第54話 消費税を二%下げるために、必要な金額
消費税率を10%から8%へ。
会社員時代から国民負担の軽減を訴えてきた黒崎玲司にとって、それは重要な目標だった。
しかし、総理大臣になった今、黒崎には減税を実現する責任だけでなく、その後の財政を維持する責任もある。
財務省が提示した一枚の試算表を前に、黒崎は厳しい現実と向き合う。
2036年8月28日、午前9時。
首相官邸、総理大臣執務室。
「……四兆八千億円?」
黒崎玲司は、資料に記された数字を見つめた。
向かいに座る財務省の担当者が、うなずいた。
「はい。消費税の標準税率を10%から8%に引き下げた場合の、年間減収額の暫定試算です」
黒崎は、資料を読み直した。
『消費税率引き下げに伴う財政影響』
標準税率、10%から8%。
軽減税率、8%を維持。
年間減収見込み、約四兆八千億円。
「……軽減税率は、そのままなんですね」
「はい。食料品などに適用されている8%は変更せず、標準税率のみを引き下げる前提です」
黒崎は、うなずいた。
「それでも、約五兆円ですか」
担当者は続けた。
「なお、これは現時点の税収見通しに基づく概算です。景気や消費動向によって変動します」
黒崎は、資料を閉じなかった。
むしろ、次のページを開いた。
「……この減収は、国と地方の合計ですね」
「はい」
「地方分については、どうなりますか?」
担当者は、別の表を示した。
「地方消費税や地方交付税などへの影響も含め、整理が必要です」
黒崎は、ペンを置いた。
「では、地方自治体の財源を減らさない方法も、同時に考えなければいけませんね」
担当者は、うなずいた。
「そのとおりです」
黒崎は、窓の外を見た。
四兆八千億円。
会社員時代、給与明細に並ぶ数万円の控除額を見ていた男には、想像することさえ難しい数字だった。
だが、今は違う。
その金額に、責任を持たなければならなかった。
* * *
午前10時40分。
首相官邸、政策調整会議。
「……結論から言います」
森田悠介が、資料を配った。
「現時点で確認できている行政改革の削減見込みだけでは、消費税減税の財源にはまったく足りません」
黒崎は、うなずいた。
「具体的には?」
森田は、ホワイトボードに数字を書いた。
中小企業支援事業の事務効率化。
年間二十八億円の削減目標。
政府情報システムの重複調査。
削減額は未確定。
その他の行政改革。
効果額は精査中。
「……つまり、今の段階で減税財源として確実に計上できる金額は、ほぼありません」
会議室が静かになった。
片岡誠司が腕を組んだ。
「選挙では、行政改革によって財源を確保すると訴えてきました」
森田は、うなずいた。
「はい。しかし、行政改革で削減できる金額と、恒久的な減税に必要な金額は、別です」
黒崎は、資料を見た。
「……一度だけ削減できた費用を、毎年の減税財源には使えませんね」
「そのとおりです」
森田は続けた。
「例えば、システムの開発費を一度だけ百億円削減できたとしても、翌年以降も百億円が浮くわけではありません」
黒崎は、うなずいた。
「では、恒久的な削減と、一時的な削減を分けて集計しましょう」
西園寺健が発言した。
「それに、既存の予算を削る場合も注意が必要です。支出を減らした結果、別の場所で費用が増える可能性があります」
「例えば?」
「自治体への事務移管や、行政サービスの低下による追加対応費用です」
黒崎は、静かに答えた。
「……見かけだけの削減は、財源に数えない」
森田が、うなずいた。
「それが必要です」
* * *
午後1時15分。
首相官邸、連立与党協議室。
「総理。いつまで調査を続けるつもりですか?」
東条正臣が、厳しい表情で尋ねた。
黒崎は、資料を開いた。
「まず、減収額の精査と財源案の整理を進めています」
「それは分かっています」
東条は、机に手を置いた。
「しかし、国民は減税を期待している。政権が発足して一か月以上が経とうとしているんですよ」
黒崎は、うなずいた。
「承知しています」
東条は続けた。
「だったら、減税の実施時期を先に決めるべきではありませんか?」
黒崎は、首を振った。
「財源が確認できていない段階では、決められません」
東条の眉が動いた。
「……総理。政治には決断が必要です」
「はい」
黒崎は、東条を見た。
「だからこそ、できない約束はしないと決めています」
東条は、少し声を強めた。
「それでは、いつまでたっても改革は進みませんよ」
黒崎は、資料の一ページを差し出した。
「では、東条代表に一つ伺います」
「何でしょう?」
「四兆八千億円の減収を、どの財源で補いますか?」
東条は、言葉を止めた。
黒崎は続けた。
「国債で補うのか。別の税金を上げるのか。歳出を削るのか」
会議室が静まり返った。
「どれを選んでも、国民生活に影響があります」
東条は、しばらく黙った。
そして、静かに言った。
「……それを考えるのが、政府の仕事でしょう」
黒崎は、うなずいた。
「はい。だから、今、考えています」
* * *
2036年8月29日、午後7時20分。
東京都中央区。
桐生美月は、仕事帰りに黒崎と短い電話をしていた。
『今日のニュース、見ました』
「減税の話ですか?」
『はい。四兆八千億円って、すごい金額ですね』
黒崎は、苦笑した。
「そうですね」
美月は、少し考えた。
『でも、私にはよく分からないんです』
「何がですか?」
『消費税が2%下がると、実際にどのくらい生活が楽になるのか』
黒崎は、黙った。
美月は続けた。
『ニュースでは、何兆円って話ばかりですけど……』
少し間が空いた。
『私たちの生活で、いくら変わるんでしょうか』
黒崎は、手元のメモを開いた。
「……例えば、税抜き十万円分の買い物をした場合、10%なら消費税は一万円です」
『はい』
「8%なら八千円。差は二千円ですね」
『なるほど』
「ただし、食料品など、もともと8%のものは変わりません」
美月は、少し笑った。
『そういう説明の方が、分かりやすいです』
黒崎も笑った。
「ありがとうございます」
美月は続けた。
『でも、二千円って、結構大きいですよ』
黒崎は、うなずいた。
「そうですね」
『だから、実現してほしいです』
黒崎は、静かに答えた。
「……はい」
* * *
2036年8月31日、午前10時。
首相官邸、政策調整会議。
「総理。消費税減税による家計への影響を整理しました」
水野彩香が、資料を配った。
黒崎は、ページをめくった。
そこには、世帯ごとの支出例が示されていた。
単身世帯。
共働き世帯。
子育て世帯。
高齢者世帯。
水野は説明した。
「標準税率の対象となる支出額によって、減税の効果は異なります」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
「例えば、月に十万円の税抜き支出が標準税率の対象なら、税額の差は月二千円です」
黒崎は、資料を見た。
「年間なら、二万四千円ですね」
「はい。ただし、これは単純な計算例です。実際には、家計ごとに対象支出が異なります」
その時、宮原奈緒が発言した。
「総理。一つ、確認したいことがあります」
黒崎は、顔を上げた。
「お願いします」
宮原は、資料を指さした。
「消費税減税は、支出額が多い世帯ほど、減税額も大きくなる傾向があります」
「はい」
「一方で、低所得世帯にとっては、数千円の違いでも生活への影響が大きい」
黒崎は、うなずいた。
宮原は続けた。
「だったら、消費税減税だけでなく、所得の低い世帯への支援も比較すべきではありませんか?」
森田が、うなずいた。
「給付や税額控除との比較ですね」
宮原は、黒崎を見た。
「総理。以前、私たちは還付型税額控除について議論しましたよね」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
「その制度も、選択肢から外さないでください」
黒崎は、少し考えた。
そして、答えた。
「……分かりました」
宮原は、少し驚いた表情を見せた。
黒崎は続けた。
「消費税減税を目標にすることと、他の方法を比較することは、矛盾しません」
森田が、資料に書き込んだ。
黒崎は、全員を見た。
「国民の手取りと生活を改善するために、どの方法が効果的なのか」
そして、続けた。
「そこを、数字で示しましょう」
* * *
2036年9月2日、午後2時。
首相官邸、財務省との協議。
「総理。財源確保の選択肢について、整理しました」
財務省の担当者が、資料を開いた。
「大きく分けて、四つあります」
歳出改革。
税収の自然増。
税制の組み替え。
国債発行。
黒崎は、うなずいた。
「それぞれ、説明をお願いします」
担当者は続けた。
「まず、歳出改革です。恒久的な支出削減が実現すれば、減税財源に充てることができます」
「はい」
「次に、税収の自然増です。経済成長によって税収が増える可能性があります」
黒崎は、顔を上げた。
「ただし、確実ではありませんね」
「はい。将来の税収増を、事前に確定財源として扱うことには慎重であるべきです」
黒崎は、うなずいた。
「続けてください」
「税制の組み替えについては、他の税負担を増やす場合、家計や企業への影響を確認する必要があります」
「はい」
「国債発行は、一時的な財源にはなりますが、恒久的な減税を毎年の借入れで賄う場合、財政負担が積み重なります」
黒崎は、資料を閉じた。
「……どれも、簡単ではありませんね」
担当者は、静かに答えた。
「はい」
黒崎は、少し考えた。
「では、まず一つ、お願いがあります」
「何でしょう?」
「消費税を2%下げる案と、同じ財政規模で他の負担軽減策を行う案を、比較してください」
担当者は、顔を上げた。
「……比較、ですか?」
「はい」
黒崎は続けた。
「国民の生活が、どのくらい改善するのか。所得別、世帯別に見たいんです」
担当者は、うなずいた。
「承知しました」
* * *
2036年9月4日、午後3時。
首相官邸、記者会見室。
黒崎は、壇上に立った。
「本日、消費税率引き下げに関する暫定試算を公表します」
記者たちが、一斉に顔を上げた。
「標準税率を10%から8%に引き下げ、軽減税率を8%に据え置く場合、年間約四兆八千億円の減収が見込まれます」
黒崎は続けた。
「これは暫定値であり、今後の経済状況によって変動します」
記者が手を挙げた。
「総理。減税を断念するということですか?」
黒崎は、首を振った。
「いいえ」
「では、いつ実施するのですか?」
黒崎は、静かに答えた。
「財源を確認できた段階で、具体的な実施時期を示します」
別の記者が尋ねた。
「総理。行政改革で四兆八千億円を確保できると考えていますか?」
黒崎は、少し間を置いた。
「……現時点では、そう言える根拠はありません」
会場がざわついた。
黒崎は続けた。
「だからこそ、削減できる支出を一つずつ確認しています」
記者が、さらに質問した。
「それでは、国民の期待を裏切ることになりませんか?」
黒崎は、しばらく考えた。
そして、答えた。
「……期待に応えたいと思っています」
一度、言葉を切った。
「ですが、数字が足りないのに『できます』と言うことは、もっと大きな裏切りになると思います」
会場が静かになった。
黒崎は、資料を掲げた。
「今回の試算も、財源の検討状況も、公開します」
そして、はっきりと言った。
「減税できない理由を隠すのではなく、減税するために何が足りないのかを示します」
* * *
午後6時50分。
首相官邸、総理大臣執務室。
「……総理。記者会見への反応が届いています」
片岡が、タブレットを差し出した。
画面には、さまざまな意見が表示されていた。
『結局、減税しないのか』
『財源を説明するのは当然だと思う』
『早く生活を楽にしてほしい』
『数字を公開したのは評価する』
黒崎は、黙って読んでいた。
片岡が尋ねた。
「……どう思われますか?」
黒崎は、静かに答えた。
「……どの意見も、分かります」
片岡は、うなずいた。
黒崎は続けた。
「減税を期待して投票してくれた人もいます」
「はい」
「でも、財源がないまま実施すれば、別の負担が増えるかもしれない」
片岡は、少し考えた。
「……総理として、難しい判断ですね」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
その時、秘書官が入ってきた。
「総理。財務省から、追加の説明資料が届きました」
黒崎は、受け取った。
表紙には、こう書かれていた。
『税制改正に伴う所得階層別影響分析』
黒崎は、ページをめくった。
そして、手を止めた。
「……これは」
片岡が、資料をのぞいた。
そこには、消費税減税と、還付型税額控除を比較した試算が並んでいた。
黒崎は、ゆっくりと資料を読み進めた。
「……同じ金額を使っても、家計への影響が違うんですね」
片岡は、うなずいた。
「はい」
黒崎は、しばらく黙った。
そして、静かに言った。
「……この数字は、国民にも見てもらうべきですね」
窓の外には、東京の夜景が広がっていた。
消費税を下げる。
それは、黒崎が政治家になった頃から掲げてきた目標だった。
しかし、総理大臣になった今。
黒崎は、もう一つの問いと向き合い始めていた。
――税金を下げることと、国民の生活を楽にすること。
その二つは、必ずしも同じではないのかもしれない。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、消費税率引き下げに必要な財源と、家計への影響を描きました。
作中の四兆八千億円という金額は、2036年の架空の経済条件に基づく暫定試算です。
減税を実施する際には、税収への影響だけでなく、どの世帯にどの程度の効果があるのかを考えることも重要になります。
次回は、消費税減税と還付型税額控除を比較します。
黒崎が目指す「働いた人の手元にお金が残る社会」に、どちらが近づけるのでしょうか。




