第64話 内閣不信任――黒崎玲司、最後の一票
減税をめぐる対立から、連立政権を離脱した新政改革連合。
ついに国会には、黒崎内閣に対する不信任決議案が提出された。
総理大臣就任から、わずか五か月。
政権を守るために妥協するのか。それとも、自らの信念を貫くのか。
そして、黒崎の政治生命を左右する一票を握っていたのは、意外な人物だった。
2036年12月16日、午前8時12分。
首相官邸。
「総理。現時点での賛否見通しです」
片岡誠司が、議席一覧を机に広げた。
黒崎玲司は、コーヒーを置いた。
衆議院、定数四百六十五。
内閣不信任決議案。
賛成を表明している議員、二百二十五人。
反対を表明している議員、二百二十八人。
態度未定、十二人。
「……十二人」
黒崎がつぶやく。
片岡はうなずいた。
「全員が出席して投票するなら、可決には二百三十三票が必要です」
「未定の十二人が、八人以上賛成に回れば……」
「不信任案が可決されます」
黒崎は、議席表を見つめた。
国民会計党、三十一議席。
自分が率いる政党だけでは、政権を守れない。
それは総理大臣になった日から分かっていた。
だが、数字として突きつけられると、重さが違った。
「立憲未来党は?」
「党としては不信任案への反対を決めました。ただし、一部の議員が造反を示唆しています」
黒崎は顔を上げた。
「神谷さんは?」
片岡は答えた。
「……反対票を投じると明言しています」
黒崎は、小さく息を吐いた。
「そうですか」
そのとき、秘書官が入ってきた。
「総理。東条代表から、最後の申し入れです」
黒崎は文書を受け取った。
そこには、たった一行だけ書かれていた。
『所得税控除拡大の当初案を復活させるなら、不信任案への賛成を再考する』
黒崎は、文書を机に置いた。
「……回答は、昨日お伝えしたとおりです」
* * *
午前10時30分。
衆議院議員会館。
「神谷さん、本当に反対でいいんですか?」
若い議員が尋ねた。
神谷蒼士は、窓の外を見た。
「何が?」
「黒崎総理への不信任です。あなたは、あの人の政策を何度も批判してきたでしょう」
神谷はうなずいた。
「批判したよ」
「だったら、政権を倒す機会じゃないですか」
神谷は振り返った。
「……君は、不信任案に賛成する理由を説明できる?」
若い議員は言葉に詰まった。
「減税を実現できなかったから、ですかね」
「財源が確保できないから当初案を縮小した。それが、内閣を倒すほどの失政なのか?」
「でも、国民は期待していました」
「期待に応えられなかったことは、批判すべきだ」
神谷は続けた。
「だが、できないことをできると言わなかった総理を、嘘をつかなかったという理由で倒すのか?」
若い議員は黙った。
神谷は、議席一覧を手に取った。
「私は黒崎玲司を全面的に支持しているわけじゃない」
そして、静かに言った。
「ただ、今この不信任案に賛成する理由はない」
* * *
午後1時。
衆議院本会議場。
議場は、異様な緊張に包まれていた。
報道陣の視線が集まる中、内閣不信任決議案の趣旨説明が始まった。
登壇したのは、国政自由党の幹部議員だった。
「黒崎内閣は、国民に減税を約束しながら、その実現に向けた具体的な道筋を示すことができていない!」
議場から拍手が上がった。
「連立政権は崩壊し、国会運営は停滞している!」
さらに拍手が続く。
「このような内閣に、国政を任せ続けることはできません!」
黒崎は、総理大臣席で静かに聞いていた。
やがて、反対討論のため神谷が登壇した。
議場がざわついた。
「私は、黒崎内閣の政策に多くの問題があると考えています」
神谷の第一声に、野党席から声が上がった。
「なら賛成しろ!」
神谷は、そちらを見た。
「問題があることと、内閣を倒すべきことは、同じではありません」
議場が静かになる。
「政府の所得税減税案には、財源の裏付けが不足していました」
神谷は続けた。
「だから私は、黒崎総理に説明を求めてきました」
黒崎は、壇上を見つめた。
「その結果、総理は当初案を見送り、規模を縮小した案を検討すると表明しました」
神谷は、議場全体を見渡した。
「私は、この判断が十分だとは思っていません」
一呼吸置く。
「しかし、財源がないことを認めた内閣を倒し、財源のない減税を約束する内閣を作る。それが国民の利益になるとは思えません」
議場の一角から拍手が起きた。
神谷は最後に、こう言った。
「私は黒崎総理の味方ではありません」
黒崎が顔を上げた。
「国会議員として、今回の不信任案に反対するだけです」
* * *
午後2時46分。
採決が始まった。
議員たちが、次々と投票に向かう。
黒崎は、自分の番を待ちながら、議場を見渡した。
かつて、この場所に立つことなど想像もしていなかった。
会社員だった頃。
毎月の給与明細を見て、ため息をついていた。
税金と社会保険料。
上がり続ける生活費。
何も変わらない政治。
その怒りから、すべてが始まった。
そして今、自分は総理大臣として、この議場にいる。
黒崎は、静かに投票を済ませた。
席に戻ると、片岡が小声で言った。
「総理。最後まで分かりません」
黒崎はうなずいた。
「はい」
やがて、議長が採決結果を告げた。
「ただいまの採決の結果を報告いたします」
議場が静まり返る。
「投票総数、四百六十五」
黒崎は、前を向いた。
「賛成、二百三十二」
一瞬、時間が止まった。
「反対、二百三十三」
議場が、大きくどよめいた。
「よって、本決議案は否決されました」
歓声が上がった。
机をたたく音。
立ち上がる議員たち。
黒崎は、しばらく動かなかった。
片岡が、震える声で言った。
「……総理」
黒崎が顔を向ける。
「一票差です」
黒崎は、ゆっくりとうなずいた。
「……そうですね」
たった一票。
黒崎内閣は、政権を維持した。
* * *
午後4時10分。
首相官邸。
「総理、おめでとうございます!」
職員たちが頭を下げた。
黒崎は、首を振った。
「……ありがとうございます。でも、喜べる結果ではありません」
片岡が尋ねた。
「なぜですか?」
黒崎は、議席表を見た。
「二百三十二人の議員が、私たちの内閣を信任できないと判断したんです」
会議室が静かになった。
黒崎は続けた。
「一票差で勝ったということは、一票変われば負けていたということです」
森田が言った。
「ですが、政権は維持できました」
「はい」
黒崎はうなずいた。
「だからこそ、次に進まなければいけません」
片岡が顔を上げた。
「……次?」
黒崎は、資料を机に置いた。
「国民に、改めて判断してもらいたいと思っています」
片岡の表情が変わった。
「……総理、まさか」
黒崎は、静かに答えた。
「衆議院を解散します」
* * *
午後5時。
首相官邸、緊急閣議。
「総理。本当に、解散するおつもりですか?」
閣僚の一人が尋ねた。
黒崎はうなずいた。
「はい」
「不信任案は否決されたんですよ」
「分かっています」
「なら、政権を続けることもできます」
黒崎は、静かに答えた。
「ですが、今の国会では、政策ごとに政権の存続が問われています」
閣僚たちは黙った。
黒崎は続けた。
「私は、国民にもう一度選んでいただきたい」
そして、はっきりと言った。
「財源を確認しながら負担軽減を進める政治を選ぶのか。それとも、別の道を選ぶのか」
閣僚の一人が尋ねた。
「……負ける可能性もありますよ」
黒崎は、少し笑った。
「もちろんです」
そして、続けた。
「選挙ですから」
* * *
2036年12月17日、午前11時。
首相官邸、記者会見室。
「総理。昨日、内閣不信任決議案は一票差で否決されました」
記者が尋ねた。
「なぜ、その直後に衆議院を解散するのですか?」
黒崎は、静かに答えた。
「今の国会で、私たちの政策を安定して実現することは難しいと判断したからです」
「総理。選挙で負ければ、退陣するのですか?」
「はい」
黒崎は、迷わず答えた。
「国民が別の政権を選ぶなら、その判断を受け入れます」
別の記者が手を挙げた。
「総理。今回の選挙で、何を訴えるのですか?」
黒崎は、用意された原稿を閉じた。
そして、カメラを見た。
「……私は、税金を下げると約束して、政治家になりました」
会場が静かになる。
「しかし、総理大臣になって分かったことがあります」
黒崎は続けた。
「税金を下げることよりも、税金を下げ続けられる仕組みを作ることの方が、ずっと難しい」
記者たちは、黙って聞いていた。
「だから、私はもう一度、国民にお願いしたい」
黒崎は、まっすぐ前を見た。
「時間をください」
一瞬、会場が静まり返った。
「その代わり、数字をごまかしません。できないことは、できないと言います」
そして、最後にこう言った。
「……それでも私に任せたいと思っていただけるなら、もう一度、国会に送り出してください」
* * *
2036年12月18日、午後2時。
衆議院本会議場。
議長が、解散詔書を読み上げた。
「日本国憲法第七条により、衆議院を解散する」
議場に、声が響いた。
「万歳!」
「万歳!」
「万歳!」
黒崎は、静かに立ち上がった。
総理大臣になって、約五か月。
自分が解散を決断する日が、こんなにも早く来るとは思っていなかった。
議場を出ると、神谷が待っていた。
「……総理」
黒崎は、足を止めた。
「神谷さん」
神谷は、少し笑った。
「ずいぶん思い切りましたね」
黒崎も笑った。
「……そうですね」
「不信任案は否決されたのに」
「はい」
神谷は、黒崎を見た。
「次の選挙では、私も遠慮しませんよ」
黒崎はうなずいた。
「もちろんです」
神谷は、手を差し出した。
「……正々堂々、戦いましょう」
黒崎は、その手を握った。
「はい」
二人は、短く握手を交わした。
その光景を、遠くから記者たちが撮影していた。
* * *
同日、午後8時。
国民会計党本部。
「総理。選挙日程が固まりました」
片岡が、資料を配った。
公示日、2037年1月5日。
投開票日、2037年1月17日。
黒崎は、うなずいた。
「……年明けですね」
片岡は続けた。
「ただし、問題があります」
「何でしょう?」
「候補者です」
黒崎は、顔を上げた。
片岡は、議席数の資料を示した。
「前回は三十二人を擁立して、三十一人が当選しました」
「はい」
「ですが、今回は違います」
片岡は、黒崎を見た。
「政権を安定させるには、少なくとも過半数を狙う必要があります」
黒崎は、しばらく黙った。
そして、静かに言った。
「……二百三十三議席」
片岡はうなずいた。
「はい」
黒崎は、資料を見つめた。
「候補者は、何人必要ですか?」
片岡は、はっきりと答えた。
「最低でも二百三十三人。実際には落選も考え、もっと多く擁立しなければいけません」
黒崎は、静かに息を吐いた。
「……前回の十倍近い規模ですね」
片岡は、うなずいた。
「はい」
そして、続けた。
「総理。ここからが、本当の戦いです」
黒崎は、窓の外を見た。
国民会計党、三十一議席。
その小さな政党が、今度は政権を安定させるための選挙に挑む。
黒崎は、静かに言った。
「……やりましょう」
その瞬間。
日本の政治を大きく変える、二度目の選挙戦が始まった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、内閣不信任決議案の採決と、黒崎による衆議院解散を描きました。
わずか一票差で政権を維持した黒崎。しかし、その結果を安定した信任とは考えず、国民に改めて判断を求める道を選びました。
次回からは、国民会計党にとって二度目となる衆議院選挙が始まります。
わずか三十一議席の政党が、全国規模の候補者擁立を実現できるのか。
そして、国民は黒崎の五か月間をどう評価するのでしょうか。




