだまま、黒崎を見つめる議員もいた。
それでも、議場には、確かな拍手が響いていた。
黒崎は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、職員の案内を受けながら演壇を降りた。
* * *
午前11時07分。
国会議事堂。
控室に戻った黒崎は、椅子に座り込んだ。
「……疲れました」
小野寺が、水を差し出した。
「総理。お疲れさまでした」
「ありがとうございます」
黒崎は、水を飲んだ。
「……長かったですかね」
小野寺は、少し笑った。
「予定より、少し長くなりました」
「……すみません」
「ですが、必要な言葉だったと思います」
黒崎は、少し黙った。
そして、静かに答えた。
「……そうだといいですね」
小野寺は、黒崎の顔を見た。
「総理」
「はい」
「……今後について、何かお考えですか?」
黒崎は、少し考えた。
「……あります」
小野寺が顔を上げた。
黒崎は、静かに続けた。
「ただ、今日すぐに決めることではありません」
「……承知しました」
黒崎は、窓の外を見た。
「……次の日本を、誰に任せるのか」
小野寺は、黙って聞いていた。
黒崎は、少し笑った。
「そろそろ、考えないといけませんね」
* * *
午後0時24分。
警視庁。
滝沢は、国会演説の映像を見終えたところだった。
「……総理、よくあの身体で」
捜査員がつぶやいた。
滝沢は、うなずいた。
「……そうだな」
そのとき、別の捜査員が入ってきた。
「主任。長峰啓介について、進展です」
滝沢が顔を上げた。
「何だ?」
「長峰の関係先から提出された記録について、海外の資料と一致する部分が確認されました」
「……どの部分だ?」
「四月十一日のJP-0412に関する国内側の承認記録です」
滝沢は、資料を受け取った。
そこには、H-3の符号と、長峰の業務用アカウントが関連づけられた記録があった。
「……本人の操作か?」
「まだ断定できません。ただし、利用端末の記録と照合を進めています」
滝沢は、うなずいた。
「分かった」
そして、資料を閉じた。
「……長峰への事情聴取を、さらに急ごう」
* * *
午後2時18分。
東京都内の病院。
黒崎は、予定どおり病院へ戻っていた。
医師の診察を受ける。
疲労が強く、午後は安静にするよう指示された。
黒崎は、ベッドに横になった。
「……やっぱり、無理したかな」
小さくつぶやく。
そのとき、スマートフォンが震えた。
美月からだった。
『演説、見たよ』
続けて、もう一通。
『お疲れさま。ちゃんと休んでね』
黒崎は、少し笑った。
『ありがとう。今、病院に戻ったよ』
すぐに返信が来た。
『よかった。今日はもう仕事禁止』
黒崎は、笑った。
『了解』
そして、スマートフォンを置いた。
* * *
午後4時36分。
東京都内。
長峰啓介は、テレビに映る黒崎の国会演説を見つめていた。
『私を疑う権利も、同じように守りたいのです』
長峰は、静かに息を吐いた。
「……そうか」
向かいに座る男が尋ねた。
「……どうしますか?」
長峰は、少し考えた。
「……もう、こちらから動く必要はない」
「……計画を中止するんですか?」
長峰は、首を横に振った。
「中止ではない」
「……では?」
長峰は、窓の外を見た。
「……結果を待つ」
男は、黙った。
長峰は、静かに続けた。
「黒崎がどれだけ立派な演説をしても、国民の不安が消えるわけではない」
「……はい」
「そして、政治への不信も、すぐには消えない」
長峰は、資料を閉じた。
「……それだけで十分だ」
* * *
午後6時12分。
東京都内の病院。
桐生美月は、黒崎の病室を訪れていた。
「……お疲れさま」
黒崎は、少し笑った。
「お疲れさま」
美月は、椅子に座った。
「……演説、すごかったね」
黒崎は、苦笑した。
「……そう?」
「うん」
美月は、黒崎の顔を見た。
「……でも、最後って言ってたね」
黒崎は、少し黙った。
「……うん」
美月は、静かに尋ねた。
「……総理、辞めるの?」
黒崎は、すぐには答えなかった。
窓の外には、夕暮れの東京が広がっている。
「……まだ、決めてない」
美月は、うなずいた。
「……そっか」
黒崎は、少し笑った。
「でも、いつかは辞めるよ」
「……うん」
「そのときに、日本がちゃんと動いているなら……」
黒崎は、少し考えた。
「……それでいいかなって」
美月は、黒崎の手を握った。
「……私は、玲司が元気でいてくれれば、それでいいよ」
黒崎は、静かにうなずいた。
「……ありがとう」
* * *
午後8時29分。
国会議事堂。
神谷蒼士は、黒崎の演説原稿を読み返していた。
そこへ、宮原奈緒がやってきた。
「……まだ読んでるんですか?」
神谷は、少し笑った。
「……ええ」
宮原は、隣に座った。
「……どうでした?」
神谷は、少し考えた。
「……いい演説でした」
宮原は、うなずいた。
「そうですね」
神谷は、資料を閉じた。
「ただ、あの演説で、すべての問題が解決したわけではありません」
「……はい」
「消費税率の引き下げの財源も、行政改革の検証も、これからです」
宮原は、うなずいた。
「……そうですね」
神谷は、窓の外を見た。
「……でも、黒崎さんは、その課題を次の人に引き継ぐ覚悟があるように見えました」
宮原は、少し考えた。
「……次の人、ですか」
神谷は、静かにうなずいた。
「……はい」
* * *
午後10時07分。
東京都内の病院。
黒崎は、ベッドに横になっていた。
今日は、国会で演説した。
自分の考えを、できる限り伝えたつもりだった。
ただ、それで国民の不安が消えるわけではない。
政府への信頼が、すぐに戻るわけでもない。
黒崎は、静かに考えた。
政治は、一度の演説で終わるものではない。
誰かが、続けなければならない。
そして、その誰かは、自分でなくてもいい。
黒崎は、スマートフォンを手に取った。
小野寺に、短いメッセージを送る。
『明日、今後の政権運営について、少し相談したいです』
送信。
黒崎は、窓の外を見た。
東京の夜景が広がっている。
総理大臣になったとき、自分は日本を変えたいと思っていた。
今は、少し違う。
自分がいなくなっても、日本が変わり続けられるようにしたい。
黒崎は、静かに目を閉じた。
明日。
そのための、次の決断をしようと思った。
第97話では、黒崎玲司が国会で、政治家への信頼と権力の集中は別であることを訴えました。
また、消費税率引き下げの財源問題や行政改革の検証など、政権が残した課題にも言及しました。




