第32話 五千円の値段
政府との政策協議が、ついに始まる。
手取りを増やしたい黒崎たちと、財源を守りたい政府。
目指す方向は同じでも、譲れない条件は違っていた。
そして黒崎は、政策を実現するために何を差し出すべきなのか、決断を迫られる。
2035年11月18日、午前10時02分。
東京都千代田区、財務省。
「結論から申し上げます」
財務省の担当官は、分厚い資料を閉じた。
「皆さんの提案を、そのまま採用することはできません」
黒崎玲司は、正面の担当官を見た。
隣には、小野寺航と森田悠介が座っている。
「……理由を教えてください」
担当官は、うなずいた。
「所得税の控除拡大に加えて、低所得者への給付まで実施すれば、財政負担がさらに増えるためです」
黒崎は、資料を開いた。
「私たちも、追加財源が必要なことは認識しています」
「では、どの財源を充てるお考えですか?」
森田が答えた。
「既存事業の見直しによる財源確保を検討しています。ただし、現時点では必要額を満たしていません」
担当官は、静かに言った。
「それでは、政府として判断できません」
黒崎は、うなずいた。
「……そうですね」
その反応に、担当官が少し驚いた。
黒崎は続けた。
「だから、今日は政府側の試算と比較したいと思って来ました」
小野寺が、資料を差し出した。
「所得税の減税効果が小さい層への支援について、対象を絞った場合の試算です」
担当官は、資料を受け取った。
数分間、紙をめくる音だけが響いた。
やがて担当官が口を開いた。
「……対象を限定すれば、必要額は抑えられます」
黒崎は、顔を上げた。
「はい」
「ただし、対象者の所得を確認する仕組みが必要です」
小野寺が答えた。
「既存の税情報や給付事務を活用できないか、検討しています」
担当官は、うなずいた。
「なるほど」
そして、静かに言った。
「一つ、提案があります」
黒崎は、姿勢を正した。
「何でしょう?」
「政府の所得税控除拡大案について、皆さんが支持を表明していただく」
黒崎は、うなずいた。
「方向性については、すでに評価しています」
担当官は続けた。
「そのうえで、給付制度については、来年度以降の検討課題として扱う」
森田の表情が変わった。
「……つまり、今回の税制改正には含めないということですか?」
「はい」
黒崎は、黙った。
政府案への支持。
その代わり、低所得者への追加支援は先送りする。
政策協議の場で、初めて具体的な条件が示された。
黒崎は、静かに尋ねた。
「……検討課題にするというのは、いつまでに結論を出すという意味でしょうか?」
担当官は、少し考えた。
「現時点では、期限をお約束できません」
黒崎は、資料を閉じた。
「……それでは、合意できません」
会議室が静かになった。
担当官が、顔を上げた。
「黒崎先生?」
黒崎は、まっすぐに答えた。
「期限のない検討では、実現するかどうか分からないからです」
* * *
2035年11月18日、午後1時36分。
衆議院議員会館。
「……断ったんですか?」
橘拓真が、驚いた。
黒崎は、うなずいた。
「はい」
七人の会派による緊急会議。
黒崎は、午前中の協議内容を説明した。
宮原奈緒が、静かに言った。
「私は、黒崎さんの判断に賛成です」
片岡誠司は、腕を組んだ。
「しかし、政府案への協力を条件に、追加支援を検討してもらえるなら、交渉の余地はあったのでは?」
黒崎は、うなずいた。
「私も、そう思いました」
水野彩香が尋ねた。
「では、なぜ断ったんですか?」
黒崎は、少し考えた。
「……いつ実施するか分からない約束と引き換えに、私たちの提案を取り下げたくなかったんです」
佐伯健太郎が、資料を見た。
「ただ、政府の控除拡大案そのものには、一定の効果があります」
「はい」
黒崎は、うなずいた。
「だから、政府案への評価は変えません」
橘が、首をかしげた。
「……じゃあ、どうするんですか?」
黒崎は、答えた。
「別々に判断します」
会議室が静かになった。
「政府の減税案は、内容を確認して支持する」
黒崎は続けた。
「でも、給付制度の検討を打ち切ることには同意しない」
森田が、少し笑った。
「……なるほど」
宮原も、うなずいた。
「それなら、私も賛成できます」
片岡は、しばらく考えた。
そして、静かに言った。
「黒崎さん。交渉というのは、何かを得るために、何かを譲るものです」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
片岡は続けた。
「ただ、譲ってはいけないものもある」
黒崎は、顔を上げた。
片岡は、少し笑った。
「……今回は、そこを間違えなかったと思います」
* * *
2035年11月20日、午後6時18分。
東京都内、あるスーパーマーケット。
「……また値上がりしてる」
二十九歳の会社員、井上沙織は、卵の値札を見つめた。
買い物かごには、食パンと牛乳、割引シールの貼られた総菜が入っていた。
沙織は、スマートフォンで銀行口座の残高を確認した。
給料日まで、あと五日。
財布に余裕はなかった。
店内のテレビから、ニュースが流れていた。
『政府の所得税控除拡大案を巡り、無所属の黒崎議員らが低所得者への追加支援を要求しています』
沙織は、足を止めた。
『政府は、給付制度の導入について慎重な姿勢を示しています』
沙織は、小さくつぶやいた。
「……所得税、そんなに払ってないんだけどな」
月々の給与は高くない。
所得税の減税があっても、自分の生活が大きく変わるとは思えなかった。
沙織は、棚に手を伸ばした。
そして、値札を見て、その商品を戻した。
「……五千円あったらな」
誰に聞かせるでもなく、つぶやいた。
月五千円。
一日あたりにすれば、百数十円。
それでも沙織にとっては、買い物のたびに値札を見比べる時間を、少し減らしてくれる金額だった。
* * *
2035年11月24日、午後4時08分。
東京都千代田区、衆議院議員会館。
「黒崎さん。これを見てください」
藤原真琴が、ノートパソコンを開いた。
画面には、国民会計の会へ寄せられた意見が表示されていた。
『減税だけでは生活が変わりません』
『給付も検討してください』
『月五千円という目標を忘れないでほしい』
黒崎は、黙って読んだ。
その時、高瀬直樹が、別の画面を見せた。
「玲司。JAPAN LEDGERの試算ページ、更新したぞ」
黒崎は、顔を上げた。
「ありがとう」
高瀬は、説明を始めた。
「所得税の控除拡大と、給付を組み合わせた場合の比較だ。もちろん、モデルケースであって、個人の受取額を保証するものじゃない」
黒崎は、画面を確認した。
年収。
世帯構成。
所得税額。
給付対象の条件。
複数の項目を変えると、政策ごとの影響が概算で表示される。
「……分かりやすいね」
高瀬は、うなずいた。
「ただ、財源の問題は残る」
黒崎は、静かに答えた。
「うん」
その時。
小野寺が、部屋に入ってきた。
「黒崎さん。与党の五人から連絡です」
黒崎は、顔を上げた。
「……どうなりました?」
「政府案の修正を求める共同提言について、協力したいとのことです」
黒崎は、少し驚いた。
「本当ですか?」
「はい」
小野寺は続けた。
「ただし、政府との対決姿勢を強めることには慎重です」
黒崎は、うなずいた。
「分かりました」
そして、静かに言った。
「政策の内容で協力できれば、それで十分です」
* * *
2035年11月27日、午前11時12分。
東京都千代田区、国会記者会館。
会見場には、いつもより多くの記者が集まっていた。
壇上には、黒崎たち七人。
そして、国政自由党に所属する五人の議員が並んでいた。
黒崎は、マイクを手に取った。
「本日、私たち十二人は、所得税負担軽減策に関する共同提言を発表します」
記者たちが、一斉にカメラを向けた。
黒崎は続けた。
「政府の控除拡大案については、前向きに評価します」
そして、資料を掲げた。
「そのうえで、減税の効果が小さい人への追加支援について、期限を設けた検討を求めます」
記者が質問した。
「期限とは、具体的にいつですか?」
黒崎は、答えた。
「来年三月末までに、対象者、財源、事務負担を含む制度案の比較結果を公表することを求めます」
別の記者が尋ねた。
「政府が応じなかった場合は?」
黒崎は、静かに答えた。
「引き続き、国会で議論します」
その時、与党議員の一人がマイクを取った。
「私たちは、政府に反対するためにここにいるわけではありません」
会場が静かになった。
「政府案を、より良いものにしたいと考えています」
記者が、驚いた表情で尋ねた。
「与党内で、問題になりませんか?」
議員は、少し笑った。
「……なるかもしれません」
会場に、小さな笑いが起こった。
しかし、その議員は真剣な表情に戻った。
「それでも、必要な議論だと思っています」
黒崎は、隣の議員を見た。
七人。
そして、五人。
十二人が、同じ資料に名前を載せた。
まだ、法律を変えられる人数ではない。
しかし、与党と無所属が一緒に政策を提案するという事実は、国会に小さな波紋を広げた。
* * *
2035年12月1日、午後5時42分。
東京都千代田区、財務省。
「……十二人ですか」
久世隆臣財務副大臣は、共同提言を読んでいた。
秘書が、うなずいた。
「はい。与党議員五人も参加しています」
久世は、資料を閉じた。
「黒崎先生は、なかなか面白いことをしますね」
秘書が尋ねた。
「どう対応されますか?」
久世は、少し考えた。
「給付制度の比較について、担当部局に確認してください」
秘書は、驚いた。
「……検討を進めるのですか?」
「比較するだけなら、政府にとっても意味があります」
久世は、静かに続けた。
「ただし、採用するかどうかは別です」
秘書は、うなずいた。
久世は、窓の外を見た。
「……黒崎先生は、政府に反対するだけの政治家ではなくなりました」
そして、少し笑った。
「だからこそ、厄介なんです」
* * *
2035年12月3日、午後7時24分。
衆議院議員会館。
「……政府が、比較検討に応じるそうです!」
小野寺の声に、高瀬が立ち上がった。
「本当か!」
黒崎は、顔を上げた。
「……正式な連絡ですか?」
「はい。政府側から、来年三月末を目途に、追加支援策の比較結果を整理する方向だと連絡がありました」
黒崎は、静かに息を吐いた。
「……よかった」
真琴が、笑った。
「大きな前進ですね」
高瀬も、うなずいた。
「十二人で、政府を動かしたんだな!」
小野寺は、静かに答えた。
「政府内でも検討は進んでいたはずです。私たちだけの成果とは言えません」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
そして、少し笑った。
「でも、期限が示されたことは大きいですね」
その時。
仕事を終えて立ち寄った桐生美月が、黒崎に温かい缶コーヒーを渡した。
「お疲れさまです」
黒崎は、受け取った。
「ありがとう」
美月は、少し笑った。
「月五千円、少し近づきましたね」
黒崎は、缶を見つめた。
「……まだ、五千円には届いていません」
「はい」
「でも、何も変えられないと思っていた頃よりは、前に進んでいる気がします」
美月は、うなずいた。
「そうですね」
黒崎は、窓の外を見た。
夜の国会議事堂。
一人で政治活動を始めた頃には、想像もできなかった光景だった。
しかし、その時。
真琴のスマートフォンが震えた。
「……黒崎さん」
黒崎は、顔を上げた。
「何でしょう?」
真琴は、画面を見せた。
『国政自由党、内閣支持率が急落』
『社会保障負担と物価高への不満が拡大』
『首相の求心力低下、党内で責任論』
黒崎は、記事を読んだ。
「……支持率が?」
真琴は、うなずいた。
「はい。複数の世論調査で、内閣支持率が大きく下がっています」
高瀬が、顔を上げた。
「……政権が危ないってことか?」
小野寺は、静かに答えた。
「まだ、そこまでは分かりません」
黒崎は、画面を見つめた。
政府の政策に協力しながら、必要な修正を求める。
その姿勢を続けてきた。
しかし、政権そのものが揺らぎ始めたら。
国会の状況は、大きく変わるかもしれない。
黒崎は、静かに言った。
「……私たちは、私たちの仕事を続けましょう」
美月が、うなずいた。
「はい」
黒崎は、窓の外を見た。
七人の小さな会派。
十二人の共同提言。
そして、揺らぎ始めた政権。
黒崎玲司の政治は、次の段階へ進もうとしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、政府との政策協議を通じて、黒崎たちが初めて具体的な検討期限を引き出しました。
政策を実現するには、賛成と反対だけではなく、条件を詰める交渉も必要になります。
次回は、内閣支持率の急落をきっかけに、国会の勢力関係が大きく動き始めます。




