第83話 九十九パーセントの民意
2037年4月。
総理大臣・黒崎玲司への襲撃事件から一週間。
日本中が、左目の視力を失った総理の回復を願っていた。
一方、国民改革推進会議が実施した世論調査は、政治家たちを震撼させる結果となる。
支持率99%。
それは、民主主義における理想の数字なのか。
それとも、異論を唱えることすら許されなくなる危険な兆候なのか。
そして、警察の捜査は、ついに襲撃者の過去へと迫り始める。
2037年4月28日、午前7時12分。
東京都千代田区、首相官邸。
「……九十九・一パーセント?」
小野寺航は、手元の資料を見つめた。
官房長官が、深くため息をつく。
「国民改革推進会議が発表した数字だ」
資料の表紙には、大きくこう書かれていた。
『黒崎玲司総理の続投を支持する国民――99.1%』
小野寺は、ページをめくった。
調査対象は、同団体が運営するオンライン署名サイトの登録者。
回答数は約十八万件。
設問は、こうだった。
『黒崎総理が回復した後も、引き続き日本の指導者として活躍することを望みますか?』
回答結果。
賛成、99.1%。
反対、0.9%。
小野寺は、資料を置いた。
「……これは、内閣支持率ではありませんね」
官房長官が、うなずく。
「ああ。そもそも、回答者の大半が黒崎総理の支持者だ」
「無作為抽出でもありません」
「そうだ」
小野寺は、表紙を見た。
「それなのに、見出しは『国民の99%が続投支持』になっている」
官房長官は、椅子に深く座った。
「……数字そのものが間違っていなくても、見せ方で意味が変わる」
小野寺は、静かにうなずいた。
黒崎が政治家になる前から、繰り返してきたことだった。
数字は、嘘をつかない。
しかし。
数字を見せる人間は、嘘をつける。
* * *
午前8時35分。
東京都内、テレビ局。
朝の情報番組では、国民改革推進会議の調査結果が取り上げられていた。
『黒崎総理、続投支持99.1%!』
画面いっぱいに、大きな数字が表示されている。
司会者が、驚いた声を上げた。
「これは、すごい数字ですね」
コメンテーターが答える。
「ただ、調査対象には注意が必要です」
「といいますと?」
「今回の調査は、黒崎総理を支持する団体の登録者を対象にしています。国民全体の支持率を示すものではありません」
司会者は、うなずいた。
「なるほど。つまり、一般的な世論調査とは違うんですね」
「はい」
しかし、その説明が終わるより早く。
SNSでは、別の言葉が広がり始めていた。
『黒崎総理、支持率99%』
『国民のほぼ全員が黒崎を支持』
『反対する政治家は民意に逆らっている』
事実よりも、分かりやすい数字の方が速く広がっていった。
* * *
午前9時20分。
愛知県内、救命救急センター。
黒崎玲司は、ベッドに腰掛けていた。
左目は、まだ保護材で覆われている。
胸腹部の傷も、動くたびに痛んだ。
「黒崎さん、今日は立った状態で身体の向きを変える練習をしましょう」
理学療法士が声をかけた。
「……はい」
黒崎は、支えを借りて立ち上がった。
足元を確認する。
右側は見える。
左側は、首を動かさなければ分からない。
「ゆっくり、左を確認してください」
黒崎は、顔を向けた。
そこには、小さな椅子が置かれていた。
「……あ」
「見つけられましたね」
「……はい」
黒崎は、少し笑った。
「今まで、こんなこと考えたこともなかったです」
理学療法士は、うなずいた。
「これから少しずつ、身体に覚えてもらいましょう」
黒崎は、慎重に一歩を踏み出した。
そのとき、廊下から突然、大きな声が聞こえた。
「危ない!」
黒崎の身体が、びくりと震えた。
心臓が跳ね上がる。
一瞬、工場での記憶がよみがえった。
怒鳴り声。
走ってくる男。
刃物の光。
「……っ!」
黒崎は、思わず身体を引いた。
「黒崎さん!」
理学療法士が支える。
黒崎は、荒い呼吸を繰り返した。
「……すみません」
「大丈夫です。座りましょう」
ベッドに戻った黒崎は、右手で額を押さえた。
「……何でもない音なのに」
理学療法士は、静かに答えた。
「大きな事件を経験した後には、音や人の動きに強く反応することがあります」
黒崎は、うなずいた。
「……そうですか」
「必要なら、心のケアを専門とするスタッフにも相談できます」
黒崎は、少し考えた。
以前の自分なら、断っていたかもしれない。
大丈夫です。
仕事があります。
時間がありません。
そう言って。
しかし、今は。
「……お願いします」
理学療法士は、うなずいた。
「分かりました」
黒崎は、ゆっくりと息を吐いた。
総理大臣であっても。
怖いものは、怖い。
その当たり前の事実を、ようやく認め始めていた。
* * *
午前10時45分。
東京都千代田区、国民会計党本部。
宮原奈緒は、記者たちに囲まれていた。
「宮原議員!」
「黒崎総理の続投支持が99%という結果について、どう受け止めていますか?」
宮原は、立ち止まった。
「……まず、その数字の意味を正確に確認する必要があります」
記者が尋ねる。
「支持率ではないということですか?」
「はい」
宮原は、はっきり答えた。
「今回の数字は、特定団体の登録者を対象とした調査結果です。国民全体の内閣支持率とは異なります」
別の記者が質問した。
「しかし、黒崎総理への支持が非常に高いことは事実では?」
宮原は、うなずいた。
「それは否定しません」
そして、続けた。
「ただし、支持が高いことと、政治家が何をしても許されることは、まったく別です」
記者たちが、ペンを動かす。
宮原は、静かに言った。
「黒崎総理自身が、そのことを誰よりも理解していると思います」
* * *
午後0時15分。
東京都内、立憲未来党本部。
神谷蒼士は、スマートフォンを見つめていた。
画面には、数百件のメッセージが届いている。
『黒崎総理に反対するな』
『国民の99%が支持している』
『神谷は日本の敵だ』
中には、さらに過激な言葉もあった。
秘書が、不安そうに尋ねた。
「……警察に相談しますか?」
神谷は、画面を閉じた。
「具体的な危害予告は、記録して相談してください」
「分かりました」
神谷は、続けた。
「ただ、政策への批判や反対意見まで、同じように扱わないでください」
秘書は、うなずいた。
「……はい」
神谷は、窓の外を見た。
「……黒崎総理が、こんなことを望むはずがない」
秘書が、顔を上げた。
「……そうですね」
神谷は、少し考えた。
そして、静かに言った。
「……一度、会いに行きたいですね」
「黒崎総理に、ですか?」
「はい」
神谷は、うなずいた。
「政治家としてではなく、一人の人間として」
* * *
午後1時40分。
愛知県内、病院。
黒崎の病室に、桐生美月が入ってきた。
「……玲司」
黒崎は、右目で美月を見た。
「……美月」
美月は、椅子に座った。
「今日のリハビリ、どうだった?」
黒崎は、少し苦笑した。
「……途中で、びっくりしちゃって」
「……何かあったの?」
黒崎は、少し迷った。
そして、正直に話した。
「廊下で大きな声がして……襲われたときのことを思い出した」
美月の表情が変わった。
「……そっか」
黒崎は、うなずいた。
「……情けないよな」
美月は、首を振った。
「……情けなくないよ」
黒崎は、黙った。
美月は、続けた。
「そんな怖い思いをしたんだから、当たり前だと思う」
そして、少し笑った。
「……ちゃんと、相談できた?」
黒崎は、うなずいた。
「うん。専門の人と話してみることにした」
美月は、安心したように笑った。
「……よかった」
黒崎は、少し驚いた。
「……そんなに?」
美月は、うなずいた。
「うん」
そして、少し照れながら言った。
「……彼氏には、ちゃんと元気になってほしいから」
黒崎は、少し笑った。
「……ありがとう」
美月は、スマートフォンを取り出した。
「そういえば、ニュース見た?」
黒崎は、眉をひそめた。
「……何?」
美月は、画面を見せた。
『黒崎総理、支持率99.1%』
黒崎は、数秒間、画面を見つめた。
そして、言った。
「……違う」
美月は、驚いた。
「……え?」
黒崎は、右目で記事を読み直した。
「……これは、支持率じゃない」
美月は、画面を見た。
黒崎は、続けた。
「調査対象が、国民改革推進会議の登録者になってる」
美月は、うなずいた。
「……あ、本当だ」
黒崎は、深くため息をついた。
「……これじゃ、国民全体の意見は分からない」
美月は、少し考えた。
「……でも、99%って言われると、すごいって思っちゃうね」
黒崎は、うなずいた。
「……そうなんだよ」
そして、静かに言った。
「数字って、怖いね」
美月は、少し笑った。
「……玲司が言うと、説得力あるね」
黒崎も、苦笑した。
「……本当に」
* * *
午後3時05分。
警視庁、捜査本部。
会議室には、愛知県警と警視庁の合同捜査チームが集まっていた。
壁には、襲撃事件に関する資料が並んでいる。
犯行現場。
防犯カメラ映像。
押収された刃物。
容疑者の所持品。
そして、取り調べ記録。
捜査員の一人が、報告した。
「容疑者の身元について、確認が取れました」
捜査本部の責任者が、顔を上げた。
「……名前は?」
捜査員は、資料を差し出した。
「……こちらです」
責任者は、資料を見た。
そこには、男の氏名、年齢、住所、職歴が記されていた。
「……職歴は?」
「以前、物流関連企業に勤務していました」
捜査員は、続けた。
「ただし、数年前に退職しています」
責任者は、資料をめくった。
「……退職理由は?」
「会社側の記録では、本人都合となっています」
「本人は?」
捜査員は、少し間を置いた。
「……政府の政策によって人生を壊された、と供述しています」
責任者は、眉をひそめた。
「……具体的には?」
捜査員は、別の資料を出した。
「容疑者は、インターネット上で特定の情報を繰り返し閲覧していたようです」
そこには、黒崎に関する虚偽情報や、極端な政治的主張が並んでいた。
『黒崎政権が日本人の仕事を奪っている』
『政府は国民の個人情報を外国に売っている』
『黒崎玲司を止めなければ、日本は終わる』
責任者は、資料を見つめた。
「……どれも、事実関係が怪しいな」
捜査員は、うなずいた。
「はい。少なくとも、現時点で裏付けは確認できていません」
責任者は、続けた。
「……誰かが、容疑者に接触していた可能性は?」
捜査員は、少し考えた。
「……まだ分かりません」
そして、静かに言った。
「ただ、一つ気になる点があります」
責任者が、顔を上げた。
「……何だ?」
捜査員は、資料を指さした。
「容疑者が閲覧していた情報の一部が、今回のサイバー攻撃に関連する偽情報の拡散時期と重なっています」
責任者は、黙った。
「……偶然かもしれないな」
「はい」
捜査員は、うなずいた。
「ただし、確認する必要があります」
責任者は、資料を閉じた。
「……慎重に進めろ」
そして、続けた。
「政治的な背景があるからといって、最初から組織的犯行と決めつけるな」
捜査員は、うなずいた。
「……承知しました」
* * *
午後4時20分。
東京都内、民間データ分析会社。
高瀬直樹は、パソコンの画面を見つめていた。
彼が運営する民間サイト「JAPAN LEDGER」には、問い合わせが殺到していた。
『黒崎総理の支持率99%は本当ですか?』
『国民改革推進会議の調査は信用できますか?』
高瀬は、ため息をついた。
「……また数字の話か」
そして、キーボードを打ち始めた。
記事のタイトルは、こうだった。
『99.1%は、誰の99.1%なのか』
本文には、調査の仕組みを分かりやすく整理した。
調査対象。
回答方法。
設問。
そして、結果の解釈。
高瀬は、最後にこう書いた。
『今回の99.1%という数字は、回答した登録者の中で続投を望む人の割合である』
『国民全体の99.1%が黒崎総理を支持していることを意味しない』
『数字を疑うのではなく、数字が何を測っているのかを確認する必要がある』
高瀬は、記事を公開した。
数分後。
SNSには、賛否両論が広がり始めた。
『分かりやすい』
『確かに、支持者に聞けば高くなる』
一方で。
『黒崎総理の支持を低く見せようとしている』
『JAPAN LEDGERは反黒崎なのか』
高瀬は、画面を見つめた。
そして、小さくつぶやいた。
「……黒崎さん」
「あなたが始めたこと、結構大変ですよ」
* * *
午後6時10分。
東京都千代田区、首相官邸。
官房長官が、記者会見に臨んでいた。
記者が質問する。
「黒崎総理の続投支持が99%という調査結果について、政府はどう受け止めていますか?」
官房長官は、静かに答えた。
「民間団体が実施した調査について、政府として評価する立場にはありません」
そして、続けた。
「ただし、調査結果を報じる際には、対象や方法を正確に伝えることが重要だと考えています」
別の記者が質問した。
「総理の職務復帰について、進展はありますか?」
官房長官は、うなずいた。
「総理は、医師の指示に従い、リハビリを進めています」
「復帰時期は?」
「現時点では未定です」
官房長官は、はっきりと言った。
「総理の健康回復を最優先としています」
* * *
午後7時35分。
愛知県内、病院。
美月は、黒崎の病室にいた。
二人は、静かにテレビを見ていた。
画面には、国民改革推進会議の集会が映っている。
『黒崎総理を守れ!』
『国民の99%が支持している!』
黒崎は、リモコンを手に取った。
そして、テレビを消した。
美月が、顔を向けた。
「……玲司?」
黒崎は、少し考えた。
「……俺、怖いんだよね」
美月は、驚いた。
「……何が?」
黒崎は、窓の外を見た。
「……支持率が高いことじゃない」
そして、続けた。
「俺に反対する人が、何も言えなくなることが怖い」
美月は、黙って聞いていた。
黒崎は、静かに言った。
「政治家は、間違える」
「……うん」
「俺だって、間違える」
美月は、うなずいた。
黒崎は、続けた。
「だから、誰かが間違ってるって言ってくれないと困る」
美月は、少し笑った。
「……じゃあ、私が言ってあげる」
黒崎は、顔を上げた。
「……え?」
美月は、笑った。
「玲司が間違ってたら、ちゃんと間違ってるって言う」
黒崎は、少し笑った。
「……頼もしいね」
美月は、うなずいた。
「……彼女ですから」
黒崎は、苦笑した。
「……それ、最近よく言うね」
美月は、少し顔を赤くした。
「……だって、嬉しいんだもん」
黒崎は、笑った。
「……俺も」
* * *
午後9時50分。
東京都内、国民改革推進会議の事務所。
代表者は、高瀬の記事を読んでいた。
『99.1%は、誰の99.1%なのか』
代表者は、画面を閉じた。
「……面倒なことをする」
幹部の一人が、尋ねた。
「……どうしますか?」
代表者は、少し考えた。
「……反論する必要はない」
幹部は、驚いた。
「……なぜですか?」
代表者は、資料を見た。
「数字の解釈を争っても、国民には伝わりにくい」
そして、続けた。
「……もっと分かりやすい方法がある」
幹部が、顔を上げた。
「……何でしょうか?」
代表者は、静かに言った。
「全国規模の世論調査を、外部の調査会社に依頼する」
幹部は、少し考えた。
「……無作為抽出ですか?」
代表者は、うなずいた。
「そうだ」
そして、少し笑った。
「今度は、誰にも文句を言わせない」
* * *
2037年4月29日、午前0時15分。
愛知県内、病院。
黒崎は、ベッドに横たわっていた。
左目には、保護材。
胸腹部には、まだ痛みが残る。
しかし、少しずつ眠れる時間が増えていた。
スマートフォンには、美月からのメッセージ。
『おやすみ。明日も会いに行くね』
黒崎は、右目で画面を見た。
そして、返信した。
『ありがとう。待ってる』
送信。
黒崎は、スマートフォンを置いた。
窓の外には、静かな夜景が広がっていた。
そのころ。
警察の捜査本部では、襲撃者の身元確認が終わり、動機の解明が進められていた。
そして、捜査員の一人が、ある記録を発見していた。
容疑者が、襲撃事件の数日前に受け取っていた、一通のメッセージ。
送信者は、不明。
本文は、短かった。
『四月二十一日。豊田で、黒崎が動く。』
捜査員は、画面を見つめた。
「……これは」
偶然なのか。
それとも、誰かが襲撃者に情報を与えていたのか。
捜査は、新たな局面を迎えようとしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
第83話では、国民改革推進会議が発表した「99.1%」という数字をきっかけに、民意とは何かを描きました。
同時に、黒崎の身体的・精神的な回復、そして美月との関係も少しずつ進んでいます。
一方、襲撃事件の捜査では、容疑者の過去と、犯行直前に届いた不審なメッセージが浮かび上がりました。
次回、第84話『容疑者の供述』。
黒崎を襲った男が、なぜ刃物を手にしたのか。
そして、事件の背後に誰かがいたのか。
その手がかりが、少しずつ明らかになります。




