第56話 給与明細から消えた八万円
消費税減税と還付型税額控除の比較を進める黒崎政権。
しかし、国民の手取りを考えるうえで、避けて通れない問題があった。
それは、毎月の給与から差し引かれる社会保険料。
かつて会社員だった黒崎は、一枚の給与明細をきっかけに、社会保障制度の根本的な課題と向き合う。
2036年9月16日、午前8時45分。
首相官邸、総理大臣執務室。
「……八万一千六百円」
黒崎玲司は、資料の数字を読み上げた。
目の前には、厚生労働省が作成した給与明細のモデルケースが置かれていた。
月額給与、四十二万円。
健康保険料、約二万一千円。
厚生年金保険料、約三万八千円。
その他の社会保険料、約二万二千六百円。
合計、八万一千六百円。
「……これは、本人負担分ですね?」
黒崎が尋ねると、担当者はうなずいた。
「はい。一定の条件を置いたモデルケースです」
黒崎は、資料を見た。
「……所得税や住民税は、別ですか?」
「はい」
黒崎は、椅子に深く座り直した。
かつて自分が会社員だった頃。
月給は四十一万二千円。
手取りは、約三十一万円。
毎月、給与明細を見るたびに思っていた。
――こんなに働いているのに、どうしてお金が残らないんだろう。
黒崎は、静かに言った。
「……社会保険料は、かなり大きいですね」
担当者は、うなずいた。
「はい。ただし、社会保険料は医療や年金などの給付を支える財源でもあります」
黒崎は、顔を上げた。
「分かっています」
そして、続けた。
「だからこそ、簡単には下げられないんですよね」
* * *
午前10時30分。
首相官邸、社会保障制度検討会議。
「まず、確認しておきたいことがあります」
宮原奈緒が、資料を机に置いた。
「社会保険料は、単なる税金のように扱うべきではありません」
黒崎は、うなずいた。
「お願いします」
宮原は続けた。
「健康保険料は、医療制度を支えています。厚生年金保険料は、年金給付を支えています」
森田悠介が発言した。
「つまり、保険料を下げるなら、その分の財源をどうするか考える必要があります」
宮原は、うなずいた。
「そうです」
黒崎は、資料を見た。
「……では、社会保険料を下げる方法は、ないのでしょうか?」
宮原は、首を振った。
「方法はあります。ただし、どの方法にも影響があります」
黒崎は、顔を上げた。
「例えば?」
宮原は、ホワイトボードに書き始めた。
保険給付の見直し。
国庫負担の拡大。
制度運営の効率化。
負担構造の変更。
「大きく分けると、このような選択肢があります」
黒崎は、うなずいた。
「……一つずつ、確認しましょう」
* * *
午前11時20分。
「……まず、保険給付の見直しです」
宮原が説明を続けた。
「医療費や年金給付を抑制すれば、必要な財源を減らせる可能性があります」
黒崎は、うなずいた。
「ただし、国民が受けられるサービスにも影響しますね」
「はい」
その時、朝倉理沙が発言した。
「総理。私は、医療現場にいたので、そこは慎重に考えてほしいです」
黒崎は、顔を上げた。
「お願いします」
朝倉は続けた。
「地方では、医師も看護師も不足しています」
「はい」
「医療費を削減するという言葉だけが先行すると、現場の人員がさらに減る可能性があります」
黒崎は、うなずいた。
「……必要な医療まで削るわけにはいきませんね」
朝倉は、少し安心した表情を見せた。
宮原は続けた。
「次に、国庫負担の拡大です」
黒崎は、資料を見た。
「税金で補うということですね」
「はい。ただし、税財源を確保する必要があります」
森田が、静かに言った。
「消費税減税と同じ問題ですね」
黒崎は、うなずいた。
「……財源が必要です」
* * *
午後1時40分。
首相官邸、政策調整会議。
「……では、制度運営の効率化はどうでしょうか?」
黒崎が尋ねた。
厚生労働省の担当者が答えた。
「事務処理の共通化や、既存システムの活用などによって、一定の効率化は可能だと考えています」
黒崎は、顔を上げた。
「具体的には?」
担当者は、資料を示した。
「保険者ごとに異なる事務処理や、申請手続きの一部について、共通化の余地があります」
黒崎は、うなずいた。
「……どのくらいの費用を削減できますか?」
担当者は、少し間を置いた。
「現時点では、正確な試算はありません」
黒崎は、静かに答えた。
「分かりました」
そして、続けた。
「では、まず現状の費用を整理してください」
担当者は、うなずいた。
「承知しました」
黒崎は、資料に書き込んだ。
『社会保険制度の運営費用を見える化する』
* * *
2036年9月17日、午後3時。
東京都大田区。
黒崎は、従業員三十五人の製造会社を訪れていた。
社長の男性が、給与台帳を見せた。
「総理。うちも、社会保険料の負担は大きいんです」
黒崎は、うなずいた。
「会社側の負担ですね」
「そうです」
社長は、資料を指さした。
「従業員の給与を上げたいんですが、会社が負担する社会保険料も増えるんです」
黒崎は、資料を見た。
「……給与を上げると、会社側の負担も増える」
「はい」
社長は続けた。
「もちろん、社会保険が必要なのは分かっています」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
「でも、給与を一万円上げる時、会社が負担するのは一万円だけじゃないんです」
黒崎は、静かに答えた。
「……そのとおりですね」
社長は、少し笑った。
「従業員には、もっと手取りを増やしてあげたいんですけどね」
黒崎は、資料を閉じた。
「……ありがとうございます。参考になります」
* * *
2036年9月18日、午前10時。
首相官邸、政策調整会議。
「総理。企業側の社会保険料負担についても、整理しました」
橘拓真が、資料を配った。
黒崎は、ページをめくった。
「……給与を上げると、企業側の保険料負担も増える」
橘は、うなずいた。
「はい。特に中小企業では、賃上げの判断に影響する場合があります」
森田が発言した。
「ただし、企業側の保険料負担を減らす場合も、財源の問題があります」
黒崎は、うなずいた。
「そうですね」
橘は続けた。
「それでも、企業が賃上げしやすい環境を作ることは重要です」
黒崎は、少し考えた。
「……では、賃上げと社会保険料負担の関係も、試算してください」
橘は、うなずいた。
「承知しました」
* * *
2036年9月20日、午後2時。
首相官邸、社会保障制度検討会議。
「……総理。社会保険料負担の見直しについて、いくつかの案を整理しました」
宮原が、資料を配った。
黒崎は、ページをめくった。
一つ目。
低所得者の社会保険料負担を軽減する案。
二つ目。
中小企業の賃上げに伴う負担を一時的に支援する案。
三つ目。
社会保険制度の事務効率化を進める案。
黒崎は、うなずいた。
「……どれも、検討する価値がありますね」
宮原は続けた。
「ただし、制度の持続可能性を損なわないことが条件です」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
そして、続けた。
「医療や年金を守りながら、現役世代の負担を軽くする」
宮原は、少し考えた。
「……簡単ではありませんね」
黒崎は、静かに答えた。
「そうですね」
* * *
2036年9月22日、午後4時。
首相官邸、記者会見室。
黒崎は、壇上に立った。
「本日、現役世代の社会保険料負担について、政府としての検討方針を発表します」
記者たちが、ペンを走らせた。
「所得税や消費税だけでなく、社会保険料も、家計の可処分所得に大きな影響を与えています」
黒崎は続けた。
「今後、低所得者の負担軽減、企業の賃上げ支援、制度運営の効率化について検討を進めます」
記者が手を挙げた。
「総理。社会保険料を引き下げるということですか?」
黒崎は、首を振った。
「現時点では、具体的な引き下げを決定したわけではありません」
別の記者が尋ねた。
「総理。消費税減税も、社会保険料の引き下げも、財源が必要です。両方を実現できるのでしょうか?」
黒崎は、少し考えた。
「……現時点では、両方を実現できると断言できません」
会場が静かになった。
黒崎は続けた。
「だからこそ、政策ごとの効果と財政負担を比較しています」
そして、はっきりと言った。
「私が目指しているのは、減税という言葉ではありません」
一度、言葉を切った。
「働いた人の手元に、今より多くのお金が残る社会です」
* * *
2036年9月24日、午後7時。
首相官邸、総理大臣執務室。
黒崎は、一枚の給与明細を見つめていた。
それは、会社員時代の自分の給与明細だった。
総支給額、四十一万二千円。
差引支給額、約三十一万円。
家賃、十一万円。
残り、二十万円。
そこから、食費、光熱費、通信費、日用品。
そして、将来のための貯金。
黒崎は、静かに息を吐いた。
「……あの頃、毎月思っていたな」
その時、小野寺が入ってきた。
「総理。社会保険料の所得階層別分析が届きました」
黒崎は、顔を上げた。
「ありがとうございます」
小野寺は、資料を差し出した。
「……一つ、気になる点があります」
黒崎は、ページをめくった。
そこには、年収別の社会保険料負担率が示されていた。
年収三百万円。
年収五百万円。
年収八百万円。
年収一千万円。
黒崎は、資料を読み進めた。
そして、ある部分で手を止めた。
「……これは」
小野寺が、うなずいた。
「はい」
黒崎は、資料を見つめた。
「……所得が増えても、保険料の負担率が同じように増えるわけではないんですね」
小野寺は、うなずいた。
「はい。保険料には、標準報酬月額の上限などがあります」
黒崎は、少し考えた。
「……ということは、負担の構造そのものを確認する必要がありますね」
小野寺は、うなずいた。
「そのとおりです」
黒崎は、資料を閉じた。
社会保険料を下げる。
その言葉は、簡単だった。
しかし、誰の負担を、どのくらい軽くするのか。
そして、その分を誰が負担するのか。
黒崎は、静かに言った。
「……次は、負担の公平性ですね」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、現役世代の社会保険料負担をテーマにしました。
社会保険料は、家計の手取りに影響する一方、医療や年金などの制度を支える重要な財源でもあります。
そのため、単純な引き下げではなく、給付への影響や企業負担も含めた検討が必要になります。
次回は、所得によって異なる社会保険料の負担構造に焦点を当てます。
黒崎は、負担の公平性と制度の持続可能性を両立できるのでしょうか。




