第75話 亡命者が持ってきた国家機密
日本を襲った大規模サイバー攻撃。
金融、物流、製造業へと広がった混乱は、少しずつ収束に向かっていた。
しかし、黒崎総理を名指しする脅迫は止まらない。
そんな中、在外公館を通じて、一人の外国人男性が日本政府との接触を求めてきた。
彼が提示したのは、サイバー攻撃に関する情報だけではなかった。
それは、日本の政治を根底から揺るがしかねないものだった。
2037年4月16日、午前6時20分。
東南アジア某国、日本大使館。
「……もう一度、お名前をお願いします」
領事担当官は、目の前の男性を見つめた。
年齢は四十代半ば。
痩せた顔に、深い隈が刻まれている。
男性は、流暢な英語で答えた。
「アレクセイ・ヴォルコフ」
「国籍は?」
「それは、ここで答えるべきではありません」
担当官は眉をひそめた。
「身元を確認できなければ、対応が難しくなります」
男性は、机の上に一枚の紙を置いた。
そこには、十二桁の英数字が記されていた。
「これを、東京のサイバーセキュリティ担当者に伝えてください」
「これは?」
「彼らなら、意味が分かるはずです」
担当官は紙を見た。
「……何の番号ですか?」
男性は、低い声で答えた。
「日本の金融機関を攻撃した作戦の、内部管理番号です」
部屋の空気が変わった。
担当官は、男性を見つめた。
「……あなたは、何者ですか?」
男性は、しばらく黙った。
そして、静かに答えた。
「かつて、国家のために働いていた人間です」
「どこの国家ですか?」
男性は、首を振った。
「今は言えません」
そして、続けた。
「ただ、一つだけ伝えてください」
担当官は、ペンを構えた。
男性は、はっきりと言った。
「黒崎玲司は、偶然狙われたわけではありません」
* * *
午前8時45分。
首相官邸。
「総理。外務省から緊急報告です」
小野寺航が、執務室に入ってきた。
黒崎玲司は、朝の資料から顔を上げた。
「……また、脅迫ですか?」
「いえ。今回は、情報提供の申し出です」
小野寺は、資料を差し出した。
「海外の日本大使館に、今回のサイバー攻撃について内部情報を持っていると主張する人物が現れました」
黒崎は、ページをめくった。
「……身元は?」
「確認中です」
「情報の信頼性は?」
「まだ判断できません。ただし、本人が提示した識別番号について、関係機関が確認を進めています」
黒崎は、うなずいた。
「分かりました」
小野寺は、少し声を落とした。
「それから、総理」
「はい」
「その人物は、総理が今回の攻撃の標的になった理由を知っていると話しています」
黒崎の手が止まった。
「……理由?」
「はい」
黒崎は、資料を閉じた。
「まず、本人の安全を確保できるよう、現地の法令や外交上の手続きも含めて対応を検討してください」
「承知しました」
「それから、情報の真偽を確認しましょう」
小野寺がうなずく。
黒崎は、静かに言った。
「……話を聞く前から、味方だと決めつけるわけにはいきませんから」
* * *
午前10時12分。
首相官邸、危機管理センター。
「識別番号の一部について、確認が取れました」
担当者の言葉に、室内の視線が集まった。
大型モニターには、複数の資料が表示されていた。
「海外の協力機関から共有されていた分析資料に、同じ形式の番号が存在しています」
黒崎は尋ねた。
「……完全に一致したんですか?」
「いいえ。形式が一致した段階です。ただ、通常は公開されない情報です」
「つまり、内部情報に接した人物である可能性はある」
「はい」
担当者は続けた。
「本人は、今回の攻撃を『作戦オーロラ』と呼んでいます」
黒崎は、眉をひそめた。
「……オーロラ?」
「はい。攻撃者側の内部名称だと主張しています」
黒崎は、資料を見つめた。
「その名称も、確認できていないんですね」
「はい」
黒崎はうなずいた。
「では、仮称として扱ってください」
そのとき、外務省の担当者が口を開いた。
「総理。本人は、対面での情報提供を希望しています」
「日本に来るということですか?」
「そうです。ただし、身の安全を保証してほしいと」
黒崎は少し考えた。
「……保証できる範囲と、できない範囲を明確にしてください」
担当者が顔を上げた。
「といいますと?」
「政府が約束できないことまで、約束してはいけません」
黒崎は続けた。
「そのうえで、適切な保護措置を検討してください」
* * *
午後0時25分。
東京都内、立憲未来党本部。
神谷蒼士は、一本の電話を受けていた。
相手は、政府関係者だった。
『神谷議員。今回のサイバー攻撃について、政府から野党側にも説明の機会を設けたいとのことです』
「……分かりました」
『ただし、一部は機微な情報を含みます』
神谷はうなずいた。
「必要な手続きには従います」
電話が切れた。
隣にいた秘書が尋ねた。
「政府からですか?」
「ああ」
神谷は、窓の外を見た。
「……どうやら、事態が動いているらしい」
秘書は、少し考えた。
「黒崎総理から直接ですか?」
「いや。政府の担当者からだ」
神谷は、机に置かれた資料を見た。
その一番上には、三月末に黒崎から届いた短いメッセージが印刷されていた。
『もちろんです。お待ちしています』
神谷は、静かにつぶやいた。
「……まだ、あの話もできていないな」
* * *
午後2時40分。
首相官邸。
黒崎は、経済産業関係の担当者から報告を受けていた。
「愛知県内の製造業については、一部で通常操業に戻っています」
「従業員への影響は?」
「生産停止に伴う勤務調整が発生しています。ただし、現時点で全体の影響額は集計できていません」
黒崎は、うなずいた。
「……企業ごとの事情も違いますからね」
「はい」
担当者は続けた。
「中小企業からは、復旧費用や納期遅延への対応について相談が寄せられています」
黒崎は、資料を見た。
「既存の支援制度で対応できるものと、新たな措置が必要なものを整理してください」
「承知しました」
黒崎は、少し間を置いた。
「……今回の件で、現場が一番困っていることは何ですか?」
担当者は、考えた。
「復旧の見通しが分からないことだと思います」
黒崎は、うなずいた。
「そうですよね」
そして、続けた。
「政府がすべてを直せるわけではありません。でも、何が分かっていて、何が分かっていないかは伝えられます」
* * *
午後4時15分。
東南アジア某国、日本大使館。
アレクセイ・ヴォルコフは、窓の外を見ていた。
大使館の職員が、部屋に入ってくる。
「ヴォルコフさん。日本政府から、追加の質問が届いています」
男性は、うなずいた。
「どうぞ」
職員は、資料を開いた。
「あなたは、今回の攻撃が国家の関与する作戦だと主張していますね」
「はい」
「その根拠は?」
ヴォルコフは、しばらく黙った。
そして、鞄から古い手帳を取り出した。
「私は、以前、情報分析に関わる仕事をしていました」
職員は、手帳を見た。
「……この手帳は?」
「作戦会議の記録です」
「本物だと証明できますか?」
「照合できる情報が含まれています」
ヴォルコフは、一枚のページを開いた。
そこには、複数の国名と日付が記されていた。
そして、一つの名前。
『JAPAN』
職員は、眉をひそめた。
「……日本?」
ヴォルコフは、うなずいた。
「日本は、かなり前から監視対象でした」
「なぜですか?」
男性は、静かに答えた。
「経済規模が大きいからです。そして、政治的な影響力もある」
職員は、続けて尋ねた。
「では、なぜ黒崎総理が標的になったのですか?」
ヴォルコフは、手帳を閉じた。
「……彼が、日本の政治を変えたからです」
* * *
午後6時30分。
首相官邸。
「総理。ヴォルコフ氏から、追加の情報が届きました」
小野寺が、資料を差し出した。
黒崎は、ページをめくった。
そこには、海外の情報工作に関する説明が記されていた。
政府への不信感を高める。
経済活動を混乱させる。
社会の対立を拡大する。
そして、政治的な判断を誤らせる。
黒崎は、眉をひそめた。
「……ずいぶん、広い目的ですね」
小野寺は、うなずいた。
「はい」
黒崎は、資料を見つめた。
「ただ、これだけでは、今回の攻撃と結びつけられませんね」
「そのとおりです」
小野寺は、続けた。
「ですが、本人は、さらに重要な情報を持っていると話しています」
黒崎は、顔を上げた。
「……何ですか?」
小野寺は、少し間を置いた。
「日本国内に、作戦に協力している人物がいる可能性があると」
黒崎の表情が変わった。
「……国内に?」
「はい」
黒崎は、しばらく黙った。
そして、静かに尋ねた。
「……名前は?」
小野寺は、首を振った。
「まだ、明かしていません」
「なぜですか?」
「日本政府との正式な面会が実現した段階で、証拠とともに説明すると」
黒崎は、資料を閉じた。
「……分かりました」
そして、続けた。
「まずは、その人物の情報が本当かどうかを確認しましょう」
* * *
午後8時10分。
東京都内、桐生美月の自宅。
桐生美月は、テレビを見ていた。
画面には、黒崎の記者会見が映っていた。
『政府、海外からの情報提供を確認』
『攻撃主体の特定には至らず』
美月は、スマートフォンを手に取った。
『玲司、今日も忙しい?』
しばらくして、返信が届いた。
『うん。少し長くなりそう』
美月は、ため息をついた。
『最近、ずっとそうだね』
数秒後。
『ごめん』
美月は、少し考えた。
そして、送った。
『謝らなくていいから、無事に帰ってきて』
黒崎からの返信は、少し遅れた。
『うん。約束する』
美月は、画面を見つめた。
「……約束、だからね」
* * *
午後9時45分。
首相官邸。
黒崎は、神谷との短い面会を終えたところだった。
「……神谷さん。今日はありがとうございました」
黒崎が言うと、神谷はうなずいた。
「こちらこそ」
神谷は、少し考えた。
「総理。一つだけ」
「はい」
「今回の件で、政府の権限を強化する議論が進むかもしれません」
黒崎は、うなずいた。
「そうですね」
神谷は、続けた。
「必要な対策には協力します。ただし、権限を広げるなら、その権限を誰が監督するのかも明確にしてください」
黒崎は、はっきりと答えた。
「もちろんです」
神谷は、少し笑った。
「……それなら、安心しました」
黒崎も、小さく笑った。
「神谷さん」
「はい」
「この前、話したいことがあると連絡をくれましたよね」
神谷は、少し驚いた。
「……覚えていたんですか?」
「もちろんです」
黒崎は、続けた。
「今回の件が落ち着いたら、改めて時間を取りましょう」
神谷は、うなずいた。
「……お願いします」
* * *
午後11時20分。
首相官邸、総理大臣執務室。
黒崎は、一人で資料を読んでいた。
ヴォルコフ。
作戦オーロラ。
海外の情報工作。
そして、日本国内の協力者。
どれも、まだ確認が必要な情報だった。
黒崎は、静かにつぶやいた。
「……国内に協力者がいる、か」
そのとき、執務室の電話が鳴った。
「黒崎です」
『総理。外務省から緊急の報告です』
「どうしました?」
『ヴォルコフ氏が、新しい資料を提出しました』
黒崎は、顔を上げた。
「……どんな資料ですか?」
『過去の情報工作に関する、内部文書とみられるものです』
「内容は?」
電話の向こうで、担当者が少し間を置いた。
そして、静かに言った。
『……日本の政治家に関する記載があります』
黒崎の表情が引き締まった。
「……政治家?」
『はい』
黒崎は、資料を机に置いた。
「名前は?」
担当者は、慎重に答えた。
『まだ文書の真偽を確認できていません。ただし、複数の人物の名前が記載されています』
黒崎は、少し考えた。
「……分かりました」
そして、続けた。
「まず、文書の真偽を確認してください」
『承知しました』
電話が切れた。
黒崎は、しばらく動かなかった。
そして、静かにつぶやいた。
「……もし、本当なら」
その先の言葉は、口にしなかった。
日本を狙ったサイバー攻撃。
海外からの情報工作。
そして、国内の政治家。
それらが本当に結びついているのか。
まだ、誰にも分からない。
しかし、黒崎は直感していた。
今回の事件は、単なるサイバー攻撃では終わらない。
日本の政治そのものを揺るがす事件へと、変わり始めている。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、海外の日本大使館に現れた謎の人物、アレクセイ・ヴォルコフを中心に描きました。
彼の証言は、今回のサイバー攻撃の背景に、より大きな目的が存在する可能性を示しています。
しかし、証言が真実なのか、意図的に作られた偽情報なのかは、まだ分かりません。
次回は、ヴォルコフが提出した文書の検証が進みます。
そして、日本国内の政治家に関する記載が、新たな疑惑を呼び起こします。




