第6話 たった一枚の領収書
数字は嘘をつかない。
けれど、数字の見せ方によって、人は簡単に誤解してしまう。
初めての公開勉強会を前に、黒崎たちは思いがけない問題に直面します。
2035年5月10日、午後6時42分。
東京都千代田区、貸会議室。
「参加申し込み、二十三人です!」
高瀬直樹が、ノートパソコンの画面を見ながら声を上げた。
黒崎玲司は、思わず顔を上げた。
「二十三人?」
「そう。明日の勉強会だよ。昨日まで九人だったのに、一気に増えた」
「すごいじゃないか」
「ただし、全員が来るとは限らないけどな」
高瀬は笑いながら、申し込み一覧を閉じた。
初めての公開勉強会。
題名は『国民の財布を考える会』。
参加費は無料。
国の予算資料を一緒に読み、税金の使い道を考える。
ただ、それだけの小さな催しだった。
しかし、黒崎にとっては大きな一歩だった。
「会場の定員は三十人です」
桐生美月が確認した。
「これ以上申し込みが増えた場合は、オンライン参加をご案内しましょう」
「分かりました」
「それと、黒崎さん」
「はい」
「明日の資料、確認しました」
美月は一枚の紙を差し出した。
赤い文字で、いくつもの修正が書き込まれている。
黒崎は苦笑した。
「……結構ありますね」
「あります」
美月は、ある一文を指さした。
『行政の無駄遣いをなくせば、国民の負担を減らせる』
「これ、断言しない方がいいと思います」
「理由は?」
「無駄遣いを見直すことと、税負担を減らせることは、必ずしも同じではないからです」
黒崎はうなずいた。
「確かに」
「それから、こちらも」
美月は別のページを開いた。
『予算が増加している事業』
そこには、複数の行政事業の予算額が並んでいた。
「増えた理由は確認しましたか?」
「一部は確認しました。ただ、全部ではありません」
「では、その区別を明記してください」
黒崎はペンを取った。
「分かりました」
その時。
「ちょっと待ってください」
小野寺航が、画面をのぞき込んだ。
「この資料、どこから入手しました?」
「政府の公開資料です」
「それは分かります。問題は、この表です」
小野寺は、ある数字を指さした。
『事業費 前年度比二・四倍』
「この事業、対象となる施設数も増えているはずです」
黒崎は眉をひそめた。
「……そうなんですか?」
「ええ。昨年度から制度の対象が拡大されています」
小野寺は元の資料を開いた。
「ほら、ここです」
黒崎は画面を見つめた。
確かに、対象施設の増加が記されていた。
「……見落としていました」
「このまま発表すると、予算だけが急増したように見えてしまいます」
高瀬が横から言った。
「それ、結構まずくないか?」
黒崎はうなずいた。
「ああ。まずい」
小野寺は、静かに続けた。
「数字は正しくても、説明が間違っていれば、誤解を生みます」
黒崎は資料を閉じた。
「この項目は、作り直しましょう」
美月が時計を見た。
「明日まで、あと一日ありません」
「それでも、間違ったまま出すわけにはいきません」
黒崎は、すぐにパソコンを開いた。
「全員で、もう一度確認しましょう」
* * *
2035年5月11日、午後1時18分。
東京都千代田区、貸会議室。
「……本当に人が来てる」
高瀬が小声でつぶやいた。
会議室には、すでに十八人が座っていた。
会社員。
大学生。
子どもを連れた女性。
年配の男性。
年齢も職業も、ばらばらだった。
黒崎は、入口で参加者を迎えていた。
「本日はありがとうございます」
「こちらこそ」
「初めてなので、うまく説明できない部分もあると思いますが、よろしくお願いします」
参加者の一人が笑った。
「政治家みたいな挨拶だね」
黒崎も笑った。
「まだ、政治家ではありません」
午後一時三十分。
勉強会が始まった。
黒崎は、ホワイトボードの前に立った。
「本日は、お越しいただきありがとうございます」
参加者たちが顔を上げる。
「今日は、国の予算について、一緒に考えたいと思います」
黒崎は、最初の資料を映した。
『国のお金は、どこへ行く?』
「税金や社会保険料は、私たちの生活と深く関わっています」
黒崎は続けた。
「ただ、国の予算は規模が大きく、資料も複雑です。そこで今日は、公開されている資料を、できるだけ分かりやすく整理してみました」
参加者たちは、配られた資料に目を落とした。
最初の二十分は、順調だった。
予算と決算の違い。
国と地方の役割。
社会保障に使われるお金。
黒崎は、専門用語をできるだけ使わずに説明した。
そして、質問の時間になった。
最初に手を挙げたのは、若い男性だった。
「すみません。一ついいですか?」
「はい、どうぞ」
「この資料、行政の事業費が増えたって書いてありますよね」
「はい」
「でも、それって、単純に無駄遣いが増えたってことですか?」
黒崎は首を振った。
「いいえ。そうとは限りません」
「じゃあ、どうして載せたんですか?」
黒崎は答えた。
「増えた理由を確認するためです。事業の対象が広がった場合もありますし、物価や人件費の影響も考えられます」
男性はうなずいた。
「なるほど」
その時だった。
会場の後方で、一人の男性が立ち上がった。
「ちょっといいですか」
五十代くらいの男性だった。
手には、一枚の紙を持っている。
「あなた、税金の無駄遣いを調べるって言いましたよね?」
黒崎はうなずいた。
「はい」
「だったら、これを説明してください」
男性は、紙を高く掲げた。
それは、一枚の領収書だった。
* * *
2035年5月11日、午後2時16分。
東京都千代田区、貸会議室。
「これ、うちの町内会の領収書なんです」
男性は、紙を机の上に置いた。
黒崎は近づいた。
領収書には、こう書かれていた。
『会場設営費 一式 198,000円』
「去年、地域の防災イベントを開いたんですよ」
男性は説明した。
「自治体の補助金も使いました」
「はい」
「でも、会場設営費だけで約二十万円。高すぎると思いませんか?」
会場がざわついた。
「確かに高いな」
「何に使ったんだろう」
男性は続けた。
「こういうのが、税金の無駄遣いなんじゃないですか?」
黒崎は領収書を見つめた。
金額は、確かに大きく見える。
しかし。
「……すみません」
黒崎は顔を上げた。
「これだけでは、無駄遣いかどうか判断できません」
男性の表情が変わった。
「何だって?」
「会場の広さや、設営した設備、作業人数などが分からないからです」
「でも、二十万円ですよ?」
「はい。ただ、その金額が高いかどうかは、内容によると思います」
男性は、少し苛立った様子だった。
「あなた、税金の無駄をなくすって言ってたじゃないですか」
「はい」
「だったら、こういうのを追及するんじゃないんですか?」
黒崎は、一度言葉を選んだ。
「必要な支出なら、無駄とは言えません」
会場が静かになった。
「逆に、必要のない支出なら、金額が小さくても見直すべきだと思います」
男性は黙った。
黒崎は領収書を指さした。
「例えば、この二十万円に、テントの設営、音響設備、搬入、撤去、作業員の人件費が含まれているなら、妥当な金額かもしれません」
「……なるほど」
「一方で、実際には机を数台並べただけだったなら、説明が必要だと思います」
男性は、領収書を見つめた。
「じゃあ、どうすればいいんですか?」
黒崎は答えた。
「まず、内訳を確認することです」
「内訳?」
「はい。何に、いくら使ったのか。その費用が必要だったのか。比較できる資料があるのか」
黒崎は、参加者たちを見渡した。
「私は、金額だけを見て『無駄だ』と決めつける政治はしたくありません」
会場が静まり返った。
「必要なものは必要だと説明する。見直すべきものは、その理由を示す」
黒崎は続けた。
「それが、税金の使い道を分かりやすくするということだと思っています」
男性は、しばらく黙っていた。
やがて、小さくうなずいた。
「……確かに、領収書だけじゃ分からないですね」
黒崎は頭を下げた。
「貴重なご質問、ありがとうございました」
その瞬間。
会場のどこかから、拍手が起きた。
最初は、一人。
次に、二人。
やがて、会場全体に広がった。
黒崎は驚いて顔を上げた。
美月は、少し離れた場所で微笑んでいた。
* * *
2035年5月11日、午後4時37分。
東京都千代田区、貸会議室。
「……終わりましたね」
美月が、椅子に座りながら言った。
黒崎は、机の上に残った資料を片づけていた。
「はい」
高瀬が、参加者アンケートを集計していた。
「参加者二十一人。途中退席二人。最後までいたのは十九人」
「思ったより多かったな」
「しかも、次回も参加したいって人が十五人いる」
黒崎は顔を上げた。
「十五人?」
「ああ」
高瀬は笑った。
「結構いい結果じゃないか?」
美月は、アンケートを確認した。
「ただし、改善点も多いです」
「例えば?」
「資料が多すぎる、説明が長い、数字の出典が分かりにくい」
黒崎は苦笑した。
「……結構ありますね」
「あります」
美月は、少しだけ笑った。
「でも、良い意見もありました」
彼女は、一枚のアンケートを差し出した。
そこには、こう書かれていた。
『政治の話は難しいと思っていました。でも、今日は初めて、自分でも調べてみようと思いました。』
黒崎は、その文章をじっと見つめた。
「……嬉しいですね」
「はい」
美月はうなずいた。
「今日の勉強会は、意味があったと思います」
その時、小野寺が近づいてきた。
「黒崎さん、少しいいですか」
「はい」
小野寺は、一枚の名刺を差し出した。
「先ほどの男性から、連絡先をいただきました」
「領収書の方ですか?」
「はい」
名刺には、地域の防災活動に関わる団体名が記されていた。
「実は、あの方から相談を受けました」
「相談?」
「領収書の内訳を、一緒に確認してほしいそうです」
黒崎は驚いた。
「私たちに?」
「はい」
小野寺は続けた。
「ただし、私たちが勝手に調査するのではありません。まず、団体が保管している契約書や明細を確認できるか、正式に相談する必要があります」
黒崎はうなずいた。
「分かりました」
美月が口を開いた。
「その件、私も同席します」
黒崎は彼女を見た。
「ありがとうございます」
「ただし」
美月は、真剣な表情になった。
「最初から不正があると決めつけないでください」
黒崎は即答した。
「もちろんです」
小野寺も、静かにうなずいた。
「事実を確認する。それだけです」
* * *
2035年5月12日、午前10時26分。
東京都内、地域活動センター。
「こちらが、当日の契約書と明細です」
昨日の男性が、書類の束を机に置いた。
黒崎、美月、小野寺の三人は、資料を確認した。
会場設営費。
十九万八千円。
内訳は、次の通りだった。
テント設営。
机・椅子の搬入。
音響設備。
作業員の人件費。
撤去作業。
黒崎は、一つずつ金額を確認した。
「……なるほど」
小野寺が、別の資料を指さした。
「こちらに、他社の見積書もありますね」
「はい。二社に見積もりをお願いしました」
男性は説明した。
「もう一社は、二十三万円ほどでした」
黒崎は顔を上げた。
「ということは、比較したうえで、安い方を選んだんですね」
「そうです」
小野寺は、静かにうなずいた。
「少なくとも、提出された資料からは、不自然な点は見当たりません」
男性は、少し恥ずかしそうに笑った。
「……じゃあ、無駄遣いじゃなかったんですね」
黒崎は答えた。
「この資料を見る限り、そう判断する根拠はありません。ただ、私たちは契約のすべてを確認したわけではないので、断定はできません」
男性は、しばらく黙っていた。
そして、頭を下げた。
「すみません。昨日は、変な質問をしてしまって」
黒崎は首を振った。
「いえ。疑問を持つことは、大切だと思います」
「でも、何も知らずに高いって決めつけてました」
黒崎は微笑んだ。
「私も、最初は同じでした」
男性は、少し驚いた顔をした。
「あなたも?」
「はい。税金が高い、無駄が多い。そう思っていました」
黒崎は、机の上の資料を見つめた。
「でも、調べてみると、必要な支出もたくさんあります」
男性はうなずいた。
「……そうですね」
黒崎は続けた。
「だからこそ、分かりやすく説明する仕組みが必要なんだと思います」
男性は、ゆっくりと顔を上げた。
「黒崎さん」
「はい」
「昨日、政治家を目指してるって言ってましたよね」
「はい」
男性は、少し笑った。
「私、応援しますよ」
黒崎は、言葉を失った。
「……本当ですか?」
「ええ」
男性は、はっきりとうなずいた。
「最初は、口だけの人だと思ってました。でも、わざわざ資料を確認しに来てくれた」
黒崎は、静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
男性は、手を差し出した。
「頑張ってください」
黒崎は、その手を握った。
温かい手だった。
* * *
2035年5月12日、午後7時08分。
東京都千代田区、貸会議室。
「……一人ですね」
美月が、ホワイトボードに数字を書いた。
『継続的な支持者 1人』
黒崎は、その数字を見つめた。
一人。
百人まで、あと九十九人。
選挙に勝つには、あまりにも小さな数字だった。
それでも。
「……嬉しいですね」
黒崎は、素直にそう言った。
高瀬が笑った。
「たった一人で、そんなに喜ぶなよ」
「でも、最初の一人だ」
小野寺が、静かにうなずいた。
「大切な一人だと思います」
美月は、ホワイトボードを見つめた。
「ただし、黒崎さん」
「はい」
「これからは、もっと厳しい質問が来ると思います」
黒崎はうなずいた。
「分かっています」
「批判も増えます」
「はい」
「それでも、続けますか?」
黒崎は、迷わず答えた。
「続けます」
美月は、少しだけ微笑んだ。
「では、次の準備を始めましょう」
黒崎は、ホワイトボードの数字をもう一度見た。
『1人』
たった一人。
けれど、その一人は、黒崎の言葉だけを信じたわけではなかった。
自分の疑問に、正面から向き合ってくれた。
その行動を見て、応援すると決めてくれた。
黒崎は、静かに拳を握った。
「……よし」
その夜。
黒崎の活動を紹介する短い記事が、地域のニュースサイトに掲載された。
見出しは、こうだった。
『税金の無駄を追及しない政治家志望者。その理由とは?』
記事は、少しずつ拡散されていった。
そして翌朝。
黒崎のメールボックスには、見知らぬ人からの問い合わせが、次々と届き始めていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
数字を確認することと、その数字が意味するものを理解することは、必ずしも同じではありません。
小さな出来事を通じて、黒崎たちがどのように信頼を積み重ねていくのか、引き続き描いていきます。
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