第84話 仕組まれた襲撃
総理大臣襲撃事件から十日。
犯人は逮捕され、動機についても供述していた。しかし、捜査が進むにつれて、事件の背後に不自然な情報の流れが浮かび上がってくる。
一方、愛知県内の病院で治療を続ける黒崎玲司は、東京への帰還を決意していた。
失った左目の視力は戻らない。それでも、彼が政治家として果たすべき役割は終わっていなかった。
2037年5月1日。
愛知県内の病院。
黒崎玲司は、病室の窓から外を眺めていた。
五月に入り、木々の緑が濃くなっている。
左目は、もう何も映さない。
頬から目元にかけて残った傷も、簡単には消えないだろう。
それでも、少しずつ歩ける距離は延びていた。
黒崎は窓に映った自分の顔を見た。
「……ずいぶん変わったな」
以前の顔とは違う。
だが、不思議と嫌悪感はなかった。
生きている。
その事実だけで、十分だと思える瞬間もあった。
ドアがノックされた。
「総理、失礼します」
秘書官の小野寺航だった。
「おはようございます。体調はいかがですか?」
「おはようございます。昨日よりはいいですよ」
黒崎は椅子に腰を下ろした。
「東京の状況はどうですか?」
小野寺は、持参した資料を開いた。
「サイバー攻撃の影響が残っている事業者について、復旧支援が続いています。政府機能は維持されていますが、民間の物流・決済システムには、まだ一部で支障が出ています」
「そうですか」
黒崎は報告書を受け取った。
四月十二日以降、日本各地で発生していたシステム障害。
当初は別々の障害と考えられていたものの、一部では外部からの不正な通信が確認されている。
ただし、すべてが同一の攻撃者によるものだと判明したわけではない。
「被害を受けた企業への支援は?」
「経済産業省と関係機関が対応しています」
「分かりました。復旧見込みは、確定しているものと推定のものを分けて発表してください」
「はい」
黒崎は資料をめくった。
「それと、国会は?」
「行政支出の検証について、与野党の協議が進んでいます」
「神谷さんも参加されていますか?」
「はい。第三者による検証の必要性について、前向きな姿勢を示されています」
黒崎は少し笑った。
「神谷さんらしいですね」
「総理とは政策面で対立することも多いですが、今回の件では協力的です」
「意見が違うからこそ、ちゃんと議論してもらいたいんです」
黒崎は資料を閉じた。
「削減できる見込みの金額と、実際に削減した金額は違いますからね。そこを曖昧にしたら、国民に説明できません」
小野寺はうなずいた。
「その方針で進めています」
「ありがとうございます」
黒崎は椅子の背にもたれた。
「……小野寺さん」
「はい」
「東京への転院の件、どうなっていますか?」
小野寺は表情を改めた。
「受け入れ先の医療機関と調整を進めています。ただ、最終的には担当医の判断が必要です」
「もちろんです」
黒崎は少し笑った。
「別に、明日から官邸に出勤するつもりじゃありませんよ」
「それを聞いて安心しました」
「でも、できれば早く東京に戻りたいんです」
小野寺は静かにうなずいた。
「お気持ちは分かります」
黒崎は窓の外を見た。
「ここにいても、できることはあります。でも、いつまでもこのままというわけにはいきませんから」
「はい」
「医師の許可が出るまでは無理をしません。そこは約束します」
小野寺は、少し笑った。
「ありがとうございます」
黒崎も笑った。
「そんなに信用ありませんか?」
「総理は、仕事を始めると止まらなくなりますから」
「……否定できないですね」
二人の間に、久しぶりに穏やかな笑いが生まれた。
* * *
同じころ。
警視庁の捜査本部では、滝沢修一が新しい報告を受けていた。
「東都政策研究センターの件ですが、提出された会計資料と内部の管理記録を照合しました」
捜査員が大型モニターに資料を映し出した。
三枝直人。
四十二歳。
元物流会社員。
三月二十二日、三十万円の入金。
調査担当者は、政治コンサルタントの真鍋宗一郎。
これらはすでに確認されていた事実だった。
「新しい点は?」
滝沢が尋ねた。
「三枝への支払いが、通常の調査協力費とは別の予算から出ていました」
「別の予算?」
「はい。会計上は『継続観察費』です」
滝沢は画面を見た。
「対象者は三枝だけか?」
「いいえ。ほかにも同じ費目で支払いを受けた人物がいます」
「何人だ?」
「現時点で、十二人確認できています」
滝沢は眉を寄せた。
「……三枝だけが特別扱いされていたわけではないのか」
「はい。ただし、金額は一律ではありません」
捜査員が続けた。
「さらに、調査資料の一部に『情報提供後の反応』という記載がありました」
滝沢は顔を上げた。
「どんな情報を提供していた?」
「政治に関する記事や投稿です。その中には、事実関係が確認できない内容も含まれています」
「三枝にも送っていたのか?」
「同じ文章の一部が、三枝の端末に残っています」
滝沢は、しばらく考えた。
三枝は黒崎政権に強い不満を抱いていた。
しかし、彼が物流会社を辞めたのは2034年。
黒崎が総理大臣に就任するより前のことだった。
それにもかかわらず、三枝は自分の失職を黒崎の政策と結びつけていた。
「……三枝の思い込みを利用した可能性があるな」
滝沢が言った。
捜査員はうなずいた。
「ただ、調査側が意図的に誤認させたかどうかは、まだ確認できていません」
「分かっている」
滝沢は画面を見つめた。
「思い込みがあったことと、誰かがそれを作り出したことは別だ」
そして続けた。
「まずは、何を送ったのか全部確認しよう」
* * *
東京都内。
真鍋宗一郎は、警察の任意聴取に応じていた。
向かいに座る滝沢が、一枚の書類を差し出した。
「真鍋さん。この継続観察費について、説明してください」
真鍋は書類を見た。
「……調査への協力を継続してもらうための費用です」
「通常の調査謝礼とは違うんですか?」
「対象者によっては、複数回の面談や情報提供が必要でしたので」
「三枝さんも、その一人だった?」
「はい」
滝沢は、三枝の面談記録を開いた。
「三枝さんは、黒崎総理が物流業界の仕事を外国企業に売り渡そうとしていると話していましたね」
「……そうですね」
「その情報は、どこから得たものだったんでしょうか」
「本人がインターネットで見たと話していました」
「あなたは、その内容を確認しましたか?」
真鍋は、少し考えた。
「調査では、本人が何を信じているかを記録することが目的でした」
「事実かどうかは、重要ではなかった?」
「……少なくとも、調査の中心ではありませんでした」
滝沢はうなずいた。
「では、調査チームから三枝さんへ政治情報を送ったことは?」
「あります」
「どんな情報ですか?」
「政策に関する記事や、政治家の発言をまとめたものです」
「その中に、事実と異なる内容が含まれていた可能性は?」
真鍋は、口を閉じた。
滝沢は急かさなかった。
やがて真鍋が答えた。
「……すべての文面を、私が確認していたわけではありません」
「誰が選んでいたんですか?」
「担当者です」
「責任者は?」
「……私です」
滝沢は、その答えを記録した。
「もう一つ聞かせてください」
真鍋が顔を上げた。
「調査の目的は、政治意識を把握することだけだったんですか?」
「……どういう意味でしょう」
「受け取った情報によって、対象者の行動がどう変わるかも調べていたのではありませんか?」
真鍋の表情が変わった。
滝沢は続けた。
「保存されていた資料に、『対象者別_行動予測』というファイル名がありました」
真鍋は視線を落とした。
「……行動といっても、投票意向や情報の共有などです」
「それだけですか?」
「私が担当していた範囲では、そうです」
滝沢は、その言い方を聞き逃さなかった。
「担当していた範囲?」
真鍋は答えた。
「……調査には、外部の委託元がありました」
「東都政策研究センター以外に?」
「はい」
「どこですか?」
真鍋は、少し迷った。
そして口を開いた。
「……東亜政策開発機構です」
滝沢は、その名前を書き留めた。
「その団体は、調査の内容にも関与していたんですか?」
「分析項目について、要望を出していました」
「具体的には?」
「政治情報への反応を、より詳しく調べたいと」
「調査対象者の選定にも?」
真鍋は、ゆっくりとうなずいた。
「……一部、関わっていました」
滝沢は顔を上げた。
「三枝さんも?」
真鍋は、答えるまでに時間がかかった。
「……はい」
* * *
愛知県内の病院。
午後四時を過ぎたころ、黒崎は担当医から説明を受けていた。
「東京の医療機関への転院について、受け入れの調整を始めています」
黒崎は、うなずいた。
「ありがとうございます」
「ただし、現時点では移動日を決められません。傷の状態と、移動による負担をもう少し確認する必要があります」
「分かりました」
医師は続けた。
「それから、左目の視力についてですが……」
黒崎は、静かにうなずいた。
「はい」
「残念ながら、回復は見込めません」
改めて告げられた言葉だった。
すでに知っていた。
それでも、胸の奥に重いものが落ちた。
「……そうですか」
医師は、今後の生活で必要となる訓練について説明した。
視野が狭くなった状態での歩行。
距離感の取り方。
周囲の安全確認。
黒崎は、質問しながら一つずつ確認した。
説明が終わると、医師が尋ねた。
「何か心配なことはありますか?」
黒崎は、少し考えた。
「……人が左側から近づいてくると、気づくのが遅れることがあります」
「そうですね。慣れるまでは、特に注意が必要です」
「それと……」
黒崎は言葉を止めた。
「急に物音がすると、あの日のことを思い出すことがあります」
医師は、静かにうなずいた。
「襲撃を受けたあとには、そうした反応が起きることがあります。必要に応じて専門的な支援も受けられます」
「お願いします」
黒崎は、素直に答えた。
そして少し笑った。
「東京に戻るために必要なことなら、ちゃんとやりますよ」
医師も笑った。
「その調子で、焦らず進めましょう」
* * *
午後六時。
国会議事堂。
宮原奈緒は、神谷蒼士と行政支出の検証について協議していた。
「……政府が示している削減見込み額ですが、実際に支出が減った金額とは区別する必要があります」
神谷が言った。
宮原はうなずいた。
「はい。そこは私たちも整理を進めています」
「消費税率を十%から八%に引き下げる場合、年間約四・八兆円の財源が必要になるという試算もあります」
「承知しています」
宮原は資料を開いた。
「黒崎さんも、見込み額をそのまま財源に計上することには慎重でした」
神谷は、少し考えた。
「……ならば、与野党で検証の仕組みを作りましょう」
宮原が顔を上げた。
「よろしいんですか?」
「もちろん、政府の数字をそのまま認めるわけではありません」
神谷は、少し笑った。
「だからこそ、私たちも参加する意味があります」
宮原も笑った。
「ありがとうございます」
神谷は、窓の外を見た。
「……黒崎総理は、いつ戻られるんでしょうね」
「まだ、はっきりとは」
「そうですか」
神谷は、静かに続けた。
「政治家としては、あの人と意見が合わないことも多いです」
宮原は、うなずいた。
「はい」
「でも、襲撃で政治家を黙らせることが許される国には、したくありません」
宮原は、神谷を見た。
「……私も同じです」
神谷は、資料を手に取った。
「総理が戻るまで、できることを進めましょう」
* * *
午後八時二十一分。
黒崎のスマートフォンが震えた。
画面には、桐生美月の名前。
「もしもし」
『玲司、お疲れさま』
「お疲れ。仕事終わった?」
『うん。今、帰ってきたところ』
「そっか」
『今日、診察だったんでしょ?』
「うん」
『どうだった?』
黒崎は、少し笑った。
「東京に戻る話が、進みそうだよ」
『……本当?』
「まだ日程は決まってないけど、転院できるように調整してくれるって」
『よかったね』
「うん」
美月は、少し間を置いて尋ねた。
『……玲司、無理してない?』
「大丈夫だよ。先生にも、ちゃんと言われたことは守ってる」
『本当に?』
「……そんなに信用ない?」
『だって、すぐ仕事しようとするでしょ』
黒崎は笑った。
「まあ、それはそうだけど」
美月も笑った。
しばらく、二人は他愛のない話をした。
美月の仕事のこと。
病院の食事のこと。
東京の天気のこと。
そして、少し会話が途切れたとき、黒崎が口を開いた。
「……美月」
『ん?』
「東京に戻るとき、迎えに来てもらってもいいかな」
『もちろん』
返事は早かった。
黒崎は、少し驚いた。
「仕事は大丈夫?」
『調整するよ。日程が決まったら教えて』
「ありがとう」
『……玲司』
「ん?」
『帰ってくるの、怖くない?』
黒崎は、窓の外を見た。
少し考えてから答えた。
「……怖くないって言ったら、嘘になるかな」
『……うん』
「また同じことが起きたらって、考えることはあるよ」
美月は、何も言わずに聞いていた。
黒崎は続けた。
「でも、だからって、ずっとここにいるわけにもいかないしね」
『……そうだね』
「それに、俺を刺した人間に、これからどう生きるかまで決められたくないんだ」
美月は、静かに答えた。
『……うん』
黒崎は、少し笑った。
「だから、帰るよ」
『待ってる』
「うん」
『帰ってきたら、何したい?』
「そうだな……」
黒崎は少し考えた。
「美月とご飯食べたい」
『何食べたい?』
「普通の定食」
『……定食?』
「うん。焼き魚とか、生姜焼きとか」
美月が笑った。
『もっといいもの食べればいいのに』
「そういうのが食べたいんだよ」
『分かった。お店、探しておくね』
「ありがとう」
黒崎は、少し照れくさそうに笑った。
「……楽しみにしてる」
『私も』
通話が終わったあと、黒崎はスマートフォンを机に置いた。
病室の外から、足音が聞こえた。
反射的に、身体が強張る。
左側を確認しようとして、見えないことに気づく。
黒崎は、ゆっくりと息を吐いた。
まだ、慣れない。
恐怖も消えていない。
だが、それでいいと思った。
怖くなくなってから動くのではない。
怖くても、自分で決める。
それが、今の自分にできることだった。
* * *
午後十時四十七分。
警視庁。
滝沢は、捜査員から報告を受けていた。
「東亜政策開発機構について、契約資料の一部が確認できました」
「何か分かったか?」
「東都政策研究センターに、複数の調査を委託しています」
「三枝が参加した調査も?」
「はい」
滝沢は、資料を受け取った。
契約書には、政治意識調査、情報受容性分析、行動傾向の評価などが記されていた。
それ自体は、必ずしも違法な内容ではない。
しかし、別紙に記された一文が気になった。
『対象者の反応に応じ、提供情報を個別に調整する』
滝沢は、その部分を指さした。
「……これを、実際にやっていたのか?」
「確認中です」
「三枝については?」
「調査記録の一部が削除されているため、まだ分かりません」
滝沢は、うなずいた。
「安藤圭介への聴取は?」
「明日の予定です」
そのとき、捜査員の携帯電話が鳴った。
短い会話のあと、捜査員が顔を上げた。
「主任。安藤からです」
「何だ?」
「明日の聴取について、確認の連絡がありました。それと……」
「それと?」
「削除されたデータについて、話したいことがあるそうです」
滝沢は、少し身を乗り出した。
「復元できるのか?」
「本人は、こう言っています」
捜査員は、メモを見た。
「『削除されたデータの中身を、一部知っています』」
滝沢は、目を細めた。
「……何が記録されていた?」
「電話では話せないそうです。ただ……」
捜査員は続けた。
「『三枝さんだけの問題ではありません』と」
滝沢は、しばらく考えた。
そして、静かに言った。
「……明日、詳しく聞こう」
* * *
同じころ。
東京都内のマンション。
真鍋宗一郎は、スマートフォンを見つめていた。
画面には、知らない番号から届いたメッセージが表示されている。
『警察に何を話した?』
真鍋は、返信しなかった。
数分後。
新しいメッセージが届いた。
『四十八人の記録は、まだ残っているのか』
真鍋の表情が変わった。
四十八人。
その数字を知っている人物は、限られている。
真鍋は、ゆっくりと返信した。
『誰だ』
既読がついた。
返事は、すぐに届いた。
『三枝は、想定より早く行動した』
真鍋は、画面を見つめた。
「……想定?」
指先が震えた。
『何を想定していた』
送信。
しかし、返事は来なかった。
真鍋は、スマートフォンを机に置いた。
これまで、自分は政治意識調査に関わっているだけだと思っていた。
不満を持つ人間を集め、政治情報への反応を調べる。
それが仕事だった。
だが。
三枝が黒崎総理を襲った。
そして、誰かがその行動を「想定」と呼んだ。
真鍋は、椅子に深く腰を下ろした。
「……俺たちは、何を調べていたんだ」
窓の外では、東京の街が何事もなかったかのように輝いていた。
そのころ、警察が追っていた事件は、まだ一人の男による総理襲撃事件として扱われていた。
しかし、その背後には、四十八人の名前があった。
そして、その四十八人に何が行われていたのかを知る人物が、翌日、警察を訪れようとしていた。
第84話では、黒崎の東京帰還に向けた動きと、襲撃事件の背後にある政治意識調査の捜査を進めました。
黒崎の小野寺に対する呼称は「小野寺さん」に統一し、普段の自然な話し方と、公務での冷静な判断を維持しています。
次回、第85話『四十八人の標的』。
安藤圭介の証言によって、削除された記録の実態が明らかになります。そして、三枝直人がなぜ調査対象者に選ばれたのか、その理由に捜査が迫ります。




