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支持率0%の男が、日本を作り直すまで  作者: 霜月 七日
第4章『独裁者の最後の決断』

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第78話『凶刃、総理を襲う』

日本を襲った大規模サイバー攻撃から、九日。

政府は、華龍人民共和国《かりゅうじんみんきょうわこく》の情報機関との関連を慎重に調べる一方、国内の政治資金をめぐる疑惑についても捜査を進めていた。

脅迫が続く中、黒崎玲司は、被害を受けた企業の声を直接聞くため、愛知県への視察を決断する。

その朝、彼は一人の女性から届いたメッセージに、いつもどおり返信した。

何も知らずに。

2037年4月21日、午前6時18分。

東京都千代田区、総理大臣公邸。

目覚まし時計が鳴る前に、黒崎玲司(くろさきれいじ)は目を覚ました。

窓の外は、まだ薄暗い。

ベッドから起き上がり、洗面所で顔を洗う。

鏡に映るのは、少し疲れた三十代の男だった。

「……ひどい顔だな」

自分で言って、苦笑する。

総理大臣になって九か月。

国会。

予算。

外交。

災害対策。

そして、今回のサイバー攻撃。

一つの問題が落ち着けば、次の問題がやってくる。

それでも、今日は少し気分が違った。

愛知県への視察。

画面越しではなく、現場で働く人々と話せる。

黒崎はスーツに袖を通し、スマートフォンを確認した。

一件のメッセージが届いていた。

桐生美月(きりゅうみづき)からだった。

『おはよう。今日は愛知だよね?』

黒崎は、笑った。

『おはよう。うん、これから行ってくる』

すぐに返信が届く。

『気をつけてね。ニュース見てると心配だから』

黒崎は、少し考えてから文字を打った。

『大丈夫。警護の人たちもいるから』

『そういう問題じゃないの』

黒崎は、思わず声を出して笑った。

そして、返信した。

『分かった。無理はしない』

しばらくして、美月からもう一通。

『来週のご飯、楽しみにしてるからね』

黒崎は、その文章を見つめた。

まだ、店も日程も決まっていない。

それでも、楽しみだった。

『俺も。帰ったら連絡する』

送信。

黒崎は、スマートフォンをポケットにしまった。

「……よし」

公邸の玄関へ向かう。

そこには、すでに警護員たちが待っていた。

「総理、おはようございます」

「おはようございます。今日もよろしくお願いします」

いつもと変わらない朝だった。

* * *

午前8時35分。

愛知県豊田市。

市内の自動車部品工場では、朝から慌ただしく準備が進められていた。

「総理が来るからって、無理にきれいにする必要はないぞ」

工場長が言った。

「いつもどおりの現場を見てもらうんだ」

従業員の一人が笑った。

「でも、総理大臣ですよ?」

「総理大臣だって人間だろ」

工場長は、腕を組んだ。

今回のサイバー攻撃で、工場の製造ラインは一時停止した。

取引先の物流管理システムとの連携が途絶え、出荷指示が届かなくなったのだ。

今は、一部を手作業に切り替えながら操業を続けている。

完全復旧には、まだ時間がかかる。

工場長は、作業員たちを見渡した。

「今日は、困ってることをそのまま話してくれ」

「……政府に文句言ってもいいんですか?」

若い従業員が尋ねた。

工場長は、笑った。

「言えばいい」

そして、少し真剣な顔になった。

「そのために、総理が来るんだろ」

* * *

午前9時10分。

東京都内、立憲未来党本部。

神谷蒼士(かみやそうし)は、テレビを見ていた。

画面には、愛知県に到着した黒崎の姿が映っている。

『黒崎総理、サイバー攻撃の被害企業を視察へ』

秘書が、コーヒーを置いた。

「総理、結局行ったんですね」

神谷は、うなずいた。

「……ああ」

「脅迫が続いているのに、大丈夫なんでしょうか」

神谷は、画面を見つめた。

「警護担当が条件付きで認めたんだろう」

そして、少し考えた。

「……ただ、何事もなければいいが」

秘書が、驚いたように顔を上げた。

「心配なんですか?」

神谷は、苦笑した。

「当たり前だろ」

そして、続けた。

「私は黒崎総理の政策に反対することはある。でも、あの人が無事でいてくれないと、国会で議論もできない」

神谷は、テレビを消した。

「……今度、ゆっくり話す約束もしているしな」

* * *

午前10時42分。

愛知県豊田市、自動車部品工場。

「……なるほど」

黒崎は、製造ラインを見つめていた。

工場長が説明する。

「こちらのラインは、先週まで停止していました」

「今は動いているんですね」

「はい。ただ、出荷管理の一部は、まだ手作業です」

黒崎は、うなずいた。

「従業員の皆さんへの影響は?」

工場長は、少し表情を曇らせた。

「勤務時間が減った者もいます。逆に、復旧対応で残業が増えた者もいます」

黒崎は、現場の作業員に目を向けた。

「……少し、お話を聞いてもいいですか?」

若い男性が、緊張した様子で前に出た。

「はい」

「今回の件で、一番困ったことは何ですか?」

男性は、少し迷った。

そして、正直に答えた。

「……給料です」

黒崎は、黙って聞いた。

「妻が、もうすぐ出産なんです」

「そうなんですね」

「だから、勤務時間が減ると、正直きつくて」

黒崎は、ゆっくりとうなずいた。

「……そうですよね」

男性は、慌てて続けた。

「あ、でも、会社が悪いわけじゃないんです。工場長も、いろいろ考えてくれてますし」

黒崎は、首を振った。

「分かっています」

そして、静かに言った。

「今回のような事態で、働く人の生活がどう影響を受けるのか。それを知りたくて来ました」

男性は、黒崎を見た。

黒崎は、続けた。

「すぐに全部解決できるとは言えません。でも、今日聞いたことは、持ち帰って検討します」

男性は、深く頭を下げた。

「……ありがとうございます」

黒崎は、少し笑った。

「こちらこそ、ありがとうございます」

* * *

午前11時55分。

工場内の会議室。

視察を終えた黒崎は、地元企業の関係者と意見交換を行っていた。

「総理。今回の攻撃で分かったことがあります」

中小企業の経営者が口を開いた。

「私たちは、便利なシステムに頼りすぎていたのかもしれません」

黒崎は、うなずいた。

「……どういうことでしょう」

「一つの管理システムが止まっただけで、工場も配送も止まってしまう」

経営者は、続けた。

「効率化は必要です。でも、止まったときの代替手段も必要だった」

黒崎は、資料にメモを書いた。

「……重要な指摘ですね」

別の経営者が言った。

「ただ、予備のシステムを作るにも、お金がかかります」

「そうですよね」

黒崎は、顔を上げた。

「政府としても、企業がどこまで自力で対応できるのか、現実的に考える必要があります」

そして、続けた。

「すべての企業に同じ対策を求めるのではなく、規模や業種に応じた支援を検討したいと思います」

会議室に、静かなうなずきが広がった。

* * *

午後0時38分。

東京都内、桐生美月の勤務先。

昼休み。

美月は、スマートフォンでニュースを見ていた。

『黒崎総理、愛知県の被害企業を視察』

画面には、工場の作業員と話す黒崎が映っていた。

美月は、小さく笑った。

「……相変わらずだな」

同僚が、隣から画面をのぞいた。

「黒崎さん?」

「うん」

「本当に心配なんだね」

美月は、少し照れた。

「……まあね」

同僚は、笑った。

「この前の話、考えた?」

「……何の話?」

「好きなのかって話」

美月は、顔を赤くした。

「……もう」

同僚は、笑った。

美月は、スマートフォンを見つめた。

そして、小さな声で言った。

「……まだ、よく分からない」

「そっか」

「でも」

美月は、少し間を置いた。

「……あの人が無事に帰ってきてくれたら、それだけでいいって思う」

同僚は、何も言わなかった。

美月は、画面を閉じた。

「……変かな」

同僚は、優しく笑った。

「全然」

* * *

午後1時25分。

愛知県豊田市。

視察先の工場を出た黒崎は、警護員に囲まれながら、次の移動車両へ向かっていた。

予定されていた取材は、すでに終了している。

周囲には、工場関係者と限られた報道陣がいた。

「総理、本日はありがとうございました!」

工場長が声をかけた。

黒崎は、振り返った。

「こちらこそ、ありがとうございました」

「また、ぜひ来てください!」

黒崎は、笑った。

「今度は、工場が完全に復旧したときに来たいですね」

周囲から、小さな笑い声が上がった。

そのときだった。

少し離れた場所で、男の怒鳴り声が響いた。

「……黒崎!」

黒崎は、声のした方向に顔を向けた。

警護員の一人が、すぐに動いた。

「総理、車両へお進みください」

黒崎は、うなずいた。

「分かりました」

しかし、次の瞬間。

「黒崎玲司ィィッ!!」

怒号が響いた。

周囲の空気が、一変した。

* * *

男が動いた。

警護員が叫ぶ。

「下がってください!」

一瞬の混乱。

悲鳴。

何かが地面に落ちる音。

黒崎は、突然、目の前に現れた男を見た。

その手に、刃物があった。

「――総理!」

警護員の声。

黒崎が身体を引こうとした、その瞬間。

左顔面に、焼けるような激痛が走った。

「……っ!」

視界が大きく揺れた。

反射的に顔を押さえる。

左目の前が、真っ暗だった。

何も見えない。

何が起きたのか、理解できなかった。

続いて、胸の下に強烈な衝撃が走った。

息が止まる。

「……ぐっ!」

さらに、腹部に痛みが走った。

身体から、力が抜けていく。

「刃物だ! 確保!」

「総理を守れ!」

複数の警護員が、男を取り押さえた。

周囲から、悲鳴が上がった。

黒崎は、よろめいた。

胸元に手を当てる。

指先が、赤く染まっていた。

「……何……」

声が出ない。

息を吸おうとしても、うまく吸えなかった。

左目は、何も見えなかった。

「総理!」

警護員が、黒崎の身体を支えた。

しかし、黒崎の膝は、すでに力を失っていた。

そのまま、地面へ崩れ落ちる。

「救急車! 至急!」

「出血が多い!」

「総理! 聞こえますか!」

黒崎は、ぼんやりと空を見た。

右目に、青い空が映っていた。

春の空。

いつもと変わらない、穏やかな空だった。

「……あ……」

何かを言おうとした。

しかし、言葉にならなかった。

遠くで、誰かが泣いている。

誰かが叫んでいる。

黒崎は、ふと思い出した。

今朝、美月から届いたメッセージ。

『来週のご飯、楽しみにしてるからね』

そして、自分が送った返信。

『俺も。帰ったら連絡する』

「……み……」

声にならない。

黒崎は、右手をわずかに動かした。

警護員が、その手を握った。

「総理! 大丈夫です! 救急隊が来ます!」

黒崎は、何かを伝えようとした。

しかし、視界が暗くなっていく。

最後に聞こえたのは、警護員の叫び声だった。

「総理! 目を開けてください!」

そして――

黒崎玲司の意識は、途切れた。

* * *

午後1時34分。

愛知県内、救急搬送中の車内。

「血圧、低下しています!」

「呼吸状態を確認!」

救急隊員たちが、懸命に処置を続けていた。

黒崎は、意識を失ったままだった。

左顔面には深い傷。

胸部から腹部にかけて、複数の刺傷。

救急隊員の一人が、搬送先の病院に連絡する。

「四十代未満の男性。刃物による重症外傷。意識障害あり。大量出血が疑われます!」

通信の向こうから、医師の声が返ってきた。

『受け入れます。外傷チームを準備します』

救急隊員は、黒崎の顔を見た。

テレビで何度も見た人物。

日本の総理大臣。

しかし、今、目の前にいるのは、一人の重傷患者だった。

「……絶対に助けるぞ」

隊員は、静かに言った。

* * *

午後1時41分。

東京都千代田区、首相官邸。

「……何だと?」

小野寺航は、電話を握りしめていた。

『総理が、刃物を持った男に襲撃されました』

「容体は?」

『重傷です。現在、病院へ搬送中です』

小野寺の顔から、血の気が引いた。

「……意識は?」

電話の向こうで、短い沈黙が流れた。

『……ありません』

小野寺は、目を閉じた。

そして、すぐに立ち上がった。

「官房長官に連絡! 危機管理担当を集めてください!」

職員たちが、一斉に動き始める。

「総理の容体を最優先で確認してください!」

「警察との連絡は?」

「すでに始まっています!」

小野寺は、電話を切った。

そして、誰にも聞こえない声でつぶやいた。

「……総理」

* * *

午後1時52分。

東京都内、立憲未来党本部。

神谷蒼士は、会議中だった。

そのとき、秘書が慌てて入ってきた。

「神谷さん!」

「どうしました?」

秘書は、息を切らしていた。

「……黒崎総理が」

神谷は、顔を上げた。

「……何?」

「愛知県で、襲撃されたそうです!」

会議室が静まり返った。

神谷は、ゆっくりと立ち上がった。

「……容体は?」

「まだ、詳しく分かっていません」

神谷は、机に手をついた。

「……そんな」

数秒の沈黙。

そして、神谷は、はっきりと言った。

「今日予定していた政権批判の記者会見は、中止してください」

秘書が、うなずいた。

「分かりました」

神谷は、続けた。

「党として、暴力を非難する声明を出します」

そして、少し声を落とした。

「……今は、黒崎総理が助かることを願うしかありません」

* * *

午後2時03分。

東京都内、桐生美月の勤務先。

「……え?」

美月は、スマートフォンを見つめていた。

画面には、速報が表示されていた。

『黒崎総理、愛知県で刃物による襲撃』

『意識不明の重体か』

美月は、何度も文字を読み返した。

「……嘘」

指先が震える。

すぐに黒崎へ電話をかけた。

呼び出し音。

一回。

二回。

三回。

つながらない。

「……玲司」

もう一度、かける。

つながらない。

美月の呼吸が、浅くなった。

同僚が駆け寄ってきた。

「美月!」

美月は、顔を上げた。

「……玲司が」

声が震えていた。

「……玲司が、刺されたって」

同僚は、美月の肩を支えた。

「落ち着いて。まだ、詳しいことは分からないから」

美月は、首を振った。

「……だって」

スマートフォンを握りしめる。

「……今朝、普通に連絡してたのに」

涙が、頬を伝った。

「……帰ったら連絡するって」

同僚は、何も言えなかった。

美月は、震える声でつぶやいた。

「……約束したのに」

* * *

午後2時18分。

愛知県内、救命救急センター。

「外傷患者、到着します!」

病院の廊下に、緊張が走った。

医師。

看護師。

手術室のスタッフ。

すでに、受け入れ準備は整っていた。

ストレッチャーが運び込まれる。

その上には、血に染まったスーツ姿の男性。

黒崎玲司だった。

「意識レベル低下!」

「血圧が維持できていません!」

医師が、傷の状態を確認した。

「胸腹部の損傷が疑われる。緊急手術の準備!」

別の医師が、左顔面を確認する。

そして、表情を険しくした。

「……眼科にも至急連絡してください」

看護師が、うなずいた。

「はい!」

医師は、黒崎の顔を見た。

「……必ず、助ける」

その言葉は、誰に向けたものでもなかった。

医師自身への、決意だった。

* * *

午後2時35分。

首相官邸、記者会見室。

官房長官が、演台に立った。

無数のカメラが向けられる。

記者たちの表情は、硬かった。

「本日、午後一時二十五分頃、愛知県内において、黒崎内閣総理大臣が刃物を持った人物に襲撃される事件が発生しました」

シャッター音が響く。

「総理は、現在、医療機関で治療を受けています」

記者の一人が手を挙げた。

「総理は、意識不明という情報がありますが、事実でしょうか!」

官房長官は、慎重に答えた。

「現時点では、重篤な状態であると報告を受けています。詳細については、医療機関からの情報を確認中です」

別の記者が叫ぶ。

「総理大臣としての職務は、どうなるんですか!」

官房長官は、表情を引き締めた。

「政府として、必要な職務が停滞しないよう、法令に従って対応します」

そして、続けた。

「まずは、総理の救命を最優先にしています」

* * *

午後3時10分。

愛知県内、病院。

手術室の扉が閉じられた。

黒崎の胸腹部には、深刻な損傷が疑われていた。

医師たちは、出血を抑え、傷ついた臓器の状態を確認するため、緊急手術を開始した。

一方、左目の状態も極めて厳しかった。

眼科医が、慎重に診察結果を伝える。

「……眼球そのものに、重大な損傷があります」

執刀医が、顔を上げた。

「視力は?」

眼科医は、短く息を吐いた。

「……現時点では、回復を見込むのは難しい状態です」

執刀医は、うなずいた。

「分かりました」

そして、手術台に目を向けた。

「……まず、命を救います」

手術室には、医療機器の音だけが響いていた。

* * *

午後4時25分。

東京都内。

黒崎襲撃のニュースは、日本中に広がっていた。

駅前の大型モニター。

会社の休憩室。

学校の職員室。

病院の待合室。

あらゆる場所で、人々が速報を見つめていた。

『黒崎総理、緊急手術』

『容体は依然として重篤』

『襲撃した男を現場で確保』

SNSには、祈りの言葉が次々と投稿された。

『お願いだから助かって』

『政策は全部支持してるわけじゃない。でも、こんなの絶対に許せない』

『黒崎総理、帰ってきてください』

一方で、怒りの声も広がり始めていた。

『犯人を絶対に許すな』

『外国勢力が関わっているんじゃないか』

『政府はもっと強い権限を持つべきだ』

根拠のない情報も、急速に拡散していた。

しかし、その時点で、犯人の動機も、背後関係も、確認されていなかった。

* * *

午後5時40分。

東京都内、桐生美月の自宅。

美月は、小さな旅行鞄に荷物を詰めていた。

同僚が、電話で話している。

『美月、本当に愛知に行くの?』

「……うん」

『でも、病院に行っても、すぐ会えるとは限らないよ』

「分かってる」

美月は、涙を拭った。

「……でも、ここにいたくない」

電話の向こうが、静かになった。

美月は、続けた。

「何もできないかもしれない。でも、近くにいたい」

『……分かった』

同僚は、優しく言った。

『気をつけてね』

美月は、うなずいた。

「ありがとう」

電話を切る。

スマートフォンの画面には、今朝のやり取りが残っていた。

『俺も。帰ったら連絡する』

美月は、画面を指でなぞった。

「……玲司」

そして、震える声で言った。

「……私、まだ何も言ってないよ」

涙が、止まらなかった。

* * *

午後7時15分。

愛知県内、病院。

手術は、まだ続いていた。

黒崎の出血は深刻だった。

医師たちは、懸命に処置を続けていた。

「……血圧は?」

「依然として不安定です」

「輸血を継続」

手術室に、緊張が走る。

執刀医は、時計を見た。

手術開始から、すでに四時間以上が経過していた。

「……ここが正念場だ」

医師は、静かに言った。

「絶対に、あきらめるな」

* * *

午後8時30分。

東京都千代田区、首相官邸。

小野寺は、執務室に一人で立っていた。

机の上には、黒崎が今朝まで読んでいた資料が残されていた。

企業支援。

外交協議。

税制改革。

地方財政。

どれも、途中だった。

小野寺は、椅子を見つめた。

いつもなら、そこに黒崎が座っている。

「小野寺さん、これ、もう少し分かりやすくできませんか」

「国民に説明するなら、数字の根拠も必要ですよね」

そんな声が、今にも聞こえてきそうだった。

小野寺は、机に手を置いた。

そして、小さくつぶやいた。

「……総理」

声が震えた。

「……まだ、仕事が残っていますよ」

返事はなかった。

* * *

午後10時05分。

愛知県内、病院。

手術室の前に、一人の女性が到着した。

桐生美月だった。

長い移動の疲れで、顔色は悪かった。

しかし、彼女は迷わず受付へ向かった。

「……黒崎玲司さんのことで、来ました」

職員が、顔を上げた。

「ご関係は?」

美月は、言葉に詰まった。

家族ではない。

婚約者でもない。

恋人ですら、まだなかった。

「……友人です」

ようやく、そう答えた。

職員は、申し訳なさそうに言った。

「現在、手術中です。面会については、確認が必要になります」

美月は、うなずいた。

「……分かっています」

そして、静かに尋ねた。

「……ここで、待っていてもいいですか?」

職員は、少し考えた。

「ご案内できる待合スペースがあります」

美月は、深く頭を下げた。

「……ありがとうございます」

* * *

午後11時18分。

病院の待合スペース。

美月は、椅子に座っていた。

時計の針だけが、ゆっくりと進んでいく。

スマートフォンを開く。

黒崎とのメッセージ。

『来週のご飯、楽しみにしてるからね』

『俺も。帰ったら連絡する』

美月は、唇をかんだ。

「……嘘つき」

小さな声だった。

「……帰ったら、連絡するって言ったじゃん」

涙が、頬を伝った。

「……まだ、何も話してないのに」

美月は、スマートフォンを胸に抱いた。

「……お願い」

声が震える。

「……お願いだから、帰ってきて」

そのとき。

廊下の向こうで、足音がした。

医師が、手術室から出てきた。

美月は、立ち上がった。

「……先生!」

医師は、疲れた表情をしていた。

その顔を見た瞬間、美月の心臓が大きく跳ねた。

「……玲司は」

声が出なかった。

医師は、静かに答えた。

「……手術は、まだ続いています」

美月は、息をのんだ。

医師は、続けた。

「現在、命を救うために、全力を尽くしています」

美月は、うなずいた。

「……お願いします」

深く、頭を下げた。

「……どうか、助けてください」

医師は、静かにうなずいた。

そして、再び手術室へ戻っていった。

美月は、その背中を見送った。

扉が閉じる。

再び、静寂。

美月は、ゆっくりと椅子に座った。

そして、両手を握りしめた。

「……玲司」

その声は、誰にも届かなかった。

* * *

2037年4月22日、午前0時03分。

愛知県内、病院。

手術室の中。

医師たちは、最後の処置を続けていた。

黒崎玲司。

日本国、第百代を超える歴代総理大臣の一人。

支持率九十八・四パーセントを記録した男。

三百二十一人の候補者全員を当選させた政党の代表。

しかし、今。

彼の命は、医師たちの手に委ねられていた。

「……血圧は?」

「少し、戻っています」

執刀医は、モニターを見た。

「……よし」

短く、息を吐いた。

だが、安心できる状態ではなかった。

大量出血。

臓器損傷。

そして、左眼の深刻な外傷。

命を救えたとしても、元の身体に戻れる保証はない。

執刀医は、黒崎の顔を見た。

そして、静かに言った。

「……生きて帰ってもらうぞ」

手術室の時計が、午前零時を過ぎた。

日本中が、黒崎玲司の生還を待っていた。

しかし、その左目に、再び光が戻ることはなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

第78話では、地方視察中の黒崎玲司が襲撃される事件を描きました。

政治的な対立がどれほど激しくても、暴力によって相手を排除することは許されません。

一方、黒崎と美月の関係にも、大きな転機が訪れようとしています。

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