第76話 黒崎を売った日本人
日本の金融、物流、製造業を襲った大規模サイバー攻撃。
その背後に、外国の情報機関が存在する可能性が浮上した。
海外の日本大使館に現れた元情報分析官、アレクセイ・ヴォルコフ。
彼が持ち込んだ内部文書には、日本の政治家の名前が記されていた。
そして、政府が文書の検証を進める中、ある一人の人物が、東京から姿を消そうとしていた。
2037年4月17日、午前5時38分。
東京都港区。
まだ薄暗い高級マンションの地下駐車場に、一人の男が現れた。
黒いコート。
小さな旅行鞄。
男は周囲を見回し、スマートフォンを取り出した。
画面には、英語のメッセージが表示されていた。
『予定を変更する。午前8時の便には乗るな』
男は舌打ちした。
「……ふざけるな」
すぐに返信を打つ。
『もう限界だ。約束が違う』
数秒後。
新しいメッセージが届いた。
『あなたの安全は保証できない』
男の顔から血の気が引いた。
そのとき、背後から声がした。
「……久世先生」
男は振り返った。
駐車場の入り口に、スーツ姿の男性が立っていた。
「お久しぶりです」
男――久世隆臣は、旅行鞄の取っ手を強く握った。
かつて相馬内閣で財務副大臣を務めた政治家。
そして、半年前。
黒崎玲司に四十八人の議員を引き連れて接近し、国民会計党への合流を持ちかけた男だった。
久世は、目の前の男性をにらんだ。
「……何の用だ」
男性は、静かに答えた。
「少し、お話を伺いたいことがあります」
「私は急いでいる」
「存じています」
男性は、一歩だけ近づいた。
「ですが、出国される前に確認したいことがありまして」
久世の額に、汗が浮かんだ。
* * *
午前7時20分。
首相官邸。
「……久世隆臣?」
黒崎玲司は、資料から顔を上げた。
小野寺航がうなずく。
「はい。ヴォルコフ氏が提出した文書に、名前が記載されていました」
黒崎は、眉をひそめた。
「……以前、国民会計党への合流を申し出た人物ですね」
「そうです」
黒崎は、当時のことを思い出していた。
衆議院選挙を前に、久世は四十八人の現職議員を連れてきた。
資金力。
選挙組織。
そして、議席。
国民会計党にとって、魅力的な提案に見えた。
しかし、黒崎は断った。
資金提供の条件が不透明だったからだ。
「……文書には、何と?」
小野寺は、資料を開いた。
「久世氏の名前と、複数の送金記録らしき数字が記されています」
黒崎の表情が変わった。
「……送金?」
「はい。ただし、文書の真正性は確認中です。送金が実際に行われたかどうかも、まだ分かりません」
黒崎は、うなずいた。
「分かりました」
そして、続けた。
「久世さんが何かをしたと決めつけるのは、まだ早いですね」
小野寺は、うなずいた。
「はい」
黒崎は、資料を閉じた。
「……ただ、事実なら重大です」
* * *
午前8時45分。
東京都内、警察関係施設。
久世隆臣は、机の前に座っていた。
向かいには、捜査担当者が二人。
「久世さん。本日は任意でお話を伺っています」
担当者が説明した。
「……分かっている」
久世は、腕を組んだ。
「それで、何が聞きたい?」
担当者は、一枚の資料を差し出した。
「この団体をご存じですか?」
そこには、英語の名称が記されていた。
『東亜経済交流研究所』
久世は、一瞬だけ目を動かした。
「……知らん」
「本当ですか?」
「知らんと言っている」
担当者は、別の資料を出した。
「では、こちらは?」
そこには、海外で撮影された一枚の写真があった。
会議室。
円卓。
数人の男性。
その中央に、久世が座っていた。
久世は、黙った。
担当者が尋ねた。
「2035年11月。この会議に出席されていますね?」
久世は、しばらく写真を見つめた。
そして、低い声で答えた。
「……経済交流の会合だ」
「主催団体は?」
「覚えていない」
担当者は、静かに続けた。
「この会合に、華龍人民共和国の国家戦略情報局と関係が疑われる人物が参加していたという情報があります」
久世の表情が変わった。
「……何だと?」
「その人物をご存じですか?」
久世は、唇をかんだ。
「……知らん」
* * *
午前10時15分。
首相官邸、国家安全保障に関する会議。
大型モニターに、東アジアの地図が表示された。
その中央に、一つの国名が記されていた。
華龍人民共和国。
人口十四億人を超える、東アジアの大国。
巨大な経済力と軍事力を持ち、日本にとって重要な貿易相手国でもある。
一方で、周辺海域の領有権や安全保障をめぐり、日本との対立も抱えていた。
「今回のサイバー攻撃について、華龍人民共和国の情報機関との関連を疑う情報が複数寄せられています」
担当者が説明した。
黒崎は、画面を見た。
「……証拠は?」
「一部の不正プログラムと通信基盤について、過去に華龍の関係組織が利用したとされるものとの共通点があります」
「それだけですか?」
担当者は、首を振った。
「ヴォルコフ氏の証言と内部文書もあります。ただし、いずれも検証中です」
黒崎は、うなずいた。
「……まだ、国家による攻撃と断定する段階ではないですね」
「はい」
そのとき、外務大臣が口を開いた。
「総理。華龍政府は、今回の攻撃への関与を全面的に否定しています」
黒崎は、顔を上げた。
「公式な声明ですか?」
「はい」
外務大臣は、資料を読み上げた。
『華龍人民共和国は、いかなる国家に対するサイバー攻撃も支持しない』
『日本政府は、根拠のない疑惑を広めるべきではない』
『両国関係を損なう行為を慎むよう求める』
黒崎は、静かに聞いていた。
そして、尋ねた。
「……日本政府は、華龍を名指ししましたか?」
「いいえ」
「では、現時点では事実確認を続けましょう」
外務大臣がうなずく。
黒崎は続けた。
「ただし、外交ルートで協力を求めてください。攻撃への関与を否定するなら、調査に協力できることもあるはずです」
* * *
午後0時30分。
東京都内、立憲未来党本部。
神谷蒼士は、速報を見つめていた。
『元財務副大臣・久世隆臣氏、警察が任意聴取』
『海外団体との関係を確認』
秘書が、資料を持って入ってきた。
「神谷さん。久世氏の件ですが」
「……ああ」
「党内から、黒崎政権との関係を追及すべきだという意見が出ています」
神谷は、顔を上げた。
「関係?」
「久世氏は、以前、国民会計党への合流を申し出ています」
神谷は、少し考えた。
「……黒崎総理は、その申し出を断っていますよね」
「はい」
「なら、現時点で黒崎政権との関係を疑う根拠にはなりません」
秘書は、うなずいた。
神谷は、静かに続けた。
「久世氏が何をしたのか。それを調べるべきです」
そして、窓の外を見た。
「……外国勢力が日本の政治に介入しているなら、与党も野党も関係ない」
* * *
午後2時05分。
首相官邸。
「総理。華龍人民共和国の駐日大使から、会談の申し入れがありました」
小野寺が報告した。
黒崎は、うなずいた。
「……分かりました。外務省と調整してください」
小野寺は、少し迷ったように言った。
「総理。今回の件では、華龍政府が強く反発する可能性があります」
黒崎は、顔を上げた。
「……何に対してですか?」
「日本側が、華龍の情報機関との関連を調査していることに対してです」
黒崎は、少し考えた。
「調査すること自体は、必要です」
そして、続けた。
「ただし、証拠がない段階で相手を犯人扱いすることは避けましょう」
小野寺は、うなずいた。
「承知しました」
黒崎は、静かに言った。
「……相手が大国でも、必要な確認はします」
* * *
午後3時40分。
東京都内、警察関係施設。
久世は、再び資料を見せられていた。
「久世さん。この送金記録について、説明をお願いします」
担当者が、紙を差し出した。
そこには、複数の金額が記されていた。
一億二千万円。
八千万円。
六千万円。
久世は、眉をひそめた。
「……何の数字だ」
「海外団体から、日本国内の関連法人に送金されたとされる記録です」
久世は、黙った。
担当者が続けた。
「この関連法人から、久世氏の政治活動に関係する団体へ資金が移動した可能性があります」
久世は、机をたたいた。
「……証拠はあるのか!」
担当者は、落ち着いた声で答えた。
「現在、確認しています」
久世は、荒い息を吐いた。
「……私は、違法なことはしていない」
担当者は、うなずいた。
「その点も含めて、確認しています」
久世は、視線を落とした。
そして、低い声で言った。
「……金は、受け取った」
担当者のペンが止まった。
「……どのようなお金ですか?」
久世は、しばらく黙った。
「……政治活動のための支援だと説明された」
「誰から?」
久世は、顔を上げた。
「……日本人だ」
担当者が尋ねた。
「名前は?」
久世は、唇をかんだ。
そして、静かに答えた。
「……まだ、言えない」
* * *
午後5時20分。
東京都内、国民会計党本部。
「総理。久世氏の件が、かなり大きく報道されています」
片岡が、資料を差し出した。
黒崎は、うなずいた。
「そうですね」
片岡は、少し考えた。
「……あのとき、合流を断っておいて正解でした」
黒崎は、首を振った。
「……まだ、久世さんが違法なことをしたと決まったわけではありません」
片岡は、黙った。
黒崎は続けた。
「ただ、資金の出所が不透明だったから、受け入れられなかった。それだけです」
片岡は、うなずいた。
「……はい」
黒崎は、静かに言った。
「もし、あのとき議席欲しさに条件を飲んでいたら、今ごろ党として説明できなかったでしょうね」
片岡は、苦笑した。
「……そうですね」
黒崎は、資料を閉じた。
「政治は、目先の議席だけで判断すると、後で大きな代償を払うことになります」
* * *
午後7時10分。
首相官邸。
華龍人民共和国の駐日大使との会談が始まった。
会議室には、黒崎、外務大臣、通訳、関係者が同席していた。
大使は、落ち着いた表情で口を開いた。
「黒崎総理。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
黒崎は、うなずいた。
「こちらこそ」
大使は続けた。
「今回、日本国内で発生したサイバー攻撃について、我が国の関与を疑う報道が広がっています」
黒崎は、静かに答えた。
「日本政府として、現時点で攻撃主体を特定した事実はありません」
大使は、うなずいた。
「その点は理解しています」
そして、少し声を低くした。
「ただし、根拠のない疑惑によって、両国関係が損なわれることを懸念しています」
黒崎は、まっすぐ大使を見た。
「私も、根拠のない疑惑で関係を悪化させるつもりはありません」
大使は、わずかに表情を緩めた。
しかし、黒崎は続けた。
「一方で、日本国内で実際に被害が発生していることも事実です」
大使は、黙った。
黒崎は、はっきりと言った。
「日本政府は、必要な調査を続けます」
大使は、静かに答えた。
「……それは、日本政府の判断ですね」
「はい」
黒崎は、うなずいた。
「そして、調査に必要な協力を、華龍政府にもお願いしたいと思っています」
会議室に、短い沈黙が流れた。
大使は、黒崎を見つめた。
そして、ゆっくりと答えた。
「……本国に伝えます」
* * *
午後9時30分。
東京都内、桐生美月の自宅。
桐生美月は、ニュースを見ていた。
『黒崎総理、華龍人民共和国大使と会談』
『サイバー攻撃への関与をめぐり協議』
美月は、スマートフォンを手に取った。
『玲司、ニュース見たよ』
しばらくして、返信が届いた。
『うん。今終わったところ』
美月は、少し考えた。
『大変そうだね』
黒崎から返信が来た。
『大変だけど、やるしかないね』
美月は、画面を見つめた。
そして、送った。
『ちゃんと帰ってきてね』
数秒後。
『もちろん』
美月は、小さく笑った。
「……絶対だよ」
* * *
午後11時05分。
東京都内、警察関係施設。
久世隆臣は、長時間の事情聴取を終えようとしていた。
担当者が、最後の質問をした。
「久世さん。今回のサイバー攻撃について、何か知っていることはありませんか?」
久世は、首を振った。
「……知らん」
「本当に?」
「知らんと言っている」
担当者は、うなずいた。
「分かりました」
そして、資料を閉じた。
「本日は、ここまでにしましょう」
久世は、立ち上がった。
しかし、扉に向かう途中で足を止めた。
「……一つだけ」
担当者が顔を上げた。
「はい」
久世は、振り返った。
「……私に金を渡した男が、言っていたことがある」
担当者は、黙って聞いていた。
久世は、低い声で続けた。
「日本は、これから大きく変わる」
「……どういう意味ですか?」
久世は、唇をかんだ。
「……黒崎玲司が、総理大臣になったら困る人間がいる、と」
担当者の表情が変わった。
「……誰が困るんですか?」
久世は、首を振った。
「知らん」
そして、静かに言った。
「……ただ、あの男は、こうも言っていた」
担当者が身を乗り出した。
久世は、震える声で続けた。
「黒崎を政治から排除できなければ、別の方法を考える、と」
室内が静まり返った。
担当者は、ゆっくりと尋ねた。
「……別の方法とは?」
久世は、答えなかった。
ただ、視線を落とした。
* * *
午後11時48分。
首相官邸。
黒崎は、最新の報告書を読んでいた。
そのとき、内線電話が鳴った。
「黒崎です」
『総理。警察から、緊急の報告です』
黒崎は、顔を上げた。
「……どうしました?」
『久世隆臣氏の事情聴取で、新たな証言が得られました』
黒崎は、資料を置いた。
「……どんな証言ですか?」
担当者は、少し間を置いた。
そして、静かに言った。
『総理を政治から排除する計画が、過去に話し合われていた可能性があります』
黒崎の表情が変わった。
「……私を?」
『はい』
黒崎は、しばらく黙った。
そして、静かに尋ねた。
「……その計画は、今も続いているんですか?」
電話の向こうで、短い沈黙が流れた。
『……現時点では、確認できていません』
黒崎は、うなずいた。
「分かりました」
そして、続けた。
「必要な調査を進めてください」
『承知しました』
電話が切れた。
黒崎は、窓の外を見た。
東京の街は、静かだった。
しかし、その静けさの裏で、何者かが動いている。
黒崎は、ゆっくりと息を吐いた。
「……政治から排除する、か」
そして、静かにつぶやいた。
「……そこまでして、何を守りたいんだ」
その問いの答えは、まだ見えなかった。
しかし、黒崎は知らなかった。
すでに日本国内で、彼の命を狙う計画が動き始めていることを。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、華龍人民共和国との外交的な緊張と、元財務副大臣・久世隆臣の疑惑を描きました。
外国勢力によるサイバー攻撃の可能性が浮上する一方、日本国内にも不透明な資金の流れが存在することが示されました。
そして、久世の証言によって、黒崎総理自身を標的とする計画の存在が疑われ始めます。
次回は、政府が国内の協力者を追う中、黒崎の警護体制にも変化が生じます。
日本の政治を変えた男に、これまでとは異なる危険が迫っていました。




