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支持率0%の男が、日本を作り直すまで  作者: 霜月 七日
第4章『独裁者の最後の決断』

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第81話 総理大臣ではない、あなたへ

左目の視力を永久に失った黒崎玲司。

その生還を喜ぶ声は日本中に広がり、国民は彼を「隻眼の宰相」と呼び始めていた。

しかし、黒崎自身はまだ、身体の変化も、襲撃された恐怖も、受け止めきれていない。

そんな彼のそばには、東京から駆けつけた桐生美月がいた。

一方、総理の不在が続く永田町では、彼を守ろうとする人々の善意が、少しずつ別のものに変わり始めていた。

2037年4月26日、午前7時18分。

愛知県内、救命救急センター。

カチャン。

乾いた音が、病室に響いた。

床に落ちたのは、プラスチック製のスプーンだった。

「……またか」

黒崎玲司(くろさきれいじ)は、右目で床を見つめた。

ベッド脇のテーブルには、朝食のトレーが置かれている。

右手を伸ばしたつもりだった。

だが、スプーンをつかもうとした指は、わずかに位置を外した。

「お取りしますね」

看護師が、床に落ちたスプーンを拾った。

「新しいものを持ってきます」

「……すみません」

黒崎は、頭を下げようとして腹部の痛みに顔をしかめた。

「謝らなくて大丈夫ですよ」

看護師は、穏やかに答えた。

「片目で距離をつかむのは、最初は難しいんです。身体もまだ回復途中ですし」

黒崎は、うなずいた。

分かっている。

医師にも説明された。

理屈では理解していた。

しかし、昨日まで当たり前にできていたことが、今日はできない。

その事実が、思っていた以上にこたえた。

「……国会の答弁より難しいですね」

黒崎が冗談めかして言うと、看護師は笑った。

「国会答弁は経験ありませんけど、スプーンの練習ならお手伝いできますよ」

黒崎も笑った。

だが、看護師が病室を出たあと、その笑みは消えた。

黒崎は、左側の景色を見ようとした。

何も見えない。

正確には、右目で見える範囲の外に、左側の世界が続いていることは分かる。

ただ、そこを確認するためには、顔を向けなければならなかった。

「……これが、これからの普通か」

黒崎は、右手を握った。

そのとき、廊下から大きな物音が聞こえた。

ガタンッ!

黒崎の肩が跳ねた。

息が止まる。

一瞬、工場の景色がよみがえった。

怒号。

刃物。

左顔面を襲った激痛。

「……っ!」

黒崎は、反射的に身を引いた。

腹部に痛みが走る。

「……くそ」

ただ、廊下で物が落ちただけだった。

頭では分かっている。

それでも、心臓の鼓動はなかなか収まらなかった。

黒崎は、右手で額を押さえた。

「……まだ、怖いのか」

誰に聞かせるでもなく、そうつぶやいた。

* * *

午前9時05分。

東京都千代田区、首相官邸。

小野寺航(おのでらわたる)は、総理大臣執務室の机を見つめていた。

机の上には、黒崎が襲撃当日の朝に確認した資料が残されている。

企業のサイバー対策支援。

地方財政。

所得税控除見直しの財源。

どれも、途中だった。

そこへ、官房長官から電話が入った。

『小野寺君。国民改革推進会議の件、見たか』

「はい」

『今日、国会周辺で集会を開くそうだ』

小野寺は、ため息をついた。

「……総理の権限強化を求める集会ですね」

『そうだ』

国民改革推進会議。

黒崎政権を支持する民間団体であり、国民会計党の公式組織ではない。

襲撃事件を受け、活動を急速に拡大させていた。

『黒崎総理の地位を国民が守る』

『国会による政治的妨害を許すな』

『圧倒的支持を受ける総理に、より強い権限を』

小野寺は、声明文を見つめた。

「……総理は、望んでいません」

『分かっている』

官房長官は、少し間を置いた。

『だが、今の黒崎総理の言葉には、以前とは違う重みがある』

「……どういうことでしょう」

『本人が否定しても、支持者がこう言い出すかもしれない』

官房長官は、低い声で続けた。

『総理は優しいから、自分の権限を強めろと言えないのだ、と』

小野寺は、黙った。

それは、反論しにくい言葉だった。

本人が何を言っても、本人の本心ではないと解釈されてしまう。

「……危険ですね」

『ああ』

官房長官は答えた。

『本人の意思より、周囲が作った英雄像の方が強くなり始めている』

* * *

午前10時40分。

東京都内、立憲未来党本部。

神谷蒼士(かみやそうし)は、会議室で資料を読んでいた。

そこには、国民改革推進会議が公表した制度改革案がまとめられていた。

総理大臣の任期保障。

国会による不信任手続きの制限。

非常時における行政権限の集中。

神谷は、資料を閉じた。

「……これは、駄目ですね」

同席していた議員が、うなずいた。

「黒崎総理を守るという名目ですが、実質的には国会の権限を弱める提案です」

神谷は、静かに答えた。

「しかも、総理本人は反対している」

「はい」

「……だったら、なおさらです」

神谷は、立ち上がった。

「今日の記者会見で、明確に反対を表明します」

別の議員が尋ねた。

「黒崎総理を擁護する形になりますが、よろしいですか?」

神谷は、振り返った。

「何か問題がありますか?」

「……いえ。ただ、私たちは野党ですから」

神谷は、少し笑った。

「野党は、総理の言うことに何でも反対する仕事ではありません」

そして、続けた。

「権力が集中しすぎるなら止める。政府が正しいことを言っているなら、それは認める」

神谷は、資料を机に置いた。

「……それが、国会でしょう」

* * *

午後0時25分。

愛知県内、病院。

桐生美月(きりゅうみづき)は、病院の近くの喫茶店にいた。

勤務先には事情を説明し、休暇を取得している。

しかし、いつまでも愛知県に滞在できるわけではなかった。

会社からは、体調を気遣う連絡が届いていた。

美月は、コーヒーを一口飲んだ。

スマートフォンには、黒崎のニュースが並んでいる。

『隻眼の宰相、復帰を待つ国民』

『黒崎総理の左目失明、各国から見舞い』

『黒崎政権への支持、事件後も高水準か』

美月は、画面を閉じた。

「……隻眼の宰相、か」

小さくつぶやく。

その呼び名を見かけるたびに、複雑な気持ちになった。

世間にとって、黒崎は総理大臣だ。

日本を変えようとしている政治家。

高い支持率を誇る指導者。

だが、美月にとっては違った。

仕事帰りに、安い定食屋へ誘ってくれた男。

昔から、自分のことより他人の心配をする男。

疲れていても「大丈夫」と笑ってしまう男。

そして――。

もう少しで、二度と会えなくなるところだった男。

美月は、窓の外を見た。

「……私、どうしたいんだろう」

以前、同僚に聞かれた言葉がよみがえる。

『美月、黒崎さんのこと好きなの?』

あのときは、答えられなかった。

だが、今は。

「……好き、なんだろうな」

口に出した瞬間、胸が苦しくなった。

総理大臣だからではない。

有名人だからでもない。

あの人が、あの人だから。

美月は、スマートフォンを握った。

「……ちゃんと、伝えないと」

* * *

午後2時10分。

愛知県内、病院。

「黒崎さん、今日はここまでにしましょう」

理学療法士が声をかけた。

黒崎は、ベッドの端に座っていた。

わずかな時間だったが、額には汗が浮かんでいる。

「……もう少し、できます」

「今日は十分です」

「でも、昨日より……」

「黒崎さん」

理学療法士は、穏やかに言った。

「昨日の自分と競争しなくていいんです」

黒崎は、黙った。

「身体の回復には、時間が必要です」

「……はい」

「それに、片目での生活に慣れる練習も、これから少しずつ進めます」

黒崎は、うなずいた。

「……分かりました」

ベッドに戻ると、疲労が一気に押し寄せた。

自分でも驚くほど、身体が重い。

「……情けないな」

思わず、口から出た。

理学療法士は、首を振った。

「黒崎さん」

「はい」

「総理大臣だからって、普通の人より早く傷が治るわけじゃありませんよ」

黒崎は、少し驚いた。

そして、笑った。

「……確かに」

理学療法士も笑った。

「今は、患者さんとして頑張ってください」

黒崎は、深くうなずいた。

「……はい」

* * *

午後3時35分。

東京都千代田区、国会議事堂周辺。

国民改革推進会議による集会が開かれていた。

参加者たちは、黒崎の写真を掲げていた。

『黒崎総理を守れ』

『国民の意思を尊重せよ』

『隻眼の宰相を再び国会へ』

演説台に立った代表者が、声を張り上げる。

「黒崎総理は、命を懸けて日本を変えようとしています!」

拍手が起きた。

「その総理が、政治的な妨害によって職務を奪われることがあってはなりません!」

さらに、代表者は続けた。

「国民の圧倒的支持を受ける総理大臣には、それにふさわしい権限が必要です!」

大きな歓声が上がった。

その一方、集会の端では、一人の若い女性が困惑した表情を浮かべていた。

隣にいた男性が声をかける。

「どうしたんですか?」

女性は、手に持った紙を見つめた。

『黒崎総理の回復を願います』

そこには、それだけが書かれていた。

「……私、総理に元気になってほしくて来たんです」

男性は、うなずいた。

「ええ」

女性は、演説台を見た。

「でも、総理の権限を強くする話になるなんて、思ってなくて」

男性は、答えに詰まった。

女性は、静かに続けた。

「……黒崎さん、そんなこと望んでましたっけ?」

その問いに、男性は答えられなかった。

* * *

午後4時50分。

愛知県内、病院。

美月が病室の扉を開けた。

「……玲司?」

黒崎は、ベッドに横たわっていた。

右目を開け、窓の外を見ている。

「……美月」

「入っていい?」

「もちろん」

美月は、椅子に座った。

「リハビリ、どうだった?」

黒崎は、苦笑した。

「……全然駄目だった」

「そうなの?」

「少し身体を起こしただけで、疲れた」

美月は、うなずいた。

「そっか」

黒崎は、続けた。

「……左目も、まだ慣れない」

美月は、黙って聞いていた。

「右側にあるものは見える。でも、左側に何があるか分からない」

黒崎は、右手を見つめた。

「……距離も、うまくつかめない」

美月は、静かに言った。

「……うん」

黒崎は、少し笑った。

「……総理大臣なのに、情けないよな」

その瞬間。

美月の表情が変わった。

「……玲司」

「何?」

「それ、もう言わないで」

黒崎は、驚いた。

「……え?」

美月は、まっすぐ黒崎を見た。

「総理大臣なのに、とか。情けない、とか」

黒崎は、黙った。

美月は、続けた。

「玲司、死にかけたんだよ」

その声は、少し震えていた。

「胸も、お腹も刺されて、左目まで失って」

黒崎は、視線を落とした。

美月は、涙をこらえながら言った。

「それなのに、どうして普通にできない自分を責めるの?」

黒崎は、何も答えられなかった。

美月は、少し間を置いた。

そして、静かに言った。

「……私ね」

黒崎は、顔を上げた。

「……うん」

「玲司が総理大臣になったとき、すごいなって思った」

黒崎は、少し笑った。

「……ありがとう」

「でも、少し寂しかった」

黒崎の表情が変わった。

「……寂しかった?」

美月は、うなずいた。

「うん」

そして、続けた。

「前みたいに、気軽にご飯に誘えなくなったし」

「……ごめん」

「謝らなくていいの」

美月は、小さく笑った。

「分かってたから。玲司が、どれだけ頑張ってるか」

黒崎は、黙って聞いていた。

美月は、続けた。

「でも、今回の事件で……」

声が詰まった。

「……本当に、もう会えないかもしれないって思った」

黒崎の右目が、美月を見つめた。

「……美月」

「そのとき、気づいたの」

美月は、ゆっくりと顔を上げた。

「私、玲司に総理大臣でいてほしいから、そばにいたいんじゃない」

黒崎は、動かなかった。

美月は、涙を拭った。

そして、はっきりと言った。

「……玲司が好きだから、そばにいたいの」

病室が、静かになった。

* * *

午後5時02分。

黒崎は、美月を見つめていた。

今、何を言われたのか。

理解するまで、少し時間がかかった。

「……美月」

「……うん」

「……今、何て?」

美月は、顔を赤くした。

「……もう一回、言わせるの?」

黒崎は、慌てた。

「いや、そういう意味じゃ……」

美月は、少し笑った。

しかし、すぐに真剣な表情になった。

「……好きだよ、玲司」

黒崎は、何も言えなかった。

美月は、続けた。

「ずっと前から、そうだったのかもしれない」

そして、少しだけ笑った。

「……自分でも、気づくの遅かったけど」

黒崎は、右手を動かした。

美月の手に触れようとして、少し位置を外した。

美月は、その手を取った。

「……ほら」

黒崎は、苦笑した。

「……また、失敗した」

美月は、首を振った。

「……いいよ」

そして、手を握った。

「これから、慣れていけばいいんだから」

黒崎は、しばらく黙っていた。

やがて、口を開いた。

「……俺も」

美月の目が、大きく開いた。

黒崎は、右目で美月を見つめた。

「……俺も、美月のことが好きだ」

美月は、息をのんだ。

黒崎は、続けた。

「総理になってから、ずっと考えてた」

「……何を?」

「……この仕事が終わったら、どう生きたいのか」

美月は、黙って聞いていた。

黒崎は、少し笑った。

「政治家としてやりたいことは、まだある」

そして、続けた。

「でも、政治家じゃない自分の人生も、ちゃんと考えたい」

黒崎は、美月の手を握り返した。

「……そのとき、隣にいてほしいと思ったのは、美月だった」

美月の目から、涙がこぼれた。

「……玲司」

黒崎は、少し照れたように笑った。

「……ただ」

美月は、顔を上げた。

「……何?」

黒崎は、少し真剣な表情になった。

「今の俺は、こんな状態だ」

美月は、黙った。

「いつ退院できるかも分からないし、総理の仕事に戻れるかも、まだ分からない」

黒崎は、続けた。

「……美月に、いろいろ負担をかけると思う」

美月は、少し考えた。

そして、静かに言った。

「……それって、私が決めることじゃない?」

黒崎は、驚いた。

「……え?」

美月は、笑った。

「玲司が大変だから、好きになるのをやめますって、そんな簡単な話じゃないよ」

黒崎は、黙った。

美月は、続けた。

「もちろん、これからどうなるか分からない」

そして、少しだけ声を落とした。

「……でも、分からないからって、何も始めないのは嫌」

黒崎は、美月を見つめた。

美月は、ゆっくりと言った。

「……玲司」

「……うん」

「私と、付き合ってくれますか?」

黒崎は、少し驚いた。

そして、笑った。

「……それ、俺が言うつもりだった」

美月も笑った。

「……遅いんだもん」

黒崎は、深くうなずいた。

「……はい」

そして、はっきりと言った。

「よろしくお願いします」

美月は、涙を流しながら笑った。

「……こちらこそ」

二人は、手を握り合った。

長い間、友人だった二人。

ようやく、互いの気持ちを言葉にした。

しかし、それは大げさな約束ではなかった。

ただ、これからの人生を、少しずつ一緒に考えていこうという、小さな始まりだった。

* * *

午後5時18分。

病室の扉が、控えめにノックされた。

「失礼します」

看護師だった。

「黒崎さん。そろそろ面会のお時間です」

美月は、慌てて立ち上がった。

「……すみません」

看護師は、二人の顔を見た。

そして、少しだけ笑った。

「……何か、いいことがありました?」

美月は、顔を赤くした。

黒崎は、苦笑した。

「……まあ、少し」

看護師は、笑った。

「それはよかったです」

そして、黒崎に言った。

「でも、今日はもう休んでくださいね」

黒崎は、うなずいた。

「……はい」

美月は、黒崎の手を離した。

「……また明日、来るね」

黒崎は、少し笑った。

「……うん」

美月は、扉へ向かった。

しかし、途中で振り返った。

「……玲司」

「何?」

美月は、少し照れながら言った。

「……ちゃんと、彼氏なんだからね」

黒崎は、一瞬、言葉に詰まった。

そして、笑った。

「……分かってる」

美月も笑った。

「……じゃあ、おやすみ」

「……おやすみ」

扉が閉まった。

黒崎は、天井を見つめた。

左目は、もう見えない。

胸腹部の傷も、まだ痛む。

それでも。

久しぶりに、心の奥が温かかった。

「……彼氏、か」

黒崎は、小さく笑った。

「……総理大臣より、難しいかもしれないな」

* * *

午後7時40分。

東京都内、立憲未来党本部。

神谷蒼士は、記者会見を終えていた。

机の上には、国民改革推進会議の声明文。

秘書が、声をかけた。

「神谷さん。今日の会見、かなり反響があります」

神谷は、うなずいた。

「……そうですか」

「黒崎総理の権限強化に反対したことで、一部の支持者から批判も来ています」

神谷は、少し笑った。

「……でしょうね」

秘書は、続けた。

「ただ、黒崎総理の支持者からも、賛同する声があります」

神谷は、資料を見た。

そこには、一つの投稿が印刷されていた。

『黒崎総理を守りたい。でも、黒崎総理が守ろうとしている民主主義も守りたい』

神谷は、しばらくその文章を見つめた。

そして、静かに言った。

「……そういう人がいるなら、まだ大丈夫ですね」

秘書が、顔を上げた。

「……何がですか?」

神谷は、答えた。

「この国です」

* * *

午後9時15分。

愛知県内、病院。

黒崎は、スマートフォンを見ていた。

小野寺から届いた連絡。

『総理、党規約の変更については、現時点で正式な提案は出ていません。宮原議員、森田議員ともに現行規約の維持を主張しています』

黒崎は、少し安心した。

そして、返信した。

『ありがとうございます。今は皆さんに任せます』

送信。

その直後、美月からメッセージが届いた。

『今日はありがとう』

黒崎は、笑った。

『こちらこそ』

『なんか、まだ実感ないね』

『俺も』

少し間が空いた。

そして、美月からもう一通。

『玲司、これからもよろしくね』

黒崎は、右目で画面を見つめた。

そして、ゆっくりと返信した。

『うん。よろしく、美月』

スマートフォンを置く。

黒崎は、窓の外を見た。

夜の愛知県。

遠くに、街の明かりが見える。

左側は、見えない。

それでも、世界がすべて消えたわけではなかった。

「……まだ、これからだな」

黒崎は、小さくつぶやいた。

* * *

同じ頃。

東京都内、国民改革推進会議の事務所。

代表者は、数人の幹部と会議をしていた。

机の上には、全国から集まった署名の集計表が置かれていた。

「……予想以上です」

幹部の一人が言った。

「総理の権限強化を求める署名が、急速に増えています」

代表者は、うなずいた。

「国民は、黒崎総理を必要としている」

別の幹部が尋ねた。

「しかし、総理本人は、権限強化に反対しています」

代表者は、少し笑った。

「……だからこそ、我々が動く必要がある」

幹部たちは、顔を見合わせた。

代表者は、続けた。

「黒崎総理は、自分のために権力を求める人ではない」

そして、静かに言った。

「……ならば、国民が与えればいい」

会議室が、静まり返った。

代表者は、机の上の資料を見た。

そこには、新たな運動の名称が記されていた。

『国民による総理大臣直接選出制度の実現』

代表者は、ゆっくりと笑った。

「……これなら、黒崎総理も拒めないだろう」

* * *

2037年4月27日、午前0時05分。

愛知県内、病院。

黒崎は、眠っていた。

左目を覆う保護材。

胸腹部に残る傷。

そして、ベッド脇に置かれたスマートフォン。

画面には、美月から届いた最後のメッセージが残っていた。

『おやすみ。大好きだよ』

黒崎は、まだ知らなかった。

自分が病室で小さな幸せを見つけたその夜。

東京では、自分を守るという名目で、総理大臣の選び方そのものを変えようとする運動が始まっていたことを。

そして。

その運動が、やがて黒崎玲司を、誰も望まなかった場所へと追い込んでいくことを。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

第81話では、黒崎と美月が互いの気持ちを伝え、正式に交際を始めました。

一方、左目の失明による生活の変化や、襲撃の記憶が残す恐怖は、これからも黒崎が向き合わなければならない問題です。

そして、国民改革推進会議が打ち出した新たな構想。

「国民による総理大臣直接選出制度」

次回、第82話『国民が選ぶ独裁者』。

黒崎を守るための運動が、民主主義そのものを揺るがし始めます。

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