第49話 総理大臣・黒崎玲司
衆議院で二百四十七票を獲得し、内閣総理大臣に指名された黒崎玲司。
しかし、国民会計党の議席は、わずか三十一。
政権を維持するには、考え方の異なる政党や議員の協力が必要だった。
組閣を目前に、黒崎は最初の大きな決断を迫られる。
2036年7月21日、午前8時17分。
首相官邸、組閣準備室。
「こちらが、各党から提出された閣僚候補者名簿です」
片岡誠司が、厚いファイルを机に置いた。
黒崎玲司は、その厚さに目を細めた。
「……ずいぶんありますね」
「立憲未来党、新政改革連合、それぞれから届いています」
黒崎は、最初のページを開いた。
財務大臣。
経済産業大臣。
厚生労働大臣。
国土交通大臣。
名前の横には、推薦した政党と希望する役職が記されていた。
「……希望する役職?」
黒崎が尋ねると、片岡はうなずいた。
「各党が、連立協議の中で求めているポストです」
黒崎は、資料を読み進めた。
新政改革連合は、財務大臣と経済産業大臣。
立憲未来党は、厚生労働大臣と文部科学大臣。
さらに、官房長官についても複数の推薦があった。
黒崎は、ファイルを閉じた。
「……人事の前に、確認したいことがあります」
「何でしょう?」
「この人たちは、それぞれ何を実現したいんでしょうか」
片岡は、少し笑った。
「黒崎さんらしい質問ですね」
「役職に就きたい理由ではなく、その役職で何をするのかを知りたいんです」
片岡は、別の資料を取り出した。
「実は、私も同じことを考えていました」
そこには、候補者ごとの政策実績と専門分野が整理されていた。
黒崎は、ようやく表情を緩めた。
「……こっちから見ましょう」
* * *
午前10時05分。
首相官邸、会議室。
「財務大臣は、我が党から出していただきたい」
東条正臣が、はっきりと言った。
黒崎は、向かいの席で資料を開いていた。
「理由を伺ってもよろしいですか?」
東条は、少し眉を上げた。
「財政運営の経験がある議員が、我が党には多いからです」
「それは理解しています」
黒崎は続けた。
「ただ、今回の政権では、政府支出の公開制度を最優先に進めたいと考えています」
東条は、うなずいた。
「もちろん、協力します」
「その場合、財務省が保有する予算・決算データについて、公開できる範囲とできない範囲を明確にしていただく必要があります」
東条の表情が、少し変わった。
「……すべて公開するつもりですか?」
「いいえ」
黒崎は首を振った。
「個人情報や安全保障に関わる情報まで公開するつもりはありません」
そして、続けた。
「ただし、公開できない理由も、可能な範囲で説明する制度にしたいんです」
東条は、腕を組んだ。
「それは、簡単ではありませんよ」
「分かっています」
黒崎は、東条を見た。
「だからこそ、実行できる方に担当していただきたいんです」
しばらく沈黙が流れた。
東条は、ゆっくりと息を吐いた。
「……財務大臣の人選は、再協議ということですね」
「はい」
黒崎は、頭を下げた。
「よろしくお願いします」
* * *
午後0時30分。
首相官邸、別室。
立憲未来党の代表との協議が始まった。
「厚生労働大臣については、我が党の推薦候補をお願いしたい」
黒崎は、うなずいた。
「候補者の経歴は確認しました」
「いかがでしょうか?」
黒崎は、資料を開いた。
「社会保障制度について、豊富な経験をお持ちですね」
代表は、少し笑った。
「そうでしょう」
黒崎は続けた。
「ただ、一つ確認したいことがあります」
「何でしょう?」
「社会保険料の負担軽減と、医療・介護の給付維持を、どのように両立させるお考えでしょうか」
代表は、少し黙った。
「……難しい問題です」
「はい」
黒崎は、うなずいた。
「私も、簡単に答えを出せるとは思っていません」
そして、続けた。
「だから、最初から結論を決めるのではなく、数字を公開して議論したいんです」
代表は、しばらく考えた。
「……その条件なら、候補者本人にも確認します」
黒崎は、頭を下げた。
「ありがとうございます」
* * *
午後3時12分。
首相官邸、組閣準備室。
「……一日で、こんなに疲れるとは思いませんでした」
黒崎は、椅子にもたれた。
小野寺航が、苦笑した。
「まだ、組閣の途中です」
「そうですよね」
小野寺は、資料を差し出した。
「国民会計党からの閣僚候補についても、整理しました」
黒崎は、顔を上げた。
「お願いします」
小野寺は、候補者名を読み上げた。
森田悠介。
宮原奈緒。
水野彩香。
朝倉理沙。
西園寺健。
黒崎は、少し考えた。
「……全員を大臣にする必要はありませんね」
小野寺は、うなずいた。
「はい。国会で政策を監視する役割も必要です」
黒崎は、資料を見た。
「宮原さんには、社会保障政策を見てもらいたいです」
「厚生労働大臣としてですか?」
黒崎は、首を振った。
「それも考えましたが、本人の希望を聞きたいです」
小野寺は、うなずいた。
「分かりました」
黒崎は続けた。
「水野さんには、地方自治体の負担を減らす政策を担当してもらいたい」
「地方行政改革ですね」
「はい」
黒崎は、少し笑った。
「……役職より、仕事から決めたいんです」
* * *
午後6時40分。
国民会計党本部。
「……私は、厚生労働大臣にはなりません」
宮原が、はっきりと言った。
黒崎は、少し驚いた。
「理由を聞いてもいいですか?」
宮原は、うなずいた。
「今回の政権は、複数の政党が協力して成立します」
「はい」
「その中で、社会保障制度の改革は、必ず意見が分かれます」
黒崎は、黙って聞いていた。
宮原は続けた。
「私は、国会に残って、必要なら政府に反対したいんです」
黒崎は、少し笑った。
「……分かりました」
宮原は、真剣な表情で言った。
「黒崎さん。総理になったからといって、私が何でも賛成すると思わないでください」
黒崎は、うなずいた。
「もちろんです」
宮原は、少し笑った。
「それなら、安心です」
* * *
2036年7月22日、午前9時。
首相官邸。
黒崎は、再び各党の代表と協議していた。
前日とは違い、机の上には役職名だけでなく、政策課題と実施目標が並んでいた。
財務大臣。
厚生労働大臣。
経済産業大臣。
国土交通大臣。
文部科学大臣。
総務大臣。
それぞれの候補者について、政策への考え方が確認されていた。
片岡が、小声で言った。
「……ようやく、形になってきましたね」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
東条が、資料を閉じた。
「黒崎総理。これで、組閣を進められますね」
黒崎は、少し考えた。
「……最後に、一つだけ」
東条が、顔を上げた。
「何でしょう?」
黒崎は、全員を見た。
「この内閣では、政策の成果を、国民に公開したいと思っています」
会議室が静かになった。
「各省庁が何を実施し、いくら使い、どのような結果が出たのか」
黒崎は続けた。
「うまくいかなかった政策も、可能な範囲で公開したいんです」
立憲未来党の代表が、うなずいた。
「必要なことですね」
東条は、少し苦笑した。
「……大臣にとっては、厳しい内閣になりそうだ」
黒崎は、少し笑った。
「私にとっても、です」
* * *
同日、午後2時。
首相官邸、記者会見室。
黒崎は、壇上に立った。
カメラのシャッター音が響く。
「本日、組閣に向けた調整を終えました」
黒崎は、原稿に目を落とした。
「今回の内閣は、複数の政党が協力する政権です」
そして、顔を上げた。
「考え方がすべて同じわけではありません」
記者たちが、ペンを走らせた。
「しかし、政府支出の透明化、国民負担の軽減、社会保障制度の持続可能性について、共通の目標を持っています」
黒崎は、少し間を置いた。
「私は、国民の皆さんに、できないことを約束するつもりはありません」
そして、続けた。
「できることを、数字で示し、実行します」
会場が静かになった。
「そして、できなかったことも、隠しません」
* * *
同日、午後5時30分。
皇居。
黒崎玲司は、内閣総理大臣としての親任式に臨んだ。
続いて、国務大臣の認証式が行われた。
こうして、黒崎内閣が正式に発足した。
会社員だった男が、国会議員になり、政党を作り、ついに内閣総理大臣となった。
しかし、黒崎は、その重みをまだ十分に理解できていなかった。
* * *
午後8時15分。
首相官邸、総理大臣執務室。
「……こちらが、総理大臣の机です」
職員が、丁寧に説明した。
黒崎は、机に手を置いた。
広い部屋。
大きな窓。
重厚な家具。
そのすべてが、自分のものではないように感じられた。
片岡が、隣に立った。
「……どうですか?」
黒崎は、少し笑った。
「落ち着きません」
片岡も笑った。
「すぐに慣れますよ」
黒崎は、机の上に置かれた資料を見た。
『政府支出公開制度に関する検討資料』
黒崎は、椅子に座った。
「……まず、これから始めましょう」
片岡が、うなずいた。
「分かりました」
その時、職員が入ってきた。
「総理。財務省から、明日の説明資料が届いております」
黒崎は、資料を受け取った。
表紙には、こう書かれていた。
『行政支出公開制度の導入に伴う課題について』
黒崎は、ページをめくった。
そして、手を止めた。
そこには、太字で一文が記されていた。
『現行制度において、全省庁の支出情報を一元的に公開することは困難である』
黒崎は、しばらくその文字を見つめた。
「……困難、ですか」
片岡が、資料をのぞいた。
「財務省としては、慎重な姿勢ですね」
黒崎は、うなずいた。
「そうですね」
そして、静かに言った。
「……では、何が困難なのか、詳しく聞きましょう」
片岡は、少し笑った。
「明日から、いよいよですね」
黒崎は、資料を閉じた。
「はい」
総理大臣になった。
しかし、まだ何も変えていない。
黒崎は、窓の外を見た。
東京の夜景が、広がっていた。
その明かりの一つひとつに、生活がある。
働く人がいる。
家族がいる。
税金を納める人がいる。
黒崎は、静かに息を吐いた。
「……ここからが、本番ですね」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、黒崎内閣の組閣と発足を描きました。
総理大臣となった黒崎ですが、国民会計党は三十一議席しか持っていません。連立各党との協力が必要な状況は、これからも続きます。
次回は、黒崎政権が最初に取り組む「政府支出の透明化」です。
総理大臣になれば、これまでできなかったことが実現できるのか。
黒崎と財務省の本格的な政策協議が始まります。




