第77話 その約束が、最後になるとは知らずに
日本を襲った大規模サイバー攻撃。
その背後に、華龍人民共和国の情報機関が関与している可能性が浮上した。
さらに、元財務副大臣・久世隆臣の証言によって、黒崎玲司を政治から排除しようとする計画の存在が疑われ始める。
一方、政府の対応に追われる黒崎には、長い間会えていない一人の女性がいた。
政治家としてではなく、一人の人間として交わす、小さな約束。
その約束が、これほど重い意味を持つことになるとは、まだ誰も知らなかった。
2037年4月18日、午前7時15分。
東京都千代田区、首相官邸。
「……中止、ですか」
黒崎玲司は、予定表から顔を上げた。
目の前には、総理秘書官の小野寺航と、警護担当の責任者が座っていた。
「はい。警護上の観点から、来週の地方視察について再検討をお願いしたいと考えています」
黒崎は、予定表に視線を戻した。
四月二十一日。
愛知県内の製造業関係者との意見交換。
四月二十二日。
地方自治体の財政担当者との会談。
いずれも、今回のサイバー攻撃による影響を確認するために組まれた予定だった。
「……先週も延期していますよね」
「承知しています」
警護責任者は、慎重に答えた。
「しかし、総理を名指しした脅迫が続いています。さらに、元財務副大臣の事情聴取で、過去に総理の排除を示唆する発言があったことも分かっています」
黒崎は、黙った。
「その証言と、現在の脅迫に関係があるかは不明です。ただ、警戒を強める必要があります」
黒崎は、窓の外を見た。
春の東京。
新年度が始まり、街はいつもの忙しさを取り戻していた。
「……分かりました」
小野寺が顔を上げる。
「では、視察は中止ということで」
「いえ」
黒崎は、首を振った。
「今すぐ中止と決めるのではなく、実施できる条件を整理してください」
警護責任者は、うなずいた。
「承知しました」
「安全が確保できないなら、現地訪問はしません。オンラインに切り替えます」
黒崎は続けた。
「ただ、現場の話を聞くことまで、やめるつもりはありません」
小野寺は、予定表にメモを書き込んだ。
そのとき、警護責任者が言った。
「総理。もう一点、お願いがあります」
「何でしょう」
「今後、予定外の行動は、極力お控えください」
黒崎は、少し苦笑した。
「……そんなに信用がありませんか」
「信用の問題ではありません」
責任者は、真剣な表情で答えた。
「総理の安全だけでなく、周囲の国民の安全にも関わります」
黒崎の笑みが消えた。
そして、深くうなずいた。
「……分かりました。気をつけます」
* * *
午前9時40分。
東京都内、警察関係施設。
久世隆臣は、机の前に座っていた。
昨日とは違い、今日は自分から事情を説明したいと申し出ていた。
「……私に資金を持ちかけた男の名前を話す」
捜査担当者が、顔を上げた。
「お願いします」
久世は、乾いた唇をなめた。
「真鍋宗一郎」
担当者は、その名前を記録した。
「どういう人物ですか?」
「政治コンサルタントを名乗っていた。海外企業との関係が深い男だ」
「いつ知り合いましたか?」
「2034年の秋だ」
久世は、うつむいた。
「最初は、ただの政策研究会だった」
「政策研究会?」
「ああ。日本の財政、税制、産業政策について意見交換をする。そういう話だった」
担当者は、静かに尋ねた。
「資金提供は、いつからですか?」
「翌年だ」
久世は、両手を組んだ。
「政治活動を支援したいと言われた。国内の法人を通じた資金だと説明された」
「資金の出所は確認しましたか?」
久世は、答えなかった。
担当者が、もう一度尋ねた。
「確認したんですか?」
「……十分には、していない」
部屋が静かになった。
久世は、苦しそうに続けた。
「私は、利用されたのかもしれん」
担当者は、表情を変えなかった。
「それは、調査して判断します」
久世は、顔を上げた。
「……ただ、一つだけ言っておく」
「はい」
「私は、黒崎を殺せなんて言っていない」
担当者のペンが止まった。
「……誰かが、そういう話をしたんですか?」
久世は、首を振った。
「直接は聞いていない」
そして、低い声で続けた。
「だが、真鍋は言っていた」
『政治的に止められない人間には、政治以外の弱点がある』
担当者は、久世を見つめた。
「……それは、いつの発言ですか?」
「黒崎が総理になった後だ」
久世は、視線を落とした。
「私は、冗談だと思っていた」
* * *
午前11時20分。
東京都内、民間のオフィス。
高瀬直樹は、パソコンの画面を見つめていた。
独立系の予算可視化サイト、JAPAN LEDGER。
黒崎が政治家になる以前から、高瀬が運営してきた民間サービスだ。
今回のサイバー攻撃では、JAPAN LEDGERにも異常なアクセスが集中した。
さらに、サイトが外国政府に情報を送っているという偽情報まで広がっていた。
「……まだ残ってるのか」
高瀬は、ため息をついた。
画面には、SNS上の投稿が並んでいた。
『JAPAN LEDGERは外国の工作サイト』
『黒崎政権と裏でつながっている』
『国民の情報を抜いている』
どれも、根拠の示されていない主張だった。
同僚が声をかけた。
「高瀬さん。これ、全部反論しますか?」
高瀬は、首を振った。
「一つずつ相手にしていたら、仕事にならない」
「じゃあ、どうします?」
「サイトの仕組みと、扱っているデータを分かりやすく説明する」
高瀬は、キーボードをたたいた。
「公開情報を整理しているだけだ。政府の内部システムにも接続していない。それを、誰でも確認できるようにする」
同僚は、うなずいた。
「……黒崎総理には連絡しますか?」
高瀬は、少し笑った。
「いや」
「どうしてです?」
「玲司は総理大臣だ。俺たちは民間の運営者だろ」
そして、続けた。
「だからこそ、距離を保つ必要がある」
高瀬は、画面を見た。
「……あいつがいなくなっても、このサイトが信用されるようにしないとな」
その言葉を口にした瞬間、高瀬は少しだけ顔をしかめた。
「……縁起でもないな」
* * *
午後0時45分。
首相官邸。
黒崎は、短い昼食を取っていた。
そこへ、宮原奈緒が訪ねてきた。
「総理。少しよろしいでしょうか」
「もちろんです」
宮原は、資料を机に置いた。
「今回のサイバー攻撃に伴う企業支援の件です」
黒崎は、うなずいた。
「お願いします」
「復旧費用への支援を求める声が増えています。ただ、既存制度で対応できる範囲と、新たな財政措置が必要な範囲を分ける必要があります」
黒崎は、資料を見た。
「……そうですね」
宮原は、続けた。
「それから、所得税の控除見直しについても、財源の整理が終わっていません」
黒崎は、箸を置いた。
「分かっています」
「総理。今回の事件があったからといって、財政上の説明を後回しにはできません」
黒崎は、少し笑った。
「……宮原さんは、こういうときでも厳しいですね」
宮原は、真剣な表情のまま答えた。
「こういうときだからです」
黒崎の笑みが消えた。
宮原は、静かに続けた。
「総理の支持率が高い今なら、多少説明が足りなくても、国民は受け入れるかもしれません」
「……はい」
「でも、それに甘えたら、私たちが批判してきた政治と同じになります」
黒崎は、深くうなずいた。
「……そのとおりです」
宮原は、少し表情を緩めた。
「それが確認できれば、十分です」
立ち上がろうとした宮原に、黒崎が声をかけた。
「宮原さん」
「はい」
「……もし、私が判断を間違えたら、遠慮なく止めてください」
宮原は、黒崎を見た。
そして、静かに答えた。
「最初から、そのつもりです」
* * *
午後3時10分。
東京都内、立憲未来党本部。
神谷蒼士は、久世隆臣に関する報道を確認していた。
秘書が、資料を差し出す。
「神谷さん。真鍋宗一郎という人物について、複数の報道機関が取材を始めています」
神谷は、うなずいた。
「……警察が確認している段階ですね」
「はい」
秘書は、少し声を落とした。
「一部の議員からは、外国勢力との関係を国会で追及すべきだという意見が出ています」
神谷は、資料を閉じた。
「追及は必要です」
そして、続けた。
「ただし、疑惑のある人物と会っただけで、犯罪者扱いするようなことは避けましょう」
秘書は、うなずいた。
神谷は、窓の外を見た。
「……今回の事件で、一番怖いのは何だと思いますか?」
秘書は、少し考えた。
「外国勢力による攻撃でしょうか」
神谷は、首を振った。
「それも怖い」
そして、静かに言った。
「でも、もっと怖いのは、国民が恐怖のあまり、何でも政府に任せればいいと思い始めることです」
秘書は、黙った。
神谷は、続けた。
「黒崎総理は、それを望んでいないと思います」
「……なぜですか?」
神谷は、少し笑った。
「この前、本人と話しましたから」
* * *
午後5時50分。
東京都内、桐生美月の勤務先。
「美月、今日飲みに行かない?」
同僚の誘いに、桐生美月は、少し考えた。
「……今日はやめておく」
「珍しいね」
「ちょっと、疲れちゃって」
同僚は、美月の顔を見た。
「……黒崎さんのこと?」
美月は、驚いた。
「え?」
「最近、ずっとニュース見てるじゃない」
美月は、少し笑った。
「……そんなに分かりやすい?」
「うん」
同僚は、椅子に座り直した。
「ねえ、美月」
「何?」
「黒崎さんとは、付き合ってるの?」
美月は、思わず目を見開いた。
「……えっ!?」
同僚は、笑った。
「そんなに驚かなくても」
美月は、慌てて首を振った。
「ち、違うよ。そういう関係じゃないから」
「本当に?」
「本当!」
同僚は、少し意地悪そうに笑った。
「じゃあ、好きなの?」
美月は、答えようとして――
言葉が出なかった。
「……え?」
自分でも、何を聞き返しているのか分からなかった。
同僚は、静かに言った。
「美月、最近ずっと心配してるよね」
美月は、視線を落とした。
「……だって、危ないことばかり起きてるし」
「うん」
「ニュースを見るたびに、何かあったんじゃないかって思うし」
「うん」
美月は、スマートフォンを見つめた。
「……連絡が来ると、ほっとするの」
同僚は、何も言わなかった。
美月は、続けた。
「忙しいのは分かってる。総理大臣なんだから、仕方ないって」
そして、小さく笑った。
「……でも、たまには普通に会って、ご飯くらい食べたいなって思う」
同僚は、優しく尋ねた。
「それって、好きなんじゃない?」
美月は、黙った。
しばらくして、顔を上げた。
「……そうなのかな」
同僚は、笑った。
「それは、自分で考えなよ」
美月も、小さく笑った。
しかし、胸の奥では、何かが変わり始めていた。
* * *
午後7時25分。
首相官邸。
黒崎は、執務室で資料を読んでいた。
そこへ、小野寺が入ってきた。
「総理。地方視察について、警護担当から新しい提案が来ています」
黒崎は、顔を上げた。
「……どうなりました?」
「二十一日の企業視察は、関係者との意見交換を中心とした限定的な訪問であれば、実施可能とする案です」
黒崎は、うなずいた。
「……条件は?」
「警護計画の見直し、訪問先との調整、当日の状況による中止判断などです」
黒崎は、資料を見た。
「分かりました」
小野寺は、続けた。
「ただし、総理。今回の訪問については、報道陣の取材範囲も制限する方向です」
黒崎は、少し考えた。
「現場の方々に、余計な負担がかからないようにしてください」
「承知しました」
黒崎は、予定表に目を落とした。
四月二十一日。
愛知県。
三日後だった。
* * *
午後8時40分。
東京都内、桐生美月の自宅。
美月は、ソファに座っていた。
テレビでは、黒崎政権の対応をめぐる討論番組が流れていた。
『総理への脅迫が続く中、地方視察を実施すべきなのか』
『警護の強化が必要ではないか』
『政府は毅然とした姿勢を示すべきだ』
美月は、リモコンを手に取った。
テレビを消す。
部屋が静かになった。
スマートフォンを開く。
黒崎とのメッセージ画面。
最後のやり取りは、昨日だった。
『ちゃんと帰ってきてね』
『もちろん』
美月は、しばらく画面を見つめた。
そして、文字を打った。
『玲司、今度いつ会える?』
送信ボタンを押す。
数分後。
返信が届いた。
『ごめん。最近ずっと予定が詰まってる』
美月は、少し寂しくなった。
しかし、すぐに次のメッセージが届いた。
『来週、少し時間を作れるかもしれない』
美月は、思わず顔を上げた。
『本当?』
『うん。まだ確定じゃないけど』
美月は、笑った。
『じゃあ、久しぶりにご飯行こうよ』
『いいね』
『何食べたい?』
しばらくして、返信が届いた。
『普通の定食がいい』
美月は、声を出して笑った。
「……総理大臣なのに」
そして、送った。
『じゃあ、私がお店探しておくね』
『ありがとう』
美月は、少し迷った。
そして、もう一通送った。
『玲司』
『何?』
『会ったら、ちょっと話したいことがある』
数秒後。
『分かった。俺も話したいことがある』
美月の胸が、小さく高鳴った。
「……何だろう」
画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
* * *
午後9時15分。
首相官邸。
黒崎は、スマートフォンを机に置いた。
久しぶりに、美月と会う約束をした。
正確には、まだ日程は決まっていない。
それでも、少しだけ気持ちが軽くなった。
「……普通の定食、か」
黒崎は、小さく笑った。
総理大臣になってから、外で気軽に食事をすることは難しくなった。
警護。
移動。
日程調整。
どこへ行くにも、多くの人が関わる。
以前なら、仕事帰りにふらりと入れた店にも、簡単には行けない。
黒崎は、窓の外を見た。
「……たまには、普通の生活がしたいな」
そのとき、小野寺が入ってきた。
「総理。失礼します」
黒崎は、スマートフォンを伏せた。
「どうしました?」
「華龍人民共和国との外交協議について、追加の報告です」
黒崎は、資料を受け取った。
小野寺は、続けた。
「華龍側は、今回のサイバー攻撃への関与を改めて否定しています」
「……そうですか」
「一方で、捜査協力については、具体的な回答がありません」
黒崎は、うなずいた。
「引き続き、外交ルートで確認してください」
「承知しました」
小野寺は、少し間を置いた。
「……総理」
「はい」
「最近、休めていますか?」
黒崎は、苦笑した。
「……あまり」
小野寺は、真剣な表情で言った。
「総理が倒れたら、困ります」
黒崎は、うなずいた。
「分かっています」
そして、少し笑った。
「来週、少しだけ楽しみな予定ができたので」
小野寺は、驚いた。
「……そうなんですか?」
「はい」
黒崎は、机の上のスマートフォンを見た。
「……久しぶりに、友人と食事をする約束です」
小野寺は、少し安心したように笑った。
「それは、ぜひ実現させましょう」
黒崎も笑った。
「お願いします」
* * *
午後10時50分。
東京都内、古い雑居ビル。
薄暗い部屋に、一人の男が座っていた。
机の上には、数枚の新聞が広げられていた。
その中央に、黒崎玲司の写真。
男は、無言で写真を見つめていた。
テレビから、ニュースキャスターの声が聞こえてくる。
『黒崎総理は、来週、サイバー攻撃の影響を受けた地方企業との意見交換を行う方向で調整しています』
男は、テレビを見た。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
机の引き出しを開ける。
中には、一冊の古い手帳があった。
男は、ページをめくった。
そこには、黒崎に関する新聞記事の切り抜きが挟まれていた。
『国民会計党、衆院選で321議席』
『黒崎政権、歴史的な支持率』
『総理大臣の権限強化を求める声』
男は、最後の記事を見つめた。
そして、低い声でつぶやいた。
「……お前が、日本を壊した」
その言葉には、強い憎しみが込められていた。
男は、手帳を閉じた。
机の上には、もう一枚の紙があった。
そこには、手書きの文字が記されていた。
『四月二十一日』
男は、しばらくその日付を見つめていた。
そして、紙を二つに折った。
* * *
午後11時35分。
首相官邸、総理大臣執務室。
黒崎は、最後の資料を閉じた。
長い一日だった。
机の上には、明日の予定表。
サイバー攻撃への対応。
外交協議。
企業支援。
国会対策。
どれも、簡単には終わらない仕事ばかりだった。
黒崎は、椅子にもたれた。
そして、スマートフォンを手に取った。
美月とのメッセージ画面を開く。
『会ったら、ちょっと話したいことがある』
黒崎は、少し笑った。
「……何だろうな」
自分にも、話したいことがあった。
総理大臣になってから、何度も考えていたこと。
いつまで、この仕事を続けるのか。
政治家として、どこまでやるべきなのか。
そして、政治家ではなくなった自分は、どんな人生を送りたいのか。
美月となら、そんな話ができる気がした。
黒崎は、メッセージを送った。
『おやすみ。来週、楽しみにしてる』
数分後。
返信が届いた。
『私も。絶対に約束だからね』
黒崎は、小さく笑った。
『うん。約束』
スマートフォンを置く。
そして、執務室の明かりを消した。
* * *
同じ頃。
東京都内の雑居ビル。
先ほどの男は、窓の外を見つめていた。
遠くで、救急車のサイレンが鳴っている。
男は、静かに目を閉じた。
そして、つぶやいた。
「……もう、後戻りはできない」
机の上には、折りたたまれた一枚の紙。
『四月二十一日』
その日付だけが、薄暗い部屋に残されていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、政治と外交の緊張が続く中で、黒崎と美月の関係にも焦点を当てました。
二人はまだ恋人同士ではありません。しかし、互いを大切に思う気持ちは、少しずつ変化し始めています。
また、久世隆臣の証言から、新たな人物の存在も浮かび上がりました。
次回、第78話『凶刃、総理を襲う』。
四月二十一日。
地方視察に向かった黒崎玲司を、日本中が震撼する事件が襲います。




