第89話『国家を揺るがす証拠』
東京に戻った黒崎玲司は、入院治療を続けながら、少しずつ日常を取り戻そうとしていた。
一方、警視庁では、総理襲撃事件とサイバー攻撃を調べる捜査員たちが、膨大な記録の照合を進めていた。
二つの事件は、本当に無関係なのか。
その疑問に答える手がかりが、ようやく見つかる。
だが、証拠が示していたのは、過去の事件だけではなかった。
2037年5月6日。
午前7時42分。
東京都内の病院。
黒崎玲司は、ベッドの上で朝食を取っていた。
焼き魚。
味噌汁。
白いご飯。
特別なものは何もない。
それでも、黒崎には久しぶりに落ち着いた朝だった。
「……うん。おいしい」
左側に置かれた小鉢に気づかず、箸を伸ばしかけて手が止まった。
黒崎は、少し身体を動かして位置を確認した。
「……まだ慣れないな」
左目の視力を失ってから、日常の小さな動作にも時間がかかるようになった。
物の位置を確かめる。
人が近づく方向に注意する。
廊下を歩くときは、左側の障害物を意識する。
以前なら考えもしなかったことばかりだった。
だが、できないことを数えていても仕方がない。
黒崎は、小鉢を手元に寄せた。
「……よし」
食事を終えたころ、ドアがノックされた。
「総理、おはようございます」
秘書官の小野寺航だった。
「おはようございます。早いですね」
「本日の予定を確認しに来ました」
「ありがとうございます」
小野寺は、手帳を開いた。
「午前中は診察とリハビリです。午後は、医師の許可があれば短時間の報告を予定しています」
黒崎は、うなずいた。
「分かりました」
「ただし、体調次第では中止します」
「はい」
小野寺は、少し疑わしそうに黒崎を見た。
黒崎は笑った。
「……ちゃんと守りますよ」
「お願いします」
「小野寺さん、最近そればっかりですね」
「総理が無理をされなければ、私も言わずに済みます」
黒崎は、苦笑した。
「……それはそうですね」
* * *
午前9時18分。
警視庁。
滝沢修一は、解析担当者から報告を受けていた。
「……北辰デジタルサービスから提出された配信記録について、照合が進みました」
「何か分かったか?」
「はい。四月十一日に作成された政治情報サイトの公開予約です」
滝沢は、画面を見た。
そこには、複数の記事の下書きが並んでいた。
『物流システム障害による混乱』
『政府の危機管理能力に疑問』
『黒崎政権への批判拡大』
「……障害が発生する前に、これを準備していたんだな」
「はい」
「単なる予測記事の可能性は?」
「あります。ただ、今回、別の記録が見つかりました」
解析担当者は、画面を切り替えた。
そこには、ファイルの更新履歴が表示されていた。
四月十一日、午後十一時二十八分。
ファイル名。
『JP-DISRUPTION_0412』
滝沢は、眉を寄せた。
「……これは?」
「政治情報サイトの公開予定を管理するための設定ファイルです」
「中身は?」
「複数の配信予定と、対象となる業界が記載されています」
画面に、一覧が表示された。
物流。
決済。
小売。
行政手続き。
滝沢は、しばらく黙った。
「……実際に障害が発生した分野と重なっているな」
「はい」
「作成者は?」
「外部管理者アカウント、EX-04です」
滝沢は、椅子に深く座り直した。
EX-04。
政治情報サイトの公開予約を設定したアカウント。
三枝直人への個別配信を設定したアカウント。
契約上の管理責任者は、梁文浩。
しかし、実際の操作者はまだ特定されていない。
「……このファイルだけでは、サイバー攻撃の実行を指示した証拠にはならないな」
滝沢が言った。
「はい」
「ただ、攻撃が起きることを知っていた可能性は、かなり高くなった」
解析担当者はうなずいた。
「さらに、もう一つあります」
「何だ?」
画面に、別のファイルが表示された。
『PHASE2_PREP』
滝沢は、目を細めた。
「……第二段階?」
「はい。ただし、ファイル本体は削除されていて、名前と一部の更新履歴しか残っていません」
「更新日時は?」
「五月四日です」
滝沢の表情が変わった。
「……二日前か」
「はい」
「今も、何かを準備している可能性があるな」
滝沢は、立ち上がった。
「関係機関に共有しよう。まずは、残っている記録を確保する」
* * *
午前10時46分。
東京都内。
元財務事務次官の久世隆臣は、自宅の書斎で古い資料を整理していた。
昨日、警察に提出した資料の控え。
東亜政策開発機構の会合記録。
海外企業との契約に関する説明資料。
久世は、一枚の書類を手に取った。
そこには、昨年十二月の会合出席者が記されていた。
榊原俊哉。
真鍋宗一郎。
梁文浩。
そして、自分の名前。
久世は、ため息をついた。
「……何を考えていたんだ、私は」
黒崎政権の改革には、今でも疑問がある。
財政の持続可能性。
消費税率引き下げに必要な財源。
行政支出削減の実効性。
政治家としての黒崎を、全面的に支持しているわけではない。
だが、だからといって、外国の組織が日本の世論を操作してよい理由にはならない。
久世は、資料をめくった。
そこに、一枚の請求書が挟まっていた。
発行元は、東亜政策開発機構。
請求先は、シンガポールの情報サービス会社。
業務名は、政策影響分析。
金額は、八千四百万円。
久世は、眉を寄せた。
「……こんな金額だったのか」
自分が関わった会合は、数回にすぎない。
それほど大規模な調査をしているとは聞いていなかった。
久世は、請求書を机に置いた。
そして、警察へ連絡した。
* * *
午後0時24分。
警視庁。
滝沢は、久世から送られてきた請求書の写しを確認していた。
「……八千四百万円」
捜査員が言った。
「通常の調査費用としては、かなり大きいですね」
滝沢は、うなずいた。
「ただ、調査の規模や内容によっては、あり得ない金額ではない」
「はい」
「問題は、実際に何の業務に使われたかだ」
捜査員は、資料をめくった。
「東亜政策開発機構の会計資料では、この入金の一部が北辰デジタルサービスへの支払いに充てられています」
「配信システムの開発費か」
「はい」
「ほかには?」
「外部分析費、海外委託費、それから……」
捜査員は、少し言葉を止めた。
「……緊急対応費という項目があります」
滝沢が顔を上げた。
「緊急対応費?」
「はい。四月十日付です」
サイバー攻撃の二日前だった。
「金額は?」
「一千二百万円です」
滝沢は、資料を見つめた。
「……支払先は?」
「北辰デジタルサービスです」
「内容は?」
「『配信基盤の臨時増強』となっています」
滝沢は、少し考えた。
「……サイバー攻撃の前に、政治情報を大量配信できるよう準備していた可能性があるな」
「はい」
「ただし、これも攻撃の実行を示すものではない」
滝沢は、資料を閉じた。
「北辰側に、増強の目的と作業内容を確認しよう」
* * *
午後1時36分。
東京都内の病院。
黒崎は、リハビリを終えて病室に戻っていた。
左側の障害物を確認しながら歩く練習。
階段の昇降。
物を取るときの距離感。
どれも、簡単ではなかった。
だが、昨日より少しだけ動きがよくなっている。
黒崎は、椅子に座った。
「……疲れた」
そのとき、ドアがノックされた。
「総理、失礼します」
小野寺だった。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです。診察はどうでしたか?」
「問題ないそうです。ただ、まだ無理はしないようにって」
「それはよかったです」
小野寺は、持っていた資料を机に置いた。
「……政府から、重要な報告があります」
黒崎は、顔を上げた。
「何かありましたか?」
「四月十二日から続いているサイバー攻撃について、新たな情報が見つかりました」
黒崎は、姿勢を正した。
「聞かせてください」
小野寺は、説明を始めた。
政治情報配信サイトの管理記録。
サイバー攻撃の前日に準備されていた記事。
四月十八日の三枝への個別配信設定。
そして、海外企業との関係。
黒崎は、途中で何度か質問した。
「……つまり、攻撃と偽情報の拡散に、共通する管理者アカウントが使われていたんですね」
「はい」
「ただし、攻撃を実行した人物までは分かっていない」
「そのとおりです」
黒崎は、うなずいた。
「……分かりました」
少し考えてから、続けた。
「政府としては、まず国民生活への影響を抑えることを優先してください」
「はい」
「捜査については、警察と関係機関に任せましょう。私が口を出すべきではありません」
小野寺は、うなずいた。
「承知しています」
黒崎は、資料を見た。
「それと、海外企業の名前が出ているようですが……」
「はい」
「それだけで、特定の国が攻撃したと発表しないでください」
「分かっています」
黒崎は、少し息を吐いた。
「……こういうときほど、間違った情報が広がりやすいですから」
小野寺は、静かにうなずいた。
「はい」
黒崎は、資料を閉じた。
「ありがとうございます。続きは、政府の正式な報告を待ちます」
* * *
午後3時11分。
東京都内。
東亜政策開発機構の事務所。
榊原俊哉は、警察からの連絡を受けていた。
「……事情聴取ですか」
電話の向こうで、担当者が説明する。
榊原は、静かにうなずいた。
「分かりました。弁護士と相談のうえ、日程を調整します」
通話を切った。
机の上には、契約書と会計資料が並んでいた。
その中に、海外の委託先とのメールがある。
送信者、梁文浩。
件名、『配信運用の変更』
榊原は、メールを開いた。
『日本国内の状況に応じ、情報配信の優先順位を変更する』
それ自体は、調査の運用指示として読める文章だった。
だが、添付された資料には、対象者別の行動予測が記されていた。
A-17。
三枝直人。
榊原は、その名前を見つめた。
「……どうして、こんなことになった」
自分は、調査の委託元として業務を進めていた。
だが、いつの間にか、調査の目的が変わっていた。
政治情報を届ける。
反応を測る。
行動を予測する。
そして、その予測に合わせて、さらに情報を届ける。
榊原は、椅子に深く座った。
「……俺も、全部知っていたわけじゃない」
だが、知らなかったことが、責任を免れる理由になるとは限らない。
榊原は、しばらく考えた。
そして、パソコンを開いた。
警察へ提出する資料を整理し始めた。
* * *
午後5時02分。
警視庁。
滝沢は、解析担当者から新たな報告を受けていた。
「主任。PHASE2_PREPについて、追加の情報が見つかりました」
滝沢が顔を上げた。
「何だ?」
「削除されたファイルの一部が、別のバックアップに残っていました」
「中身は?」
「完全ではありません。ただ、複数の項目が確認できます」
画面に、短い一覧が表示された。
PHASE2_PREP
・金融決済に関する情報混乱
・物流供給への不安拡大
・行政機関への信頼低下
・報道機関への偽情報提供
滝沢は、画面を見つめた。
「……実際の攻撃計画なのか?」
解析担当者は、首を横に振った。
「現時点では分かりません。情報発信の計画かもしれませんし、別の目的で作られた資料かもしれません」
滝沢は、うなずいた。
「分かった」
そのとき、別の捜査員が入ってきた。
「主任。北辰デジタルサービスの技術担当者から、連絡がありました」
「何だ?」
「四月十一日の配信基盤増強について、説明したいそうです」
滝沢は、顔を上げた。
「……何か問題が?」
「はい。担当者によると、通常の広告配信とは異なる設定変更があったようです」
「どんな変更だ?」
捜査員は、メモを見た。
「『障害発生時の情報配信を自動化する設定』だったそうです」
滝沢は、しばらく黙った。
「……障害発生時?」
「はい」
「何の障害だ?」
「そこは、まだ確認できていません」
滝沢は、立ち上がった。
「……すぐに話を聞こう」
* * *
午後6時38分。
東京都内の病院。
黒崎は、美月と病室で話していた。
「……今日はリハビリ、どうだった?」
美月が尋ねた。
「昨日よりは、少しよくなったかな」
「本当?」
「うん。左側の距離感はまだ難しいけどね」
美月は、うなずいた。
「焦らなくていいよ」
黒崎は、少し笑った。
「分かってるよ」
美月は、黒崎の顔を見た。
「……仕事、してない?」
黒崎は、少し困ったように笑った。
「短い報告は受けたよ」
「……やっぱり」
「でも、ちゃんと許可をもらってる」
美月は、ため息をついた。
「本当に?」
「本当だって」
二人は笑った。
しばらくして、美月が尋ねた。
「……玲司、東京に戻ってきて、どう?」
黒崎は、少し考えた。
「……安心したかな」
「そっか」
「美月にも会えたし」
美月は、少し照れくさそうに笑った。
「……それは、私も」
黒崎は、窓の外を見た。
「ただ、まだ外を歩くのは怖いかもしれない」
美月は、静かにうなずいた。
「……うん」
「左側が見えないのもあるし、急に誰かが近づいてくると、ちょっとね」
美月は、黒崎の手を握った。
「……無理しなくていいよ」
黒崎は、うなずいた。
「ありがとう」
美月は、少し笑った。
「定食は、いつでも待ってるから」
黒崎も笑った。
「そうだね」
「ちゃんと元気になってから行こう」
「うん」
黒崎は、美月の手を握り返した。
「……楽しみにしてる」
* * *
午後8時17分。
警視庁。
滝沢は、北辰デジタルサービスの技術担当者から説明を受けていた。
「……四月十一日の設定変更について、詳しく教えてください」
担当者は、ノートパソコンを開いた。
「通常、私たちの配信システムは、記事を指定した時刻に公開する仕組みです」
「はい」
「ですが、四月十一日に追加された設定は、外部からの通知を受けて記事を公開する方式でした」
滝沢は、顔を上げた。
「……外部からの通知?」
「はい。特定の条件が成立すると、記事を自動公開する設定です」
「条件は何だったんですか?」
担当者は、画面を示した。
「……外部システムからの通知です。通知内容は、こちらでは分かりません」
滝沢は、画面を見た。
「……その通知は、四月十二日に届いたんですか?」
「はい」
「時刻は?」
「午前八時四十六分です」
滝沢は、資料を確認した。
四月十二日。
物流関連の障害が、複数の事業者で確認され始めた時間帯。
「……通知の送信元は?」
担当者は、首を横に振った。
「直接の送信元は、外部の中継サービスです」
「その先は?」
「私たちの契約範囲では確認できません」
滝沢は、うなずいた。
「分かりました」
担当者は、少し迷ったあとで続けた。
「……ただ、一つ気になることがあります」
「何ですか?」
「通知が届いたあと、記事が自動公開されるまで、ほとんど時間がかかっていません」
「つまり?」
「障害に関する記事が、事前に完成していたということです」
滝沢は、静かに息を吐いた。
「……分かりました」
そして、捜査員に目を向けた。
「中継サービスの記録を確認しよう」
* * *
午後9時53分。
華龍人民共和国。
梁文浩は、部下から報告を受けていた。
「……日本側の捜査が、配信システムの自動公開設定まで進みました」
梁は、うなずいた。
「そうか」
「外部通知の送信元についても、調べているようです」
梁は、少し考えた。
「……記録は?」
「一部残っています」
「消す必要はない」
梁は、落ち着いた声で答えた。
部下は、少し驚いた。
「……よろしいのですか?」
「今さら消しても、意味がない」
梁は、机の上の資料を見た。
そこには、四月十二日のサイバー攻撃に関する報告書があった。
「……第一段階は、予定どおりには進まなかった」
部下は、黙っていた。
梁は続けた。
「物流の混乱は起きた。だが、政府は機能を維持し、国民生活も完全には止まらなかった」
「……はい」
「そして、黒崎も生き残った」
梁は、少し笑った。
「……想定外が続いているな」
部下が尋ねた。
「第二段階は、予定どおり進めますか?」
梁は、資料を閉じた。
「……進める」
「承知しました」
「ただし、方法を変える」
部下が顔を上げた。
「……方法を?」
梁は、静かに答えた。
「システムを止めるだけでは足りない」
そして、続けた。
「国民に、何を信じればいいのか分からなくさせる」
* * *
午後11時08分。
東京都内の病院。
黒崎は、消灯前の病室で窓の外を眺めていた。
東京の夜景。
車のライト。
遠くのビルの明かり。
以前と変わらない街。
だが、その裏側では、まだ多くの人が復旧作業を続けている。
物流。
決済。
行政サービス。
黒崎は、静かに考えた。
自分が襲撃されてから、政府は止まらなかった。
副総理を中心に、各省庁が対応を続けた。
国会では、与野党が協議している。
自分がいなくても、国は動いていた。
それは、総理大臣として喜ぶべきことだった。
黒崎は、少し笑った。
「……ちゃんと動いてるんだな」
そのとき、スマートフォンが震えた。
小野寺からのメッセージだった。
『明日、政府の危機管理担当から重要な報告があります。医師の許可を得たうえで、短時間の説明を予定しています』
黒崎は、返信した。
『分かりました。ありがとうございます』
そして、スマートフォンを置いた。
何が起きているのか。
まだ、すべては分からない。
だが、国民生活を守るために、政府がやるべきことは明確だった。
事実を確認する。
必要な対策を取る。
そして、分からないことを、分かったふりで説明しない。
黒崎は、静かに目を閉じた。
そのころ、東京の別の場所では、警察が一つの結論に近づいていた。
四月十二日の混乱は、偶然の出来事に便乗しただけではない可能性がある。
誰かが、その混乱を利用する準備をしていた。
そして、次の準備も、すでに始まっていた。
第89話では、政治情報配信システムの記録から、サイバー攻撃と情報操作の接点がさらに明確になりました。
黒崎は東京で治療を続けながら、政府からの報告を受ける立場に戻りつつあります。
次回、第90話『日本への最後の攻撃』。
新たな偽情報が日本国内で拡散され、政府と国民は難しい判断を迫られます。
その危機の中で、黒崎は総理大臣として、ある決断を下します。




