第31話 政府案に賛成した男
政府の政策に反対することは、野党にとって分かりやすい戦い方だ。
では、政府が自分たちと同じ方向を向いたら、どうするべきなのか。
黒崎玲司が下した決断は、仲間にも支持者にも驚きを与える。
そして、その決断が国会の空気を変え始める。
2035年11月5日、午前9時23分。
東京都千代田区、衆議院議員会館。
「政府案が出ました」
小野寺航が、机に資料を置いた。
黒崎玲司は、表紙を見た。
『令和17年度税制改正に向けた所得税負担軽減案』
政府が公表した検討資料だった。
「……具体的には?」
小野寺は、資料を開いた。
「給与所得者の一部について、所得税の控除を拡大する案です。所得階層によって効果は異なりますが、年収四百万円前後の単身者なら、年間二万円程度の減税になる試算です」
黒崎は、電卓を手に取った。
「月にすると……千六百円ほどですね」
「はい。しかも、あくまで一つのモデルケースです」
黒崎は、資料を読み進めた。
対象となる所得。
税収への影響。
制度変更の時期。
そして、未確定の事項。
「……思ったより、具体的ですね」
小野寺は、うなずいた。
「ただし、住民税には直接適用されません。給付を組み合わせる案も、まだ示されていません」
黒崎は、資料を閉じた。
「七人で確認しましょう」
* * *
同日、午後1時10分。
「私は賛成です」
橘拓真が、最初に口を開いた。
「十分ではありませんが、働く人の手取りが増えるなら前進です」
宮原奈緒は、首を振った。
「所得税をほとんど払っていない人には、恩恵が小さいですよね」
水野彩香も続けた。
「制度の対象から外れる人が、どうなるのかを確認したいです」
佐伯健太郎が言った。
「地方財政への直接的な影響は限定的でも、国の財源不足を別の形で地方に転嫁しないか、注意が必要です」
森田悠介は、資料の数字を指さした。
「それと、減税分を国債だけで埋めるなら、持続性の説明が必要です」
片岡誠司が腕を組んだ。
「政府はまだ、財源の最終案を出していません」
黒崎は、六人の意見を聞いた。
誰も、減税そのものには反対していない。
しかし、全員が無条件で賛成しているわけでもなかった。
黒崎は、口を開いた。
「……私は、政府案を評価したいと思っています」
宮原が顔を上げた。
「賛成するんですか?」
「方向性には賛成です。ただし、修正を求めます」
黒崎は、ホワイトボードに二つの言葉を書いた。
『減税』
『給付』
「税金を多く払っている人だけでなく、所得税の減税効果が小さい人にも、生活を支える仕組みが必要だと思います」
水野がうなずいた。
「給付付き税額控除のような制度も検討対象にする、ということですね」
「はい。ただ、所得の把握や給付の事務負担も含めて検証したいです」
森田が言った。
「財源の裏付けも必要ですね」
「もちろんです」
黒崎は、全員を見た。
「政府案を否定するのではなく、足りない部分を補う提案にしませんか?」
片岡が、少し笑った。
「……与党を離れた私が、政府案を支持することになるとは」
黒崎も笑った。
「いい案なら、誰が作ったかは関係ありません」
* * *
2035年11月7日、午後2時。
国会記者会館。
「国民会計の会は、政府の所得税負担軽減案について、基本的な方向性を評価します」
黒崎の発言に、記者席がざわついた。
一人の記者が手を挙げた。
「黒崎議員。政府案に賛成するということですか?」
「はい。ただし、現在示されている案には改善が必要です」
「具体的には?」
「所得税の減税効果が小さい人への対応です。給付などを含む代替策の比較を求めます」
別の記者が尋ねた。
「これまで政府を批判してきたのに、方針転換ではありませんか?」
黒崎は、首を振った。
「私は、政府に反対するために国会議員になったわけではありません」
記者たちの手が止まった。
黒崎は続けた。
「国民の生活を良くするためです。政府案がその目的に近づくなら、協力します」
「では、政府が修正に応じなかった場合は?」
「最終的な制度案を確認して判断します」
黒崎は、はっきりと言った。
「賛成も反対も、先に決めるつもりはありません」
その日の夕方。
ニュース番組は、黒崎の発言を大きく取り上げた。
『黒崎氏、政府の減税案を評価』
『無所属七人会派、与党との政策協議に意欲』
『対決から協調へ? 黒崎氏の判断に賛否』
しかし、問題はその夜に起きた。
* * *
2035年11月7日、午後8時36分。
「……玲司、これ見ろよ」
高瀬直樹が、スマートフォンを差し出した。
画面には、黒崎の支持者による投稿が並んでいた。
『政府と戦ってくれると思っていたのに』
『結局、与党の仲間になるのか』
『七人集まった途端に妥協するなんて』
黒崎は、黙って読んだ。
藤原真琴が言った。
「特に、これまで政府を批判してきた支持者の反発が強いです」
高瀬は、納得できない表情だった。
「減税を評価しただけだろ。何が悪いんだ?」
黒崎は、静かに答えた。
「……期待されていた役割と、違ったのかもしれない」
真琴が尋ねた。
「説明動画を出しますか?」
黒崎は、少し考えた。
「その前に、実際に会って話したいです」
高瀬が顔を上げた。
「誰と?」
「支持者の人たちです」
* * *
2035年11月9日、午後3時。
東京都中野区、市民交流センター。
急きょ開かれた意見交換会には、約八十人が集まっていた。
最初に手を挙げたのは、三十代の女性だった。
「黒崎さん。私は、あなたが選挙に出た時から応援しています」
黒崎は、頭を下げた。
「ありがとうございます」
女性は続けた。
「でも、今回の政府案への賛成は納得できません」
「……理由を聞かせてください」
「だって、政府はこれまで私たちの負担を増やしてきたんですよ?」
会場から、賛同する声が上がった。
「その政府に協力したら、結局何も変わらないんじゃないですか?」
黒崎は、少し考えた。
「……政府を信用できないという気持ちは、分かります」
女性は、黒崎を見た。
「じゃあ、どうして賛成するんですか?」
黒崎は、静かに答えた。
「今回の案には、実際に税負担が減る人がいるからです」
「それだけですか?」
「いいえ」
黒崎は続けた。
「減税の恩恵が小さい人への対応も必要です。だから、修正を求めています」
女性は、黙った。
黒崎は、会場全体を見た。
「皆さんに、一つ聞いてもいいですか?」
何人かがうなずいた。
「もし政府が、国民の手取りを大きく増やせる政策を出したら、私は反対するべきでしょうか?」
会場が静かになった。
黒崎は続けた。
「私が政府に反対する姿を見たい人もいると思います」
そして、はっきりと言った。
「でも、私は政府に勝ちたいんじゃありません」
一度、言葉を切った。
「皆さんの生活を、少しでも良くしたいんです」
後方に座っていた男性が、手を挙げた。
「……じゃあ、政府と協力しても、駄目なことには反対してくれるんですか?」
黒崎は即答した。
「はい」
「本当に?」
「はい。今回の案も、最終的な内容が悪ければ反対します」
男性は、ゆっくりとうなずいた。
最初に質問した女性も、少し表情を和らげた。
「……分かりました。もう少し見てみます」
黒崎は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
会場を出た後、高瀬が言った。
「……全員が納得したわけじゃないな」
黒崎は、うなずいた。
「うん」
「それでも、よかったのか?」
黒崎は、少し笑った。
「全員に好かれることは、無理だと思う」
そして、続けた。
「でも、説明することはできる」
* * *
2035年11月12日、午前10時21分。
東京都千代田区、財務省。
「黒崎先生。今回は、政府案を評価していただいたそうですね」
久世隆臣財務副大臣が、穏やかに言った。
黒崎は、うなずいた。
「はい。方向性については」
久世は、少し笑った。
「条件付き、ということですね」
「はい」
黒崎は、資料を差し出した。
「所得税の減税効果が小さい人への対応を、政府案にも加えていただきたいんです」
久世は、資料を読んだ。
「給付を組み合わせる案ですか」
「はい」
「財源は?」
「まだ複数案を比較している段階です」
久世は、顔を上げた。
「……それでは、政府に採用を求めるには弱いですね」
黒崎は、うなずいた。
「そう思います」
久世は、少し驚いた。
黒崎は続けた。
「だから、政府側の試算と、私たちの試算を比較する機会をいただけませんか?」
久世は、しばらく黙った。
そして、静かに言った。
「……分かりました」
黒崎は顔を上げた。
「本当ですか?」
「ただし、政府として政策の採用を約束するものではありません」
「承知しています」
久世は続けた。
「担当部局との実務的な意見交換の場を設けましょう」
黒崎は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
久世は、少し笑った。
「黒崎先生」
「はい」
「あなたは、以前より厄介になりましたね」
黒崎は、首をかしげた。
「……そうでしょうか?」
「ええ」
久世は、資料を閉じた。
「反対するだけなら、こちらも対応しやすい」
そして、静かに言った。
「しかし、賛成しながら修正を求められると、無視しにくい」
黒崎は、少し笑った。
「……それは、よかったです」
久世は、思わず苦笑した。
* * *
2035年11月14日、午後6時17分。
衆議院議員会館。
「黒崎さん。政府側との意見交換の日程が決まりました」
小野寺が言った。
黒崎は、顔を上げた。
「いつですか?」
「来週です」
桐生美月も、仕事を終えて事務所に立ち寄っていた。
「いよいよですね」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
高瀬が、笑った。
「政府に文句を言う側から、政策を一緒に考える側になったわけだ」
黒崎は、少し考えた。
「……まだ、そこまでは言えないかな」
「そうか?」
「政府が採用するかどうかは、分からないから」
真琴が、資料を確認した。
「でも、政策を説明する機会は得られました」
黒崎は、うなずいた。
「そうですね」
その時。
小野寺のスマートフォンが鳴った。
画面を確認した彼の表情が変わった。
「……黒崎さん」
「何でしょう?」
「国政自由党の議員から、連絡がありました」
黒崎は、顔を上げた。
「……与党議員?」
「はい」
小野寺は、少し間を置いた。
「政府の減税案について、黒崎さんたちの修正提案を支持したいそうです」
高瀬が、目を丸くした。
「……本当か?」
小野寺は、うなずいた。
「しかも、一人ではありません」
黒崎は、息を止めた。
「……何人ですか?」
小野寺は、静かに答えた。
「現時点で、五人です」
会議室が静まり返った。
七人の会派。
そこに、与党議員五人の賛同が加わる。
もちろん、十二人だけで法律を変えられるわけではない。
しかし、与党の中からも修正案を支持する声が出始めた。
黒崎は、静かに息を吐いた。
「……ようやく、政策の話ができるようになってきましたね」
小野寺が、うなずいた。
「はい」
その時。
真琴が、別のニュースを見つけた。
『国政自由党内、減税案の修正を巡り意見対立』
『若手議員ら、低所得者への支援拡充を要求』
『政府案の年内取りまとめに影響も』
黒崎は、画面を見つめた。
政府に反対することだけが、政治ではない。
必要な時には協力し、足りない部分は修正を求める。
その積み重ねが、少しずつ国会を動かし始めていた。
しかし。
翌週の政策協議で、黒崎たちは思いがけない条件を突きつけられることになる。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、黒崎が政府の政策を評価するという決断を下しました。
敵か味方かではなく、政策の内容で判断する。その姿勢は支持者にも議員にも新たな波紋を広げます。
次回は、政府との直接協議が始まり、黒崎たちの「手取り増加策」が初めて現実の制度改正に近づきます。




