第87話 裏切り者の証言
黒崎玲司が襲撃されてから、十二日。
事件の捜査は、政治意識調査を請け負っていた組織から、その資金提供者へと広がっていた。
警察への協力を決めた男は、自らの責任を問われることも覚悟して、ある記録を提出する。
そして愛知県では、黒崎の東京への転院が正式に決まろうとしていた。
2037年5月4日。
午前9時14分。
警視庁の取調室で、真鍋宗一郎は一通のメールを見つめていた。
向かいに座る滝沢修一が尋ねた。
「真鍋さん。これが、昨日お電話でお話しされていたメールですね」
「……はい」
画面には、四月十七日付のメールが表示されている。
送信者は、東亜政策開発機構の榊原俊哉。
件名は『A-17の確認』。
本文には、こう記されていた。
『A-17について、今後の行動可能性を再評価してください。特に、対象者が政治家との直接接触を試みる可能性を確認願います』
滝沢は、画面から目を離した。
「A-17は、三枝直人ですね」
「そうです」
「この指示を受けて、何をしましたか?」
真鍋は、少し迷った。
「……担当者に、三枝への聞き取りを指示しました」
「聞き取りの結果は?」
「直接会って抗議したいという発言があったと、報告を受けています」
滝沢は、手元の記録を確認した。
「その報告は、いつですか?」
「四月十九日です」
襲撃事件の二日前だった。
「……危険だとは思わなかったんですか?」
真鍋は、視線を落とした。
「政治家に直接抗議したいという人は、調査では珍しくありません」
「刃物を持って襲うとは、予想しなかった?」
「はい」
滝沢は、静かにうなずいた。
「では、もう一つ確認させてください」
「……何でしょう」
「四月十九日の報告を受けたあと、三枝への情報配信を止めましたか?」
真鍋は答えなかった。
滝沢は待った。
やがて、真鍋が口を開いた。
「……止めませんでした」
「なぜですか?」
「調査を継続するよう、榊原から指示があったからです」
「指示は残っていますか?」
「……はい」
真鍋は、別のメールを開いた。
四月十九日、午後六時十二分。
『A-17の観察を継続。反応の変化を優先して記録してください』
滝沢は、その文面を読み込んだ。
「……あなたは、どう判断したんですか?」
真鍋は、唇をかんだ。
「……危険な兆候があるなら、調査を止めるべきだったと思います」
「当時は?」
「……考えませんでした」
滝沢は、記録を閉じた。
「分かりました」
真鍋は、顔を上げた。
「……滝沢さん」
「はい」
「私は、三枝に総理を襲わせようとしたわけではありません」
「その点も、調べます」
滝沢は、落ち着いた声で答えた。
「ただ、あなたが何を知っていて、何をしなかったのかも確認する必要があります」
真鍋は、ゆっくりとうなずいた。
「……はい」
* * *
午前10時38分。
真鍋は、もう一つの資料を取り出した。
「……これも見てください」
滝沢は、差し出された紙を受け取った。
そこには、四十八人の調査対象者を分類した一覧があった。
A群、B群、C群。
三枝直人は、A-17。
その右側に、見慣れない項目がある。
『行動誘発係数』
滝沢は、顔を上げた。
「これは?」
「……提供した情報によって、対象者の行動がどの程度変化するかを数値化したものです」
「具体的には?」
「投稿する、集会に参加する、抗議する。そういった行動の変化を、統計的に予測するための指標です」
「三枝の数値は?」
真鍋は、答えた。
「……高い方でした」
滝沢は、一覧を見た。
三枝の欄には、赤い印が付いている。
「この印は?」
「重点観察対象です」
「誰が決めたんですか?」
「榊原です」
滝沢は、しばらく考えた。
「……真鍋さん。これを見ていると、調査というより、対象者の行動を変える実験のように見えます」
真鍋は、うなずいた。
「……私も、今はそう思います」
「当時は?」
「政治情報の受け取り方を調べる研究だと説明されていました」
「説明したのは?」
「榊原です」
滝沢は、資料をめくった。
「……この調査に、ほかの人物は関わっていませんか?」
真鍋は、少し考えた。
「……一度だけ、別の人物と会ったことがあります」
滝沢が顔を上げた。
「誰ですか?」
真鍋は、ゆっくりと答えた。
「久世隆臣さんです」
滝沢は、ペンを止めた。
「……元財務事務次官の?」
「はい」
久世隆臣。
かつて財務省の事務方トップを務めた人物。
黒崎政権の行政改革に対して、たびたび批判的な意見を述べていた。
「久世さんが、調査に関わっていたんですか?」
「……詳しくは分かりません。ただ、去年の十二月に、東亜政策開発機構の会合でお会いしました」
「どんな話を?」
真鍋は、当時のことを思い出すように目を閉じた。
「……黒崎政権の改革が、社会にどんな影響を与えるかという話です」
「それだけですか?」
「久世さんは、こう言っていました」
真鍋は、少し間を置いた。
「『政策の数字だけを見ても、国民がどう動くかは分からない』と」
滝沢は、静かに聞いていた。
「……その発言だけでは、問題はありませんね」
「はい」
真鍋は、うなずいた。
「ただ、久世さんは、調査の結果を非常に気にしているようでした」
「どんな点を?」
「黒崎政権への不満が、どの程度広がるかです」
滝沢は、記録を取った。
「分かりました。久世さんにも、事情を確認する必要がありそうです」
真鍋は、少し安心したように息を吐いた。
「……お願いします」
* * *
午前11時52分。
愛知県内の病院。
黒崎玲司は、担当医の説明を聞いていた。
「……本日の検査結果を踏まえ、東京への転院を許可します」
黒崎は、思わず顔を上げた。
「本当ですか?」
「はい。ただし、条件があります」
「もちろんです」
医師は、資料を見ながら続けた。
「移送中は医療スタッフが付き添うこと。到着後は、受け入れ先の病院で引き続き入院治療を受けること。それから、公務への本格復帰は認められません」
黒崎は、うなずいた。
「分かりました」
「左目の視力についても、生活上の訓練が必要です」
「はい」
「無理をすれば、傷の回復が遅れる可能性があります」
黒崎は、少し笑った。
「……小野寺さんにも、同じことを言われています」
医師も笑った。
「それなら、しっかり守ってくださいね」
「はい。ありがとうございます」
診察が終わると、病室に戻った黒崎は、秘書官の小野寺航に報告した。
「小野寺さん、転院の許可が出ました」
小野寺の表情が明るくなった。
「本当ですか。よかったです」
「はい」
「では、移送と警護の最終調整を進めます」
黒崎は、うなずいた。
「お願いします」
小野寺は、予定表を確認した。
「受け入れ先の病院とも調整できれば、明日以降の移動が可能になる見込みです」
「そうですか」
黒崎は、少し考えた。
「……美月にも連絡しておきます」
「はい。ただ、具体的な移動日時については、警護担当と確認してからお伝えください」
「分かっています」
黒崎は、スマートフォンを手に取った。
そして、短いメッセージを送った。
『先生から東京への転院の許可が出たよ。日程はこれからだけど、もうすぐ帰れそう』
数分後。
返信が届いた。
『本当!? よかった! 待ってるね』
黒崎は、思わず笑った。
「……よかった」
小野寺が尋ねた。
「桐生さんですか?」
「はい」
「喜ばれていますね」
「そうみたいです」
黒崎は、スマートフォンを置いた。
東京へ戻る。
ようやく、その日が見えてきた。
* * *
午後1時27分。
東京都内。
久世隆臣は、自宅の書斎で新聞を読んでいた。
六十代半ば。
かつて財務省の事務次官を務めた男は、退官後も政策研究団体や企業の会合に顔を出していた。
新聞には、黒崎総理の東京転院に関する記事が掲載されていた。
久世は、その記事をしばらく見つめた。
「……戻ってくるのか」
そのとき、携帯電話が鳴った。
画面には、榊原俊哉の名前。
久世は、電話に出た。
「久世だ」
『……榊原です』
「どうした?」
『少し、ご相談したいことがありまして』
久世は、新聞を閉じた。
「……例の調査か?」
『はい』
「警察が動いているそうだな」
『真鍋が、かなり詳しく話しているようです』
久世は、少し考えた。
「……事実を説明すればいいだろう」
『それで済めばいいのですが』
「どういう意味だ?」
榊原は、少し間を置いた。
『……調査の委託元について、警察が調べ始めています』
久世は、黙った。
『海外からの資金についても』
久世は、ゆっくりと息を吐いた。
「……榊原君」
『はい』
「君たちは、私に説明していないことがあるのか?」
電話の向こうが静かになった。
久世は、続けた。
「私は、政治意識調査の助言を求められた。それだけの話だったはずだ」
『……はい』
「総理大臣が刺されるような事件に関係するなど、聞いていない」
『私たちも、襲撃を指示したわけではありません』
久世は、声を低くした。
「……なら、なぜ私に電話してきた?」
榊原は、答えなかった。
久世は、しばらく待った。
そして言った。
「……警察から連絡が来れば、私は知っていることを話す」
『……久世さん』
「それが当然だろう」
久世は、通話を切った。
しばらくして、机の引き出しを開けた。
中には、東亜政策開発機構から受け取った資料があった。
黒崎政権に関する世論分析。
政治的不満の分布。
情報配信の効果。
久世は、資料を一枚ずつめくった。
そして、最後のページで手を止めた。
そこには、調査の最終目的として、短い文章が記されていた。
『政治的意思決定に対する社会的圧力の形成可能性を検証する』
久世は、しばらくその文章を見つめた。
「……こんなものまで、承認した覚えはないぞ」
* * *
午後3時08分。
警視庁。
滝沢は、久世隆臣に関する資料を確認していた。
元財務事務次官。
複数の政策研究団体の顧問。
東亜政策開発機構の会合にも参加していた。
「……久世さんは、黒崎政権に批判的な立場でしたね」
捜査員が言った。
滝沢は、うなずいた。
「そうだな」
「関与している可能性は?」
滝沢は、資料を置いた。
「……政治的に批判していたことと、犯罪に関与したことは別だ」
「はい」
「まずは、どこまで調査を知っていたのか確認しよう」
そのとき、別の捜査員が入ってきた。
「主任。北辰デジタルサービスから、任意で提出された資料の一部を確認しました」
滝沢が顔を上げた。
「何か分かったか?」
「政治情報の配信システムについて、管理者アカウントが複数存在していました」
「東亜政策開発機構の?」
「はい。ただ、それ以外にも外部管理者用のアカウントがありました」
「外部管理者?」
「海外の委託先が利用していたと説明されています」
滝沢は、資料を受け取った。
「……その委託先は?」
捜査員は、会社名を示した。
華龍国際情報研究有限公司。
滝沢は、静かにうなずいた。
「……昨日の会社か」
「はい」
「実際にアクセスしていた記録は?」
「一部あります。ただし、接続元の国や所在地だけで、操作者を特定することはできません」
「分かっている」
滝沢は、資料をめくった。
「問題は、何を操作したかだ」
捜査員が続けた。
「四月十八日、外部管理者アカウントから、A-17に関する配信設定が変更されています」
滝沢の手が止まった。
「……三枝の?」
「はい」
「変更内容は?」
「通常の政治情報配信から、個別のリンク配信へ切り替えられています」
滝沢は、顔を上げた。
「……送られたリンクは確認できるか?」
「記録が一部欠けています。ただ、配信設定の変更履歴は残っています」
滝沢は、しばらく考えた。
四月十八日。
三枝への調査方針が変更された日。
総理の訪問予定を送った匿名アカウントが作成された日。
そして、外部管理者が三枝の配信設定を変更した日。
「……三つ重なったな」
滝沢が言った。
捜査員は、うなずいた。
「はい」
「ただ、同じ人物が操作したとは限らない」
「承知しています」
滝沢は、資料を閉じた。
「アクセス記録と、実際に送信された内容を確認しよう」
* * *
午後5時41分。
愛知県内の病院。
黒崎は、荷物を整理していた。
入院してから増えた書類。
着替え。
美月から届いた手紙。
机の引き出しには、襲撃された日に身につけていた時計もあった。
黒崎は、それを手に取った。
時計の表面には、小さな傷が付いていた。
四月二十一日。
あの日、愛知県豊田市で起きたこと。
刃物を持った男が近づいてきた瞬間。
警護員の声。
周囲の悲鳴。
そして、意識が遠のいていく感覚。
黒崎は、時計を見つめた。
「……もう十二日か」
ドアがノックされた。
「総理、失礼します」
小野寺だった。
「お疲れさまです」
「お疲れさまです。何かありましたか?」
「移送について、最終調整ができました」
黒崎が顔を上げた。
「本当ですか?」
「はい。明日、東京へ移動する予定です」
黒崎は、しばらく黙った。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「……そうですか」
小野寺は続けた。
「移動中は医療スタッフが同行します。東京到着後は、そのまま病院へ入っていただきます」
「分かりました」
「警護上の理由から、移動の詳細は公表しません」
「はい」
黒崎は、時計を鞄にしまった。
「……小野寺さん」
「はい」
「美月にも、連絡していいですか?」
「はい。警護担当と調整した範囲であれば問題ありません」
「ありがとうございます」
黒崎は、スマートフォンを手に取った。
美月に電話をかける。
数回の呼び出し音のあと、声が聞こえた。
『もしもし、玲司?』
「うん。今、大丈夫?」
『大丈夫だよ。どうしたの?』
黒崎は、少し笑った。
「……明日、東京に戻ることになった」
電話の向こうが静かになった。
『……本当?』
「うん」
『……よかった』
美月の声が、少し震えていた。
黒崎は、ゆっくりと続けた。
「病院に直接入るから、すぐに外には出られないけど」
『そんなの、いいよ』
「……うん」
『玲司が東京に戻ってくるだけで、十分だよ』
黒崎は、少し目を閉じた。
「……ありがとう」
美月は、少し笑った。
『迎えに行ってもいい?』
「小野寺さんたちと調整してもらえれば、会えるようにしたいと思ってる」
『分かった』
黒崎は、窓の外を見た。
「……やっと帰れるな」
『うん』
美月は、静かに答えた。
『待ってるね』
* * *
午後8時22分。
東京都内。
久世隆臣は、書斎で古い資料を調べていた。
東亜政策開発機構との契約書。
会合の議事録。
そして、去年十二月の会議資料。
その中に、見覚えのない名前があった。
華龍国際情報研究有限公司。
久世は、眉を寄せた。
「……海外の委託先か」
資料をめくる。
政治情報の配信システム。
対象者別の分析。
行動予測。
久世は、しばらく考えた。
そして、ある記録に目を止めた。
『日本国内の政策変更に伴う社会的反応の増幅可能性』
久世は、椅子に深く座り直した。
自分は、黒崎の政策に反対していた。
急激な改革には、問題があると思っていた。
財政の持続可能性についても、懸念していた。
だが。
それは、政治的な議論の範囲だった。
国民の不満を意図的に増幅させることとは違う。
まして、総理大臣への襲撃事件に結びつく可能性など、考えたこともなかった。
久世は、電話を手に取った。
しばらく迷ったあと、番号を押した。
相手は、警視庁だった。
「……久世隆臣と申します」
電話の向こうで、担当者が応じた。
「東亜政策開発機構について、お話ししたいことがあります」
* * *
午後10時51分。
警視庁。
滝沢は、久世からの連絡を受けた捜査員の報告を聞いていた。
「……久世さんが、自分から?」
「はい。資料を提出したいとのことです」
滝沢は、少し考えた。
「明日、話を聞こう」
「はい」
滝沢は、机の上の資料を見た。
真鍋の証言。
安藤が持参した調査記録。
外部管理者による配信設定の変更。
そして、久世が保管していた資料。
事件の輪郭が、少しずつ見え始めていた。
しかし、最も重要な点は、まだ分かっていない。
三枝に総理の訪問予定を送ったのは誰か。
三枝の襲撃を、事前に知っていた人物はいたのか。
そして、政治意識調査とサイバー攻撃は、本当に同じ目的で行われていたのか。
滝沢は、資料を閉じた。
「……明日が重要だな」
* * *
同じころ。
愛知県内の病院。
黒崎は、消灯前の病室で荷物をまとめ終えていた。
窓の外には、静かな夜景が広がっている。
ここで目を覚ました日のことを思い出す。
左目が見えないと知ったとき。
美月の声を聞いたとき。
小野寺から、国会の状況を聞いたとき。
自分がいなくても、政府が動いていると知ったとき。
黒崎は、ベッドに腰を下ろした。
「……明日か」
東京へ戻る。
総理大臣としての仕事に、すぐ復帰できるわけではない。
左目の視力も戻らない。
襲撃された恐怖も、まだ消えていない。
それでも。
自分には、まだできることがある。
黒崎は、スマートフォンを開いた。
美月からメッセージが届いていた。
『明日、気をつけて帰ってきてね。会えるの楽しみにしてる』
黒崎は、少し笑った。
返信する。
『ありがとう。俺も楽しみにしてる。東京で会おう』
送信。
そして、スマートフォンを机に置いた。
「……よし」
黒崎は、ゆっくりと横になった。
翌日。
黒崎玲司は、東京へ帰る。
だが、その帰還を待っていたのは、美月や仲間たちだけではなかった。
彼の命を奪おうとした事件の背後で、別の計画が動き始めていた。
第87話では、真鍋宗一郎の証言によって、政治意識調査の実態と、その背後にいた人物たちの関係が明らかになり始めました。
また、黒崎の東京への転院が正式に決定しました。
次回、第88話『黒幕の正体』。
黒崎が東京へ戻る一方、警察は久世隆臣から提出された資料をもとに、海外組織との関係を追います。
そして、事件の背後にいた人物の一人が、ついに明らかになります。




