第48話 総理大臣を選ぶ日
総選挙の結果、どの政党も単独過半数を獲得できなかった。
国民会計党の三十一議席を巡り、各党の交渉は最終局面を迎える。
黒崎玲司を総理に推す声が広がる一方、その支持にはそれぞれの思惑があった。
首班指名を目前に、黒崎は一つの決断を下す。
2036年7月13日、午前8時40分。
東京都千代田区、国民会計党本部。
「この条件なら、合意できると思います」
西園寺健が、資料の一ページを示した。
黒崎の前には、各党との政策協議をまとめた表が置かれていた。
政府支出の公開制度。
税制改革の工程表。
社会保障の給付と負担の検証。
地方自治体の事務負担軽減。
政治資金の透明化。
黒崎玲司は、資料を読み進めた。
「……消費税については?」
西園寺が答える。
「税率変更を今すぐ約束するのではなく、恒久財源を確保した場合に引き下げを検討する、という表現です」
宮原奈緒がうなずいた。
「医療や介護の財源を削って減税することには、反対です。その条件が明記されるなら、私は賛成できます」
森田悠介が続けた。
「税率を一律に二ポイント下げれば、国と地方を合わせて相当な減収になります。数兆円規模の恒久財源が必要です」
黒崎は、ペンを置いた。
「では、数字を確かめる前に税率は約束しない。それで統一しましょう」
片岡誠司が、時計を見た。
「問題は、政策だけではありません」
「議席ですね」
「はい」
片岡は、ホワイトボードに書いた。
過半数、二百三十三。
立憲未来党、新政改革連合、国民会計党。
合計、二百八議席。
「あと二十五議席必要です」
黒崎は、数字を見つめた。
「他の野党や無所属との協議は?」
「進んでいます。ただし、支持を確約した議員は、まだ足りません」
片岡は続けた。
「総理候補になることと、総理に選ばれることは別です」
黒崎は、うなずいた。
「分かっています」
* * *
同日、午後1時。
東京都千代田区、立憲未来党本部。
会議室には、三つの政党の代表が集まっていた。
立憲未来党の代表。
東条正臣。
そして、黒崎。
立憲未来党の代表が口を開いた。
「政策協議については、おおむね合意できました」
東条がうなずく。
「問題は、首班指名です」
黒崎は、黙って聞いていた。
東条は続けた。
「我々は、黒崎代表を支持する用意があります」
立憲未来党の代表も、うなずいた。
「私たちも、党内の了承を得る方向で調整しています」
黒崎は、資料を閉じた。
「ありがとうございます。ただ、一つ確認したいことがあります」
東条が尋ねた。
「何でしょう?」
「私が総理になった場合、政策協定にない法案については、各党が自由に反対できるという理解でよろしいですか?」
東条の表情が、少し変わった。
「……政権運営には、一定の結束が必要です」
「もちろんです」
黒崎は続けた。
「でも、すべての政策に無条件で賛成する約束は、できません」
立憲未来党の代表が言った。
「それでは、少数派の意見も尊重する仕組みが必要ですね」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
東条は、しばらく考えた。
そして、静かに言った。
「……政策協定の範囲内では協力する。それ以外は個別協議としましょう」
黒崎は、頭を下げた。
「ありがとうございます」
だが、東条の表情は硬かった。
* * *
2036年7月14日、午後4時。
首相官邸。
相馬孝一総理大臣は、久世隆臣財務副大臣から報告を受けていた。
「総理。立憲未来党と新政改革連合が、黒崎代表を首班指名で支持する方向です」
相馬は、静かにうなずいた。
「そうか」
久世は続けた。
「ただし、過半数には届いていません」
相馬は、窓の外を見た。
「黒崎は、総理になりたいと言ったのか?」
久世は首を振った。
「そのような発言は確認できていません」
相馬は、少し笑った。
「……あの男らしい」
久世が尋ねた。
「総理は、どうされますか?」
相馬は、しばらく考えた。
「国政自由党としては、独自候補を立てる」
久世は、うなずいた。
「承知しました」
相馬は続けた。
「だが、決選投票になれば、状況は変わる」
久世が顔を上げた。
「……黒崎代表を支持する可能性も?」
相馬は、答えなかった。
* * *
2036年7月15日、午後7時。
国民会計党本部。
「……他の野党と無所属の一部から、支持の回答がありました」
片岡が、資料を配った。
黒崎は、数字を確認した。
立憲未来党、百二十四。
新政改革連合、五十三。
国民会計党、三十一。
その他の政党・無所属から、二十二。
合計、二百三十。
「……あと三議席ですね」
黒崎が言うと、片岡はうなずいた。
「はい」
水野彩香が尋ねた。
「残り三人は?」
「政策協定の内容を確認したいとのことです」
佐伯健太郎が言った。
「地方財政への影響を心配している議員もいるようですね」
黒崎は、資料を見た。
「では、説明に行きましょう」
片岡が、少し驚いた。
「黒崎さんが、直接ですか?」
「はい」
黒崎は、立ち上がった。
「支持をお願いするなら、政策について自分で説明したいです」
* * *
2036年7月16日、午後3時。
衆議院議員会館。
黒崎は、無所属のベテラン議員と向かい合っていた。
「黒崎さん。あなたの政策には、賛成できる部分があります」
議員は、資料をめくった。
「ただし、地方への影響が心配です」
黒崎は、うなずいた。
「どの点でしょうか?」
「行政改革です。国が事務を減らしたつもりでも、自治体に仕事が移るだけでは困る」
黒崎は、資料を開いた。
「その点は、私たちも課題だと考えています」
そして、地方自治体の業務量を評価する仕組みを説明した。
議員は、黙って聞いていた。
「……なるほど」
黒崎は続けた。
「ただ、すべての問題を解決できるとは言いません」
議員は、少し笑った。
「正直ですね」
「分からないことも、まだあります」
議員は、資料を閉じた。
「……分かりました。首班指名では、あなたに投票します」
黒崎は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
* * *
2036年7月17日、午後8時。
国民会計党本部。
「……二百三十三議席です」
片岡が、静かに報告した。
会議室が、一瞬静まり返った。
高瀬直樹が、思わず声を上げた。
「過半数じゃないか!」
片岡は、うなずいた。
「ただし、これは首班指名での支持を表明した議員の合計です」
森田が続けた。
「全員が同じ政党になるわけではありませんし、すべての法案で賛成するわけでもありません」
黒崎は、うなずいた。
「そうですね」
片岡は、黒崎を見た。
「それでも、総理に選ばれる可能性が高くなりました」
黒崎は、しばらく黙った。
そして、静かに言った。
「……本当に、ここまで来たんですね」
* * *
2036年7月18日、午後6時。
東京都中央区。
黒崎は、仕事帰りの桐生美月と会っていた。
「……もうすぐ、総理大臣になるんですね」
美月が言った。
黒崎は、苦笑した。
「まだ、決まっていません」
「でも、ニュースではそう言っています」
黒崎は、うなずいた。
「そうですね」
美月は、少し考えた。
「……黒崎さん」
「はい」
「総理になったら、今までみたいに会えなくなりますか?」
黒崎は、言葉に詰まった。
「……忙しくなると思います」
美月は、少し笑った。
「ですよね」
黒崎は、静かに言った。
「でも、時間は作りたいです」
美月は、顔を上げた。
「本当ですか?」
「はい」
美月は、少し照れたように笑った。
「……約束ですよ」
黒崎も、笑った。
「はい」
* * *
2036年7月20日、午前10時。
国会議事堂。
特別国会が召集された。
衆議院本会議場には、新たに選ばれた四百六十五人の議員が集まっていた。
黒崎は、議席に座っていた。
一年前、初めてこの場所に来た時とは、まったく違う気持ちだった。
周囲には、国民会計党の仲間がいる。
そして、これから総理大臣を選ぶ投票が始まる。
議長が、首班指名選挙の開始を宣言した。
議員たちは、順番に投票用紙を提出していった。
黒崎は、自分の名前を書いた。
『黒崎玲司』
投票を終え、席に戻る。
心臓の鼓動が、少し速くなっていた。
* * *
午前11時42分。
衆議院本会議場。
開票結果が発表された。
「黒崎玲司君、二百三十一票」
黒崎は、顔を上げた。
「相馬孝一君、百六十二票」
議場がざわついた。
「その他の候補者、七十二票」
議長が続けた。
「過半数を得た者がありませんので、上位二名による決選投票を行います」
黒崎は、静かに息を吐いた。
事前に支持を表明した議員のうち、二人が別の候補者に投票したことになる。
片岡が、小声で言った。
「……決選投票です」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
* * *
午後0時25分。
衆議院本会議場。
決選投票が始まった。
黒崎玲司。
相馬孝一。
二人の名前が、投票用紙に書かれていく。
黒崎は、静かに待っていた。
そして、開票。
議長が、結果を読み上げた。
「黒崎玲司君、二百四十七票」
議場がざわついた。
「相馬孝一君、二百十八票」
黒崎は、息を止めた。
議長が、はっきりと言った。
「よって、黒崎玲司君を、衆議院において内閣総理大臣に指名することに決しました」
拍手が起こった。
黒崎は、ゆっくりと立ち上がった。
片岡が、手を差し出した。
「……おめでとうございます」
黒崎は、その手を握った。
「ありがとうございます」
高瀬は、傍聴席で涙を浮かべていた。
* * *
同日、午後3時。
参議院本会議場。
参議院では、別の候補者が首班指名された。
衆議院と参議院の議決が一致しなかったため、両院協議会が開かれた。
しかし、意見は一致しなかった。
その結果、日本国憲法の規定により、衆議院の議決が国会の議決となった。
黒崎玲司。
次の内閣総理大臣に指名されることが、正式に決まった。
* * *
午後5時。
国民会計党本部。
「……総理大臣、ですか」
黒崎は、窓の外を見つめていた。
片岡が、隣に立った。
「はい」
「まだ、実感がありません」
片岡は、少し笑った。
「これから、嫌でも実感することになりますよ」
黒崎も、笑った。
その時、スマートフォンが震えた。
美月からのメッセージだった。
『おめでとうございます。ちゃんとご飯、食べてくださいね』
黒崎は、少し笑った。
そして、返信した。
『ありがとうございます。まだ、何も始まっていません』
送信。
黒崎は、机の上の資料を見た。
政府支出の透明化。
税制改革。
社会保障。
地方財政。
すべて、これからだった。
* * *
2036年7月21日、午前8時。
首相官邸。
黒崎は、官邸の正面玄関に立っていた。
職員が、深く頭を下げた。
「黒崎先生。こちらへどうぞ」
黒崎は、静かにうなずいた。
総理大臣としての組閣準備が、始まる。
しかし、その前に。
黒崎は、一度だけ振り返った。
東京の空は、青く晴れていた。
一年前。
ただの会社員だった。
給与明細を見て、ため息をついていた。
それが今。
日本の政治を動かす場所に立っている。
黒崎は、深く息を吐いた。
「……ここからですね」
そして、官邸の中へ歩き始めた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、首班指名を巡る各党の交渉と、特別国会での投票を描きました。
衆議院と参議院で異なる候補者が指名された場合、両院協議会を経ても一致しなければ、憲法の規定により衆議院の議決が優先されます。
次回は、黒崎内閣の発足です。
総理大臣になった黒崎は、誰を閣僚に選び、最初に何を変えるのでしょうか。




