第65話 321人の候補者――総理が拒んだ勝利の条件
衆議院解散によって、再び選挙戦に突入した日本。
わずか三十一議席の国民会計党が目指すのは、衆議院の単独過半数だった。
しかし、全国に候補者を立てるには、人材も資金も時間も足りない。
そんな黒崎のもとに、ある政治家から魅力的な提案が持ち込まれる。
その条件は、国民会計党がこれまで守ってきた原則を揺るがすものだった。
2036年12月19日、午前8時20分。
国民会計党本部。
「……三百二十一人?」
黒崎玲司は、思わず聞き返した。
会議室の正面には、日本地図が映し出されていた。
赤い印が付いた選挙区。
青い印が付いた選挙区。
そして、まだ何も書かれていない地域。
片岡誠司が説明を始めた。
「今回の選挙では、三百二十一人の候補者擁立を目標にします」
黒崎は、資料をめくった。
「前回は三十二人でしたよね」
「はい。約十倍です」
「……三週間もありませんよ」
「分かっています」
片岡は、黒崎を見た。
「だから、全国の地方議員や無所属候補、他党からの参加希望者を受け入れる必要があります」
黒崎は、腕を組んだ。
「……誰でもいいわけではありませんよね」
片岡は、うなずいた。
「もちろんです」
しかし、その表情は険しかった。
「総理。今回は、理想だけでは戦えません」
* * *
午前10時。
候補者選考会議。
「現時点で、出馬の意思を確認できている人は百九十八人です」
事務局の担当者が報告した。
「そのうち、必要書類と基本審査が完了しているのは百三十四人です」
黒崎は、数字を見つめた。
目標、三百二十一人。
審査完了、百三十四人。
不足、百八十七人。
「……かなり厳しいですね」
水野彩香が発言した。
「地方では、候補者本人が出馬を希望していても、選挙事務所やスタッフを確保できていないケースがあります」
黒崎は尋ねた。
「費用は?」
森田が答えた。
「小選挙区への立候補には供託金が必要です。さらに、事務所、印刷物、人員、移動費などがかかります」
「党の資金だけで、全員を支援できますか?」
森田は、首を振った。
「現状では無理です」
会議室が静まり返った。
片岡が言った。
「総理。だからこそ、協力者を増やす必要があります」
黒崎は、うなずいた。
「……分かりました」
そして、続けた。
「ただし、候補者の審査は省略しません」
片岡は、少し苦い顔をした。
「時間がありませんよ」
「だからといって、国会議員になってから問題が見つかれば、もっと大きな時間を失います」
* * *
2036年12月20日、午後2時。
東京都内のホテル。
「黒崎総理。お久しぶりです」
声をかけてきたのは、元国政自由党の衆議院議員だった。
久世隆臣。
かつて相馬政権で財務副大臣を務めた人物である。
黒崎は、少し驚いた。
「……久世さん」
久世は、穏やかに笑った。
「総理になられてから、ますます忙しそうですね」
黒崎は、頭を下げた。
「おかげさまで」
久世は、向かいの椅子に座った。
「今日は、選挙の話をしたくて来ました」
黒崎は、顔を上げた。
「……選挙ですか?」
「はい」
久世は、封筒を差し出した。
中には、候補者の名前が並んでいた。
四十八人。
黒崎は、思わず顔を上げた。
「……これは?」
久世は、静かに答えた。
「国政自由党から離党を検討している議員と、元職の候補者です」
黒崎は、資料を見つめた。
「……四十八人全員が、国民会計党への参加を希望しているんですか?」
「条件次第では」
久世は、少し笑った。
「総理。四十八人ですよ」
黒崎は、黙っていた。
「これだけの人数が加われば、候補者擁立は一気に進みます」
「……条件とは?」
久世は、封筒からもう一枚の紙を取り出した。
『政策協力に関する確認事項』
黒崎は、ページをめくった。
最初の項目は、財政規律の尊重。
次は、経済成長を重視した税制改革。
ここまでは、議論できる内容だった。
しかし、最後の項目で黒崎の手が止まった。
『既存の政治資金調達体制および支援団体との関係を継続すること』
黒崎は、顔を上げた。
「……これは、どういう意味ですか?」
久世は、落ち着いて答えた。
「政治には資金が必要です。長年支援してくれた企業や団体との関係を、急に切ることはできません」
黒崎は、資料を置いた。
「合法的な政治献金まで、一律に否定するつもりはありません」
久世は、うなずいた。
「それなら、問題ないでしょう」
黒崎は、首を振った。
「ただし、献金や支援の内容を党の基準に従って公開してもらいます」
久世の表情が、わずかに変わった。
「……すべてですか?」
「法令上公開が必要なものは当然です。それに加えて、党として定めた範囲の支援関係も明らかにしてもらいます」
久世は、しばらく黙った。
そして、静かに言った。
「総理。それでは、参加できない人が出ますよ」
黒崎は、うなずいた。
「……そうかもしれません」
「四十八人ですよ?」
黒崎は、久世を見た。
「分かっています」
そして、はっきりと言った。
「ですが、議席を増やすために党の原則を変えるつもりはありません」
久世は、笑みを消した。
「……総理。選挙に負ければ、その原則も守れなくなりますよ」
黒崎は、静かに答えた。
「原則を捨てて勝つなら、私たちが勝つ意味がなくなります」
* * *
2036年12月21日、午後6時。
国民会計党本部。
「……断ったんですか?」
片岡が、信じられないという表情で尋ねた。
黒崎は、うなずいた。
「条件をそのまま受け入れることはできないと伝えました」
片岡は、額を押さえた。
「総理。四十八人ですよ」
「はい」
「しかも、元職や現職が含まれている。選挙経験もある」
黒崎は、黙って聞いていた。
片岡は続けた。
「今の国民会計党に、これほど必要な人材はいません」
黒崎は、少し考えた。
「……個別に審査するなら、参加を認める余地はあります」
片岡が顔を上げた。
「個別に?」
「はい。四十八人をまとめて受け入れるのではなく、一人ずつです」
片岡は、深く息を吐いた。
「……時間が足りません」
黒崎は、うなずいた。
「分かっています」
「総理。今回負ければ、あなたは総理大臣ではなくなるんですよ」
黒崎は、少し笑った。
「……そうですね」
片岡は、思わず声を荒らげた。
「笑い事じゃありません!」
会議室が静まり返った。
黒崎は、片岡を見た。
「片岡さん」
「……はい」
「私は、総理大臣でいるために政治家になったわけではありません」
片岡は、黙った。
黒崎は続けた。
「国民の税金が、どう使われているのか。それを誰でも確認できる政治にしたかったんです」
そして、静かに言った。
「そこを曲げるなら、選挙に勝っても意味がありません」
* * *
2036年12月23日、午前11時。
国民会計党本部。
「総理! 応募が急増しています!」
事務局の職員が、会議室に飛び込んできた。
黒崎は、顔を上げた。
「……応募?」
「候補者公募です!」
片岡が、パソコンを開いた。
画面には、応募フォームの集計結果が表示されていた。
前日までの応募件数、四百八十六件。
現在の応募件数、二千百三十四件。
黒崎は、目を見開いた。
「……二千件?」
職員は、興奮した様子で答えた。
「はい!」
水野が尋ねた。
「どうして急に?」
職員は、ニュースサイトを開いた。
そこには、久世との協議を報じる記事が掲載されていた。
『黒崎総理、元与党議員四十八人の一括受け入れを拒否』
『政治資金の透明性を優先』
『議席より原則――国民会計党の候補者公募に応募殺到』
黒崎は、画面を見つめた。
片岡が、苦笑した。
「……断ったことが、逆に支持されたみたいですね」
黒崎は、静かに答えた。
「……でも、応募が多いことと、候補者になれることは別です」
水野が、うなずいた。
「はい。審査を急ぎましょう」
* * *
2036年12月26日、午後3時。
国民会計党本部。
候補者選考は、連日深夜まで続いていた。
経歴確認。
政治資金に関する申告。
政策面接。
反社会的勢力との関係確認。
過去の発言や活動歴の確認。
ただし、確認できる情報には限界があった。
片岡は、資料をめくりながら言った。
「……全員を完璧に調べるのは無理です」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
「それでも、三百二十一人を目指しますか?」
黒崎は、少し考えた。
「……目標は変えません」
片岡が顔を上げた。
「ただし、審査が終わらない人を無理に公認することはしません」
片岡は、静かにうなずいた。
「……分かりました」
その時、森田が入ってきた。
「総理。候補者数の見通しが出ました」
黒崎は、資料を受け取った。
公認確定、二百四十七人。
最終審査中、六十八人。
追加面接予定、三十九人。
黒崎は、数字を見つめた。
「……過半数を狙える人数にはなりましたね」
片岡は、うなずいた。
「はい。ただし、全員が当選するわけではありません」
黒崎は、静かに答えた。
「分かっています」
* * *
2036年12月29日、午後5時。
東京都内、国民会計党の選挙対策本部。
「……三百二十一人、確定しました!」
事務局の声が響いた。
会議室に拍手が起きた。
黒崎は、資料を受け取った。
公認候補者、三百二十一人。
小選挙区と比例代表の重複立候補者を含む、重複のない実人数だった。
全国各地から集まった候補者たち。
元会社員。
元地方議員。
医師。
看護師。
中小企業経営者。
研究者。
農業従事者。
そして、政治経験のない人々。
黒崎は、名簿を見つめた。
「……本当に、集まりましたね」
片岡が、うなずいた。
「はい」
しかし、その表情はまだ厳しかった。
「総理。ここからが問題です」
黒崎が顔を上げる。
「……何でしょう?」
片岡は、日本地図を示した。
「三百二十一人を擁立できても、勝てるとは限りません」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
「特に、地方では国政自由党の組織力が強い。立憲未来党とも競合します」
黒崎は、地図を見つめた。
「……では、どう戦いますか?」
片岡は、静かに答えた。
「総理自身が、全国を回るしかありません」
* * *
2037年1月3日、午後7時。
首相官邸。
黒崎は、選挙日程表を見つめていた。
公示日まで、あと二日。
投開票日まで、十四日。
そこへ、桐生美月からメッセージが届いた。
『ニュース見たよ。三百二十一人って、すごいね』
黒崎は、少し笑った。
『まだ選挙に勝ったわけじゃないよ』
すぐに返信が来た。
『分かってる。でも、最初は一人だったでしょ?』
黒崎は、指を止めた。
最初は、一人だった。
誰も知らない会社員。
政治経験もない。
支持率は、ゼロ。
それでも、税金の使い道を変えたいと思った。
黒崎は、静かに返信した。
『そうだね』
美月から、もう一通届いた。
『勝っても負けても、最初に言ってたことは忘れないでね』
黒崎は、しばらく画面を見つめた。
そして、短く返した。
『忘れない』
* * *
2037年1月5日、午前8時30分。
衆議院議員総選挙、公示日。
東京・新宿駅前。
冷たい冬の風が吹く中、黒崎は街頭演説のために立っていた。
目の前には、大勢の人が集まっていた。
報道陣。
支持者。
通勤途中の会社員。
買い物に向かう人々。
黒崎は、マイクを握った。
「皆さん。おはようございます」
拍手が起きた。
「私は、五か月前、総理大臣になりました」
黒崎は、ゆっくりと続けた。
「そして、この五か月間で、分かったことがあります」
人々が、静かに耳を傾ける。
「政治は、総理大臣一人では変えられません」
黒崎は、少し間を置いた。
「国会で法律を作るには、賛成する議員が必要です」
「予算を変えるには、数字を確認しなければいけません」
「そして、国民の生活を変えるには、時間が必要です」
黒崎は、群衆を見渡した。
「……私は、まだ約束した減税を実現できていません」
会場が静かになった。
「それでも、もう一度、皆さんにお願いしたい」
黒崎は、まっすぐ前を見た。
「国民のお金を、国民のために使う政治を、続けさせてください」
拍手が起きた。
黒崎は、声を強めた。
「今回は、三百二十一人の仲間と挑戦します!」
会場から歓声が上がった。
「私たちは、税金を下げるだけではなく、税金の使い道を変えます!」
拍手が、さらに大きくなった。
「そして、働く人の手取りを増やす政治を、実現します!」
黒崎は、最後にこう言った。
「……もう一度、日本を変えさせてください!」
* * *
同日、午後9時。
国政自由党本部。
相馬孝一は、テレビに映る黒崎の演説を見つめていた。
「……三百二十一人か」
隣に座る幹部が言った。
「総裁。国民会計党の勢いは、予想以上です」
相馬は、静かにうなずいた。
「分かっている」
幹部が続けた。
「このままでは、単独過半数を取られる可能性もあります」
相馬は、テレビを消した。
そして、低い声で言った。
「……まだ、選挙は始まったばかりだ」
幹部が顔を上げる。
相馬は続けた。
「黒崎には、最大の弱点がある」
「……弱点?」
相馬は、静かに答えた。
「総理大臣になっても、減税を実現できなかったことだ」
そして、机に置かれた資料を指さした。
『黒崎政権・公約達成状況』
相馬は、薄く笑った。
「……そこを、徹底的に突く」
選挙戦は、まだ始まったばかりだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、国民会計党が全国規模の候補者擁立に挑む姿を描きました。
政党が大きくなると、さまざまな経歴や考え方を持つ人が集まります。その中で、党の理念と選挙で勝つための現実をどう両立させるかが重要になります。
次回は、いよいよ本格的な選挙戦です。
黒崎の五か月間の実績を、国民はどのように評価するのでしょうか。そして、相馬率いる国政自由党は、どのような反撃を仕掛けるのでしょうか。




