第35話 七票の重さ
内閣不信任決議案の採決が迫る。
政権を倒したい者と、守りたい者。
その間で、七人の小さな会派は異なる答えにたどり着く。
そして採決当日、誰も予想していなかった出来事が起こる。
2035年12月22日、午前10時18分。
東京都千代田区、衆議院議員会館。
「私は、不信任案に賛成します」
宮原奈緒の言葉に、会議室が静まった。
黒崎玲司は、宮原を見た。
「理由を聞かせてください」
「社会保障負担の問題です。政府は比較検討を約束しましたが、負担増の可能性を残したまま、十分な説明をしていません」
宮原は資料を閉じた。
「政策協議に応じたことは評価します。でも、それだけで政権を信任することはできません」
佐伯健太郎が続けた。
「私も賛成です。地方自治体への財政負担について、政府の説明が足りません」
黒崎は、二人の意見を聞いた。
「分かりました」
片岡誠司が口を開いた。
「私は反対します。東条さんの動きは、政策より党内の主導権争いが先に見える」
森田悠介もうなずいた。
「私も反対です。政権を倒した後の財政運営が示されていません」
橘拓真は、腕を組んだ。
「……正直、迷っています」
「何に迷っていますか?」
黒崎が尋ねると、橘は答えた。
「今の政権では、中小企業の負担はなかなか減らない。でも、解散総選挙になれば、年末の忙しい時期に政治が止まる」
最後に、水野彩香が言った。
「私は棄権を考えています。信任もできないし、東条さんの政権構想にも賛成できない」
黒崎は、ホワイトボードに書き出した。
賛成、二人。
反対、三人。
棄権、一人。
未定、一人。
七人の意見は、割れていた。
「……会派として、統一しなくていいんですか?」
橘が尋ねた。
黒崎は首を振った。
「最初に決めたはずです。重要な採決でも、個人の判断を尊重すると」
片岡が苦笑した。
「普通の会派なら、揉めるところですね」
「揉めてもいいと思います」
黒崎は答えた。
「ただし、理由は有権者に説明しましょう」
* * *
2035年12月23日、午前11時。
国会議事堂。
本会議場の空気は、異様なほど張り詰めていた。
内閣不信任決議案。
野党第一党が提出したその議案は、午後に採決される予定だった。
黒崎が議場へ向かう途中、声をかけられた。
「黒崎先生」
振り返ると、東条正臣が立っていた。
「東条先生」
東条は、周囲を確認してから口を開いた。
「まだ、反対するおつもりですか?」
「はい」
東条は眉をひそめた。
「あなたが反対すれば、相馬政権を延命させることになる」
黒崎は答えた。
「そうなる可能性はあります」
「それでいいのですか?」
「総理を辞めさせた後の政策を、まだ伺っていません」
東条の目が細くなった。
「政治には、順番というものがあります」
「国民にとっては、生活が先だと思います」
二人の間に沈黙が流れた。
東条は、低い声で言った。
「……後悔しますよ」
黒崎は答えなかった。
東条が去った後、黒崎のスマートフォンが震えた。
小野寺航からだった。
『与党の造反予定者に、党執行部から説得が続いています。採決結果は読めません』
黒崎は、画面を閉じた。
誰が勝つか。
誰が負けるか。
その計算ばかりが、永田町を支配していた。
* * *
午後1時45分。
衆議院本会議場。
不信任案の趣旨説明が始まった。
「物価高への対応は遅れ、社会保障負担の将来像も示されていない。国民の信頼を失った内閣に、政権を担う資格はありません!」
野党議員の声が響く。
与党席からは、激しい反論が飛んだ。
「具体的な代案を示せ!」
「政局ばかり考えるな!」
黒崎は、自分の席で資料を閉じた。
数か月前まで、自分は会社員だった。
国会中継を見ながら、政治家同士の言い争いにうんざりしていた。
今、その真ん中にいる。
そして、自分の一票が採決結果の一部になる。
午後3時過ぎ。
記名投票が始まった。
議員たちが順番に投票へ向かう。
黒崎は、反対を示す票を投じた。
迷いはなかった。
だが、宮原と佐伯が賛成票を投じる姿を見た時、胸がわずかに痛んだ。
同じ会派の仲間だ。
同じ目標を持っている。
それでも、判断は違う。
黒崎は二人の背中を見つめた。
その時、隣に戻ってきた片岡が小声で言った。
「……大丈夫ですよ」
黒崎は顔を上げた。
「何がですか?」
「意見が違っても、仲間でいられます」
黒崎は、うなずいた。
「……はい」
* * *
午後3時42分。
議場に集計結果が告げられた。
「投票総数、四百六十」
議場が静まる。
「賛成、二百二十七」
「反対、二百三十三」
一瞬の沈黙。
そして、与党席から大きなどよめきが起こった。
内閣不信任決議案。
六票差で否決。
相馬内閣は、存続した。
しかし、勝利の歓声は長く続かなかった。
与党の一部が賛成に回り、政権への不満が数字として表れたからだ。
黒崎は、議場の向こうを見た。
東条正臣は、拍手もせずに座っていた。
その表情は、読み取れなかった。
* * *
午後5時16分。
国会記者会館。
「黒崎議員。今回の採決では、国民会計の会の投票行動が割れました」
記者が尋ねた。
「会派の結束に問題があるのでは?」
黒崎は、マイクを握った。
「問題だとは考えていません」
「なぜですか?」
「七人が、それぞれの責任で判断したからです」
黒崎は続けた。
「私たちは、全員が同じ意見を持つために集まったわけではありません」
別の記者が手を挙げた。
「黒崎議員は反対票を投じました。相馬政権を支持するということですか?」
「無条件に支持するわけではありません」
「では、なぜ反対を?」
「今回の不信任案を可決することが、今の段階で国民の生活を良くする最善の方法だとは判断できなかったからです」
記者が続けた。
「一方、賛成した会派議員もいます」
黒崎は、うなずいた。
「はい。その判断も尊重します」
その時、宮原が一歩前に出た。
「私からも説明させてください」
記者たちが一斉に顔を向けた。
宮原は、はっきりと言った。
「私は、政府の社会保障政策への説明責任が不十分だと考え、賛成票を投じました」
そして、黒崎を見た。
「黒崎さんとは判断が違いました。でも、政策を改善したいという目的は同じです」
黒崎は、うなずいた。
会見場の後方で、一人の記者がつぶやいた。
「……珍しい会派だな」
* * *
2035年12月24日、午前9時30分。
首相官邸。
「六票差か」
相馬孝一総理大臣は、採決結果を見つめた。
官房長官が答えた。
「はい。否決はされましたが、与党内の造反は想定以上でした」
相馬は、しばらく黙っていた。
「東条は?」
「党内で、引き続き政権運営の見直しを求めています」
相馬は、椅子にもたれた。
勝った。
だが、政権の足元は崩れかけている。
そこへ、久世隆臣財務副大臣が入ってきた。
「総理。税制改正について、ご相談があります」
相馬は顔を上げた。
「何だ?」
久世は、一枚の資料を差し出した。
「黒崎議員らが求めていた、減税効果の小さい層への追加支援についてです」
相馬は、資料を読んだ。
「……給付制度の比較か」
「はい。政府内でも、一定の検討が進んでいます」
相馬は、窓の外を見た。
昨日、自分の内閣は六票差で生き残った。
だが、次も同じとは限らない。
「……久世君」
「はい」
「黒崎に、もう一度会いたい」
久世は、顔を上げた。
相馬は続けた。
「今度は、協力を頼むためではない」
そして、静かに言った。
「政府の政策を、正面から評価してもらうためだ」
* * *
同日、午後7時12分。
衆議院議員会館。
「……六票差だったんですね」
桐生美月が言った。
会社の仕事を終え、事務所に立ち寄ったところだった。
黒崎は、うなずいた。
「はい」
美月は、温かいお茶を差し出した。
「お疲れさまでした」
「ありがとうございます」
黒崎は、紙コップを受け取った。
美月は、少し考えてから尋ねた。
「……仲間と意見が分かれて、つらくなかったですか?」
黒崎は、しばらく黙った。
「……少し、つらかったです」
美月は、うなずいた。
黒崎は続けた。
「でも、同じ意見しか言えない会派には、したくないんです」
美月は、少し笑った。
「黒崎さんらしいですね」
「そうですか?」
「はい」
美月は、静かに言った。
「誰かに反対されても、その人を仲間から外さないところが」
黒崎は、少し照れたように笑った。
その時。
事務所の扉が開いた。
小野寺が、封筒を持って入ってきた。
「黒崎さん。官邸から正式な連絡です」
黒崎は、顔を上げた。
「……総理からですか?」
「はい。年明け早々に、再度面会したいとのことです」
黒崎は、封筒を受け取った。
そこには、税制改正と追加支援策に関する意見交換の申し入れが記されていた。
黒崎は、静かに息を吐いた。
「……まだ、政策を進める機会はありますね」
小野寺は、うなずいた。
「はい」
その時、高瀬が勢いよく部屋に入ってきた。
「玲司! ニュース見たか?」
黒崎は、顔を上げた。
「どうした?」
高瀬は、スマートフォンを差し出した。
画面には、速報が表示されていた。
『国政自由党・東条正臣氏、年明けに新政治団体設立を検討』
『相馬首相との対立決定的か』
『与党分裂の可能性』
黒崎は、記事を見つめた。
内閣不信任案は否決された。
しかし、政権の危機が終わったわけではない。
むしろ、国会の勢力図そのものが変わろうとしていた。
黒崎は、窓の外を見た。
十二月の東京。
街には、クリスマスの灯りが輝いている。
国民が望んでいるのは、政治家同士の勝ち負けではない。
来月の給与明細。
来年の税金。
そして、家族の生活だ。
黒崎は、静かに言った。
「……年明けは、忙しくなりそうですね」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、内閣不信任決議案の採決を描きました。
七人の会派は判断が分かれながらも、互いの意見を尊重する道を選びます。
次回は、与党分裂の動きが本格化する中、黒崎たちが政策実現と政界再編の間で新たな選択を迫られます。




