第59話 最初の減税法案――裏切り者は誰だ
総理大臣就任から約三か月。
黒崎玲司は、ついに国民の手取りを増やすための具体的な減税案をまとめ始めた。
しかし、政策を実現するには、財源だけでなく国会の賛成も必要になる。
わずか三十一議席から始まった黒崎政権。
最初の減税法案を前に、連立政権の内部で思惑が交錯する。
2036年10月21日、午前8時40分。
首相官邸。
「……年間、六千二百億円」
黒崎玲司は、財務省から提出された試算表を読み上げた。
所得税控除の拡大。
対象は、中低所得の給与所得者を中心とする約三千百万人。
年収四百万円の単身給与所得者で、年間約二万円の所得税負担軽減を見込む。
国と地方の財政影響を整理したうえで、今回の制度案による国税の減収額は年間約六千二百億円。
ただし、数字は現時点の推計だった。
「……六千二百億円を、毎年確保する必要があるんですね」
黒崎の問いに、森田悠介が答えた。
「はい。恒久的な控除拡大にするなら、原則として恒久財源が必要です」
黒崎は、別の資料を開いた。
歳出改革による削減額。
確定分、ゼロ。
予算編成で調整中のもの、複数。
「……厳しいですね」
森田は、容赦なく答えた。
「厳しいです。中小企業支援事業の二十八億円も、まだ削減目標にすぎません」
黒崎は、窓の外を見た。
総理大臣になれば、変えられると思っていた。
だが、総理大臣になったからこそ、勝手に変えてはいけないものが増えた。
「……それでも、案は国会に示したい」
森田が顔を上げる。
「財源が足りないままですか?」
「いいえ」
黒崎は、試算表を閉じた。
「財源が足りないことも含めて、示すんです」
* * *
午前11時15分。
首相官邸、政策調整会議。
「所得税控除を拡大する。方向性には賛成です」
宮原奈緒が発言した。
「ただし、所得税をほとんど納めていない人には、効果が小さい」
黒崎は、うなずいた。
「そのとおりです」
「そこを、法案の説明から消さないでください」
宮原の声は鋭かった。
「減税という言葉だけが一人歩きすれば、生活が苦しい人ほど期待を裏切られます」
西園寺健が資料をめくった。
「もう一つあります。税額が減ることと、毎月の給与の手取りがすぐ増えることも同じではありません」
「年末調整などの反映時期ですね」
「はい。給与計算の変更には準備期間が必要です」
黒崎はホワイトボードに三つの言葉を書いた。
『誰に』
『いくら』
『いつ届くか』
「この三つを説明できない政策は、まだ完成していないと思います」
宮原は、腕を組んだまま答えた。
「……その考えなら、協力します」
* * *
2036年10月22日、午後2時。
衆議院議員会館。
「総理。こちらが、立憲未来党としての意見です」
神谷蒼士が、厚い資料を机に置いた。
黒崎はページを開いた。
そこには、減税対象から外れる低所得者への対応が、具体的に記されていた。
「所得税控除の拡大には賛成できる部分があります」
神谷は言った。
「ですが、還付型税額控除の試行を先送りする理由にはしないでください」
「もちろんです」
「それと、財源です」
神谷は六千二百億円という数字を指さした。
「これを国債で毎年埋めるなら、私は反対します」
黒崎は神谷を見た。
「私も、それを前提にするつもりはありません」
「なら、どうするんですか?」
「予算の組み替えを進めます。ただし、確定していない削減額は財源に数えません」
神谷は、しばらく黒崎を見つめた。
「……あなたは、本当に政治家らしくない」
黒崎が苦笑する。
「褒め言葉ですか?」
「半分だけです」
神谷は資料を閉じた。
「残り半分は、心配しています」
「何を?」
「正しいことを説明している間に、支持者が待てなくなることです」
* * *
2036年10月23日、午後4時30分。
首相官邸、連立与党協議室。
「私は、年内に法案を成立させるべきだと思います」
東条正臣が切り出した。
黒崎は、資料から顔を上げた。
「財源の調整が終わっていません」
「六千二百億円でしょう。国の予算規模から見れば、決して不可能な額ではありません」
森田が口を挟んだ。
「規模が小さいことと、財源があることは別です」
東条の目が細くなった。
「森田議員。私は総理と話しています」
黒崎は、静かに言った。
「森田さんの指摘は、私の考えでもあります」
一瞬、空気が張り詰めた。
東条は椅子に深く座った。
「……総理。あなたの政党は三十一議席です」
黒崎は答えなかった。
「立憲未来党が百二十四。私たちが五十三。その他の協力会派も含め、ようやく政権が成り立っている」
「承知しています」
「つまり、あなた一人の理想では、法律は通らない」
黒崎は、東条の目を見た。
「だからこそ、皆さんと協議しています」
東条は、口元だけで笑った。
「では、協議の結果を尊重していただきたい」
そう言って、一枚の文書を差し出した。
『所得税控除拡大法案の年内成立に関する合意案』
黒崎は、最後の一文で手を止めた。
『財源については、今後の予算編成において必要な措置を講ずる』
「……財源を後で決める、という意味ですね」
東条は答えた。
「政治的には、よくある書き方です」
黒崎は文書を机に戻した。
「この文言では、署名できません」
東条の笑みが消えた。
* * *
2036年10月24日、午前7時。
黒崎のスマートフォンが鳴った。
画面には、片岡の名前が表示されていた。
『総理。ニュースを見てください』
「何かあったんですか?」
『……連立協議の文書が流出しました』
黒崎は、急いでニュースサイトを開いた。
そこには、昨日の合意案が掲載されていた。
見出しは、こうだった。
『黒崎総理、六千二百億円減税に難色』
『連立内で不満噴出』
『国民会計党、減税公約を後退か』
黒崎は、画面を見つめた。
記事には、合意案への署名を拒否した事実が書かれていた。
しかし、その理由である財源条項については、ほとんど触れられていなかった。
『総理、どうしますか?』
片岡の声が聞こえた。
黒崎は、しばらく考えた。
「……文書の存在は、否定しません」
『はい』
「ただし、協議中の文書を勝手に公開することはできません。関係者に確認してから、署名しなかった理由を説明します」
電話の向こうで、片岡が息を吐いた。
『……分かりました』
黒崎は電話を切った。
そして、独り言のようにつぶやいた。
「……誰が流したんだろう」
* * *
午前10時。
首相官邸。
「東条側から流れた可能性が高いと思います」
片岡が言った。
「ただし、証拠はありません」
黒崎は、うなずいた。
「では、決めつけないでください」
「総理。相手は、あなたを減税反対派に見せようとしているんですよ」
「そうかもしれません」
黒崎は机に置かれた文書を見た。
「でも、私が今やるべきことは、犯人捜しではありません」
片岡が眉をひそめる。
「……では?」
「国民に、何が問題なのか説明することです」
その時、秘書官が駆け込んできた。
「総理。東条代表が、緊急記者会見を開くそうです」
黒崎は顔を上げた。
「何時ですか?」
「正午です」
* * *
正午。
東条の会見は、テレビで生中継された。
『国民の負担軽減は、一刻も早く実施する必要があります』
東条は、落ち着いた口調で話していた。
『新政改革連合は、所得税控除拡大法案の年内成立を強く求めます』
記者が尋ねた。
『黒崎総理が署名を拒否したという報道は事実ですか?』
東条は、少し間を置いた。
『協議内容の詳細については、お答えを控えます』
そして、続けた。
『ただ、国民への約束を果たすには、政治的な決断が必要だと申し上げておきます』
テレビの前で、片岡が舌打ちした。
「……うまい言い方をしますね」
黒崎は、黙って画面を見ていた。
東条は、最後にこう言った。
『我々は、減税を実現する政権を支えます』
その言葉の意味は、明白だった。
減税を実現しなければ、黒崎政権を支えない。
そう受け取れる発言だった。
* * *
午後3時。
首相官邸、記者会見室。
「総理。減税法案への署名を拒否したのは、事実ですか?」
記者の質問に、黒崎はうなずいた。
「はい。合意案への署名は見送りました」
会場がざわつく。
「減税に反対だからですか?」
「いいえ」
黒崎は、手元の資料を開いた。
「減税に必要な年間六千二百億円の財源について、合意案では具体的な措置が示されていなかったからです」
別の記者が声を上げた。
「総理。では、減税を実施しないのですか?」
黒崎は、首を振った。
「実現を目指します」
「いつですか?」
「財源と制度設計を確定したうえで、法案を提出します」
記者席から、ため息に似た声が漏れた。
黒崎は、それを聞き逃さなかった。
「……皆さんが、早く結果を求めていることは分かっています」
そして、続けた。
「私自身、会社員だった頃は、毎月の給与明細を見るたびに、負担が軽くなってほしいと思っていました」
黒崎は、カメラを見た。
「だからこそ、財源のない減税を約束して、後から別の負担を増やすようなことはしたくありません」
記者が尋ねた。
「東条代表との関係は悪化したのでは?」
黒崎は答えた。
「政策について意見が異なることはあります。それでも、協議は続けます」
「連立崩壊の可能性は?」
「現時点で、連立の解消を決めた事実はありません」
黒崎は、深く頭を下げた。
「必要な数字は、今後も公開していきます」
* * *
2036年10月25日、午後8時10分。
首相官邸、総理大臣執務室。
黒崎は、机に広げられた議席数の表を見つめていた。
国民会計党、三十一。
立憲未来党、百二十四。
新政改革連合、五十三。
その他、九十五。
国政自由党、百六十二。
衆議院の過半数は、二百三十三議席。
総理指名の決選投票では、二百四十七票を得た。
しかし、あれは総理を選ぶための投票だった。
すべての法案で、同じ議員が賛成する保証はない。
黒崎は、議席表に目を落とした。
「……本当に、難しいですね」
小野寺が答えた。
「はい」
「総理大臣になれば、政策を実現できると思っていました」
黒崎は、少し笑った。
「でも、総理大臣になっても、一票は一票なんですね」
小野寺は、静かに言った。
「だから、国会があるんだと思います」
黒崎は、うなずいた。
その時、片岡が執務室に入ってきた。
「総理。少し、まずいことになりました」
黒崎は顔を上げた。
「何ですか?」
片岡は、一枚の紙を差し出した。
そこには、連立与党の一部議員による署名が並んでいた。
『減税法案の早期成立を求める議員有志の声明』
署名者、四十七人。
黒崎は、名前を一つずつ確認した。
新政改革連合の議員。
立憲未来党の議員。
そして――。
「……これは」
黒崎の指が止まった。
署名者の中に、国民会計党の議員が三人いた。
片岡が、低い声で言った。
「……うちの党からも、出ています」
黒崎は、しばらく黙った。
自分の党の議員が、減税を求める。
それ自体は、何もおかしくない。
だが、問題は声明の最後にあった。
『政府が年内の法案提出を明言しない場合、独自の議員立法を検討する』
黒崎は、紙を机に置いた。
「……誰が、署名したんですか?」
片岡は答えた。
「名前は、ここにあります」
黒崎は、もう一度確認した。
そして、静かに言った。
「……三人を、呼んでください」
片岡が尋ねた。
「処分するんですか?」
黒崎は、首を振った。
「いいえ」
そして、はっきりと言った。
「まず、話を聞きます」
片岡は、少し驚いた表情を見せた。
黒崎は、窓の外を見た。
国民会計党は、黒崎一人の政党ではない。
三十一人の議員が、それぞれ国民から選ばれている。
自分と違う意見を持つこともある。
それを、総理大臣の権限で押さえつけるつもりはなかった。
しかし――。
黒崎は、机の上の声明を見つめた。
「……このままでは、政権が持たないかもしれませんね」
小野寺は、何も答えなかった。
総理大臣就任から三か月。
黒崎政権は、初めて本格的な内部対立に直面していた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、所得税控除拡大法案をめぐる連立与党内の対立を描きました。
減税という同じ目標を掲げていても、実施時期や財源の考え方によって、政治家の判断は分かれます。
そして、少数与党を中心とする政権では、政策ごとに国会の賛成を集めなければなりません。
次回は、国民会計党の内部から上がった異論に、黒崎が向き合います。
党の結束を守るのか、それとも議員一人ひとりの判断を尊重するのか。
総理大臣として、そして党代表として、黒崎は難しい決断を迫られます。




