第94話 黒崎玲司、帰還
2037年5月11日。
愛知県での襲撃事件から二十日。
左目の視力を永久に失った黒崎玲司は、東京の病院で治療とリハビリを続けていた。
その間にも、国会では非常時の権限強化を求める議論が進み、国民の間では黒崎の復帰を望む声が広がっている。
一方、警察は海外の日本大使館に寄せられた情報と国内の捜査資料を照合し、事件の背後にある指示系統へ迫りつつあった。
黒崎は今日、総理大臣としての公務を限定的に再開する。
それは、以前と同じ自分に戻ることではなかった。
2037年5月11日。
午前6時52分。
東京都内の病院。
黒崎玲司は、洗面台の前に立っていた。
鏡に映る自分の顔を、右目で確かめる。
左目の周囲には、襲撃で負った傷痕が残っていた。
医師からは、左目の視力が戻る見込みはないと告げられている。
その事実は、もう理解していた。
ただ、受け入れることと、慣れることは違う。
黒崎は、シャツのボタンに指をかけた。
一つ。
二つ。
三つ。
途中で指先がずれた。
「……あれ」
やり直す。
以前なら、鏡を見なくてもできたことだった。
ようやく最後のボタンを留めたとき、黒崎は小さく息を吐いた。
ベッドの上には、紺色のスーツが置かれていた。
襲撃事件の前に着ていたものとは別の、身体への負担を考えて用意された一着だ。
今日は、医師の許可を得て、短時間の公務に復帰する予定だった。
病院から官邸へ移動する。
限られた人数と会議を行う。
その後、国民に向けて声明を発表する。
ただし、医師からは厳しい条件が付けられていた。
長時間の会議は禁止。
立ったままの演説も避ける。
体調に異変があれば、即座に中止。
午後には病院へ戻る。
黒崎は、鏡の中の自分を見つめた。
「……大丈夫」
そう口にしてから、少し考えた。
「いや、大丈夫じゃないところもあるか」
苦笑する。
そして、もう一度スーツに目を向けた。
「……それでも、行くか」
* * *
午前8時14分。
病室。
担当医は、黒崎の診察を終えると、カルテを閉じた。
「黒崎さん。今日の予定について、改めて確認します」
「はい」
「移動を含めて、身体に負担がかかります。官邸での滞在は短時間にしてください」
「分かりました」
「会議は座って行ってください。途中で疲労や痛みが強くなった場合は、予定を中止します」
「はい」
医師は、黒崎を見た。
「……それと、気になることがあります」
黒崎は、顔を上げた。
「何でしょう?」
「大きな音や急な動きに対して、強い反応が出ることがありますね」
黒崎は、少し黙った。
「……はい」
「それも、今後の治療で向き合っていく必要があります」
「分かっています」
医師は、静かに続けた。
「総理大臣としての責任があることは理解しています。ただ、回復を急ぐあまり、治療を後回しにしないでください」
黒崎は、うなずいた。
「……ありがとうございます」
医師は、少し笑った。
「では、今日の予定を守ることを条件に、外出を認めます」
黒崎も笑った。
「よろしくお願いします」
* * *
午前8時47分。
病院の地下駐車場。
公用車の前で、秘書官の小野寺航が待っていた。
黒崎が姿を現すと、小野寺は深く頭を下げた。
「総理。おはようございます」
「おはようございます、小野寺さん」
黒崎は、少し笑った。
「……久しぶりですね。こうして一緒に移動するのは」
「はい」
小野寺は、黒崎の顔を見た。
「体調はいかがですか?」
「緊張しています」
「……そうですか」
「正直、少し怖いです」
小野寺は、すぐには答えなかった。
黒崎は、車のドアを見つめた。
「……また何か起きるんじゃないかって、考えてしまいます」
小野寺は、静かにうなずいた。
「警備体制は見直しています。ですが、絶対に何も起きないと申し上げることはできません」
黒崎は、少し笑った。
「……そうですよね」
小野寺は続けた。
「それでも、総理が安心して公務に臨めるよう、私たちにできることはすべて行います」
黒崎は、うなずいた。
「ありがとうございます」
車に乗り込む際、黒崎は左側のドア枠との距離を見誤り、肩を軽くぶつけた。
「あっ」
小野寺が、すぐに声をかけた。
「大丈夫ですか?」
「はい。すみません」
黒崎は、少し苦笑した。
「……まだ慣れませんね」
「急がなくて大丈夫です」
黒崎は、うなずいた。
「……はい」
車のドアが静かに閉まった。
公用車は、病院を出発した。
* * *
午前9時31分。
首相官邸。
正面玄関ではなく、警備上の理由から別の出入口を使用した。
黒崎が車から降りると、数人の職員が待っていた。
「総理。お帰りなさいませ」
黒崎は、足を止めた。
その言葉を聞くのは、久しぶりだった。
「……ありがとうございます」
職員の一人が、少し目を潤ませていた。
黒崎は、その表情に気づいた。
「……ご心配をおかけしました」
「いえ……」
職員は、言葉を詰まらせた。
黒崎は、静かに続けた。
「皆さんが仕事を続けてくださったおかげで、今日ここに戻れました」
職員たちは、深く頭を下げた。
黒崎は、ゆっくりと官邸の廊下を歩いた。
以前なら、何も考えずに通り過ぎていた場所だった。
壁。
曲がり角。
エレベーター。
左側から近づく職員の気配。
その一つ一つを確認しながら進む。
官邸は、何も変わっていなかった。
変わったのは、自分の方だった。
* * *
午前10時02分。
官邸内の会議室。
副総理をはじめ、関係閣僚と政府幹部が席に着いていた。
黒崎が入室すると、全員が立ち上がった。
「……皆さん、お疲れさまです」
黒崎は、席に着くよう促した。
「今日は、短い時間ですが、よろしくお願いします」
副総理が口を開いた。
「総理。まずは、お帰りなさい」
黒崎は、少し笑った。
「ありがとうございます」
「総理が不在の間、政府として対応を続けてきました」
「報告を受けています。本当にありがとうございます」
黒崎は、会議室を見渡した。
「……皆さんに、最初に伝えたいことがあります」
全員が、黒崎を見た。
「私は、まだ完全には回復していません」
会議室が静かになった。
黒崎は続けた。
「左目は見えません。身体にも傷が残っています。以前と同じように働けるわけではありません」
副総理は、静かにうなずいた。
「だからこそ、今日から私がすべての仕事を引き取るつもりはありません」
黒崎は、資料を開いた。
「副総理を中心とした危機対応体制は、当面維持してください」
「承知しました」
「私が判断すべき事項は、医師の許可を得られる範囲で対応します」
黒崎は、少し間を置いた。
「……そして、私がいなくても政府が動ける状態を、これからも守ってください」
会議室が静かになった。
副総理が答えた。
「……承知しました」
黒崎は、うなずいた。
「では、報告をお願いします」
* * *
午前10時19分。
最初の報告は、サイバー攻撃と偽情報への対応だった。
担当大臣が説明する。
「四月十二日の攻撃で影響を受けた一部の決済サービスと物流システムについて、復旧作業が続いています」
「利用者への影響は?」
黒崎が尋ねた。
「決済サービスの断続的な障害と、一部地域での配送遅延が残っています」
「復旧の見通しは?」
「事業者ごとに異なります。現時点で、すべてのサービスについて一律の復旧日を示すことはできません」
黒崎は、うなずいた。
「……そのまま公表してください」
担当大臣が顔を上げた。
「はい」
「復旧日が分からないなら、分からないと伝える。その代わり、何が使えて、何が使えないのかを具体的に示してください」
「承知しました」
次に、偽情報への対応が報告された。
「政府文書を装った偽情報が複数確認されています。関係機関と民間事業者が連携して、訂正情報を発信しています」
黒崎は、資料を見た。
「……国民の間で、政府に強い権限を与えるべきだという声が出ていますね」
担当大臣は、うなずいた。
「はい」
「その議論については?」
「国会で集中審議が行われています」
黒崎は、少し考えた。
「……政府として、必要な対応は進めましょう」
「はい」
「ただし、国会の議論を飛ばして、内閣に包括的な権限を与えるようなことはしません」
会議室が静かになった。
黒崎は続けた。
「危機だからこそ、法律に基づいて対応する必要があります」
副総理が、静かにうなずいた。
「その方針で進めています」
黒崎は、少し笑った。
「ありがとうございます」
* * *
午前10時43分。
会議は、予定どおり終了した。
黒崎が資料を閉じると、小野寺が小さく声をかけた。
「総理。少し休憩を取りましょう」
「……そうですね」
黒崎は、立ち上がった。
その瞬間、胸の傷に鈍い痛みが走った。
表情がわずかに変わる。
小野寺が気づいた。
「……大丈夫ですか?」
黒崎は、うなずいた。
「はい。少し痛んだだけです」
「無理はなさらないでください」
「分かっています」
黒崎は、ゆっくりと椅子に座り直した。
「……少し休んでから、次の予定にします」
小野寺は、うなずいた。
「承知しました」
* * *
午前11時16分。
警視庁。
滝沢修一は、長峰啓介に関する資料を確認していた。
前日、元財務事務次官の久世隆臣から提供された証言。
そして、海外の日本大使館に持ち込まれた資料。
その二つに、共通する符号があった。
H-3。
滝沢は、捜査員に尋ねた。
「……長峰の業務記録は?」
「東亜政策開発機構から任意提出された資料の中に、H-3名義の承認記録が複数あります」
「本人との対応関係は?」
「一部の記録では、長峰の業務用メールアドレスと関連づけられています」
滝沢は、うなずいた。
「……重要だな」
捜査員は続けた。
「ただし、本人が実際に操作したかどうかは、まだ確認中です」
「そうだな」
滝沢は、資料をめくった。
そこには、四月十一日付の記録があった。
『JP-0412 国内側確認済』
承認欄には、H-3。
滝沢は、眉を寄せた。
「……攻撃の前日か」
「はい」
「この記録が本物なら、国内側にも事前に計画を知っていた人物がいた可能性がある」
捜査員は、うなずいた。
「はい」
滝沢は、少し考えた。
「……長峰への事情聴取を進めよう」
* * *
午前11時52分。
首相官邸。
黒崎は、記者会見の準備をしていた。
会見は短時間。
着席したまま行う。
質問も、事前に定めた範囲で受け付ける。
医師と官邸側で調整した結果だった。
小野寺が、黒崎に声をかけた。
「総理。そろそろ時間です」
黒崎は、うなずいた。
「分かりました」
そして、少し笑った。
「……小野寺さん」
「はい」
「やっぱり、緊張しますね」
小野寺も、少し笑った。
「久しぶりの会見ですから」
「……それもありますけど」
黒崎は、左目のあたりにそっと触れた。
「この顔で、国民の前に出るのは初めてなので」
小野寺は、黒崎を見た。
「……総理」
黒崎は、少し笑った。
「分かっています。隠すつもりはありません」
小野寺は、うなずいた。
「……はい」
黒崎は、ゆっくりと立ち上がった。
「行きましょう」
* * *
午後0時03分。
首相官邸。
記者会見室。
カメラのシャッター音が響いた。
黒崎が姿を現すと、会場の空気が変わった。
顔には、はっきりと傷痕が残っていた。
左目の視力を失ったことも、すでに公表されている。
黒崎は、用意された椅子に座った。
そして、マイクの位置を確認した。
「……皆さん、こんにちは」
記者たちが、静かになった。
「内閣総理大臣の黒崎玲司です」
黒崎は、ゆっくりと頭を下げた。
「まず、四月二十一日の事件に際し、多くの皆さまからお見舞いと励ましの言葉をいただきました。心より感謝申し上げます」
少し間を置いた。
「また、事件の際に対応してくださった警察、消防、医療関係者の皆さまにも、改めて御礼申し上げます」
黒崎は、カメラを見た。
「私は、今回の事件で左目の視力を失いました」
会場が静まり返った。
「現在も治療とリハビリを続けています。以前と同じように働ける状態ではありません」
黒崎は続けた。
「そのため、当面は副総理を中心とする政府の危機対応体制を維持し、私自身は医師の判断に従いながら、必要な公務を段階的に再開します」
記者たちは、黙って聞いていた。
黒崎は、資料を一枚めくった。
「現在、日本では、サイバー攻撃や偽情報の拡散によって、多くの皆さまにご不便とご不安をおかけしています」
黒崎の声は、落ち着いていた。
「政府は、関係機関や民間事業者と連携し、復旧と被害の拡大防止に取り組んでいます」
そして、少し間を置いた。
「……ここで、一つ申し上げたいことがあります」
カメラが、黒崎の顔を映した。
「今回の混乱を受け、私に強い権限を与えるべきだという声があることは承知しています」
記者たちが、一斉にペンを動かした。
黒崎は続けた。
「国民の皆さまが、不安を感じていることも理解しています」
「しかし」
黒崎は、はっきりと言った。
「私は、国民の不安を理由に、国会や司法の役割を軽くするつもりはありません」
会場が静かになった。
「危機に迅速に対応することは、政府の責任です」
「同時に、その対応が法律に基づき、検証可能であることも、政府の責任です」
黒崎は、カメラを見つめた。
「私は、強い権限を持つ総理大臣になりたいのではありません」
少し間を置いた。
「総理大臣が誰であっても、国民の生活が守られる日本を作りたいのです」
会場の後方で、シャッター音が響いた。
黒崎は続けた。
「今回、私は長期間、公務から離れました」
「それでも、政府は動き続けました。国会も、行政も、警察も、医療機関も、それぞれの役割を果たしてきました」
「私は、それを日本の強さだと思っています」
黒崎は、少し笑った。
「……私がいなければ何もできない国なら、それは改革が成功したとは言えません」
そして、静かに締めくくった。
「これからも、必要な改革を進めます。ただし、それは私一人の力で行うものではありません」
「国会で議論し、国民に説明し、間違いがあれば正す」
「その積み重ねで、日本を前へ進めたいと思います」
黒崎は、ゆっくりと頭を下げた。
「ありがとうございました」
* * *
午後0時27分。
会見終了後。
黒崎は、控室の椅子に座っていた。
額には、うっすらと汗が浮かんでいる。
小野寺が、水を差し出した。
「総理。お疲れさまでした」
「ありがとうございます」
黒崎は、水を一口飲んだ。
「……思ったより、疲れますね」
「今日は、ここまでにしましょう」
黒崎は、うなずいた。
「そうですね」
小野寺は、少し間を置いた。
「……総理」
「はい」
「会見、とてもよかったと思います」
黒崎は、少し笑った。
「……ありがとうございます」
そして、静かに続けた。
「でも、言葉だけでは足りませんね」
小野寺は、うなずいた。
「はい」
「ちゃんと、結果を出さないと」
黒崎は、窓の外を見た。
「……皆さんに、普通の生活を取り戻してもらわないといけません」
* * *
午後1時42分。
国会議事堂。
野党の神谷蒼士は、黒崎の会見を見終えていた。
隣には、宮原奈緒がいた。
「……どう思いました?」
宮原が尋ねた。
神谷は、少し考えた。
「……黒崎さんらしいですね」
宮原は、うなずいた。
「そうですね」
神谷は、資料を閉じた。
「ただ、あの言葉を本当に実現するには、これからが大変です」
「……はい」
「政府の権限を強くしないなら、今ある制度で結果を出さなければならない」
宮原は、静かにうなずいた。
「そのために、国会ができることもあります」
神谷は、少し笑った。
「……そうですね」
そして、窓の外を見た。
「黒崎さんが戻ってきた以上、こちらも遠慮はできません」
宮原は、笑った。
「最初から遠慮していないと思いますけど」
神谷も笑った。
「……確かに」
* * *
午後3時16分。
東京都内の病院。
黒崎は、予定どおり病院へ戻っていた。
診察を受け、しばらく休むよう指示される。
ベッドに横になると、身体の重さを感じた。
「……疲れた」
そのとき、スマートフォンにメッセージが届いた。
美月からだった。
『会見、見たよ』
続けて、もう一通。
『お疲れさま。ちゃんと病院に戻った?』
黒崎は、少し笑った。
『戻ったよ。今、休んでる』
すぐに返信が来た。
『よし。今日はもう仕事禁止ね』
黒崎は、笑った。
『了解』
少し考えて、もう一通送った。
『会見、変じゃなかった?』
数秒後。
『全然。玲司らしかったよ』
黒崎は、画面を見つめた。
そして、静かに息を吐いた。
「……よかった」
* * *
午後5時08分。
警視庁。
滝沢は、長峰啓介に関する捜査状況を確認していた。
「……長峰の所在は?」
「都内の事務所を出たことは確認されています。ただし、現在の所在は確認中です」
滝沢は、眉を寄せた。
「……連絡は?」
「任意の事情聴取を打診していますが、本人とはまだ直接話せていません」
「分かった」
滝沢は、資料を閉じた。
そのとき、捜査員が入ってきた。
「主任。外務省から連絡です」
「何だ?」
「海外の日本大使館への情報提供者について、進展がありました」
滝沢が顔を上げた。
「……本人の安全は?」
「現地の関係機関が、本人とみられる人物の所在を確認したそうです」
「本人と接触できたのか?」
「まだです。ただ、保護につながる可能性があるとのことです」
滝沢は、静かにうなずいた。
「……よかった」
そして、少し考えた。
「ただし、まだ安心はできないな」
「はい」
滝沢は、資料を見た。
「……本人が無事に話せる状態になれば、重要な証言が得られるかもしれない」
* * *
午後7時24分。
東京都内。
長峰啓介は、ある建物の一室にいた。
机の上には、複数の資料が並んでいる。
そのうちの一枚には、黒崎の記者会見の内容が記されていた。
『国会や司法の役割を軽くするつもりはない』
長峰は、静かにその文章を読んだ。
「……そう来たか」
向かいに座る男が尋ねた。
「計画に影響しますか?」
長峰は、少し考えた。
「……多少はな」
「どうしますか?」
長峰は、資料を閉じた。
「国民の不安が消えたわけではない」
「はい」
「黒崎が権限を拒んでも、周囲が求め続ければ、議論は終わらない」
男は、うなずいた。
「……では、予定どおり?」
長峰は、静かに答えた。
「……いや」
男が顔を上げた。
長峰は、窓の外を見た。
「少し、やり方を変える」
* * *
午後8時41分。
東京都内の病院。
美月が、黒崎の病室を訪れていた。
「……お疲れさま」
桐生美月が言った。
黒崎は、少し笑った。
「ありがとう」
美月は、椅子に座った。
「……本当に、官邸に戻ったんだね」
「うん」
「どうだった?」
黒崎は、少し考えた。
「……懐かしかった」
美月は、笑った。
「数週間しか経ってないのに?」
「そうなんだけどね」
黒崎も笑った。
「なんだか、すごく久しぶりに感じた」
美月は、黒崎の顔を見た。
「……怖くなかった?」
黒崎は、少し黙った。
「……怖かったよ」
美月は、うなずいた。
「……そっか」
黒崎は続けた。
「車に乗るときも、官邸を歩くときも、少し緊張した」
「……うん」
「でも、小野寺さんもいたし、皆さんが支えてくれたから」
美月は、静かにうなずいた。
「……よかったね」
黒崎は、少し笑った。
「うん」
美月は、黒崎の手を握った。
「……無事に戻ってきてくれて、よかった」
黒崎は、その手を握り返した。
「……ありがとう」
しばらく、二人は黙っていた。
やがて、美月が尋ねた。
「……ねえ、玲司」
「ん?」
「総理を辞めたら、本当に普通に暮らすの?」
黒崎は、少し笑った。
「……そのつもりだよ」
「忙しくなくなる?」
「今よりは、きっと」
美月は、少し考えた。
「……じゃあ、旅行とかも行けるかな」
黒崎は、うなずいた。
「行きたいね」
「どこ?」
「……美月が行きたいところ」
美月は、笑った。
「それ、ずるい」
黒崎も笑った。
「そう?」
美月は、少し照れくさそうに言った。
「……じゃあ、考えておく」
黒崎は、うなずいた。
「楽しみにしてる」
* * *
午後10時16分。
海外の日本大使館。
担当者は、現地の関係機関から連絡を受けていた。
「……本人と接触できたんですか?」
電話の向こうで、担当者が答えた。
『はい。身元確認を進めています』
「安全は?」
『現時点では、直ちに危険が迫っている状況は確認されていません。ただし、引き続き保護が必要です』
担当者は、静かに息を吐いた。
「……分かりました」
『本人は、日本政府に追加の情報を伝えたいと話しています』
「内容は?」
『直接、説明したいとのことです』
担当者は、うなずいた。
「分かりました。安全を優先して調整してください」
『承知しました』
通話が終わった。
担当者は、すぐに報告書を作成し始めた。
日本大使館に情報を持ち込んだ人物。
その人物が、ついに再び姿を現した。
* * *
午後11時38分。
東京都内の病院。
黒崎は、ベッドに横になっていた。
今日は、久しぶりに官邸へ戻った。
短い会議。
短い記者会見。
それだけで、身体はひどく疲れていた。
以前のように働くことは、まだできない。
それでも、今日できることはやった。
黒崎は、静かに目を閉じた。
そのとき、スマートフォンが震えた。
小野寺からのメッセージだった。
『海外の日本大使館への情報提供者について、本人と接触できたとの報告が入りました。明日以降、正式な情報共有が行われる見込みです』
黒崎は、画面を見つめた。
そして、ゆっくりと返信した。
『無事でよかったです。まずは安全を優先してください』
送信。
黒崎は、スマートフォンを置いた。
窓の外には、東京の夜景が広がっている。
自分がいなくても、政府は動いていた。
自分が戻っても、すべてが解決するわけではない。
だからこそ、まだやるべきことがある。
黒崎は、小さくつぶやいた。
「……一つずつ、進めよう」
そのころ。
東京の別の場所では、長峰啓介が新たな指示を出していた。
そして、海外では、日本大使館に情報を持ち込んだ人物が、次の証言に向けて準備を始めていた。
日本を揺るがした一連の事件は、ようやく、その全体像を見せ始めようとしていた。
第94話では、黒崎玲司が東京の病院から限定的に公務へ復帰し、国民に向けて記者会見を行いました。
また、海外の日本大使館に情報を持ち込んだ人物との接触が確認され、事件の全容解明に向けた動きが進んでいます。
次回、第95話『国民が望んだ独裁者』。
黒崎が強い権限を求めない姿勢を示したにもかかわらず、国民の間では、彼にさらなる権限を与えるべきだという声が広がっていきます。
そして、長峰啓介が準備する新たな動きが、国会と世論を大きく揺さぶることになります。




