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支持率0%の男が、日本を作り直すまで  作者: 霜月 七日
第4章『独裁者の最後の決断』

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第91話 独裁者への誘惑

サイバー攻撃から二十五日。

政府が偽情報を否定しても、不安は簡単には消えなかった。

社会の混乱が長引くなか、政治家や官僚の間では、危機に対応するための権限強化を求める声が広がり始める。

一方、警察と外務省は、海外の日本大使館に情報を持ち込んだ人物の行方を追っていた。

日本を守るために、どこまでの権力が必要なのか。

その問いが、黒崎玲司に突きつけられる。

2037年5月8日。

午前7時26分。

東京都内の銀行前には、開店前から三十人ほどの列ができていた。

「本当に預金は大丈夫なんですか?」

列に並ぶ男性が、警備員に尋ねた。

「政府から引き出し制限の発表はありません。詳しくは窓口でご確認ください」

「でも、ネットには内部文書が出てるんですよ」

「その文書については、金融庁が偽物だと発表しています」

男性は、納得しきれない表情を浮かべた。

「……そう言われてもなあ」

隣に並んでいた高齢の女性が口を開いた。

「私も、全部下ろそうと思って来たわけじゃないんです。ただ、生活費だけは手元に置いておきたくて」

男性は、うなずいた。

「分かります」

二人とも、政府を倒そうとしているわけではない。

ただ、明日の生活が心配だった。

午前九時。

銀行が開店した。

窓口の職員は、いつもより多い利用者を迎えながら、一人ずつ状況を説明していった。

その様子を、道路の反対側からテレビ局のカメラが撮影していた。

同じ映像が、数時間後にはまったく異なる見出しで拡散されることになる。

『国民が銀行に殺到。政府への信頼、完全崩壊』

しかし実際には、その銀行で預金の払い戻しが停止された事実はなかった。

* * *

午前9時38分。

首相官邸。

危機管理会議には、副総理、関係閣僚、警察庁、金融庁、総務省などの担当者が集まっていた。

「現在の状況を説明してください」

副総理の言葉を受け、金融庁の担当者が立ち上がった。

「昨日拡散された偽の金融庁文書について、引き続き訂正情報を発信しています。全国一律の預金引き出し制限は実施していません」

「金融機関への影響は?」

「問い合わせの増加と、一部店舗への利用者集中が見られます。ただし、現時点で金融システム全体の機能が失われている状況ではありません」

続いて、警察庁の担当者が報告した。

「偽情報の配信経路については、海外の事業者を含めて調査を進めています」

「発信者の特定は?」

「まだです」

副総理はうなずいた。

「分かりました」

そのとき、内閣官房の幹部が発言した。

「……一つ、検討していただきたいことがあります」

会議室の視線が集まった。

「今回のように、社会の混乱を目的とした情報操作が続く場合、現行制度では対応に時間がかかります」

副総理が尋ねた。

「具体的には?」

「政府が危機的状況と判断した場合、一定期間、情報発信や通信サービスに対して、より強い措置を取れる制度が必要ではないかと」

会議室が静かになった。

「……情報発信に対する措置とは?」

「例えば、政府が重大な偽情報と判断した内容について、配信事業者に即時停止を命じる権限です」

別の閣僚が尋ねた。

「裁判所の関与は?」

「緊急時には、事後審査とする案も考えられます」

副総理は、資料を閉じた。

「……現時点で、そのような制度はありませんね」

「はい。新たな法整備が必要です」

「憲法上の問題もあるでしょう」

「承知しています」

副総理は、少し考えた。

「検討資料として受け取ります。ただし、政府の正式方針ではありません」

幹部は、うなずいた。

「分かりました」

副総理は、会議室を見渡した。

「まずは、現行法でできる対応を徹底しましょう」

そして、静かに付け加えた。

「国民を守るための制度が、国民の権利を不当に制限するものになってはいけません」

* * *

午前11時04分。

警視庁。

滝沢修一(たきざわしゅういち)は、外務省から共有された新しい報告書を読んでいた。

海外の日本大使館に情報を持ち込んだ人物。

その人物が提出した資料の一部は、国内で確認された管理者番号や業務コードと一致していた。

しかし、本人とはまだ直接連絡が取れていない。

「……現地の状況は?」

滝沢が尋ねた。

捜査員が答えた。

「外務省によると、情報提供者が最後に利用したとみられる宿泊施設が確認されたそうです」

「本人は?」

「すでに退去しています」

「いつ?」

「大使館への情報提供後です」

滝沢は、資料をめくった。

「……移動先は?」

「確認中です。ただ、本人の身元が特定されるおそれがあるため、詳細は現地公館と限られた担当者で管理しています」

滝沢はうなずいた。

「それでいい」

「はい」

「国内捜査に必要な情報だけ、正式な経路で共有してもらおう」

捜査員は、別の資料を差し出した。

「それと、提供された資料の原本について、外務省が現地で確認を進めています」

「改ざんの有無か?」

「はい。記録媒体の状態、作成日時、文書の形式などを確認しています」

滝沢は、資料を見た。

そこには、三つの業務コードが並んでいた。

『JP-0412』

『A17-RESPONSE』

『PHASE2』

四月十二日のサイバー攻撃。

三枝直人への情報配信。

そして、現在進行中とみられる第二段階。

「……この資料が本物なら、かなり重要だな」

滝沢が言った。

捜査員はうなずいた。

「はい」

「ただし、内容が本物でも、書かれた計画がすべて実行されたとは限らない」

「分かっています」

滝沢は、資料を閉じた。

「……一つずつ確認しよう」

* * *

午後0時32分。

東京都内の病院。

黒崎玲司(くろさきれいじ)は、リハビリを終えて病室に戻っていた。

今日は、昨日より少し長く歩くことができた。

ただ、左側から人が近づいてくると、まだ身体がこわばる。

理学療法士からは、急がずに周囲を確認する習慣をつけるよう助言されていた。

黒崎は、ベッドに腰を下ろした。

「……疲れたな」

そのとき、ドアがノックされた。

「総理、失礼します」

秘書官の小野寺航(おのでらわたる)だった。

「お疲れさまです」

「お疲れさまです。リハビリはいかがでしたか?」

「少しずつ慣れてきました」

「それはよかったです」

小野寺は、手にしていた資料を机に置いた。

「……政府内で、ある提案が出ています」

黒崎が顔を上げた。

「何でしょう?」

「危機対応のため、内閣の権限を一時的に強化する制度の検討です」

黒崎は、少し考えた。

「……どんな権限ですか?」

「偽情報の配信停止を政府が命じる仕組みや、重要な通信サービスに対する緊急措置などです」

「裁判所は?」

「一部の案では、事後審査となっています」

黒崎は、資料を手に取った。

数ページ読み進める。

そして、顔を上げた。

「……小野寺さん」

「はい」

「これ、政府が間違えた場合はどうなるんですか?」

小野寺は、少し間を置いた。

「……事後的に救済する仕組みが必要だと思います」

「でも、一度止めた情報は、あとから訂正しても取り戻せないことがありますよね」

「はい」

黒崎は、資料を閉じた。

「……それに、何が偽情報かを政府だけで決めるのは危険です」

小野寺は、うなずいた。

「その懸念は、政府内でも指摘されています」

黒崎は、少し笑った。

「俺たちだって、間違えることはありますからね」

「はい」

「だから、政府の判断を疑える仕組みが必要なんだと思います」

黒崎は、窓の外を見た。

「……国民を守るために、国民の自由を奪う。それを簡単に認めたら、何のための改革だったのか分からなくなります」

小野寺は、静かにうなずいた。

「……承知しました」

黒崎は、資料を机に戻した。

「ただ、必要な危機対応まで否定するつもりはありません」

「はい」

「現行法でできること、足りないこと、そして新しい制度を作る場合の歯止め。その三つを分けて整理してください」

小野寺は、手帳に書き込んだ。

「分かりました」

黒崎は、少し笑った。

「……また仕事を増やしてしまいましたね」

小野寺も笑った。

「総理には、まず休んでいただきたいところですが」

「すみません」

「いえ。ただし、今日はこれで終わりです」

黒崎は、苦笑した。

「……はい」

* * *

午後2時16分。

国会議事堂。

与野党の政策担当者による協議が開かれていた。

出席者の一人、宮原奈緒(みやはらなお)は、資料を見ながら発言した。

「今回の混乱に対応するため、危機管理制度の見直しが必要だという意見は理解できます」

向かいに座る神谷蒼士(かみやそうし)がうなずいた。

宮原は続けた。

「ただし、政府が情報の真偽を一方的に判断して削除を命じる制度には、慎重であるべきです」

神谷は、資料を閉じた。

「私も同じ懸念があります」

与党側の議員が尋ねた。

「では、何もしないということですか?」

神谷は、首を横に振った。

「そうではありません」

そして続けた。

「偽の公文書を使った詐欺や業務妨害、サイバー攻撃など、現行法で対処できる行為には、きちんと対応すべきです」

宮原がうなずいた。

「そのうえで、制度が足りない部分を検証する必要があります」

神谷は、少し考えた。

「……政府に権限を与えるなら、その権限を誰が監視するのかも、同時に決めるべきでしょう」

会議室が静かになった。

神谷は続けた。

「政府が正しいときだけを想定して、法律を作るわけにはいきません」

宮原は、静かにうなずいた。

「……そのとおりだと思います」

* * *

午後4時08分。

東京都内。

東亜政策開発機構の責任者、榊原俊哉(さかきばらとしや)は、弁護士とともに警察への提出資料を整理していた。

契約書。

配信記録。

海外委託先とのメール。

榊原は、画面に表示された一通のメールを見つめた。

送信者は、梁文浩(りょうぶんこう)。

件名は『第二段階への移行条件』。

本文には、次の文章があった。

『第一段階において、政府機能の停止が限定的であった場合、社会的不信の増幅を優先する』

榊原は、ゆっくりと息を吐いた。

「……こんなものが、残っていたのか」

弁護士が尋ねた。

「このメールを受け取ったとき、内容を理解していましたか?」

榊原は、首を横に振った。

「……当時は、情報配信の方針だと思っていました」

「現在は?」

榊原は、画面を見つめた。

「……社会の混乱を利用する計画だったのかもしれません」

弁護士は、少し考えた。

「このメールも、提出しましょう」

榊原は、うなずいた。

「……はい」

そして、別のフォルダーを開いた。

そこには、三枝直人に関する記録が残っていた。

A-17。

四月十八日。

個別配信設定の変更。

榊原は、しばらくその画面を見つめた。

「……あのとき、止めていれば」

弁護士は、何も言わなかった。

榊原は、ゆっくりとパソコンを閉じた。

「……全部、話します」

* * *

午後5時49分。

東京都内の病院。

黒崎は、桐生美月(きりゅうみづき)と話していた。

「……今日は、仕事の話した?」

美月が尋ねた。

黒崎は、少し笑った。

「ちょっとだけ」

「……ちょっと?」

「本当にちょっと」

美月は、疑わしそうに黒崎を見た。

「……何分?」

「十五分くらいかな」

「……本当?」

黒崎は、苦笑した。

「たぶん」

美月は、ため息をついた。

「……もう」

黒崎は笑った。

「ごめん」

美月は、椅子に座った。

「……ニュースで見たけど、政府の権限を強くする話が出てるんだね」

黒崎は、うなずいた。

「うん。まだ検討段階だけどね」

「……玲司は、どう思う?」

黒崎は、少し考えた。

「……難しいと思う」

「難しい?」

「国民を守るために、政府が早く動かなきゃいけない場面はある」

美月は、うなずいた。

「うん」

「でも、政府が何でも決められるようになったら、それはそれで怖いでしょ」

「……そうだね」

黒崎は、少し笑った。

「俺だって、いつも正しいわけじゃないし」

美月は、黒崎を見た。

「……そこは、ちゃんと分かってるんだ」

黒崎は笑った。

「ひどいなあ」

美月も笑った。

しばらくして、美月が尋ねた。

「……玲司、総理を続けるの、怖くない?」

黒崎は、少し黙った。

そして、静かに答えた。

「……怖いよ」

美月は、黒崎を見つめた。

「……そっか」

「また誰かに襲われるかもしれないし、今度は美月が巻き込まれるかもしれない」

美月は、何も言わなかった。

黒崎は続けた。

「だから、簡単に大丈夫とは言えない」

美月は、ゆっくりとうなずいた。

「……うん」

黒崎は、少し笑った。

「でも、今すぐ辞めるかどうかを決めるのも違うと思ってる」

「……どうして?」

「まだ、やらなきゃいけないことがあるから」

美月は、黒崎の手を握った。

「……無理はしないでね」

黒崎は、うなずいた。

「うん」

そして、少し笑った。

「約束する」

* * *

午後7時31分。

警視庁。

滝沢は、榊原から提出されたメールを確認していた。

「……第二段階への移行条件」

捜査員が言った。

「かなり具体的ですね」

滝沢は、うなずいた。

「そうだな」

メールには、社会的不信を増幅するための情報配信方針が記されていた。

金融機関への不安。

物流への不信。

行政機関への疑念。

報道機関への偽情報提供。

いずれも、現在起きている事態と重なっていた。

「……このメールの送信者は、梁文浩ですね」

捜査員が尋ねた。

「表示上はそうなっている」

滝沢は、慎重に答えた。

「ただし、本人が送ったかどうかは、通信記録などで確認する必要がある」

「はい」

「それと、もう一つ」

滝沢は、メールの末尾を指さした。

そこには、短い記載があった。

『最終承認:H-3』

捜査員が顔を上げた。

「……H-3?」

「梁文浩の上に、承認者がいた可能性がある」

滝沢は、資料を閉じた。

「……調べよう」

* * *

午後9時12分。

海外の日本大使館。

担当者は、情報提供者の安否確認について、新たな報告を受けていた。

「……本人と接触できたんですか?」

「いいえ。ただ、本人が残したとみられる連絡が確認されました」

「内容は?」

担当者は、画面を見た。

短い文章が表示されていた。

『資料は、まだ全部ではありません』

その下に、もう一行。

『梁文浩は、最終決定者ではない』

担当者は、息をのんだ。

「……これは」

同僚が尋ねた。

「どうしますか?」

担当者は、すぐに答えた。

「まず、本人からの連絡であることを確認してください」

「はい」

「確認が取れれば、外務省に報告します」

担当者は、画面を見つめた。

さらに、最後の一文があった。

『日本政府に伝えてください。次の攻撃は、政府の対応そのものを利用します』

担当者は、表情を引き締めた。

「……急ぎましょう」

* * *

午後10時48分。

東京都内の病院。

黒崎は、ベッドに横になっていた。

今日も、身体は疲れていた。

左目は見えない。

傷も、まだ痛む。

だが、少しずつ歩けるようになっている。

美月とも会えた。

東京に戻ってきた。

黒崎は、静かに目を閉じた。

そのとき、スマートフォンが震えた。

小野寺からのメッセージだった。

『明日、政府内で危機対応権限に関する協議が予定されています。総理のご意見について、正式に確認したいとのことです』

黒崎は、画面を見つめた。

政府に、もっと強い権限を与える。

危機を理由に、国民の自由を制限する。

それが必要だという人もいる。

だが、一度与えられた権限は、簡単には戻らない。

黒崎は、ゆっくりと返信した。

『分かりました。医師の許可を得られる範囲で説明を受けます』

送信。

そして、スマートフォンを置いた。

「……難しいな」

黒崎は、小さくつぶやいた。

日本を変えるために、総理大臣になった。

しかし、日本を変えることと、日本を自分の思いどおりに動かすことは違う。

黒崎は、窓の外を見た。

東京の夜景が広がっている。

その街で、今日も多くの人が普通に暮らしている。

銀行へ行く人。

仕事をする人。

家族と食事をする人。

明日の生活を心配する人。

黒崎は、静かに考えた。

守るべきものは、総理大臣の権力ではない。

国民が、自分の生活を自分で決められる社会だ。

「……忘れないようにしないとな」

黒崎は、そうつぶやいて目を閉じた。

そのころ、海外の日本大使館から、新たな情報が日本へ送られようとしていた。

そして、その情報は、黒崎が翌日向き合うことになる議論を、大きく変える可能性を秘めていた。

第91話では、危機対応を理由とした政府権限の強化が議論され、黒崎はその必要性と危険性の両方に向き合いました。

また、日本大使館への情報提供者からとみられる新たな連絡が確認され、事件の指示系統に関する疑問が深まっています。

次回、第92話『非常事態の国会』。

政府の権限強化を求める声が国会に広がる一方、海外から届いた情報が、捜査と政治の両方に影響を与え始めます。

黒崎は病室から、自らの考えを政府と国会に伝えることになります。

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