第44話 解散まで、あと七日
国民会計党の結成から、わずか二週間。
五百件を超える候補者応募が届く一方、相馬政権は衆議院解散に向けて動き始めていた。
準備不足のまま選挙に突入するのか。それとも、勝つために原則を曲げるのか。
黒崎玲司は、結党以来、最も厳しい判断を迫られる。
2036年5月29日、午前8時36分。
東京都千代田区、国民会計党本部。
「解散まで、早ければ一週間です」
片岡誠司の言葉に、会議室が静まり返った。
黒崎玲司は、机の上の資料を見た。
衆議院解散の可能性。
候補者の審査状況。
選挙資金。
そして、未完成の政策集。
どれも、赤い文字で「要対応」と書かれていた。
藤原真琴が報告する。
「候補者への応募は、現在五百二十六件です」
高瀬直樹が顔を上げた。
「すごい数だな」
「ただし、応募書類がそろっているのは三百八十四件です」
真琴は続けた。
「さらに、政治資金や経歴の確認まで終わっているのは、まだ四十二人です」
水野彩香が尋ねた。
「四十二人の中で、面接まで終わった人は?」
「十一人です」
片岡が腕を組んだ。
「……これでは、全国規模の候補者擁立は難しいですね」
森田悠介が言った。
「資金面も問題です。候補者を増やせば、その分だけ選挙費用が必要になります」
黒崎は、資料を閉じた。
「では、無理に増やすのはやめましょう」
高瀬が驚いた。
「え? 五百人も応募してるのに?」
「応募してくれたことと、公認できることは別だから」
黒崎は、全員を見た。
「選挙に間に合わせるために、審査を省略することだけは避けたいです」
* * *
同日、午後2時。
国民会計党本部。
候補者面接が行われていた。
最初に入ってきたのは、四十八歳の元地方議員だった。
「私には、三期十二年の地方議員経験があります」
男性は、自信に満ちた表情だった。
「地元の後援会もあります。すぐに選挙活動を始められます」
黒崎は尋ねた。
「国民会計党で、何を実現したいですか?」
「もちろん、行政改革です」
「具体的には?」
男性は、少し考えた。
「無駄な予算を削減します」
黒崎は、うなずいた。
「どの予算を、どのように見直しますか?」
男性は、言葉に詰まった。
「……それは、当選してから調べればいいでしょう」
黒崎は、手元の資料にメモをした。
次に入ってきたのは、三十六歳の女性だった。
地方都市で、介護施設の管理者を務めていた。
「私は、介護職員の給与を上げたいです」
黒崎は尋ねた。
「財源は、どう考えていますか?」
女性は、資料を開いた。
「正直に言うと、まだ十分に分かっていません」
面接官たちが顔を上げた。
女性は続けた。
「でも、介護報酬を上げるだけでは、利用者の負担や保険料に影響することは理解しています」
そして、黒崎を見た。
「だから、どこにどれだけお金が使われているのか、まず知りたいんです」
黒崎は、少し笑った。
「ありがとうございます」
女性は、緊張した表情で尋ねた。
「……政治経験がないと、難しいでしょうか?」
黒崎は首を振った。
「経験だけでは判断しません」
そして、続けた。
「分からないことを、分からないと言えるのも大切だと思います」
* * *
2036年5月31日、午後6時。
国民会計党本部。
九人の所属議員が、候補者審査の進捗を確認していた。
西園寺健が、数字を示した。
「現時点で、公認に向けた最終審査へ進める候補者は二十三人です」
宮原奈緒が尋ねた。
「社会保障政策について、十分に理解している人は?」
「全員が専門家というわけではありません。ただ、政策の課題を説明し、追加の検証を受ける意思は確認しています」
朝倉理沙が言った。
「それなら、専門家による研修も必要ですね」
佐伯健太郎がうなずく。
「地方財政についても、最低限の理解は必要です」
橘拓真が口を開いた。
「でも、時間がありません。研修が終わる前に解散されたら?」
黒崎は答えた。
「その場合は、公認を見送る人も出ると思います」
片岡が、少し厳しい表情で言った。
「黒崎さん。候補者が少なければ、比例代表でも不利になります」
黒崎は、うなずいた。
「分かっています」
「国政を変えるには、議席が必要です」
「はい」
黒崎は、全員を見た。
「でも、議席を増やすために、誰でも公認する党にはしたくありません」
会議室が静かになった。
やがて、片岡がうなずいた。
「……分かりました」
そして、資料を閉じた。
「審査を終えた候補者から、順次決定しましょう」
* * *
2036年6月1日、午前10時。
東京都千代田区、新政改革連合本部。
「黒崎のところは、候補者が足りないらしいな」
東条正臣は、報告書を読んでいた。
向かいに座る大河内俊介がうなずく。
「五百件以上の応募があっても、審査が追いついていないようです」
東条は、少し笑った。
「こちらは、現職十八人に加えて、選挙経験者との調整が進んでいる」
大河内は、資料をめくった。
「ただし、国民会計党との候補者調整は、まだ合意できていません」
東条は、椅子にもたれた。
「なら、もう一度提案しよう」
「どのような内容ですか?」
東条は、地図を広げた。
「選挙区を分ける。こちらが候補者を立てる地域では、黒崎側は候補者を立てない」
大河内が尋ねた。
「その代わりに?」
「こちらも、黒崎側の重点選挙区には候補者を立てない」
大河内は、少し考えた。
「黒崎さんは、政策の一致を求めると思います」
東条は、うなずいた。
「だから、政策協定も付ける」
そして、紙に三つの項目を書いた。
『行政改革』
『国民負担の軽減』
『政治資金の透明化』
大河内は、資料を見た。
「……かなり抽象的ですね」
東条は、笑った。
「細かく決めれば、合意できなくなる」
大河内は、黙った。
* * *
2036年6月2日、午後3時。
国民会計党本部。
「新政改革連合から、再び提案が届きました」
小野寺が、資料を配った。
黒崎は、内容を確認した。
選挙区の候補者調整。
政策協定。
選挙後の国会運営に関する協力。
片岡が言った。
「前回より、具体的ですね」
森田が、資料を読み進めた。
「ただ、財源については、何も書かれていません」
西園寺がうなずく。
「国民負担の軽減とありますが、何を、どれだけ減らすのか不明です」
宮原は、別の項目を指さした。
「社会保障制度への影響も書かれていません」
黒崎は、資料を閉じた。
「……政策協力の余地はあると思います」
水野が顔を上げた。
「選挙協力は?」
「今の内容では、合意できません」
片岡が尋ねた。
「東条さんに、どう返答しますか?」
黒崎は答えた。
「政策ごとの協議は続ける。ただし、候補者調整は現時点で行わない、と伝えてください」
片岡は、うなずいた。
「分かりました」
その時。
真琴が、会議室に入ってきた。
「黒崎さん。官邸から速報です」
黒崎は、顔を上げた。
「何でしょう?」
真琴は、スマートフォンを見せた。
『相馬首相、今週中にも衆議院解散を表明へ』
高瀬が、思わず声を上げた。
「……本当に来た!」
黒崎は、画面を見つめた。
* * *
2036年6月3日、午後5時。
首相官邸。
相馬孝一総理大臣は、記者会見場に姿を現した。
テレビカメラが、一斉に向けられる。
「国民の皆様に、申し上げます」
相馬は、ゆっくりと話し始めた。
「現在、我が国は、物価高、社会保障負担、財政運営など、多くの課題に直面しています」
会場が静かになった。
「政府は、これらの課題に対応するため、政策を進めてまいりました」
そして、続けた。
「しかし、国会の構成が大きく変化し、今後の政権運営について、改めて国民の判断を仰ぐ必要があると考えました」
記者たちが、身を乗り出した。
相馬は、はっきりと言った。
「六月十日、衆議院を解散する方針です」
会場がざわついた。
「今後の日本の進路を、国民の皆様に選んでいただきたい」
その言葉は、全国に生中継された。
* * *
同日、午後5時12分。
国民会計党本部。
「……六月十日」
黒崎は、テレビ画面を見つめていた。
解散まで、あと七日。
片岡が、すぐに口を開いた。
「選挙準備を前倒しします」
森田がうなずく。
「資金計画を見直します」
水野は、地方組織との連絡を始めた。
宮原と朝倉は、社会保障政策の最終確認に入った。
西園寺は、税制と財源の試算を整理した。
橘は、中小企業政策をまとめた。
真琴は、広報体制の準備を進めた。
高瀬は、JAPAN LEDGERの公開情報を更新する作業に入った。
黒崎は、全員を見た。
「……まず、今できることを整理しましょう」
片岡が尋ねた。
「黒崎さん。候補者は、何人まで増やしますか?」
黒崎は、少し考えた。
「審査を終えた人だけです」
片岡は、うなずいた。
「分かりました」
黒崎は続けた。
「数を増やすために、基準を下げることはしません」
* * *
2036年6月5日、午後8時。
東京都中央区。
黒崎は、会社帰りの桐生美月と会っていた。
「……本当に、選挙になるんですね」
美月が言った。
黒崎は、うなずいた。
「はい」
「去年、初めて当選したばかりなのに」
「そうですね」
美月は、少し笑った。
「今度は、一人じゃないですね」
黒崎は、顔を上げた。
「はい。九人の仲間がいます」
美月は、少し考えた。
「それに、全国から応募してきた人たちもいます」
黒崎は、うなずいた。
「そうですね」
美月は続けた。
「……でも、黒崎さん」
「はい」
「無理はしないでくださいね」
黒崎は、少し笑った。
「ありがとうございます」
美月は、真剣な表情で言った。
「私も、できる範囲で手伝います」
黒崎は、うなずいた。
「助かります」
美月は、少し笑った。
「会社は辞めませんけどね」
黒崎も笑った。
「それでいいと思います」
二人は、短く笑い合った。
* * *
2036年6月7日、午後6時。
国民会計党本部。
「……公認候補者が、決まりました」
片岡が、資料を配った。
黒崎は、一覧表を見た。
現職九人。
新たに公認した新人二十三人。
合計三十二人。
「三十二人ですか」
黒崎が言うと、片岡はうなずいた。
「はい。審査を完了した候補者だけです」
森田が尋ねた。
「選挙区の調整は?」
「各候補者の希望や地域事情を踏まえて、最終確認中です」
水野が、資料を読んだ。
「全国すべての地域には、候補者を立てられませんね」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
宮原が言った。
「でも、無理に増やすより、いいと思います」
黒崎は、全員を見た。
「……この三十二人で、最初の選挙に臨みましょう」
九人が、うなずいた。
その時。
小野寺が、会議室に入ってきた。
「黒崎さん。新政改革連合から、最後の提案です」
黒崎は、顔を上げた。
「何でしょう?」
小野寺は、資料を差し出した。
『選挙協力に応じる場合、国民会計党の重点選挙区に候補者を立てない』
黒崎は、資料を読んだ。
その下には、もう一つの条件が書かれていた。
『選挙後の首班指名において、新政改革連合が推薦する候補者への投票を求める』
会議室が静かになった。
片岡が、眉をひそめた。
「……首班指名まで、条件に入れてきましたか」
黒崎は、資料を閉じた。
「……これは、受けられません」
森田が尋ねた。
「理由は?」
黒崎は答えた。
「誰を総理大臣にするかは、選挙結果と政策を踏まえて判断すべきだからです」
片岡は、うなずいた。
「では、断りますか?」
「はい」
黒崎は、はっきりと言った。
「政策協力は続けます。でも、首班指名の約束はできません」
* * *
2036年6月10日、午後1時。
国会議事堂。
衆議院本会議場。
議場には、緊張した空気が漂っていた。
相馬総理が、解散詔書を衆議院議長に伝達した。
議長が、立ち上がる。
そして、解散詔書を読み上げた。
「日本国憲法第七条により、衆議院を解散する」
議場が、一瞬静まり返った。
その直後。
「万歳!」
声が響いた。
議員たちが、立ち上がる。
黒崎は、議場を見渡した。
昨年七月。
初めて、この場所に足を踏み入れた。
あの時は、何も分からなかった。
今は、少しだけ分かる。
政治は、思っていたよりも複雑だった。
そして、思っていたよりも、多くの人の生活につながっていた。
黒崎は、静かに立ち上がった。
衆議院議員としての任期が、ここで終わった。
* * *
同日、午後4時。
国民会計党本部。
「……選挙が始まります」
黒崎は、三十二人の候補予定者とオンラインでつながっていた。
画面には、全国各地の顔が並んでいた。
元会社員。
元地方公務員。
介護施設の管理者。
中小企業の経営者。
それぞれ、違う人生を歩んできた人たちだった。
黒崎は、カメラを見た。
「皆さんに、一つだけお願いがあります」
画面の向こうで、候補者たちが耳を傾けた。
「できないことを、できると言わないでください」
黒崎は続けた。
「分からないことは、分からないと言ってください」
そして、少し笑った。
「その上で、どうすれば実現できるかを、一緒に考えてほしいんです」
候補者たちが、うなずいた。
黒崎は、最後に言った。
「私たちは、まだ小さな政党です」
一呼吸置いた。
「でも、小さいからこそ、最初に決めたことを守れる党でありたいと思います」
画面の向こうから、拍手が聞こえた。
黒崎は、深く頭を下げた。
三十二人。
全国に広がった、小さな挑戦。
そして、衆議院総選挙。
黒崎玲司は、再び国民の前に立とうとしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、衆議院解散と、国民会計党の初めての総選挙に向けた準備を描きました。
全国から多くの応募が集まる中、黒崎たちは三十二人の候補者で選挙に臨むことを決めました。
次回は第2章最終話。初めての全国選挙が始まり、物語は大きな転換点を迎えます。




