第40話 政府が隠した一行
政府が約束した、低所得者支援策の比較結果。
四か月をかけて作成された資料には、制度改革が難しいとされる理由が並んでいた。
しかし、黒崎玲司は、資料の中に見過ごせない数字を発見する。
その数字は、九人になった国民会計の会を、新たな戦いへ導くことになる。
2036年3月19日、午前9時12分。
東京都千代田区、衆議院議員会館。
「……百四十二ページ?」
高瀬直樹が、プリンターから出てきた資料の束を見て顔をしかめた。
黒崎玲司は、一ページ目を開いた。
『低所得者支援制度の比較検討結果』
政府が前年十二月に公表を約束した資料だった。
比較対象は四つ。
所得税の控除拡大。
住民税非課税世帯への臨時給付。
社会保険料の負担軽減。
そして、給付付き税額控除。
小野寺航が説明する。
「政府の結論は、所得税の控除拡大を優先し、臨時給付を補完策とするものです」
「給付付き税額控除は?」
「恒久制度としての早期導入は困難、となっています」
黒崎は資料をめくった。
所得把握の難しさ。
自治体システムの改修費。
過払いが生じた場合の精算。
制度運営に必要な人員。
どれも、無視できない問題だった。
「……確かに、簡単ではありませんね」
小野寺がうなずく。
「はい。ただ、気になる箇所があります」
小野寺は、八十七ページを開いた。
そこには、制度別の行政コスト比較が掲載されていた。
給付付き税額控除の欄には、こう記されていた。
『初期システム整備費:約二千四百億円』
高瀬が目を丸くした。
「二千四百億円?」
黒崎は数字を見つめた。
「……内訳は?」
小野寺が答えた。
「この資料には、ありません」
黒崎はページを戻した。
説明は、わずか三行。
『複数制度の情報連携に伴う大規模改修を想定』
『全国一斉導入を前提に試算』
『既存システムとの重複整備を含む』
黒崎は、最後の一行で手を止めた。
「……重複整備?」
高瀬が身を乗り出した。
「同じ機能を、別々に作るってことか?」
「そう読める。でも、理由があるかもしれない」
黒崎は資料を閉じた。
「まずは、試算の前提を確認しましょう」
* * *
同日、午後2時。
財務省。
「数字そのものは、担当省庁から提出されたものです」
久世隆臣財務副大臣が答えた。
黒崎は、資料の八十七ページを示した。
「この二千四百億円について、内訳を確認したいんです」
久世は、資料に目を落とした。
「初期整備費ですね」
「はい。全国一斉導入を前提としていますが、段階導入した場合の試算はありますか?」
「今回の比較では、作成していません」
「既存の所得情報を活用する場合は?」
「それも、別途検討が必要です」
黒崎はうなずいた。
「分かりました。では、追加試算をお願いできますか?」
久世は、椅子にもたれた。
「黒崎先生。政府は、導入できないと言っているわけではありません」
「はい」
「今すぐ恒久制度として実施するには、課題が多いという判断です」
黒崎は答えた。
「その判断自体を否定するつもりはありません」
久世が顔を上げる。
「では?」
「どの課題に、いくらかかるのかを知りたいんです」
黒崎は続けた。
「二千四百億円という数字だけでは、制度が本当に難しいのか、設計を変えれば可能なのか、判断できません」
久世は、しばらく黙った。
そして言った。
「……担当部局に確認します」
黒崎は頭を下げた。
「お願いします」
* * *
2036年3月21日、午後4時30分。
衆議院議員会館。
九人になった国民会計の会が、初めて全員そろって政策会議を開いた。
水野彩香は、資料を読みながら眉をひそめた。
「全国一斉導入を前提にすれば、自治体の改修負担が大きくなるのは当然です」
佐伯健太郎が答える。
「ただ、段階導入にも問題があります。自治体ごとに支援内容が違えば、不公平が生じます」
森田悠介が言った。
「それなら、制度そのものは全国共通にして、運用の開始時期を分ける方法は?」
「その間、支援を受けられない地域が出ます」
議論は、すぐに行き詰まった。
そこで、新しく参加した西園寺健が口を開いた。
「……そもそも、最初から完全な制度を作る必要があるのでしょうか」
黒崎が顔を上げた。
「どういうことですか?」
西園寺は、ホワイトボードに二つの数字を書いた。
『初期費用』
『毎年の運営費』
「政府資料では、二つが別々に記載されています。しかし、制度を十年間運用した場合の総費用比較がありません」
片岡誠司がうなずいた。
「導入費だけを見ても、判断できませんね」
西園寺は続けた。
「それに、制度を導入しない場合にも、既存の給付事務費は発生し続けます」
黒崎はメモを取った。
「……導入する場合と、しない場合の差額を見るべきだと」
「はい」
橘拓真が腕を組んだ。
「企業の設備投資と同じですね。初期費用が高くても、長期的に効率化できるなら意味がある」
一方、宮原奈緒は慎重だった。
「ただし、効率化で浮くお金を、最初から財源として計上するのは危険です」
黒崎はうなずいた。
「実際に削減できると確認するまでは、財源に含めないようにしましょう」
朝倉理沙が、資料を指さした。
「もう一つ。制度が複雑になるほど、申請を諦める人が出ます」
朝倉は、病院で働いていた頃の話をした。
「生活に困っていても、書類をそろえられない人がいます。窓口に来る交通費すら負担になる人もいました」
黒崎は、顔を上げた。
朝倉は続けた。
「行政コストだけではなく、申請する側の負担も比較してほしいです」
水野がうなずいた。
「それは重要ですね」
黒崎は、ホワイトボードに三つの項目を書いた。
『十年間の総費用』
『既存制度との差額』
『申請する人の負担』
「……この三つを、政府に追加で求めたいと思います」
九人全員がうなずいた。
* * *
2036年3月24日、午後6時50分。
東京都中央区。
黒崎は、会社帰りの桐生美月と駅前で待ち合わせていた。
「今日も遅かったですね」
美月が言った。
「すみません。会議が長引いてしまって」
「九人になると、話し合いも大変ですか?」
黒崎は苦笑した。
「七人の時より、意見が増えました」
「いいことじゃないですか」
「はい。ただ、結論を出すのに時間がかかります」
美月は、少し笑った。
「会社も同じですよ」
二人は歩き始めた。
「でも、黒崎さん」
「はい」
「意見が違う人を集めたかったんですよね?」
黒崎はうなずいた。
「そうです」
「だったら、時間がかかるのも当然です」
黒崎は、少し考えた。
そして笑った。
「……そうですね」
美月は続けた。
「九人の意見を聞けるなら、一人では気づけないことも見つかると思います」
黒崎は、うなずいた。
その言葉を聞いて、昼間の会議を思い出した。
西園寺の長期費用。
朝倉の申請負担。
どちらも、自分一人では十分に考えられていなかった視点だった。
* * *
2036年3月26日、午前10時。
衆議院議員会館。
「黒崎さん。政府から追加資料が届きました」
小野寺が、封筒を差し出した。
黒崎は、すぐに開いた。
そこには、二千四百億円の試算内訳が記されていた。
中央システムの整備。
自治体システムの改修。
情報連携の試験。
既存制度との並行運用。
そして、予備費。
黒崎は、一つずつ確認した。
「……なるほど」
高瀬が隣からのぞき込む。
「どうだ?」
「少なくとも、数字の根拠は分かってきた」
高瀬は、資料を読み進めた。
そして、ある項目で手を止めた。
「……これ、おかしくないか?」
黒崎が顔を上げる。
「どこ?」
高瀬は、表の一行を指さした。
『自治体向け共通基盤の新規整備』
その下には、注記があった。
『既存の行政情報連携基盤との接続可能性は、今後検証する』
高瀬は言った。
「既存基盤が使えるかどうか、まだ調べてないってことだろ?」
黒崎は、資料を読み直した。
「……そうだね」
「それなのに、新しく作る前提で費用を積んでる」
黒崎は首を振った。
「既存基盤が要件を満たさない可能性もある。新規整備が必要かどうかは、技術的に確認しないと」
高瀬はうなずいた。
「じゃあ、確認しよう」
黒崎は、資料を閉じた。
「……政府に、既存基盤の利用可能性を検証してもらおう」
* * *
2036年3月27日、午後1時15分。
衆議院の委員会室。
黒崎は、政府参考人に質問していた。
「今回の試算では、既存の行政情報連携基盤を活用できるかどうか、検証されていますか?」
政府参考人は答えた。
「現時点では、必要な機能をすべて満たすか確認できておりません」
「では、新規整備が必要だと確定したわけではないんですね?」
「はい。その点については、今後の検証事項です」
委員会室がざわついた。
黒崎は続けた。
「私は、二千四百億円という試算を否定しているわけではありません」
そして、資料を掲げた。
「ただし、前提条件によって費用が変わる可能性があるなら、そのことを国民に分かるように示すべきだと思います」
政府参考人は、うなずいた。
「ご指摘の点について、資料の補足を検討いたします」
黒崎は、さらに尋ねた。
「既存基盤を活用する場合と、新規整備する場合の比較を行う予定はありますか?」
「関係省庁と協議の上、検討いたします」
黒崎は、最後に言った。
「制度を導入するかどうかは、正確な比較をした上で判断すべきです。ぜひ、お願いします」
質問を終えると、黒崎は席に戻った。
傍聴席にいた神谷が、その様子を見ていた。
* * *
同日、午後3時40分。
国会内の廊下。
「黒崎さん」
声をかけたのは、神谷蒼士だった。
黒崎は振り返った。
「神谷さん。今日は来られていたんですね」
「ええ。委員会を傍聴していました」
神谷は、資料を持ち上げた。
「今日の質問は、よかったと思います」
黒崎は、少し驚いた。
「ありがとうございます」
しかし、神谷は続けた。
「ただし、一つだけ」
「何でしょう?」
「システム整備費が下がっても、給付の財源は別に必要です」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
神谷は、はっきりと言った。
「そこを混同すると、国民に誤解を与えます」
黒崎は答えた。
「そのとおりです」
神谷は、少し笑った。
「……あなたは、そこだけは分かっているようですね」
黒崎も笑った。
「そこだけですか?」
「今のところは」
二人は、短く笑った。
そして神谷は、真剣な表情に戻った。
「黒崎さん。次は、給付の財源を示してください」
黒崎は、うなずいた。
「はい。そこまで示さなければ、政策にはなりませんから」
* * *
2036年3月30日、午後7時。
衆議院議員会館。
九人の会派会議。
黒崎は、政府の比較資料と追加説明を机に置いた。
「……今回、分かったことがあります」
全員が黒崎を見た。
「政府の二千四百億円という試算には、一定の根拠があります」
黒崎は続けた。
「ただし、既存基盤を活用できるかどうかは、まだ検証されていません」
西園寺がうなずいた。
「つまり、費用が下がる可能性はあるが、現時点では確定していない」
「はい」
宮原が尋ねた。
「では、次はどうしますか?」
黒崎は、ホワイトボードに書いた。
『制度設計』
『財源』
『行政コスト』
『国民への効果』
「この四つを、私たち自身で比較できる形にまとめたいと思います」
片岡が、少し笑った。
「……本格的な政策集ですね」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
水野が尋ねた。
「政党結成に向けた準備にもなりますね」
黒崎は、少し考えた。
そして、はっきりと答えた。
「そうです」
会議室が静かになった。
黒崎は続けた。
「国民会計党を結成するなら、名前だけの政党にはしたくありません」
そして、九人を見た。
「何を変えるのか。どうやって変えるのか。いくら必要なのか」
黒崎は、ホワイトボードを指さした。
「そこまで示したいと思います」
西園寺が、静かに言った。
「……では、政策集を作りましょう」
朝倉も、うなずいた。
「医療と社会保障の部分は、私も担当します」
森田が続けた。
「財源の試算は、私と西園寺さんで進めます」
水野は、自治体の事務負担を担当すると申し出た。
橘は、中小企業への影響を確認することになった。
九人が、それぞれ役割を引き受けていった。
黒崎は、その様子を見ていた。
一年前。
自分は、たった一人の会社員だった。
毎月の給与明細を見て、手取りの少なさに疑問を持っていた。
今は、九人の国会議員が同じ机を囲んでいる。
しかし、まだ何も終わっていない。
むしろ、ここからが始まりだった。
その時。
小野寺のスマートフォンが鳴った。
「……はい。小野寺です」
数秒後。
彼の表情が変わった。
「……分かりました。確認します」
電話を切った小野寺は、黒崎を見た。
「黒崎さん。官邸から連絡です」
黒崎は、顔を上げた。
「何でしょう?」
小野寺は、静かに答えた。
「相馬総理が、来月にも内閣改造を検討しているそうです」
片岡が、眉をひそめた。
「……内閣改造?」
小野寺は、うなずいた。
「はい。そして、国民会計の会にも、政策協力を求める可能性があるとのことです」
黒崎は、黙った。
九人になった国民会計の会。
独自の政策集。
そして、政権からの新たな接近。
黒崎玲司の前には、再び大きな選択が迫っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、政府の比較検討結果をもとに、制度改革の費用と課題を整理しました。
政策を実現するには、理想だけでなく、財源や行政運用まで具体的に考える必要があります。
次回は、相馬政権の内閣改造を巡り、国民会計の会に新たな動きが生まれます。




