第90話 日本への最後の攻撃
2037年5月7日。
黒崎玲司が東京へ戻って二日。
日本国内では、サイバー攻撃の影響が残るなか、政府や金融機関に関する不審な情報が広がり始めていた。
一方、海外の日本大使館には、ある人物が残した情報が保管されていた。
これまで別々に進んでいた捜査と外交上の情報収集が、ようやく一つにつながろうとしている。
2037年5月7日。
午前6時18分。
東京都内のコンビニエンスストアで、店長の男性がレジの画面を見つめていた。
「……またか」
キャッシュレス決済の一部が、断続的に利用できなくなっていた。
四月十二日のサイバー攻撃以降、決済事業者のシステムは段階的に復旧していた。
だが、完全に安定したわけではない。
店長は、レジ横に置いた案内を見直した。
『一部決済サービスが利用できない場合があります』
そこへ、出勤途中の女性が入ってきた。
「すみません。電子マネー、使えますか?」
「今は使えると思いますが、途中で止まることがありまして」
「そうなんですね……」
女性は、財布から現金を取り出した。
そのとき、店内のテレビからニュースが流れた。
『政府は、本日午前、金融機関の預金引き出しに制限を設けるとの情報について、事実ではないと発表しました』
店長は、テレビを見上げた。
「……預金の引き出し制限?」
女性も足を止めた。
「えっ、そんな話が出てるんですか?」
ニュースは続いた。
『SNSでは昨夜から、政府の内部文書を装った画像が拡散しています。金融庁は、預金の一律引き出し制限を決定した事実はないと説明しています』
店長は、ため息をついた。
「……勘弁してほしいな」
女性は、スマートフォンを取り出した。
すでに家族からメッセージが届いていた。
『銀行、大丈夫なの?』
女性は、返信に迷った。
何が本当なのか、分からなかった。
* * *
午前7時32分。
首相官邸。
副総理を中心とする危機管理会議が開かれていた。
大型モニターには、国内の金融機関と物流事業者の状況が表示されている。
「昨夜から拡散している文書ですが、金融庁の正式な決裁文書ではありません」
担当者が説明した。
「書式は似ていますが、文書番号が実在せず、記載された担当部署名にも誤りがあります」
副総理は尋ねた。
「金融機関の実際の状況は?」
「一部の決済サービスで障害が継続しています。ただし、現時点で全国一律の預金引き出し制限を必要とする状況ではありません」
「銀行の窓口は?」
「問い合わせが急増しています。一部の店舗では開店前から利用者が並んでいます」
副総理は、うなずいた。
「各金融機関と連携し、確認できた事実を速やかに公表してください」
「承知しました」
別の担当者が発言した。
「物流関係でも、偽の配送停止通知が出回っています」
「内容は?」
「政府の命令で食料品の配送を停止するというものです」
副総理は、眉を寄せた。
「そのような命令は出していませんね」
「はい」
「ならば、そう説明しましょう」
担当者が続けた。
「ただ、実際に一部の配送遅延が発生しています。そのため、偽情報を信じる人が増えているようです」
副総理は、少し考えた。
「……そこが厄介ですね」
完全な嘘なら、否定は比較的簡単だ。
だが、現実の障害に嘘を混ぜられると、人々は判断しづらくなる。
「復旧していない部分は、復旧していないと伝えてください」
副総理が言った。
「そのうえで、政府が実施していない措置を明確に否定する。都合の悪い事実まで隠せば、かえって信用を失います」
会議室の全員がうなずいた。
* * *
午前9時06分。
警視庁。
滝沢修一は、徹夜で解析を進めていた捜査員から報告を受けた。
「主任。昨夜から拡散している偽の金融庁文書ですが、配信経路の一部が分かりました」
「どこからだ?」
「複数のSNSアカウントを経由しています。ただ、最初期の投稿に添付されていた短縮URLが、東亜政策開発機構の配信システムで使われていたものと同じ管理基盤を利用しています」
滝沢は、資料を見た。
「……またEX-04か?」
「いいえ。今回は別の管理者番号です」
「番号は?」
「EX-09です」
滝沢は、顔を上げた。
「新しいアカウントか」
「四月から存在していましたが、これまで大きな配信には使われていませんでした」
「管理責任者は?」
「契約上は海外委託先です。ただし、実際の操作者は不明です」
滝沢は、椅子に座った。
「……昨夜の配信が、例の第二段階なのか」
捜査員は、首を横に振った。
「まだ断定できません」
「そうだな」
滝沢は、資料をめくった。
そのとき、別の捜査員が入ってきた。
「主任。警察庁から連絡です」
「何だ?」
「外務省経由で、海外の日本大使館に寄せられた情報提供について、照会がありました」
滝沢は、顔を上げた。
「……大使館?」
「はい。今回の情報操作と関係する可能性があるそうです」
「いつの情報だ?」
「以前に提供されたものです。現地で保管されていた資料の一部について、国内の捜査資料と照合できないかという依頼です」
滝沢は、少し考えた。
「……内容は?」
捜査員は、慎重に答えた。
「情報提供者の保護に関わるため、現時点では詳細が限られています」
滝沢は、うなずいた。
「分かった。警察庁を通して正式に確認しよう」
大使館に情報を持ち込んだ人物。
その存在は、国内の捜査記録とは別の経路で確認されたものだった。
誰なのか。
今どこにいるのか。
どのような立場で情報を入手したのか。
滝沢には、まだ分からない。
ただ、一つだけ確かなことがあった。
日本の外にも、この計画について何かを知る人物がいる。
* * *
午前10時41分。
東京都内の病院。
黒崎玲司は、リハビリ室で歩行訓練をしていた。
「左側の壁との距離を確認しましょう」
理学療法士が声をかけた。
黒崎は、ゆっくりと歩いた。
右目で前方を確認し、必要に応じて顔を左へ向ける。
以前なら無意識にできていたことを、一つずつ確かめる。
「……このくらいですか?」
「はい。いいですね」
黒崎は、数歩進んだ。
そのとき、廊下の向こうで金属製の器具が落ちる音がした。
大きな音。
黒崎の身体が、反射的にこわばった。
足が止まる。
呼吸が浅くなる。
「……黒崎さん?」
理学療法士が声をかけた。
黒崎は、数秒かけて周囲を確認した。
病院の廊下。
白い壁。
目の前にいる医療スタッフ。
襲撃現場ではない。
「……すみません」
黒崎は、ゆっくりと息を吐いた。
「ちょっと、びっくりしました」
「大丈夫です。少し休みましょう」
黒崎は、うなずいた。
椅子に座ると、胸のあたりに手を当てた。
傷が痛むわけではない。
だが、あの日の記憶が突然よみがえることがあった。
「……なかなか、簡単には戻りませんね」
理学療法士は、静かに答えた。
「身体も気持ちも、回復には時間が必要です」
黒崎は、少し笑った。
「そうですね」
数分後。
黒崎は、もう一度立ち上がった。
「……続けてもいいですか?」
「もちろんです。無理のない範囲で」
黒崎は、うなずいた。
そして、ゆっくりと歩き始めた。
* * *
午後0時18分。
外務省。
警察庁と外務省の担当者が、非公開の協議を行っていた。
机の上には、海外の日本大使館から送られた報告書が置かれている。
情報提供者が持ち込んだ資料について、現地の担当者が作成した記録だった。
「……提供者本人の安全は確認できていますか?」
警察庁の担当者が尋ねた。
外務省の担当者は、首を横に振った。
「最後に直接接触できた時点以降の状況は、確認中です」
「所在は?」
「本人の保護に関わるため、限られた担当者しか把握していません。現地公館でも情報を分けて管理しています」
警察庁の担当者は、うなずいた。
「資料の内容は?」
「一部に、海外の情報関連企業と日本国内の委託先との連絡記録が含まれています」
「……華龍国際情報研究有限公司ですか?」
外務省の担当者が顔を上げた。
「その名前は、国内の捜査でも出ているんですか?」
「はい」
会議室に、短い沈黙が落ちた。
外務省の担当者は、報告書を開いた。
「……では、照合する価値があります」
そこには、複数の管理者番号と、業務上の連絡先が記されていた。
EX-04。
そして。
EX-09。
警察庁の担当者が、資料を指さした。
「……この番号は、今朝の偽情報配信で確認されています」
外務省の担当者は、息をのんだ。
「……本当ですか?」
「はい。ただし、同じ番号があるだけでは、資料の真偽は確定できません」
「分かっています」
警察庁の担当者は、続けた。
「原資料の確認と、提供者がどのように入手したかの確認が必要です」
外務省の担当者は、うなずいた。
「現地公館と連絡を取ります」
* * *
午後2時07分。
東京都内の病院。
黒崎は、医師の許可を得て、政府の危機管理担当者から短時間の報告を受けていた。
同席しているのは、秘書官の小野寺航。
「……金融機関に関する偽情報が拡散しているんですね」
黒崎が確認した。
「はい」
「実際の障害は?」
「一部の決済サービスで継続しています。ただし、預金引き出しの一律制限は実施していません」
黒崎は、うなずいた。
「国民には、事実を分けて説明してください」
「はい」
「障害が残っていることも、隠さずに」
「承知しています」
黒崎は、少し考えた。
「……それと、金融機関の窓口で混乱が起きているなら、現場の職員への支援も必要ですね」
担当者は、うなずいた。
「金融庁を通して、各金融機関と調整しています」
「お願いします」
小野寺が、資料を一枚差し出した。
「総理。もう一点、警察庁と外務省が確認している情報があります」
黒崎は、顔を上げた。
「何でしょう?」
「海外の日本大使館に寄せられた情報提供について、国内の捜査資料との接点が見つかりました」
黒崎は、少し驚いた。
「……大使館に?」
「はい」
「情報提供者は、無事なんですか?」
小野寺は、少し間を置いた。
「現時点では、最新の状況を確認中です」
黒崎は、表情を引き締めた。
「……そうですか」
そして、静かに続けた。
「まずは、その人の安全を優先してください」
「はい」
「情報が重要だからといって、本人を危険にさらすわけにはいきません」
小野寺は、うなずいた。
「外務省も同じ方針です」
黒崎は、資料を見た。
「……その情報で、今回の事件の全容が分かる可能性は?」
「まだ判断できません。ただ、国内で確認された管理者番号と一致する記載があります」
黒崎は、少し考えた。
「分かりました。確認を進めてください」
「はい」
黒崎は、資料を閉じた。
「それと、小野寺さん」
「はい」
「この件は、まだ公表しない方がいいですね」
「はい。情報提供者の安全と、資料の真偽確認が必要です」
黒崎は、うなずいた。
「……お願いします」
* * *
午後4時36分。
東京都内。
野党の神谷蒼士は、記者会見を開いていた。
記者から質問が飛ぶ。
「政府の危機管理対応について、どう評価していますか?」
神谷は、落ち着いた声で答えた。
「政府には、正確な情報を迅速に出していただきたいと思います」
「黒崎政権への批判は?」
「政策への批判は、これまでどおり行います」
神谷は、続けた。
「消費税率の引き下げに必要な財源についても、十分な説明が必要です。行政改革の削減効果についても、実績と見込みを分けて検証すべきです」
記者たちは、メモを取った。
「ただし」
神谷は、少し声を強めた。
「根拠のない情報で国民を不安にさせる行為には、与党も野党もありません」
会場が静かになった。
「政府を批判する自由は守られるべきです。しかし、偽の公文書を作って混乱を広げることは、別の問題です」
記者が尋ねた。
「政府への協力を続けるということですか?」
神谷は、うなずいた。
「国民生活を守るために必要な協力はします」
そして、静かに付け加えた。
「それと、政府の政策を検証することは、両立できます」
* * *
午後6時22分。
警視庁。
滝沢は、警察庁から共有された大使館関連の資料を確認していた。
資料の冒頭には、提供者の身元に関する記載があった。
ただし、国内捜査チームへ共有された写しでは、その部分は伏せられている。
滝沢は、管理者番号の一覧を見た。
EX-04。
EX-09。
その横には、複数の業務コードが記されていた。
『JP-0412』
『A17-RESPONSE』
『PHASE2』
滝沢は、顔を上げた。
「……三つとも、国内の記録に出ている」
捜査員がうなずいた。
「はい」
「資料は、いつ大使館に持ち込まれた?」
「四月十二日のサイバー攻撃より前です」
滝沢の手が止まった。
「……前?」
「はい。正確な日付は、原本の確認を待っています」
滝沢は、しばらく黙った。
四月十二日より前に、三つの業務コードが記された資料が存在していた。
そのうちの一つは、四月十八日に変更された三枝の配信設定と関連する可能性がある。
「……もし日付が正しいなら」
滝沢が言った。
「少なくとも、かなり早い段階から計画されていたことになる」
「はい」
滝沢は、資料を置いた。
「ただし、これをそのまま証拠とは扱えない」
「分かっています」
「原本の確認と、提供者の説明が必要だ」
滝沢は、窓の外を見た。
「……その人が無事ならいいが」
* * *
午後8時03分。
東京都内の病院。
美月が、黒崎の病室を訪れていた。
「……今日はどうだった?」
桐生美月が尋ねた。
黒崎は、少し笑った。
「リハビリ、頑張ったよ」
「本当?」
「うん。結構歩いた」
「すごいじゃん」
美月は、椅子に座った。
「……仕事は?」
黒崎は、少し困ったように笑った。
「短い報告を受けただけ」
「本当に?」
「本当だって」
美月は、黒崎の顔を見た。
「……ニュース、見た?」
黒崎は、うなずいた。
「少しね」
「銀行の話、怖いね」
「うん」
「何が本当なのか、分からなくなる」
黒崎は、少し考えた。
「……そうだね」
美月は、続けた。
「私の職場でも、朝からその話ばっかりだったよ」
「そうなんだ」
「家族に現金を下ろしておいた方がいいって言われた人もいたみたい」
黒崎は、静かにうなずいた。
「……不安になるよね」
美月は、黒崎を見た。
「玲司は、どうするの?」
黒崎は、少し笑った。
「……今は、病院でちゃんと治す」
美月は、驚いたように目を丸くした。
そして笑った。
「……それ、正解」
黒崎も笑った。
「でしょ?」
美月は、黒崎の手を握った。
「……ちゃんと治してね」
「うん」
黒崎は、うなずいた。
「約束する」
* * *
午後9時41分。
海外の日本大使館。
夜の館内で、担当者が一通の連絡を受けていた。
情報提供者に関する照会への回答だった。
担当者は、画面を読み進めた。
そして、表情を変えた。
「……確認できたのか」
そこには、情報提供者が最後に確認された場所と、その後の移動に関する情報が記されていた。
ただし、本人と直接連絡が取れたわけではない。
担当者は、すぐに上司へ報告した。
「……提供者の所在につながる情報が入りました」
「本人の安全は?」
「まだ確認できていません」
「分かった。現地の関係機関と連携しよう」
担当者は、うなずいた。
「はい」
そのとき、別の職員が声をかけた。
「……提供された資料について、国内から照合結果が届いています」
「何と?」
「複数の管理者番号と業務コードが一致したそうです」
担当者は、静かに息を吐いた。
「……そうか」
そして、保管庫の方を見た。
そこには、情報提供者が持ち込んだ資料の原本が保管されていた。
まだ、その人物が何者なのかは、明らかになっていない。
なぜ日本大使館を選んだのか。
なぜ、危険を冒してまで情報を渡したのか。
そして、今どこにいるのか。
答えは、まだ出ていなかった。
だが、その資料は確実に、日本の捜査を前へ進めていた。
* * *
午後11時17分。
華龍人民共和国。
梁文浩は、部下から報告を受けていた。
「……日本側の情報公開が、予想より早いです」
梁は、うなずいた。
「そうか」
「偽の金融庁文書についても、すでに否定されています」
「金融機関の状況は?」
「問い合わせは増えていますが、大規模な取り付け騒ぎには至っていません」
梁は、少し考えた。
「……政府が機能しているな」
部下は、黙っていた。
梁は、机の上の資料を閉じた。
「情報だけでは足りないか」
そのとき、別の端末に通知が届いた。
梁は、画面を確認した。
そこには、短い文章が表示されていた。
『日本大使館への情報提供者について、再調査が必要』
梁の表情が変わった。
「……まだ生きているのか?」
部下が顔を上げた。
「……何のことでしょうか?」
梁は、すぐには答えなかった。
そして、静かに言った。
「……計画を知っている人間が、まだ一人いる」
「……誰ですか?」
梁は、画面を閉じた。
「それを確認する」
部下は、うなずいた。
梁は、窓の外を見た。
日本では、政府が偽情報への対応を続けている。
警察は、配信システムの記録を調べている。
そして、日本大使館に情報を持ち込んだ人物の存在が、再び浮かび上がっていた。
梁は、低い声で言った。
「……時間がなくなってきたな」
その夜。
日本への第二段階の工作は、まだ終わっていなかった。
しかし、計画を進める側にも、想定外の事態が起き始めていた。
第90話では、金融機関や物流に関する偽情報が拡散され、日本政府が対応に追われました。
また、以前に日本大使館へ情報を持ち込んだ人物について、国内捜査との接点が明らかになりました。人物の身元や安否については、引き続き重要な伏線として扱います。
次回、第91話『独裁者への誘惑』。
社会の混乱を受け、政府内では非常時の権限強化を求める声が上がり始めます。
その提案を前に、黒崎玲司は、自分が何のために日本を変えようとしてきたのかを問い直すことになります。




