第86話『国境を越えた工作』
黒崎玲司への襲撃事件から十一日。
捜査本部は、四十八人を対象とした政治意識調査の背後に、複数の組織が関わっていた可能性を追っていた。
同じころ、サイバー攻撃を調べていた専門家が、奇妙な資金の流れを発見する。
日本国内の政治的不満を分析する調査。
社会を混乱させたサイバー攻撃。
二つの事件をつなぐものは、まだ何も証明されていない。
しかし、誰かがその関係を隠そうとしていた。
2037年5月3日。
午前8時46分。
東京都内の小さな事務所で、高瀬直樹は夜通し調べていた資料を見つめていた。
机の上には、空になったコーヒーの缶が三本。
モニターには、複数のウェブサイトの記録が並んでいる。
四月十二日。
物流・決済関連のシステム障害が相次いだ日。
その日の午前中から、SNSでは黒崎政権を批判する投稿が急増していた。
『政府が物流網を破壊した』
『黒崎の改革で失業者が増える』
『国民の生活を犠牲にする総理を許すな』
高瀬は、投稿の一部を拡大した。
「……やっぱり、ここか」
複数の投稿に添付されたリンク。
それらは別々のニュースサイトを装っていたが、リンク先のアクセス計測に使われている識別子が共通していた。
高瀬は、以前確認した政治情報配信サイトの記録を開いた。
同じ識別子があった。
ただし、それだけでは同じ運営者とは言えない。
アクセス解析の設定を使い回しただけかもしれないし、同じ制作会社が関与した可能性もある。
高瀬は、別の資料を開いた。
「……こっちは?」
サイトの公開履歴。
ドメインの変更履歴。
過去の問い合わせ先。
そこに記載されていた会社名が目に留まった。
北辰デジタルサービス株式会社。
国内の小規模な情報システム会社だった。
高瀬は、会社の公開資料を確認した。
事業内容は、ウェブサイト制作、広告配信、アクセス分析。
特別珍しいものではない。
だが、過去の制作実績に、見覚えのある名前があった。
東亜政策開発機構。
高瀬は、椅子から身を起こした。
「……ようやく一つつながった」
政治情報を拡散していたサイトと、政治意識調査の委託元。
両者に、同じ制作会社が関与していた。
それは、調査を進める価値のある接点だった。
高瀬は、これまでの記録を整理し、警察への情報提供用にまとめ始めた。
* * *
午前10時12分。
警視庁。
滝沢修一は、捜査員から報告を受けていた。
「東亜政策開発機構に、配信記録の保存を求めました」
「回答は?」
「保存には応じるとのことです。ただし、記録の提出については、弁護士を通して対応したいと」
滝沢はうなずいた。
「当然の対応だな。必要な手続きを進めよう」
「はい」
「榊原俊哉は?」
「任意の事情聴取を申し入れています」
滝沢は、資料を開いた。
東亜政策開発機構。
政治意識調査の委託元。
四十八人の対象者を分類し、個別の政治情報を配信する調査を発注していた団体。
その責任者の一人が、榊原俊哉だった。
「……資金はどこから出ている?」
滝沢が尋ねた。
捜査員は、別の資料を差し出した。
「東亜政策開発機構への入金記録を、確認できた範囲で整理しました」
そこには、複数の企業や団体の名前が並んでいた。
国内企業。
調査会社。
投資関連会社。
そして、海外の法人。
滝沢は、その一つを指さした。
「この会社は?」
「シンガポールに登記された情報サービス会社です」
「どんな会社だ?」
「公開情報では、広告分析や市場調査を行っています」
「実際に事業をしているのか?」
「現在確認中です」
滝沢は、資料をめくった。
「海外から資金が入っているだけでは、何も言えないな」
「はい」
「問題は、その金が何に使われたかだ」
捜査員がうなずいた。
「調査費用との対応関係を確認します」
そのとき、別の捜査員が入ってきた。
「主任。民間のセキュリティアナリストから情報提供がありました」
「誰だ?」
「高瀬直樹という人物です」
滝沢は、顔を上げた。
「内容は?」
「政治情報の配信サイトと、東亜政策開発機構のウェブサイトに、共通する制作会社が関わっていたというものです」
滝沢は、少し考えた。
「……資料を見せてくれ」
* * *
午前11時35分。
愛知県内の病院。
黒崎玲司は、担当医から説明を受けていた。
「本日の診察結果ですが、傷の状態は安定しています」
黒崎は、うなずいた。
「ありがとうございます」
「東京への転院についても、具体的な日程を検討できる段階に入りました」
黒崎の表情が明るくなった。
「本当ですか?」
「はい。ただし、移動中も医療スタッフが付き添うことが条件です」
「もちろんです」
「東京に到着したあとも、治療とリハビリは継続します。公務への本格復帰は、まだ認められません」
黒崎は、少し笑った。
「そこは、小野寺さんからも何度も言われています」
医師も笑った。
「それなら安心ですね」
「……たぶん、信用されていないんだと思います」
「それだけ心配されているということですよ」
黒崎は、うなずいた。
診察が終わると、病室には小野寺航が待っていた。
「総理、いかがでしたか?」
「東京に戻れそうですよ」
小野寺は、少し安心したように息を吐いた。
「よかったです」
「まだ正式な日程は決まっていませんけど」
「はい。警護と移送の調整を進めます」
黒崎は、椅子に座った。
「小野寺さん」
「はい」
「美月にも連絡していいですかね」
「もちろんです。ただ、具体的な移動日時は、警護上の確認が取れてから共有していただければと思います」
「分かりました」
黒崎は、スマートフォンを手に取った。
そして、少し笑った。
「……やっと東京に帰れそうだな」
小野寺は、静かにうなずいた。
「はい」
* * *
午後1時08分。
警視庁。
高瀬直樹は、滝沢と向かい合っていた。
「……これが、今回確認した記録です」
高瀬は、持参した資料を机に置いた。
「政治情報を拡散していた複数のサイトに、共通するアクセス解析の識別子がありました」
滝沢は、資料を見た。
「同じ運営者ということですか?」
「それだけでは判断できません」
高瀬は、はっきりと答えた。
「ただ、制作会社の公開実績を確認すると、東亜政策開発機構のサイトも手がけています」
滝沢は、顔を上げた。
「……同じ会社が作っていた?」
「少なくとも、公開情報ではそうなっています」
高瀬は続けた。
「さらに、政治情報を配信していたサイトの一部は、サイバー攻撃が広く報道される前から、障害を政府の責任だとする文章を公開していました」
「事前に攻撃を知っていた可能性がある?」
「可能性はあります。ただし、そこまでは証明できていません」
滝沢はうなずいた。
「分かりました」
高瀬は、別の資料を差し出した。
「それと、もう一つ気になる点があります」
「何ですか?」
「政治情報を配信していたサイトの一部で、アクセス先を対象者ごとに変える仕組みが使われていました」
滝沢の表情が変わった。
「対象者ごと?」
「はい。URLに識別番号を付けて、誰がどの記事を読んだかを記録する方式です」
「それ自体は珍しいものではないですね」
「そうです。広告やメール配信でも使います」
高瀬はうなずいた。
「ただ、その識別番号の形式が、東亜政策開発機構の調査資料に残っていたものと似ています」
滝沢は、机の上の資料を見た。
A-17。
三枝直人。
「……同じ番号が使われているんですか?」
「完全には確認できていません。ただ、識別子の構造が似ています」
滝沢は、しばらく考えた。
「……配信記録があれば、確認できるかもしれない」
「はい」
高瀬は、続けた。
「もし同じ仕組みが使われていたなら、調査対象者がどの情報を読んだか、どんな反応をしたかを追跡できた可能性があります」
滝沢は、静かにうなずいた。
「重要な情報です。ありがとうございます」
高瀬は、少し安心したように息を吐いた。
「役に立てれば幸いです」
* * *
午後3時22分。
東京都内。
桐生美月は、昼休みに黒崎から届いたメッセージを読み返していた。
『東京への転院、具体的に進みそうです。まだ日程は決まってないけど、決まったら連絡するね』
美月は、思わず笑った。
すぐに返信する。
『よかった! 待ってるね。無理はしないでよ』
数分後。
返信が届いた。
『分かってるよ。帰ったら定食食べに行こう』
美月は、また笑った。
「……本当に定食が好きなんだから」
そのとき、同僚が声をかけた。
「美月、何かいいことあった?」
「うん。ちょっとね」
美月は、スマートフォンを伏せた。
黒崎が襲撃された日から、毎日が長かった。
ニュースを見るのが怖い日もあった。
病院から連絡が来るたびに、胸が締めつけられた。
それでも、黒崎は少しずつ回復している。
東京に戻ってくる。
その事実が、何よりうれしかった。
美月は、カレンダーを開いた。
仕事の予定を確認する。
転院の日程が決まれば、休暇を調整する必要がある。
ただ、迎えに行くと言っても、黒崎は総理大臣だ。
警護や病院の手続きもある。
自分の都合だけでは決められない。
美月は、黒崎への返信をもう一通送った。
『迎えに行く件、警護の人たちにも確認しておいてね』
しばらくして、返信が来た。
『もちろん。小野寺さんにも相談してるよ』
美月は、安心したように息を吐いた。
「……よし」
仕事に戻ろう。
その前に、もう一度だけ画面を見た。
黒崎からのメッセージ。
『楽しみにしてる』
美月は、小さく笑った。
「私もだよ」
* * *
午後5時46分。
警視庁。
滝沢は、東亜政策開発機構の関係者から提出された資料を確認していた。
弁護士を通じて、任意で提供された契約関係の書類だった。
その中に、北辰デジタルサービスとの契約書があった。
業務内容は、政治情報配信システムの構築。
アクセス解析。
対象者別の配信設定。
滝沢は、契約日を見た。
2036年十一月。
黒崎政権が進めていた改革が、国民の間で大きな議論になり始めた時期だった。
「……契約自体は、普通の情報配信業務に見えるな」
滝沢が言った。
捜査員はうなずいた。
「はい。ただ、追加契約があります」
「追加?」
「今年の三月です」
滝沢は、次のページをめくった。
そこには、追加機能の開発について記されていた。
『対象者別反応予測モデルの精度向上』
『情報提供後の行動変化の分析』
滝沢は、資料を見つめた。
「……誰が追加を指示した?」
「東亜政策開発機構です」
「担当者は?」
「榊原俊哉です」
滝沢は、うなずいた。
「資金の出どころは?」
「一部は、海外法人からの入金と時期が重なっています。ただし、同じ資金が使われたとまでは確認できていません」
「分かった」
滝沢は、資料を置いた。
「まずは契約内容を確認しよう。違法な指示があったかどうかは、そのあとだ」
そのとき、捜査員が別の報告を持ってきた。
「主任。シンガポールの情報サービス会社について、追加情報があります」
「何だ?」
「登記上の役員の一人が、別の海外法人でも役員を務めています」
「どこの会社だ?」
捜査員は、資料を差し出した。
そこには、漢字で書かれた法人名があった。
華龍国際情報研究有限公司。
滝沢は、資料を見た。
「……華龍人民共和国の会社か?」
「登記上は、そうです」
「政府機関との関係は?」
「現時点では確認できていません」
滝沢は、静かにうなずいた。
「なら、そこを調べよう」
捜査員は、すぐに動き始めた。
* * *
午後7時12分。
東京都内。
真鍋宗一郎は、自宅で資料を整理していた。
警察に提出するための記録だった。
東都政策研究センターとの契約。
調査の目的。
四十八人の対象者一覧。
榊原から届いた指示。
真鍋は、メールを一通ずつ確認していた。
その中に、三月十七日付のメールがあった。
送信者、榊原俊哉。
件名、『対象者選定の再確認』
本文には、短い文章が記されていた。
『A群のうち、政治的不満が強く、情報提供後の行動変化が大きい対象者を優先してください』
真鍋は、画面を見つめた。
当時は、単なる調査方針だと思っていた。
しかし、今は違って見える。
三枝は、A群だった。
政治的不満が強かった。
そして、総理を襲った。
真鍋は、次のメールを開いた。
四月十七日。
送信者、榊原俊哉。
件名、『A-17の確認』
『A-17について、今後の行動可能性を再評価してください』
真鍋は、息をのんだ。
「……何だ、これは」
その翌日。
四月十八日。
三枝への調査方針が変更された。
そして、同じ日に、総理の訪問予定を送った匿名アカウントが作成されている。
真鍋は、椅子から立ち上がった。
偶然かもしれない。
だが、確認せずにはいられなかった。
真鍋は、警察から渡された連絡先を取り出した。
そして、電話をかけた。
* * *
午後8時34分。
愛知県内の病院。
黒崎は、小野寺から一日の報告を受けていた。
「……サイバー攻撃について、警察と関係機関が引き続き調査しています」
「そうですか」
黒崎は、資料を見た。
「民間への影響は?」
「復旧が進んでいる事業者もありますが、まだ完全には戻っていません」
「支援を続けてください」
「はい」
黒崎は、少し考えた。
「それと、小野寺さん」
「はい」
「今回の攻撃、まだ犯人は分かっていないんですよね?」
「はい。現時点では、断定できる状況ではありません」
黒崎は、うなずいた。
「なら、政府としても決めつけないようにしましょう」
小野寺は、顔を上げた。
「……はい」
「海外からの攻撃かもしれない。でも、証拠がない段階で特定の国の名前を出すのは違います」
「承知しています」
黒崎は、資料を閉じた。
「国民が不安になっているときほど、政府は正確に話さないと」
小野寺は、静かにうなずいた。
「はい」
黒崎は、少し笑った。
「……まあ、今は皆さんに任せるしかないですけど」
「総理には、まず回復していただくことが最優先です」
「分かってますよ」
黒崎は、苦笑した。
「今日はもう、仕事の話は終わりにします」
小野寺は、少し驚いた。
「……本当ですか?」
「本当です」
「珍しいですね」
黒崎は笑った。
「小野寺さん、ひどいなあ」
二人は、しばらく笑っていた。
* * *
午後10時16分。
警視庁。
滝沢の携帯電話が鳴った。
画面には、真鍋宗一郎の名前。
滝沢は、電話に出た。
「滝沢です」
『……真鍋です』
「どうされました?」
『警察に提出したい資料があります』
滝沢は、顔を上げた。
「どんな資料ですか?」
『榊原から届いたメールです』
「……内容は?」
真鍋は、少し間を置いた。
『三枝の行動について、事件前から評価するよう指示されていました』
滝沢は、静かに尋ねた。
「具体的には?」
『……四月十七日です』
滝沢は、机の上の資料を見た。
四月十七日。
襲撃事件の四日前。
『榊原から、A-17の行動可能性を再評価するよう連絡がありました』
「分かりました」
滝沢は、落ち着いた声で答えた。
「そのメールを、削除せずに保存しておいてください。明日、詳しく確認させてください」
『……はい』
通話が終わった。
滝沢は、しばらく画面を見つめた。
そして、捜査員に声をかけた。
「榊原俊哉について、もう一度調べよう」
「何か分かったんですか?」
滝沢は、静かに答えた。
「……三枝の行動を、事件前から気にしていたらしい」
捜査員の表情が変わった。
滝沢は、続けた。
「ただし、それだけでは襲撃を知っていた証拠にはならない」
「はい」
「だから、確認する」
滝沢は、窓の外を見た。
「誰が、何を知っていたのか」
そして、もう一度資料に目を戻した。
「……そこを間違えないようにしよう」
* * *
同じころ。
海外。
華龍人民共和国の首都から離れた、とあるオフィスビル。
夜遅くにもかかわらず、一室だけ明かりがついていた。
机には、複数のモニターが並んでいる。
画面には、日本語のニュースが表示されていた。
『黒崎総理、東京への転院を調整』
『総理襲撃事件、政治意識調査との関連を捜査』
『サイバー攻撃の影響、物流業界で継続』
部屋にいた男は、ニュースを確認すると、短く言った。
「……黒崎は、まだ動けるのか」
向かいの席にいた人物が答えた。
「はい。東京に戻る準備を進めているようです」
男は、少し考えた。
「日本側の調査は?」
「国内の委託先まで進んでいます」
「こちらとの関係は?」
「まだ確認されていません」
男は、うなずいた。
「……そうか」
しばらく沈黙があった。
やがて、男が尋ねた。
「四十八人の記録は?」
「一部が日本側に残っていたようです」
男の表情が変わった。
「……消したはずでは?」
「完全ではなかったようです」
男は、椅子にもたれた。
そして、静かに言った。
「ならば、計画を変更する必要がある」
「……どうされますか?」
男は、日本のニュース画面を見つめた。
そこには、黒崎玲司の写真が映っていた。
「黒崎一人を止めても、日本は止まらなかった」
男は、少し笑った。
「……ならば、次は日本全体を揺さぶる」
画面が切り替わった。
日本国内の物流拠点。
決済ネットワーク。
政府機関。
そして、複数の報道機関。
男は、最後に言った。
「準備を進めろ」
その声に、迷いはなかった。
第86話では、政治意識調査とサイバー攻撃の間に、技術的・資金的な接点が見つかりました。ただし、日本の捜査当局はまだ外国政府の関与を立証できていません。
黒崎の転院準備も進み、美月との再会が近づいています。
次回、第87話『裏切り者の証言』。
真鍋宗一郎が、これまで伏せていた重要な事実を証言します。
そして黒崎玲司は、医師の許可を受け、ついに東京へ戻ることになります。




