第37話 その手柄は、誰のものか
政策が実現に近づくほど、政治家たちの思惑は複雑になる。
国民のために協力したはずの相手が、いつの間にか別の目的を持ち始めることもある。
政府から提示された共同記者会見の条件。
黒崎玲司は、ある一枚の資料に違和感を覚える。
2036年1月26日、午前10時14分。
東京都千代田区、衆議院議員会館。
「……三万円ですか」
黒崎玲司は、政府から届いた資料を見つめた。
表紙には、こう記されていた。
『低所得世帯向け臨時生活支援給付金(案)』
政府が検討している、新たな物価高対策だった。
小野寺航が説明する。
「住民税非課税世帯を中心に、対象世帯へ一回三万円を給付する案です」
「対象は何世帯ですか?」
「現段階の試算では、約六百万世帯です」
黒崎は電卓を手に取った。
「……給付総額は千八百億円」
「はい。これに事務費が加わります」
黒崎は資料をめくった。
「財源は?」
「既存の物価高対策予算の一部を組み替える方針です。ただし、どの事業をどれだけ変更するかは、まだ確定していません」
黒崎は、うなずいた。
「それなら、財源が確定するまで賛成とは言えませんね」
小野寺も、うなずいた。
「はい」
その時、藤原真琴が入ってきた。
「黒崎さん。政府から、共同記者会見の原稿案が届きました」
黒崎は受け取った。
そして、数行読んだところで手を止めた。
『相馬内閣の強い指導力のもと、国民会計の会との協力によって実現した生活支援策』
黒崎は、もう一度読み直した。
「……実現した?」
真琴が、うなずいた。
「はい」
黒崎は資料を机に置いた。
「まだ、予算も成立していませんよね」
「はい」
「それなのに、実現したと発表するんですか?」
真琴は、困った表情を浮かべた。
「政府側は、政策の方向性がまとまったことを強調したいようです」
黒崎は、しばらく黙った。
そして言った。
「……この原稿では、会見できません」
* * *
同日、午後2時30分。
財務省。
「表現上の問題でしょうか?」
久世隆臣財務副大臣は、黒崎から返された原稿を見た。
黒崎は首を振った。
「事実関係の問題です」
「と、言いますと?」
「予算が成立していないのに、給付が実現したと発表すれば、国民は支給が決まったと思ってしまいます」
久世は、資料を読み直した。
「……なるほど」
黒崎は続けた。
「それに、財源の組み替えで影響を受ける事業も、まだ確認できていません」
久世は、腕を組んだ。
「黒崎先生。今回の給付案は、あなた方の提言とも方向性が一致しています」
「はい。だからこそ、きちんと進めたいんです」
久世は、少し笑った。
「共同会見に参加すれば、国民会計の会の実績にもなりますよ」
黒崎は答えた。
「実績になるのは、実際に支援が届いた時です」
久世の笑みが止まった。
黒崎は、資料を指さした。
「給付の決定前に成果として宣伝するのは、違うと思います」
久世は、しばらく考えた。
「……では、どうすれば参加していただけますか?」
黒崎は、三つの条件を示した。
「第一に、給付案が検討段階であることを明記すること」
「第二に、財源の組み替えによって削減される事業と、その影響を公開すること」
「第三に、政策の成果を特定の政党や政治家だけのものとして宣伝しないこと」
久世は、最後の項目を見た。
「……三つ目は、なかなか難しいですね」
黒崎は、うなずいた。
「そうかもしれません」
久世は、静かに言った。
「政治家は、実績を示さなければ選挙で評価されません」
黒崎は答えた。
「実績を示すことには賛成です」
そして、続けた。
「ただし、実現していない政策を実績にしてはいけません」
久世は、しばらく黒崎を見つめた。
やがて、深く息を吐いた。
「……総理に伝えましょう」
* * *
2036年1月28日、午後6時12分。
東京都千代田区、国政自由党本部。
「黒崎が、共同会見を拒んだ?」
東条正臣は、秘書からの報告を聞いて笑った。
「相変わらず、扱いにくい男だ」
秘書が答えた。
「政府側との協議自体は、続けているようです」
東条は、窓の外を見た。
国政自由党を離れ、新政改革連合の結成準備を進めている。
しかし、想定していたほど議員は集まっていなかった。
「……黒崎の七人が欲しかったな」
秘書は黙った。
東条は続けた。
「今の国民は、政治家の実績より、政治家の姿勢を見ている」
そして、少し笑った。
「それが厄介なんだ」
秘書が尋ねた。
「今後、どうされますか?」
東条は、静かに答えた。
「黒崎の政策を、先に取り込む」
「……取り込む?」
「社会保険料の負担軽減。行政支出の透明化。給付制度の見直し」
東条は、資料を机に置いた。
「全部、我々の政策に入れろ」
秘書は、驚いた。
「しかし、それでは黒崎議員の政策と重なります」
東条は笑った。
「政策に著作権はない」
そして、静かに言った。
「問題は、誰が実現するかだ」
* * *
2036年1月30日、午後7時26分。
衆議院議員会館。
「……東条さんが、私たちと似た政策を発表しました」
真琴が、ニュース画面を見せた。
『新政改革連合、社会保険料負担軽減を重点政策に』
『行政支出の透明化を公約』
『低所得者支援の拡充も検討』
高瀬直樹が、顔をしかめた。
「……ほとんど同じじゃないか」
黒崎は、記事を読んだ。
「そうですね」
高瀬が言った。
「いいのかよ?」
黒崎は、顔を上げた。
「何が?」
「政策を真似されてるんだぞ」
黒崎は、少し考えた。
「……別に、いいんじゃないかな」
高瀬が目を丸くした。
「は?」
黒崎は続けた。
「私たちの考えが広がるなら、それは悪いことじゃない」
「でも、向こうが先に実現したら?」
黒崎は、少し笑った。
「それなら、国民にとってはいいことだよ」
高瀬は、しばらく黙った。
そして、ため息をついた。
「……お前、本当に政治家向いてないんじゃないか?」
黒崎は、苦笑した。
「かもしれない」
その時、桐生美月からメッセージが届いた。
『今日も遅くなりそうですか?』
黒崎は返信した。
『あと一時間くらいかな』
すぐに返事が来た。
『無理しすぎないでくださいね』
黒崎は、少し笑った。
* * *
2036年2月3日、午前11時。
衆議院議員会館。
七人の会派会議。
黒崎は、政府の給付案について説明した。
「政府側は、共同会見の原稿を修正する意向です」
水野彩香が、うなずいた。
「よかったですね」
しかし、宮原奈緒は、資料を見つめていた。
「……黒崎さん。一つ気になることがあります」
「何でしょう?」
宮原は、給付対象の欄を指さした。
「住民税非課税世帯を中心にするなら、対象から外れる低所得の働く人がいます」
黒崎は、顔を上げた。
「……そうですね」
橘拓真が続けた。
「年収が少し高いだけで、給付がゼロになる人もいる。働いている人ほど損をしたと感じるかもしれません」
森田悠介が、電卓を手に取った。
「対象を広げれば、予算は増えます」
佐伯健太郎が言った。
「自治体の事務負担も増えますね」
片岡誠司は、腕を組んだ。
「政府が、この案でまとめたい理由も分かります。既存制度を使えば、比較的早く支給できる」
黒崎は、資料を見つめた。
三万円。
支給される人にとっては、大きなお金だ。
しかし、支給されない人にとっては、何も変わらない。
「……一つ、提案があります」
全員が黒崎を見た。
「今回の給付案は、緊急支援として評価します」
黒崎は続けた。
「ただし、働く低所得者への支援については、別の制度案を求めましょう」
宮原が、うなずいた。
「給付付き税額控除の検討ですね」
「はい。恒久制度にするなら、財源と所得確認の仕組みが必要です」
水野が言った。
「それなら、今回の給付を止めずに、次の課題も示せます」
黒崎は、うなずいた。
「そうしたいと思います」
* * *
2036年2月6日、午後2時。
首相官邸。
「黒崎先生。今回は、率直なご意見をありがとうございました」
相馬孝一総理大臣が、黒崎を迎えた。
黒崎は、頭を下げた。
「こちらこそ、ありがとうございます」
相馬は、修正された会見原稿を差し出した。
『政府は、低所得世帯向け臨時生活支援給付金の実施に向け、予算措置を検討する』
黒崎は、うなずいた。
「……これなら、事実関係は正確ですね」
相馬は、少し笑った。
「久世君から聞きました。あなたは、成果を急がないそうですね」
黒崎は、首を振った。
「急ぎたいです」
相馬が、顔を上げた。
黒崎は続けた。
「生活に困っている人は、待ってくれませんから」
相馬は、黙った。
黒崎は、静かに言った。
「でも、決まっていないことを決まったと言うのは、違うと思います」
相馬は、しばらく黒崎を見つめた。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「……そのとおりですね」
相馬は、机の上の資料を閉じた。
「黒崎先生。共同会見は、来週行いましょう」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
その時、相馬は続けた。
「ただし、一つお願いがあります」
黒崎は、顔を上げた。
「何でしょう?」
相馬は、静かに言った。
「政府の政策を評価するなら、遠慮なく評価してください」
そして、少し笑った。
「その代わり、間違っている時は、遠慮なく批判してください」
黒崎は、少し驚いた。
相馬は続けた。
「私も、国民の生活を良くしたいと思っています」
黒崎は、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
* * *
2036年2月10日、午後1時30分。
首相官邸、記者会見室。
相馬総理と黒崎が、並んで壇上に立った。
カメラのシャッター音が響く。
相馬が口を開いた。
「本日、政府は低所得世帯向け臨時生活支援給付金について、予算案への反映を進める方針を発表します」
そして、続けた。
「国民会計の会をはじめ、さまざまな立場から寄せられた意見を踏まえ、制度設計を進めてまいります」
黒崎は、静かに聞いていた。
相馬は、黒崎に視線を向けた。
「黒崎先生。お願いします」
黒崎は、マイクを握った。
「今回の給付案について、私たちは緊急支援として評価しています」
そして、続けた。
「ただし、予算の成立と実際の支給まで、政策は完成したとは言えません」
記者たちが、ペンを走らせた。
黒崎は、資料を掲げた。
「また、今回の給付対象から外れる低所得の働く人への支援も、引き続き検討が必要です」
記者が質問した。
「黒崎議員。今回の給付案は、あなた方の成果だと考えていますか?」
黒崎は、少し考えた。
そして、はっきりと答えた。
「……いいえ」
会場が静かになった。
黒崎は続けた。
「政府の担当者、自治体、与野党の議員、そして意見を寄せてくださった国民。多くの人が関わっています」
そして、静かに言った。
「誰の手柄かより、誰に届くのかを見てほしいと思います」
相馬は、隣でその言葉を聞いていた。
* * *
2036年2月12日、午後8時05分。
衆議院議員会館。
「……黒崎さん。大変です」
真琴が、スマートフォンを見せた。
黒崎は、顔を上げた。
「何でしょう?」
画面には、世論調査の速報が表示されていた。
『相馬内閣支持率、三十四パーセントに回復』
『給付案への評価が一定の押し上げ要因か』
高瀬が、驚いた。
「……支持率、上がったのか」
小野寺は、うなずいた。
「はい。ただし、政策の効果だけが理由とは限りません」
黒崎は、静かに言った。
「……よかったですね」
高瀬が、顔を上げた。
「よかったって、相馬総理の支持率だぞ?」
黒崎は、うなずいた。
「うん」
「玲司の支持者が、向こうに流れるかもしれないんだぞ?」
黒崎は、少し考えた。
「……それでも、政策が評価されたなら、いいことだと思う」
高瀬は、ため息をついた。
「本当に、お前は……」
その時。
小野寺のスマートフォンが鳴った。
「……はい。小野寺です」
数秒後。
彼の表情が変わった。
「……分かりました。確認します」
電話を切った小野寺は、黒崎を見た。
「黒崎さん。東条議員の新政改革連合が、正式に結成されるそうです」
黒崎は、顔を上げた。
「……そうですか」
小野寺は続けた。
「参加議員は、現時点で衆議院十八人」
高瀬が、驚いた。
「十八人?」
小野寺は、うなずいた。
「はい。そして、東条議員が記者会見で、黒崎さんに言及する予定だそうです」
黒崎は、眉をひそめた。
「……私に?」
小野寺は、静かに答えた。
「新しい政治勢力として、国民会計の会との政策協力を呼びかけるようです」
黒崎は、窓の外を見た。
政権は、少しずつ持ち直し始めている。
一方で、与党を離れた十八人が、新しい勢力を作ろうとしていた。
七人の会派。
政府との政策協議。
そして、政界再編。
黒崎玲司の前には、再び大きな選択が迫っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、政府との共同会見を通じて、政策の成果をどう伝えるべきかを描きました。
実績を示すことは政治家にとって重要ですが、制度が実際に国民へ届くまでには、まだ多くの段階があります。
次回は、新政改革連合の結成をきっかけに、黒崎たち七人の将来を左右する動きが始まります。




