第70話 総理大臣を辞めさせる法律――黒崎玲司、最大の決断
内閣支持率98.4%。
衆議院三百二十一議席。
黒崎玲司は、かつてないほど大きな政治的影響力を手にしていた。
その一方で、党内では総理の権限強化を求める声が広がり、国民の一部は野党や国会の存在さえ不要だと主張し始めていた。
そんな中、黒崎は自らの権力を制限する改革案を発表する。
しかし、その改革に最も強く反発したのは、黒崎を総理大臣に押し上げた仲間たちだった。
2037年3月15日、午前9時。
首相官邸。
「……総理、本当にこれを提出するんですか?」
片岡誠司は、手元の文書を見つめていた。
表紙には、こう書かれていた。
『国民会計党・党運営改革案』
黒崎玲司は、うなずいた。
「はい」
片岡は、もう一度資料を確認した。
党代表の任期を二年とする。
代表選挙では、所属国会議員だけでなく、一定の資格を持つ党員も投票できるようにする。
代表への不信任を求める党内手続きを明文化する。
政策決定における少数意見を記録し、党内議員が反対意見を述べたことだけを理由に不利益を与えない。
さらに、代表選挙に現職代表が立候補する場合も、対立候補と同じ条件で討論会を実施する。
片岡は、顔を上げた。
「総理。これでは、党内であなたを代表から降ろすことができるようになります」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
「……それでいいんですか?」
黒崎は、少し考えた。
「むしろ、今まで明確な手続きがなかったことの方が問題だと思います」
片岡は、深く息を吐いた。
「総理。あなたの支持率は九十八・四パーセントですよ」
「はい」
「今、党代表選挙を行えば、誰も勝てません」
黒崎は、静かに答えた。
「……だから、今のうちに決めるんです」
片岡は、黙った。
黒崎は続けた。
「私の人気が落ちてからルールを変えたら、自分を守るためだと思われます」
そして、はっきりと言った。
「一番強い立場にいる今、自分にも適用されるルールを作りたいんです」
* * *
2037年3月17日、午後2時。
国民会計党本部。
党運営改革案の説明会には、二百人を超える議員が参加していた。
「……私は、反対です!」
新人議員の一人が立ち上がった。
「今の国民会計党があるのは、黒崎総理のおかげです!」
会場から拍手が起きた。
「国民は黒崎総理を支持しているんです。それなのに、党内で総理を辞めさせる仕組みを作る必要があるんでしょうか!」
別の議員も立ち上がった。
「今は改革を進めるべき時期です!」
「代表選挙なんて、党内を分裂させるだけだ!」
反対の声が次々と上がった。
黒崎は、壇上からその様子を見ていた。
やがて、宮原奈緒が立ち上がった。
「……皆さん、一つだけ確認させてください」
会場が静かになる。
「黒崎総理が、もし間違った政策を進めたら、どうしますか?」
先ほどの新人議員が答えた。
「総理は、そんなことをしません!」
宮原は、首を振った。
「……人間ですから、間違えることはあります」
「でも、総理は国民の支持を得ています!」
宮原は、静かに答えた。
「支持率が高いことは、間違えない証拠にはなりません」
会場がざわついた。
宮原は続けた。
「私たちは、黒崎玲司という一人の人間を守るために、政治家になったんですか?」
誰も答えなかった。
「違いますよね」
宮原は、黒崎を見た。
「国民の生活を良くするためです」
黒崎は、ゆっくりとうなずいた。
* * *
2037年3月19日、午後4時。
国会議事堂。
「……党代表の交代手続きまで、明文化するんですか」
神谷蒼士は、資料を読み終えた。
黒崎は、うなずいた。
「はい」
神谷は、少し笑った。
「珍しいですね。普通は、自分が辞めさせられにくい制度を作るものですが」
黒崎も笑った。
「……そうかもしれません」
神谷は、資料を置いた。
「ただ、一つ問題があります」
黒崎が顔を上げる。
「何でしょう?」
「党代表を辞めることと、総理大臣を辞めることは、同じではありません」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
神谷は続けた。
「総理大臣は、国会の指名によって決まります。党内の代表選挙だけで、自動的に交代するわけではありません」
黒崎は、静かに答えた。
「分かっています」
神谷は、黒崎を見た。
「では、なぜ党のルールから変えるんですか?」
黒崎は、少し考えた。
「……一番身近なところから変えられるからです」
神谷は、黙った。
黒崎は続けた。
「憲法や国会の制度を変える前に、自分たちの党で反対意見を認められるか。それを確かめたいんです」
神谷は、しばらく黒崎を見つめた。
そして、静かに言った。
「……総理」
「はい」
「そのルールができたら、いつか本当にあなたに挑戦する人が現れますよ」
黒崎は、うなずいた。
「そうでしょうね」
「……怖くないんですか?」
黒崎は、少し笑った。
「怖いですよ」
神谷は、驚いた。
黒崎は続けた。
「でも、誰も挑戦できない方が、もっと怖いです」
* * *
2037年3月22日、午前11時。
国民会計党本部。
党運営改革案について、正式な採決が行われた。
所属国会議員三百二十一人。
党則改正には、所定の手続きに従った承認が必要だった。
議員総会では、賛否を明らかにする記名投票が行われた。
黒崎は、最前列に座っていた。
片岡が、集計結果を受け取った。
「……結果を発表します」
会場が静かになった。
「賛成、百九十二」
黒崎は、顔を上げた。
「反対、百二十九」
会場がざわついた。
片岡は、続けた。
「所定の要件を満たしたため、改革案は承認されました」
拍手が起きた。
しかし、その拍手は、どこかぎこちなかった。
黒崎は、議席表を見つめた。
百九十二対百二十九。
賛成が多数だった。
だが、四割近い議員が反対していた。
黒崎は、静かに立ち上がった。
「……皆さん、ありがとうございました」
会場が静かになる。
「賛成してくださった方にも、反対された方にも、感謝しています」
黒崎は、ゆっくりと続けた。
「今日の結果は、党内にさまざまな意見があることを示しています」
そして、はっきりと言った。
「反対した百二十九人の意見も、今後の党運営に必要です」
会場の後方で、一人の議員が小さく拍手した。
その拍手は、少しずつ広がっていった。
* * *
2037年3月24日、午後1時。
首相官邸。
「総理。党則改正について、各社が報道しています」
小野寺が、ニュース記事を示した。
『黒崎総理、自らを辞めさせる制度を導入』
『国民会計党、代表選挙を制度化』
『圧倒的支持率の首相が、権力制限へ』
黒崎は、記事を見つめた。
「……辞めさせる制度、ですか」
小野寺は、苦笑した。
「分かりやすい見出しですから」
黒崎は、首を振った。
「……少し違いますね」
「違いますか?」
「私を辞めさせるためだけの制度ではありません」
黒崎は続けた。
「次の代表も、その次の代表も、同じルールで選ばれるようにするためです」
小野寺は、うなずいた。
「……そうですね」
そのとき、片岡が入ってきた。
「総理。民間団体から、声明が出ています」
黒崎は、顔を上げた。
「……どんな声明ですか?」
片岡は、資料を差し出した。
『国民改革推進会議』
先月、総理大臣の権限強化を提案した団体だった。
声明には、こう書かれていた。
『黒崎総理の退任を容易にする制度は、国民の圧倒的な支持に反する』
『国民が選んだ指導者を、党内の少数派が排除することは許されない』
『黒崎総理には、改革を完遂するまで指導者であり続ける責任がある』
黒崎は、しばらく文章を見つめた。
そして、静かに言った。
「……私が辞めるかどうかは、私一人で決めることではありません」
片岡は、黙った。
黒崎は続けた。
「国会にも、党にも、国民にも、それぞれ役割があります」
* * *
2037年3月27日、午後6時。
東京都内、大規模な集会。
数万人規模の参加者が、都心の広場に集まっていた。
掲げられた旗には、黒崎の名前が書かれていた。
『黒崎総理を守れ』
『改革を止めるな』
『総理の退任に反対』
壇上に立った男性が、声を張り上げた。
「皆さん! 黒崎総理は、日本を変えようとしています!」
歓声が上がる。
「それなのに、党内の一部の議員が、総理を辞めさせる制度を作りました!」
会場から、怒号が上がった。
「許せない!」
「総理を守れ!」
男性は、さらに声を強めた。
「黒崎総理は、国民が選んだ指導者です!」
その言葉に、会場が大きく沸いた。
しかし、壇上の男性は、さらに踏み込んだ。
「国民が支持する限り、黒崎総理は辞めるべきではありません!」
歓声が響く。
「総理を批判する政治家に、日本の未来を任せられますか!」
「任せられない!」
「ならば、黒崎総理に、もっと強い権限を!」
会場に、割れんばかりの拍手が起きた。
その映像は、瞬く間に全国へ広がった。
* * *
2037年3月29日、午後8時。
首相官邸。
黒崎は、集会の映像を見ていた。
「……私を守れ、ですか」
小野寺が、静かに答えた。
「はい」
黒崎は、画面を止めた。
「……私は、守ってもらうために政治家になったわけではないんですが」
小野寺は、黙った。
黒崎は、しばらく考えた。
そして、尋ねた。
「……国民の皆さんは、私が辞めたら、日本が元に戻ると思っているんでしょうか」
小野寺は、少し考えた。
「そう感じている方も、いるのかもしれません」
黒崎は、うなずいた。
「……それなら、私の改革はまだ成功していませんね」
小野寺が顔を上げる。
黒崎は、静かに言った。
「私がいなくなった途端、全部元に戻るなら、それは制度ではなく、私個人に頼っているだけです」
* * *
2037年3月31日、午後3時。
国民会計党本部。
党則改正後、初めての代表選挙日程が発表された。
代表任期、二年。
次回代表選挙、2038年春。
代表選挙への立候補には、一定数の所属国会議員による推薦が必要。
所属国会議員と党員による投票を組み合わせ、得票を集計する。
黒崎は、発表資料を確認した。
「……これで、ようやく一歩ですね」
片岡が、うなずいた。
「はい」
そのとき、宮原が口を開いた。
「総理。一つ聞いてもいいですか?」
黒崎は、顔を上げた。
「何でしょう?」
「次の代表選挙に、立候補しますか?」
会議室が静かになった。
黒崎は、少し考えた。
「……まだ決めていません」
片岡が、驚いた。
「総理。立候補されるでしょう?」
黒崎は、首を振った。
「当然とは思っていません」
宮原は、黒崎を見つめた。
「……では、誰かが挑戦したら?」
黒崎は、少し笑った。
「正々堂々、議論します」
そして、続けた。
「負けたら、結果を受け入れます」
* * *
2037年4月2日、午後7時。
東京都内、立憲未来党本部。
神谷は、黒崎の党運営改革について書かれた資料を読んでいた。
「……2038年春、代表選挙か」
秘書が、うなずいた。
「はい」
神谷は、資料を閉じた。
「……面白いですね」
秘書が尋ねた。
「何がですか?」
神谷は、少し考えた。
「黒崎総理は、自分が辞めても続く政治を作ろうとしている」
「はい」
「でも、そのためには、黒崎総理以外にも、政権を担える人間が必要だ」
秘書は、うなずいた。
神谷は、窓の外を見た。
「……今の日本には、それが足りない」
そして、静かに言った。
「黒崎総理がいなくなった後の日本を、誰が担うのか」
秘書が尋ねた。
「……先生は、どう考えていますか?」
神谷は、しばらく黙った。
そして、答えた。
「……私も、その責任から逃げるつもりはない」
* * *
2037年4月5日、午後11時。
首相官邸、総理大臣執務室。
黒崎は、一人で机に向かっていた。
目の前には、これまでの政治活動をまとめた資料が置かれていた。
支持率ゼロ。
初めての選挙。
国民会計党の結成。
三十一議席。
総理大臣就任。
連立政権の崩壊。
衆議院解散。
三百二十一議席。
そして、内閣支持率九十八・四パーセント。
黒崎は、ゆっくりとページを閉じた。
「……ずいぶん遠くまで来たな」
窓の外には、夜の東京が広がっていた。
かつて、自分はただの会社員だった。
給与明細を見るたびに、税金の重さを感じていた。
政治に文句を言いながら、何も変えられないと思っていた。
しかし、今は違う。
日本の総理大臣として、国の未来を考えている。
黒崎は、静かに立ち上がった。
「……でも、まだ終わってない」
減税は、まだ実現していない。
社会保障の負担も、簡単には変えられない。
行政改革も、始まったばかりだった。
そして、もう一つ。
国民が、政治家一人に頼らなくてもいい国。
それを作ることが、これからの目標だった。
黒崎は、机に置かれたメモを手に取った。
そこには、以前、自分で書いた言葉が残っていた。
『総理大臣が交代しても、政策が継続できる仕組みを作る』
黒崎は、静かに笑った。
「……これが、一番難しいかもしれないな」
そのとき、スマートフォンにメッセージが届いた。
送り主は、神谷蒼士。
『総理。近いうちに、一度お話ししたいことがあります』
黒崎は、画面を見つめた。
そして、短く返信した。
『もちろんです。お待ちしています』
黒崎は、スマートフォンを置いた。
このとき、まだ知らなかった。
その会話が、やがて日本の政治を大きく変えることになると。
そして、黒崎玲司自身が、総理大臣の座を譲る決断へとつながっていくことを。
支持率ゼロから始まった男の物語は、ここで新たな段階へ進む。
日本を変えるために、権力を手に入れた男。
その男が次に挑むのは――
自分自身の権力を、手放すことだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回で、第3章「総理大臣・黒崎玲司」は完結です。
支持率ゼロから政治を始めた黒崎は、ついに衆議院三百二十一議席、内閣支持率九十八・四パーセントという圧倒的な支持を手にしました。
しかし、国民の支持が強すぎることによって、新たな問題が生まれ始めています。
次回からは、最終章となる第4章「独裁者の最後の決断」が始まります。
黒崎は、自分を支持する国民とどう向き合うのか。
そして、神谷蒼士が黒崎に持ちかける話とは何なのか。
物語は、いよいよ最終章へ進みます。




