第58話 総理が選んだ、たった三つの自治体
税金と社会保険料の負担を軽くし、働く人の手取りを増やす。
その実現に向け、黒崎政権は還付型税額控除の試行制度を検討し始めた。
しかし、制度を試すということは、対象となる人と、対象にならない人を分けることでもある。
黒崎は、制度設計の段階で思いがけない反発に直面する。
2036年10月7日、午前9時15分。
首相官邸、政策調整会議。
「対象は、三つの自治体に限定する案です」
小野寺航が、資料をスクリーンに映した。
黒崎玲司は、画面を見つめた。
『還付型税額控除・試行制度案』
試行地域、三自治体。
試行期間、一年間。
対象、一定の所得以下の就労世帯。
検証項目、所得把握の正確性、給付までの期間、事務費用、申請漏れ。
「……対象者は、何人くらいですか?」
黒崎が尋ねると、小野寺は答えた。
「三自治体で、約二万人を想定しています。ただし、所得要件によって変動します」
森田悠介が続けた。
「仮に一人当たり平均四万円を支給すると、給付総額は約八億円です」
黒崎は、うなずいた。
「制度運営費は?」
「既存システムの改修や自治体職員の対応費用などを含め、別途試算しています」
黒崎は、資料を見た。
「……試行なのに、かなり費用がかかりますね」
森田は、うなずいた。
「はい。ただし、全国導入前に問題を発見できれば、大きな失敗を避けられる可能性があります」
黒崎は、ペンを置いた。
「……では、最初に確認したいことがあります」
会議室の視線が集まった。
「なぜ、この三つの自治体なんですか?」
小野寺は、資料を開いた。
「人口規模、所得構成、都市部と地方の違いを比較するためです」
黒崎は、うなずいた。
「自治体の協力は得られていますか?」
「まだ正式な合意には至っていません」
黒崎は、資料を閉じた。
「……まず、自治体の負担を確認しましょう」
* * *
午前11時40分。
首相官邸、社会保障制度検討会議。
「私は、この案には反対です」
宮原奈緒が、はっきりと言った。
黒崎は、顔を上げた。
「理由を聞かせてください」
宮原は、資料を指さした。
「同じ所得の人でも、住んでいる自治体によって給付を受けられる人と、受けられない人が出ます」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
「それを、どう説明するんですか?」
会議室が静かになった。
黒崎は、少し考えた。
「……制度の効果を検証するためです」
宮原は、首を振った。
「それは、政府側の理由です」
黒崎は、黙った。
宮原は続けた。
「隣の市に住んでいるだけで四万円もらえない人に、納得してもらえると思いますか?」
黒崎は、資料を見た。
「……難しいと思います」
宮原は、少し驚いた表情を見せた。
黒崎は続けた。
「だから、対象者の選び方は慎重に考える必要があります」
宮原は、静かに言った。
「私は、制度の検証そのものに反対しているわけではありません」
そして、続けた。
「国民を実験台にするような制度には、反対なんです」
その言葉は、黒崎の胸に残った。
* * *
2036年10月8日、午後2時。
東京都内、ある自治体の庁舎。
黒崎は、市長と担当職員から話を聞いていた。
「総理。制度の目的には賛成です」
市長が言った。
黒崎は、頭を下げた。
「ありがとうございます」
しかし、市長は続けた。
「ただ、現場の負担が心配です」
隣に座る福祉担当の職員が、資料を開いた。
「現在でも、生活支援や税に関する問い合わせが多く寄せられています」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
「新しい制度が始まれば、対象者の確認や申請支援、問い合わせ対応が必要になります」
黒崎は、資料を見た。
「……職員を増やす必要がありますか?」
担当者は、少し考えた。
「制度の設計によりますが、今の人員だけでは難しいと思います」
黒崎は、うなずいた。
「分かりました」
そして、続けた。
「国の制度を試すために、自治体の仕事だけ増やすわけにはいきませんね」
市長は、静かに答えた。
「その点を考えていただけるなら、協力できる可能性はあります」
* * *
2036年10月9日、午後6時20分。
国民会計党本部。
「……それ、最初から給付しない方法じゃ駄目なの?」
高瀬直樹が、ノートパソコンを閉じた。
黒崎は、顔を上げた。
「どういうこと?」
「まず、制度の計算と申請手続きだけ試すんだよ」
黒崎は、少し考えた。
「……給付しない?」
高瀬は、うなずいた。
「そう。実際の所得情報を使うなら本人の同意が必要だけど、最初は架空のデータでも検証できる」
黒崎は、資料を見た。
「……システムの動作確認ですね」
「そういうこと」
高瀬は続けた。
「それなら、自治体を三つに限定しなくても、いろいろな条件を試せる」
黒崎は、うなずいた。
「確かに」
高瀬は、少し笑った。
「給付制度を始める前に、計算が正しいか確認する。当たり前のことだろ?」
黒崎は、苦笑した。
「……そうだね」
そして、手元の資料に書き込んだ。
『架空データによる事前検証』
高瀬は続けた。
「ただし、俺が政府の個人情報を扱うのは絶対に駄目だからな」
黒崎は、うなずいた。
「もちろん。政府の正式な手続きで進めるよ」
* * *
2036年10月12日、午前10時。
首相官邸、政策調整会議。
「試行制度案を修正します」
黒崎が言うと、会議室の視線が集まった。
スクリーンには、新しい計画が映し出された。
第一段階。
架空データによる計算・申請手続きの検証。
第二段階。
自治体職員による業務負担の確認。
第三段階。
必要な法的措置と財源を確保したうえで、実際の給付を伴う限定試行を検討。
宮原が、資料を見た。
「……最初から給付するわけではないんですね」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
「では、三自治体という案は?」
「候補として残します。ただし、正式な参加は自治体の同意を得てからです」
宮原は、少し考えた。
「……それなら、前の案よりはいいと思います」
森田が発言した。
「総理。ただし、架空データだけでは、申請漏れや実際の支給時期は検証できません」
黒崎は、うなずいた。
「分かっています」
そして、続けた。
「だから、段階を分けます」
黒崎は、全員を見た。
「最初から全国民を対象にして失敗するより、確認できることから確かめたいんです」
* * *
2036年10月14日、午後3時。
首相官邸、連立与党協議室。
「総理。これでは、時間がかかりすぎます」
東条正臣が、資料を机に置いた。
黒崎は、うなずいた。
「はい。全国導入までには時間が必要です」
東条は、眉をひそめた。
「消費税減税も決まらない。還付型税額控除も試行段階。国民は、いつ生活が楽になるんですか?」
黒崎は、黙った。
東条は続けた。
「政治には、成果が必要です」
黒崎は、静かに答えた。
「そのとおりです」
「だったら、もっと早くできる政策を実施するべきでしょう」
黒崎は、顔を上げた。
「……例えば?」
東条は、資料を差し出した。
「所得税の控除拡大です」
黒崎は、ページをめくった。
そこには、以前から国民会計党が検討していた所得税控除の拡大案が記されていた。
「……この案なら、既存の税制度を使えますね」
東条は、うなずいた。
「はい。新しい給付システムを全国に作るより、実施までの時間を短くできる可能性があります」
黒崎は、資料を見た。
「……ただし、所得税をほとんど払っていない人への効果は小さいですね」
東条は、少し笑った。
「だからこそ、還付型税額控除も検討しているのでしょう?」
黒崎は、うなずいた。
「……そうですね」
* * *
2036年10月16日、午前9時。
首相官邸、税制調整会議。
「総理。所得税控除拡大案について、試算を整理しました」
財務省の担当者が、資料を配った。
黒崎は、ページをめくった。
年収四百万円の単身給与所得者。
所得税の年間負担軽減額、約二万円。
ただし、控除の拡大幅や適用条件によって変動する。
黒崎は、うなずいた。
「……以前、検討した案ですね」
担当者は、うなずいた。
「はい」
森田が発言した。
「ただし、全国で実施する場合の減収額は、対象者や控除額の設定によって変わります」
黒崎は、資料を見た。
「……財源の試算は?」
「現在、複数の制度案について精査しています」
黒崎は、うなずいた。
「分かりました」
そして、続けた。
「所得税控除の拡大、還付型税額控除、社会保険料負担の軽減。この三つを、実施時期と効果で比較してください」
担当者は、資料に書き込んだ。
「承知しました」
* * *
2036年10月18日、午後2時。
首相官邸、記者会見室。
黒崎は、壇上に立った。
「本日、還付型税額控除の試行計画について、検討状況をご報告します」
記者たちが、ペンを走らせた。
「まず、架空データを用いて制度の計算方法や事務手続きを検証します」
黒崎は続けた。
「その後、自治体の協力を得て、実際の給付を伴う試行の必要性を判断します」
記者が手を挙げた。
「総理。なぜ、すぐに給付を始めないのですか?」
黒崎は、静かに答えた。
「制度に誤りがあれば、必要な人に支援が届かなかったり、誤った金額を支給したりする可能性があるからです」
別の記者が尋ねた。
「総理。これでは、国民の生活はすぐには改善しませんよね?」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
会場が静かになった。
黒崎は続けた。
「そのため、既存の税制度を活用した負担軽減策についても、並行して検討しています」
記者が、さらに質問した。
「総理。結局、何を最初に実施するのですか?」
黒崎は、少し考えた。
「……財源と実施可能性を確認したうえで、最も早く、確実に国民の手取りを改善できる政策から進めます」
* * *
2036年10月20日、午後7時10分。
首相官邸、総理大臣執務室。
黒崎は、机の上に並んだ三つの資料を見つめていた。
消費税減税。
還付型税額控除。
所得税控除の拡大。
どれも、国民の負担を軽くするための政策だった。
しかし、実施までに必要な時間も、財政負担も違う。
黒崎は、静かに息を吐いた。
「……早くできることから、始めたいですね」
小野寺が、うなずいた。
「はい」
その時、秘書官が入ってきた。
「総理。財務省から、税制改正に関する追加資料が届きました」
黒崎は、受け取った。
表紙には、こう書かれていた。
『所得税控除拡大に伴う財政影響と実施時期』
黒崎は、ページをめくった。
そして、手を止めた。
「……これは」
小野寺が、資料をのぞいた。
そこには、複数の制度案と、それぞれの減収見込みが示されていた。
黒崎は、しばらく数字を見つめた。
そして、静かに言った。
「……ようやく、具体的な選択肢が見えてきましたね」
小野寺は、うなずいた。
「はい」
黒崎は、資料を閉じた。
消費税を下げるという大きな目標。
その実現には、まだ時間がかかる。
しかし、国民の手取りを増やす方法は、一つではなかった。
黒崎は、静かに言った。
「……次は、最初の減税を決めましょう」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、還付型税額控除の試行制度と、実施までの課題を描きました。
制度を全国に導入する前には、計算の正確性だけでなく、自治体の事務負担や申請漏れなども確認する必要があります。
次回は、所得税控除の拡大について、黒崎政権が具体的な判断を迫られます。
国民の手取りを増やすため、最初に実施する政策は何になるのでしょうか。




