第92話 非常事態の国会
2037年5月9日。
偽情報による混乱が続く日本で、政府の危機対応権限を強化すべきだという声が高まっていた。
その一方、海外の日本大使館に持ち込まれた資料から、事件の背後に別の指示系統が存在する可能性が浮かび上がる。
国会は、国民の安全と自由をどう両立させるかという難しい問題に直面する。
そして、病室にいる黒崎玲司にも、重大な決断が迫られようとしていた。
2037年5月9日。
午前7時18分。
東京駅。
大型モニターには、朝のニュースが流れていた。
『政府の危機対応権限を強化する新制度について、与野党の協議が本格化しています』
画面には、国会議事堂が映っている。
『今回のサイバー攻撃と偽情報の拡散を受け、一部の議員からは、政府が緊急時に情報配信の停止を命じられる制度を求める声が上がっています』
通勤客たちは、足を止めることなく改札へ向かっていた。
しかし、ニュースを聞いていた一人の男性が、隣にいた同僚へ話しかけた。
「……もう政府が全部決めた方が早いんじゃないか?」
同僚は、少し考えた。
「でも、それって危なくない?」
「危ないって言ってる間に、銀行も物流も止まったらどうするんだよ」
「……それはそうだけど」
男性は、スマートフォンを見せた。
そこには、SNSで拡散されている投稿が表示されていた。
『黒崎総理に全権を与えろ』
『国会の議論を待っている時間はない』
『独裁でもいい。日本を守ってくれ』
同僚は、画面を見つめた。
「……本気で言ってる人、いるんだな」
男性は、肩をすくめた。
「今の状況なら、そう思う人もいるだろ」
二人は、改札を通った。
その会話は、特別なものではなかった。
同じような議論が、日本中で交わされ始めていた。
* * *
午前8時46分。
首相官邸。
副総理を中心とする会議には、関係閣僚と内閣法制局の担当者が出席していた。
机の上には、危機対応権限に関する複数の検討資料が並んでいる。
「……まず、現在の法制度で可能な措置を整理してください」
副総理が言った。
内閣法制局の担当者が立ち上がった。
「現行法に基づき、サイバー攻撃への対応、犯罪捜査、重要インフラの復旧支援、関係事業者への要請などを行うことは可能です」
「情報配信の停止命令については?」
「対象となる行為や法的根拠によって異なります。政府が一般的な政治的発言の真偽を判断し、一律に配信停止を命じる制度は、現行法では認められていません」
副総理は、うなずいた。
「新たな法律を作れば可能ですか?」
担当者は、慎重に答えた。
「法律で定めれば、どのような制限でも認められるわけではありません。憲法第二十一条が保障する表現の自由との関係を検討する必要があります」
別の閣僚が尋ねた。
「では、総理大臣に一時的な非常権限を与える案は?」
会議室が静かになった。
内閣法制局の担当者は、資料をめくった。
「現行憲法には、内閣が国会を停止し、立法権を包括的に行使できる一般的な緊急事態条項はありません」
「憲法改正が必要だと?」
「少なくとも、法律だけで憲法上の権力分立を超える権限を創設することはできません」
副総理は、深く息を吐いた。
「……分かりました」
そして、会議室を見渡した。
「政府として、憲法に反する権限を求めるつもりはありません」
一人の閣僚が発言した。
「しかし、国民の間では、黒崎総理に強い権限を与えるべきだという声が増えています」
副総理は、静かに答えた。
「国民が望んでいるからといって、何でもできるわけではありません」
「……はい」
「だからこそ、国会があるんです」
* * *
午前10時12分。
警視庁。
滝沢修一は、外務省から届いた新しい報告書を確認していた。
海外の日本大使館に情報を持ち込んだ人物。
その人物からとみられる追加の連絡について、現地で確認が進められていた。
「……本人からの連絡だと確認できたのか?」
滝沢が尋ねた。
捜査員は、首を横に振った。
「完全には確認できていません。ただ、以前の情報提供時に使われた確認方法と一致する部分があるそうです」
「なるほど」
滝沢は、資料をめくった。
そこには、短い文章が記されていた。
『梁文浩は、最終決定者ではない』
『次の攻撃は、政府の対応そのものを利用する』
そして、新たに確認された一文。
『H-3は、日本国内の協力者との調整も担当している』
滝沢は、顔を上げた。
「……H-3」
前日に榊原俊哉が提出したメールにも、同じ記載があった。
『最終承認:H-3』
「……同じ符号が、別の経路から出てきたわけか」
捜査員がうなずいた。
「はい」
滝沢は、少し考えた。
「ただし、同じ資料を元にしている可能性もある」
「はい」
「独立した情報なのか、確認しよう」
捜査員は、別の書類を差し出した。
「それと、情報提供者が大使館に持ち込んだ資料のうち、一部の電子記録について、作成日時の整合性が確認されたそうです」
「四月十二日より前か?」
「はい」
滝沢は、資料を見つめた。
「……つまり、少なくとも攻撃前に存在していた記録が含まれている」
「そうです」
滝沢は、うなずいた。
「重要だな」
そして、静かに続けた。
「……だが、まだ誰が計画を承認したのかは分からない」
* * *
午前11時37分。
国会議事堂。
衆議院の委員会では、危機対応に関する集中審議が始まっていた。
野党議員の神谷蒼士が、質問に立った。
「政府に確認します」
神谷は、資料を掲げた。
「今回のサイバー攻撃と偽情報の拡散について、政府はどこまで事実関係を把握していますか?」
担当大臣が答えた。
「捜査中の事項については詳細を控えますが、複数の偽情報が組織的に配信された可能性を含め、関係機関が調査を進めています」
神谷は、うなずいた。
「分かりました」
そして続けた。
「では、政府が検討している危機対応権限について質問します」
会議室が静かになった。
「政府が重大な偽情報と判断した場合、配信停止を命じる制度が検討されていると聞いています」
担当大臣は、慎重に答えた。
「複数の案が検討資料として示されていますが、政府として決定したものではありません」
「では、その制度によって、政府に対する批判的な報道が止められる可能性はありませんか?」
「制度設計にあたっては、表現の自由を尊重する必要があると考えています」
神谷は、資料を置いた。
「……必要がある、では足りません」
委員会室の空気が変わった。
神谷は続けた。
「政府が自分に都合の悪い情報を偽情報と判断しない保証は、どこにあるんですか?」
担当大臣は、少し間を置いた。
「そのような濫用を防ぐ仕組みは、当然必要です」
「だからこそ、制度を作る前に議論すべきなんです」
神谷は、静かに言った。
「国民を守るために、政府の権限を強くする。その必要性を否定するつもりはありません」
そして、少し声を強めた。
「しかし、危機を理由に国会の役割を小さくすることには、反対します」
委員会室に、拍手ではなく、静かな緊張が広がった。
* * *
午後0時54分。
東京都内の病院。
黒崎玲司は、病室のテレビで国会審議を見ていた。
画面には、神谷の姿が映っている。
「……いい質問だな」
黒崎は、小さくつぶやいた。
そのとき、ドアがノックされた。
「総理、失礼します」
秘書官の小野寺航だった。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです。国会をご覧になっていたんですか?」
「はい」
黒崎は、テレビを指さした。
「神谷さん、相変わらず鋭いですね」
小野寺は、少し笑った。
「政府にとっては、厳しい質問です」
「でも、必要な質問ですよ」
黒崎は、テレビの音量を下げた。
「……小野寺さん」
「はい」
「今回の危機対応権限の話、政府内ではどこまで進んでいますか?」
小野寺は、資料を開いた。
「現時点では、複数の案を比較している段階です。正式な法案にはなっていません」
「分かりました」
黒崎は、少し考えた。
「……俺の考えを、政府に伝えてもらえますか?」
「もちろんです」
黒崎は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「まず、国民生活を守るために必要な措置は、現行法の範囲で迅速に進めてください」
小野寺は、手帳に書き込んだ。
「はい」
「そのうえで、新しい権限が必要なら、具体的に何ができないのかを示してほしい」
「承知しました」
「そして、政府だけで判断できる仕組みにしないこと」
小野寺は、顔を上げた。
黒崎は続けた。
「……独立した審査や、国会への報告、期限を設けること。そういう歯止めを最初から考えるべきです」
「はい」
黒崎は、少し笑った。
「……なんだか、当たり前の話ですね」
小野寺は、首を横に振った。
「その当たり前が、危機のときほど難しくなるんだと思います」
黒崎は、静かにうなずいた。
「……そうですね」
* * *
午後2時28分。
国会議事堂。
委員会では、宮原奈緒が質問に立っていた。
「政府に確認します」
宮原は、資料を掲げた。
「今回の混乱を受け、政府の権限を強化する必要があるという議論が出ています」
担当大臣がうなずいた。
「はい」
「しかし、政府の対応能力を高める方法は、権限を強くすることだけではありません」
宮原は続けた。
「行政機関の情報共有、重要インフラの復旧体制、国民への説明方法。こうした部分の改善も必要ではありませんか?」
担当大臣は、うなずいた。
「そのとおりだと考えています」
宮原は、資料を置いた。
「では、政府として、まず現行制度のどこに問題があったのか、検証結果を示していただきたいと思います」
「承知しました」
宮原は、静かに続けた。
「……危機が起きるたびに、政府の権限を強くする。それだけでは、同じ問題を繰り返すと思います」
委員会室が静かになった。
「必要なのは、強い政府だけではありません」
宮原は、最後に言った。
「間違えたときに、間違いを正せる政府です」
* * *
午後4時06分。
首相官邸。
副総理は、黒崎から伝えられた意見を確認していた。
机の上には、小野寺がまとめた報告書が置かれている。
『現行法に基づく対応を優先する』
『新たな権限の必要性は、具体的な不足を示したうえで検討する』
『独立した審査、国会への報告、期限などの歯止めを重視する』
副総理は、静かにうなずいた。
「……黒崎らしいな」
側近が尋ねた。
「政府として、どう対応しますか?」
副総理は、資料を閉じた。
「この方針を踏まえて、検討を進めましょう」
「承知しました」
副総理は、窓の外を見た。
「……ただ、国民の不安は続いています」
「はい」
「権限を強くしないなら、なおさら今ある制度で結果を出さなければならない」
側近は、うなずいた。
「分かりました」
* * *
午後5時43分。
海外の日本大使館。
情報提供者に関する新たな報告が届いていた。
担当者は、画面を確認した。
「……本人の所在につながる情報が、もう一つ見つかりました」
同僚が尋ねた。
「安全は確認できましたか?」
「まだです」
担当者は、首を横に振った。
「ただ、本人が使っていたとみられる連絡手段から、追加の資料が届いています」
「内容は?」
担当者は、画面を開いた。
そこには、短い文章と、複数の文書ファイルが添付されていた。
『H-3は、華龍国際情報研究有限公司の内部符号ではありません』
担当者は、顔を上げた。
「……どういうことだ?」
次の文章が表示されていた。
『H-3は、日本国内の人物を指しています』
担当者は、息をのんだ。
同僚が尋ねた。
「……誰ですか?」
担当者は、さらに画面を確認した。
しかし、そこに実名はなかった。
代わりに、次の一文が記されていた。
『本人を特定するには、昨年十二月の会合記録を確認してください』
担当者は、静かに息を吐いた。
「……十二月の会合」
東亜政策開発機構。
華龍国際情報研究有限公司。
日本国内の政策関係者。
複数の人物が参加していた会合だった。
担当者は、すぐに外務省へ連絡した。
* * *
午後7時19分。
警視庁。
滝沢は、外務省から共有された追加情報を確認していた。
「……H-3は、日本国内の人物」
捜査員が言った。
「昨年十二月の会合記録を確認するように、とあります」
滝沢は、うなずいた。
「……出席者は?」
捜査員が資料を開いた。
榊原俊哉。
真鍋宗一郎。
梁文浩。
久世隆臣。
そして、複数の関係者。
滝沢は、資料を見つめた。
「……この中にいるのか?」
捜査員は、首を横に振った。
「まだ分かりません」
滝沢は、うなずいた。
「そうだな」
そして、静かに続けた。
「……情報提供者がそう書いているだけでは、誰かを犯人扱いできない」
「はい」
「会合記録と契約書、通信記録を照合しよう」
滝沢は、資料を閉じた。
「……H-3が何を承認したのか。それを確認する必要がある」
* * *
午後8時34分。
東京都内の病院。
黒崎は、桐生美月と夕食後の時間を過ごしていた。
「……今日、国会見た?」
美月が尋ねた。
黒崎は、うなずいた。
「少しね」
「なんか、すごい議論になってるね」
「うん」
美月は、少し考えた。
「……みんな、玲司に強い権限を持ってほしいって言ってるみたい」
黒崎は、苦笑した。
「そういう声もあるみたいだね」
「……玲司は、嫌なの?」
黒崎は、少し考えた。
「……嫌というより、怖いかな」
「怖い?」
「うん」
黒崎は、静かに続けた。
「俺が正しいときは、強い権限があれば早く動けるかもしれない」
美月は、うなずいた。
「うん」
「でも、俺が間違えたときは?」
美月は、少し黙った。
黒崎は続けた。
「誰も止められなかったら、もっと大きな間違いになる」
美月は、静かにうなずいた。
「……そうだね」
黒崎は、少し笑った。
「だから、俺を止められる仕組みは、必要なんだと思う」
美月は、黒崎の顔を見た。
「……変なの」
「何が?」
「普通、総理大臣って、もっと権限がほしいものじゃないの?」
黒崎は、笑った。
「そうなのかな」
美月も笑った。
しばらくして、美月が尋ねた。
「……玲司、総理を辞めたら、何したい?」
黒崎は、少し驚いた。
「……急だね」
「だって、いつかは辞めるでしょ」
黒崎は、うなずいた。
「まあ、そうだね」
少し考えたあと、答えた。
「……普通に暮らしたいかな」
「普通に?」
「うん。朝起きて、仕事して、帰ってきて、ご飯食べて」
美月は、少し笑った。
「……それだけ?」
黒崎は、美月を見た。
「美月と一緒に」
美月は、少し黙った。
そして、照れくさそうに笑った。
「……それ、いいね」
黒崎も笑った。
「でしょ?」
美月は、黒崎の手を握った。
「……じゃあ、早く元気になってね」
黒崎は、うなずいた。
「うん」
* * *
午後10時27分。
東京都内。
元財務事務次官の久世隆臣は、自宅の書斎で古い会合記録を見つめていた。
昨年十二月。
東亜政策開発機構の会合。
久世は、その場で交わされた会話を思い出していた。
黒崎政権の改革。
財政への影響。
世論の変化。
そして、梁文浩の言葉。
『制度を変える政治家は、制度そのものよりも国民の感情に左右される』
久世は、資料をめくった。
そこに、手書きのメモが残っていた。
『H-3確認後、国内側へ共有』
久世は、眉を寄せた。
「……H-3」
その記号を、どこかで見た記憶があった。
久世は、別の資料を探した。
会合の出席者一覧。
議事録。
契約関係の説明資料。
そして、一枚の古い名刺。
久世は、その名刺を手に取った。
「……まさか」
しばらく、動かなかった。
名刺に書かれていた名前を、もう一度確認する。
久世は、ゆっくりと椅子に座った。
「……そういうことだったのか」
机の上には、警察の連絡先が記されたメモがあった。
久世は、スマートフォンを手に取った。
だが、すぐには発信できなかった。
名刺に書かれた人物は、久世にとって、よく知る相手だった。
そして、その人物が関わっていたとすれば、自分自身も、知らなかったでは済まされないかもしれない。
久世は、深く息を吐いた。
「……どうする」
窓の外では、東京の夜が静かに更けていた。
日本では、総理大臣に強い権限を与えるべきだという声が広がっている。
一方で、その混乱を利用しようとする者たちの存在が、少しずつ明らかになり始めていた。
久世は、もう一度名刺を見た。
そして、静かにつぶやいた。
「……ここまで来たら、隠せないな」
第92話では、国会で危機対応権限をめぐる議論が本格化しました。
また、日本大使館への情報提供者からとみられる追加情報によって、H-3という符号が日本国内の人物を指す可能性が浮上しました。
次回、第93話『久世隆臣の選択』。
久世が手元に残していた資料には、これまでの捜査を大きく進める手がかりが隠されていました。
過去に関わった政策研究の真相を知った久世は、自らの立場を失う覚悟で、一つの決断を下します。




