第80話 隻眼の宰相
2037年4月21日。
愛知県で襲撃された内閣総理大臣・黒崎玲司は、長時間の緊急手術によって一命を取り留めた。
しかし、その代償はあまりにも大きかった。
左目の永久失明。
そして、長期の療養を必要とする胸腹部の重傷。
黒崎が意識を取り戻す一方、日本では彼の襲撃をきっかけに、総理大臣の権限強化を求める声が急速に広がり始めていた。
国民は、英雄の帰還を待っていた。
だが、病室で目を覚ました男は、まだ自分に何が起きたのかさえ知らなかった。
2037年4月23日、午前8時12分。
愛知県内、救命救急センター。
「……黒崎さん」
遠くから、声が聞こえた。
「黒崎さん。聞こえますか?」
黒崎玲司は、ゆっくりと右目を開いた。
白い天井。
見慣れない照明。
規則的に鳴る電子音。
身体を動かそうとした瞬間、胸から腹部にかけて激しい痛みが走った。
「……っ!」
「動かないでください」
医師が、すぐに声をかけた。
「大きな手術を受けています。今は安静が必要です」
黒崎は、息を整えようとした。
しかし、思うように呼吸ができない。
喉がひどく乾いていた。
「……ここは」
かすれた声が出た。
「病院です」
医師が答えた。
「愛知県の病院です。あなたは、二日前に襲撃されました」
黒崎は、医師を見た。
「……襲撃」
その言葉を繰り返した。
記憶が、途切れ途切れによみがえる。
工場。
作業員たちの笑顔。
春の青空。
突然の怒号。
そして――
刃物を持った男。
黒崎の呼吸が速くなった。
「……あの男は」
「警察が確保しています」
医師は、落ち着いた声で答えた。
「今は、ご自身の身体のことを考えてください」
黒崎は、右手を動かした。
胸元に触れようとして、痛みに顔をしかめた。
「……俺は」
言葉が続かなかった。
何かがおかしい。
視界が、狭かった。
右側の景色は見える。
しかし、左側には何もない。
黒崎は、ゆっくりと顔を動かした。
「……先生」
「はい」
「左目の……これ」
左顔面には、保護材が当てられていた。
黒崎は、右目で医師を見つめた。
「……いつ、外せますか?」
医師は、すぐには答えなかった。
その沈黙だけで、黒崎は何かを察した。
「……先生?」
医師は、椅子を引き寄せた。
「黒崎さん。大切なお話があります」
* * *
午前8時25分。
病室。
眼科医が、黒崎のベッドの横に座っていた。
「今回の襲撃で、左眼球に非常に重い損傷を負いました」
黒崎は、黙って聞いていた。
「できる限りの処置を行いましたが、損傷は極めて深刻でした」
医師は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「……残念ですが、左目の視力は回復しません」
黒崎は、医師を見つめた。
「……回復しない?」
「はい」
「……しばらく、見えないということですか?」
医師は、首を横に振った。
「いいえ」
そして、静かに告げた。
「永久に、左目の視力を失った状態です」
黒崎は、何も言わなかった。
部屋には、医療機器の音だけが響いていた。
数秒。
十数秒。
やがて、黒崎が口を開いた。
「……そうですか」
医師は、続けた。
「今後、左眼の状態を見ながら、追加の治療が必要になる可能性があります」
黒崎は、うなずいた。
「……分かりました」
あまりにも、静かな返事だった。
医師は、黒崎の表情を見た。
「すぐに受け止められることではありません。疑問や不安があれば、いつでもお話しください」
黒崎は、少しだけ笑おうとした。
「……ありがとうございます」
しかし、笑顔にはならなかった。
医師たちが病室を出たあと。
黒崎は、右目で天井を見つめた。
左側には、何も見えない。
それは、目を閉じている感覚とは違った。
自分の世界から、左側の景色だけが消えてしまったようだった。
「……本当に」
黒崎は、小さくつぶやいた。
「……見えないんだな」
右目から、涙が流れた。
* * *
午前10時05分。
東京都千代田区、首相官邸。
小野寺航は、官房長官に電話で報告していた。
「総理の意識は、はっきりしてきています」
『そうですか』
「ただし、胸腹部の傷が深く、長期の療養が必要です」
『……左目については?』
小野寺は、一瞬、言葉に詰まった。
「……本人に、説明が行われました」
電話の向こうが静かになった。
『……そうですか』
小野寺は、続けた。
「総理は、今のところ落ち着いているそうです」
『……落ち着いている、か』
官房長官は、ため息をついた。
『あの人は、つらいときほど、何も言わないからな』
小野寺は、黙った。
『小野寺君』
「はい」
『総理に、仕事の話を持ち込みすぎないでくれ』
小野寺は、少し驚いた。
「……はい」
『今は、総理大臣である前に、一人の患者だ』
小野寺は、深くうなずいた。
「……承知しました」
* * *
午前11時30分。
東京都内、国民会計党本部。
宮原奈緒は、党内会議に出席していた。
議題は、黒崎の療養中における党運営だった。
「総理の回復には、相当な時間が必要です」
一人の議員が言った。
「党として、総理を支える体制を強化すべきではないでしょうか」
宮原は、うなずいた。
「それには賛成です」
しかし、別の議員が続けた。
「ならば、代表任期の見直しも検討すべきです」
宮原の表情が変わった。
「……どういうことでしょうか」
「黒崎総理は、国民から圧倒的な支持を受けています」
議員は、続けた。
「今回のような事件があっても、代表の地位が揺らがないようにする制度が必要ではないでしょうか」
会議室に、賛同する声が上がった。
宮原は、静かに手を挙げた。
「……一つ、確認させてください」
議員たちが、宮原を見た。
「それは、黒崎さんのためですか?」
質問した議員が、眉をひそめた。
「もちろんです」
宮原は、首を振った。
「……違うと思います」
会議室が静まり返った。
宮原は、続けた。
「黒崎さんは、党代表の任期を二年とし、異議申し立ての手続きを明確にする規約改正を認めました」
そして、机の上の資料を指さした。
「その規約を、本人が入院している間に変えるんですか?」
誰も答えなかった。
宮原は、静かに言った。
「……それは、黒崎さんを守ることにはなりません」
* * *
午後1時15分。
愛知県内、病院。
黒崎は、ベッドに横たわっていた。
午前中、医師から左目の状態を説明されたあと、ほとんど言葉を発していなかった。
窓から、春の日差しが差し込んでいる。
黒崎は、右目で窓を見た。
そして、ゆっくりと顔を左へ向けた。
見える範囲が、少しずつ変わる。
それまで、何も考えずに見えていた景色。
今は、首を動かさなければ確認できない。
「……不便だな」
黒崎は、小さくつぶやいた。
ベッド脇の水を取ろうとした。
しかし、距離感がつかめなかった。
手が、コップの横を通り過ぎる。
「あ……」
コップが倒れそうになった。
看護師が、すぐに支えた。
「大丈夫ですか?」
黒崎は、苦笑した。
「……すみません」
「大丈夫ですよ」
看護師は、コップを置き直した。
「片目での生活は、慣れるまで距離感がつかみにくいことがあります」
黒崎は、うなずいた。
「……そうなんですね」
看護師は、続けた。
「焦らなくて大丈夫です。リハビリもありますから」
黒崎は、コップを見つめた。
「……ありがとうございます」
看護師が出ていったあと。
黒崎は、右手を握りしめた。
そして、小さくつぶやいた。
「……こんなことも、できなくなるのか」
* * *
午後2時40分。
病院、面会室。
桐生美月は、小野寺から黒崎の容体について説明を受けていた。
「……左目のことは、本人に伝えられました」
美月は、うなずいた。
「……そうですか」
小野寺は、続けた。
「総理は、表面上は落ち着いているそうです」
美月は、視線を落とした。
「……玲司らしいですね」
小野寺は、少し驚いた。
「……そう思いますか?」
美月は、静かにうなずいた。
「つらいときほど、平気な顔をするんです」
そして、少し笑った。
「……昔から、ずっと」
小野寺は、黙って聞いていた。
美月は、続けた。
「でも、今回は……」
声が震えた。
「……きっと、すごくつらいと思います」
小野寺は、うなずいた。
「……そうですね」
美月は、顔を上げた。
「……会えますか?」
小野寺は、少し笑った。
「医師から、短時間なら面会できると聞いています」
美月の目が、大きく開いた。
「……本当ですか?」
「はい」
小野寺は、続けた。
「ただし、無理はさせないでください」
美月は、涙をこらえながらうなずいた。
「……分かりました」
* * *
午後3時05分。
愛知県内、病室。
扉が、静かに開いた。
黒崎は、右目で入口を見た。
そこに立っていたのは、美月だった。
「……玲司」
黒崎は、少し驚いた。
「……美月?」
美月は、ゆっくりと近づいた。
そして、ベッドの横に立った。
「……来ちゃった」
黒崎は、少し笑った。
「……東京から?」
「うん」
「……仕事は?」
美月は、眉をひそめた。
「……今、それ聞く?」
黒崎は、苦笑した。
「……ごめん」
美月は、椅子に座った。
そして、黒崎の顔を見た。
左目を覆う保護材。
頬に残る傷。
青白い顔色。
美月は、唇をかんだ。
「……痛い?」
黒崎は、少し考えた。
「……まあ、少し」
美月は、すぐに言った。
「嘘」
黒崎は、驚いた。
「……え?」
「絶対、すごく痛いでしょ」
黒崎は、苦笑した。
「……ばれたか」
美月は、笑おうとした。
しかし、涙が出てきた。
「……ばか」
黒崎は、黙った。
美月は、続けた。
「……本当に、ばか」
涙が、頬を伝った。
「……どれだけ心配したと思ってるの」
黒崎は、ゆっくりと右手を伸ばした。
しかし、途中で止めた。
距離が、分からなかった。
美月は、その手をそっと握った。
「……ほら」
黒崎は、少し驚いた。
美月は、涙を拭った。
「……無理しないで」
黒崎は、うなずいた。
「……ありがとう」
しばらく、二人は黙っていた。
やがて、黒崎が口を開いた。
「……美月」
「何?」
「……左目、見えなくなった」
美月は、うなずいた。
「……聞いた」
黒崎は、天井を見た。
「……もう、治らないんだって」
美月は、何も言わなかった。
黒崎は、続けた。
「……正直、まだ実感がない」
そして、小さく笑った。
「……でも、さっき水を取ろうとして、失敗した」
美月は、黒崎の手を握った。
「……うん」
黒崎は、少し声を落とした。
「……怖いな」
美月は、顔を上げた。
黒崎は、右目で天井を見つめたまま続けた。
「……これから、どうなるんだろうって」
その声は、震えていた。
美月は、ゆっくりと答えた。
「……分からないよ」
黒崎は、美月を見た。
美月は、涙を拭いながら続けた。
「私にも、分からない」
そして、少し笑った。
「……でも、一つだけ分かる」
「……何?」
美月は、黒崎の手を強く握った。
「……玲司が生きててくれて、よかった」
黒崎は、何も言わなかった。
美月は、続けた。
「左目が見えなくなっても、今までと同じようにできないことが増えても」
そして、静かに言った。
「……玲司は、玲司だよ」
黒崎の右目から、涙が流れた。
美月は、少し笑った。
「……だから、無理に強がらなくていいよ」
黒崎は、唇をかんだ。
そして、ようやく言った。
「……怖かった」
美月は、うなずいた。
「……うん」
「……死ぬかと思った」
「……うん」
黒崎は、涙を流した。
「……本当に、怖かった」
美月は、黒崎の手を握り続けた。
「……うん」
それ以上、何も言わなかった。
* * *
午後5時20分。
東京都内、テレビ局。
ニュース番組の編集会議が開かれていた。
「黒崎総理の容体について、続報が入りました」
スタッフが言った。
「意識が回復し、意思疎通が可能になったそうです」
編集長が、うなずいた。
「……よかった」
別のスタッフが、資料を差し出した。
「ただ、左目については、重い後遺症が残る可能性があると報じられています」
編集長は、資料を見た。
「……確定情報か?」
「いえ。まだ、政府から正式な説明はありません」
編集長は、首を振った。
「なら、断定するな」
そして、続けた。
「本人の医療情報だ。確認できていないことを、勝手に報じるわけにはいかない」
スタッフが、うなずいた。
そのとき、別のスタッフが言った。
「……編集長。SNSで、妙な言葉が広がっています」
「何だ?」
スタッフは、画面を示した。
そこには、黒崎の過去の演説映像とともに、一つの言葉が表示されていた。
『隻眼の宰相』
編集長は、画面を見つめた。
「……隻眼の宰相?」
「はい。総理の負傷に関する未確認情報から広がっているようです」
編集長は、少し考えた。
そして、静かに言った。
「……今は、使うな」
スタッフが、顔を上げた。
「……なぜですか?」
編集長は、答えた。
「本人がまだ、自分の身体に起きたことを受け止めている最中かもしれない」
そして、続けた。
「それを、勝手に英雄の物語にするな」
* * *
午後7時10分。
愛知県内、病院。
小野寺が、黒崎の病室を訪れた。
「……総理」
黒崎は、右目で小野寺を見た。
「……小野寺さん」
小野寺は、深く頭を下げた。
「……本当に、ご無事でよかったです」
黒崎は、少し笑った。
「……心配かけました」
小野寺は、首を振った。
「……いえ」
そして、少し間を置いた。
「総理。政府の職務については、臨時代理体制で対応しています」
黒崎は、うなずいた。
「……そうですか」
「はい」
黒崎は、少し安心したように息を吐いた。
「……よかった」
小野寺は、驚いた。
「……よかった、ですか?」
黒崎は、うなずいた。
「……俺がいなくても、ちゃんと動いてるんですね」
小野寺は、黙った。
黒崎は、続けた。
「……それが、一番大事です」
小野寺は、静かにうなずいた。
「……はい」
そして、少し迷ったあと、口を開いた。
「総理。もう一つ、報告があります」
黒崎は、顔を上げた。
「……何ですか?」
「今回の事件を受けて、一部の団体が、総理大臣の権限強化を求めています」
黒崎の表情が変わった。
「……権限強化?」
「はい」
小野寺は、続けた。
「総理の地位を制度的に保障するべきだという声もあります」
黒崎は、しばらく黙った。
そして、静かに言った。
「……それは、困りますね」
小野寺は、うなずいた。
黒崎は、続けた。
「……俺が刺されたことと、総理の権限を強くすることは、別の話でしょう」
「……はい」
黒崎は、少し息を整えた。
「……国民が怖がっているのは、分かります」
そして、続けた。
「でも、怖いからって、権力を一人に集めていい理由にはならない」
小野寺は、黙って聞いていた。
黒崎は、右目で小野寺を見た。
「……宮原さんに、伝えてください」
「何をでしょうか」
「……党の規約は、変えないでほしいって」
小野寺は、深くうなずいた。
「……承知しました」
* * *
2037年4月24日、午前9時30分。
東京都千代田区、首相官邸。
官房長官が、記者会見に臨んでいた。
「黒崎総理の容体について、ご報告いたします」
会見場が、静まり返った。
「総理は、意識を回復し、医師との意思疎通が可能な状態となっています」
シャッター音が響いた。
「ただし、胸腹部に重い外傷を負っており、引き続き入院治療が必要です」
記者が手を挙げた。
「総理の左目について、失明したという情報がありますが、事実でしょうか」
官房長官は、慎重に答えた。
「医療情報については、本人の意向を尊重し、必要な範囲で公表する方針です」
そして、続けた。
「現時点では、詳細についての説明は控えさせていただきます」
別の記者が質問した。
「総理は、いつ職務に復帰するのでしょうか」
官房長官は、首を振った。
「現段階で、復帰時期を申し上げることはできません」
そして、はっきりと言った。
「政府の機能は、現在の体制で維持されています。総理には、治療に専念していただきます」
* * *
午後1時05分。
愛知県内、病院。
黒崎は、ベッドに座る練習を始めていた。
看護師と理学療法士が、身体を支えている。
「……ゆっくりで大丈夫です」
黒崎は、うなずいた。
「……はい」
身体を起こす。
胸腹部に、痛みが走る。
「……っ!」
黒崎は、顔をしかめた。
「無理しないでください」
「……大丈夫です」
しかし、数秒後。
黒崎は、息を切らした。
「……すみません」
理学療法士が、笑った。
「謝る必要はありません」
そして、続けた。
「今日は、ここまでにしましょう」
黒崎は、ベッドに戻った。
額には、汗が浮かんでいた。
「……情けないな」
黒崎は、小さくつぶやいた。
理学療法士は、首を振った。
「情けなくありません」
そして、静かに言った。
「昨日まで、命の危険があったんです」
黒崎は、黙った。
「今は、回復することが仕事ですよ」
黒崎は、少し笑った。
「……そうですね」
* * *
午後4時50分。
東京都内。
国民改革推進会議が、記者会見を開いていた。
代表者は、力強く訴えた。
「黒崎総理への襲撃は、日本の民主主義に対する重大な攻撃です!」
会場から、拍手が起きた。
「私たちは、二度とこのような事件を起こさせてはなりません!」
さらに、代表者は続けた。
「国民の圧倒的支持を受ける黒崎総理が、政治的な妨害によって職務を失うことのないよう、制度を改めるべきです!」
記者が質問した。
「具体的には、どのような制度を想定していますか?」
代表者は、答えた。
「総理大臣の地位を、一定期間、より強固に保障する仕組みです」
記者が、さらに尋ねた。
「それは、国会による不信任や、政党内の代表選挙を制限するということですか?」
代表者は、一瞬、言葉に詰まった。
そして、答えた。
「……国民の意思を、より直接的に反映する制度が必要だと考えています」
会見場に、ざわめきが広がった。
* * *
午後6時20分。
愛知県内、病院。
黒崎は、病室のテレビを見ていた。
画面には、国民改革推進会議の記者会見が映っていた。
『黒崎総理の地位を、制度的に保障すべきだ』
黒崎は、リモコンを手に取った。
しかし、うまく距離がつかめず、指先が空を切った。
「……くそ」
小さく、つぶやいた。
もう一度、手を伸ばす。
今度は、リモコンをつかめた。
テレビを消す。
黒崎は、しばらく黙っていた。
そのとき、扉が開いた。
美月だった。
「……玲司?」
黒崎は、顔を上げた。
「……美月」
美月は、椅子に座った。
「……どうしたの?」
黒崎は、少し考えた。
「……何でもない」
美月は、黒崎を見つめた。
「……嘘」
黒崎は、苦笑した。
「……また、ばれたか」
美月は、少し笑った。
「……分かるよ」
黒崎は、天井を見た。
そして、静かに言った。
「……俺が、刺されたことで」
美月は、黙って聞いた。
「……総理の権限を強くしろって、言ってる人たちがいる」
美月は、うなずいた。
「……ニュースで見た」
黒崎は、続けた。
「……俺を守るためだって」
そして、小さく笑った。
「……でも、それって、おかしいよな」
美月は、少し考えた。
「……うん」
黒崎は、右目で美月を見た。
「……俺がいなくなったら、日本が動かなくなるような国には、したくないんだ」
美月は、うなずいた。
「……知ってる」
黒崎は、少し驚いた。
「……え?」
美月は、笑った。
「玲司、昔から言ってたじゃん」
そして、続けた。
「誰か一人が頑張らないと回らない仕組みは、どこかおかしいって」
黒崎は、黙った。
美月は、続けた。
「……だから、今は休んで」
黒崎は、苦笑した。
「……でも」
美月は、首を振った。
「でも、じゃない」
そして、静かに言った。
「……日本のことも大事だけど、玲司自身のことも大事にして」
黒崎は、何も言わなかった。
美月は、少し笑った。
「……私にとっては、総理大臣じゃなくても、玲司は玲司だから」
黒崎は、右目で美月を見つめた。
そして、小さくうなずいた。
「……ありがとう」
* * *
2037年4月25日、午前10時15分。
東京都内、テレビ局。
ニュース番組の編集会議。
「総理の左目について、複数の報道が出ています」
スタッフが言った。
「失明したという情報もありますが、政府はまだ正式に発表していません」
編集長は、うなずいた。
「……本人の意向が確認できるまで、断定は避けよう」
そのとき、別のスタッフが言った。
「ただ、SNSでは、ある呼び名が急速に広がっています」
画面に表示された文字。
『隻眼の宰相』
編集長は、しばらく見つめた。
「……誰が言い始めたんだ?」
「分かりません。最初は個人の投稿だったようですが、今では多くの人が使っています」
編集長は、少し考えた。
「……本人がどう思うか、だな」
スタッフが、うなずいた。
「はい」
* * *
午後2時30分。
愛知県内、病院。
黒崎は、医師から今後の治療方針について説明を受けていた。
「胸腹部の傷は、順調に回復しています」
黒崎は、うなずいた。
「……ありがとうございます」
「ただし、退院までには、まだ時間が必要です」
「……はい」
医師は、続けた。
「左眼については、今後の状態を見ながら、追加の治療を検討します」
黒崎は、静かにうなずいた。
「……分かりました」
医師は、少し笑った。
「黒崎さん。焦らないでくださいね」
黒崎は、苦笑した。
「……みんなに言われます」
医師も笑った。
「それだけ、皆さん心配しているんですよ」
黒崎は、少し考えた。
そして、静かに言った。
「……そうですね」
* * *
午後5時45分。
東京都千代田区、首相官邸。
官房長官が、黒崎から届いた短い文書を確認していた。
そこには、黒崎自身の言葉が記されていた。
『今回の事件に際し、多くの皆様から温かいお言葉をいただき、心より感謝申し上げます』
『私は現在、医師の指示に従い、治療に専念しています』
『政府の業務は、法令に基づく体制のもとで継続されています』
そして、最後に。
『私の負傷を理由として、国民の権利や民主的な制度を制限することは、私の望むところではありません』
官房長官は、文書を見つめた。
そして、小さく笑った。
「……本当に、あの人らしい」
* * *
午後7時00分。
東京都内。
黒崎の声明が、ニュースで報じられた。
『黒崎総理、療養中の声明』
『民主的制度の維持を強調』
『総理の権限強化論に慎重姿勢』
SNSには、さまざまな反応が広がった。
『黒崎総理らしい』
『まずは身体を治してほしい』
『総理がいなくても政府が動くことが大事なんだな』
一方で、別の声もあった。
『それでも黒崎総理を守る制度が必要だ』
『今の政治制度では、国民の意思が十分に反映されない』
議論は、収まらなかった。
そして、その中で、一つの呼び名が広がっていった。
『隻眼の宰相』
左目を失いながらも、民主主義を守ろうとする総理大臣。
その姿を象徴する言葉として、国民の間に定着し始めていた。
* * *
午後9時20分。
愛知県内、病院。
美月は、黒崎の病室を訪れていた。
「……玲司」
黒崎は、顔を上げた。
「……どうした?」
美月は、スマートフォンを見せた。
「……これ、見た?」
画面には、ニュース記事が表示されていた。
『隻眼の宰相――黒崎玲司が示した民主主義への決意』
黒崎は、右目で画面を見た。
そして、少し困ったように笑った。
「……何だ、これ」
美月は、笑った。
「……すごい呼び名だよね」
黒崎は、苦笑した。
「……大げさだよ」
美月は、うなずいた。
「……そうだね」
黒崎は、少し考えた。
そして、静かに言った。
「……俺は、ただ左目が見えなくなっただけだよ」
美月は、黒崎を見た。
黒崎は、続けた。
「……別に、偉くなったわけじゃない」
美月は、少し笑った。
「……うん」
黒崎は、右目で窓の外を見た。
「……でも」
美月は、顔を上げた。
「……何?」
黒崎は、静かに言った。
「……まだ、やらなきゃいけないことがある」
美月は、うなずいた。
「……知ってる」
そして、少し笑った。
「……でも、まずはちゃんと治してね」
黒崎は、苦笑した。
「……はい」
美月は、黒崎の右手を握った。
「……約束」
黒崎は、少し笑った。
「……約束」
窓の外には、静かな夜景が広がっていた。
黒崎玲司。
左目の視力を失った総理大臣。
人々は、彼をこう呼び始めた。
隻眼の宰相。
しかし、本人にとって、その呼び名は何の勲章でもなかった。
ただ、生き残ったという事実。
そして、失ったものの重さを、これから受け止めていかなければならないという現実。
黒崎は、右目で美月を見た。
「……美月」
「何?」
「……来週のご飯、無理になっちゃったな」
美月は、少し驚いた。
そして、笑った。
「……当たり前でしょ」
黒崎は、苦笑した。
「……ごめん」
美月は、首を振った。
「……いいよ」
そして、優しく言った。
「……退院してからでいいから」
黒崎は、うなずいた。
「……うん」
美月は、少しだけ顔を赤くした。
「……そのとき、ちゃんと話したいことがあるから」
黒崎は、少し驚いた。
「……そういえば、言ってたね」
美月は、笑った。
「……忘れないでよ」
黒崎も、笑った。
「……忘れない」
その夜。
黒崎は、久しぶりに穏やかな気持ちで眠りについた。
しかし、彼の知らないところで。
国民改革推進会議は、すでに次の行動を準備していた。
『黒崎総理の地位を、国民の意思によって守る』
その言葉を掲げた、新たな政治運動。
やがてそれは、黒崎自身が最も恐れていたものへと変わっていく。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
第80話では、黒崎が左目の永久失明という現実を知り、美月の支えを受けながら少しずつ前を向く姿を描きました。
そして、国民の間で広がり始めた呼び名――「隻眼の宰相」。
しかし、その呼び名が象徴する英雄像と、黒崎自身の考えには、少しずつ隔たりが生まれています。
次回、第81話。
黒崎と美月は、これまで言葉にしてこなかった互いの気持ちに向き合い始めます。
一方、総理を守るという名目で広がる政治運動は、新たな段階へ進もうとしていました。




