第30話 月五千円を取り戻せ
政治家は、よく「国民の生活を守る」と言う。
しかし、実際に給与明細の数字を変えることは簡単ではない。
黒崎たち七人が挑むのは、働く人の手取りを増やすための制度改革。
だが、具体的な数字を掲げた瞬間、彼らは政治の厳しい現実に直面する。
2035年10月13日、午前9時12分。
東京都千代田区、衆議院議員会館。
「月五千円です」
黒崎玲司が言った。
会議室に集まった六人の議員が、一斉に顔を上げた。
「……何が五千円なんですか?」
水野彩香が尋ねた。
黒崎は、ホワイトボードに数字を書いた。
『月額 5,000円』
『年間 60,000円』
「働く人の手取りを、まず月五千円増やすことを目標にしたいんです」
橘拓真が、身を乗り出した。
「いいですね。分かりやすい」
しかし、宮原奈緒は首をかしげた。
「……どうやって増やすんですか?」
黒崎は、うなずいた。
「今日は、その具体策を決めたいと思っています」
森田悠介が、電卓を取り出した。
「対象者を仮に三千万人とすると、一人年間六万円で一兆八千億円です」
会議室が静かになった。
佐伯健太郎が、腕を組んだ。
「しかも、所得税だけで一律に五千円を戻すのは難しい。もともとの納税額が少ない人もいます」
片岡誠司も、うなずいた。
「社会保険料を下げるなら、制度を支える財源を別に確保しなければならない」
黒崎は、ホワイトボードを見つめた。
一兆八千億円。
月五千円という数字は小さく見える。
しかし、全国規模では巨大な金額になる。
「……簡単ではないですね」
森田が答えた。
「はい。でも、不可能と決まったわけでもありません」
橘が言った。
「企業側の負担も含めて考えませんか。給与を上げやすくする制度も必要です」
宮原は、静かに答えた。
「それなら、医療や年金の給付を維持できる設計が条件です」
意見が交差する。
黒崎は、六人の顔を見た。
そして、静かに言った。
「……一つ、決めましょう」
全員が黒崎を見た。
「月五千円という目標は掲げます。ただし、財源の裏付けができるまでは、実現を約束しない」
橘が、少し考えた。
「……それだと、弱くありませんか?」
黒崎は、首を振った。
「実現できないことを約束する方が、もっと弱いと思います」
片岡が、少し笑った。
「政治家としては、なかなか勇気のいる言葉ですね」
黒崎は、苦笑した。
「……支持率が下がるかもしれません」
水野が答えた。
「それでも、やりましょう」
* * *
2035年10月15日、午後7時26分。
東京都新宿区。
「月五千円? そんなの無理だろ」
駅前の街頭演説で、一人の男性が声を上げた。
黒崎は、マイクを下ろした。
「……そう思われますか?」
「当たり前だろ。政治家はいつも都合のいいことばっかり言う」
男性は五十代ほどだった。
作業着姿で、仕事帰りらしい。
「月五千円増やすって言うなら、今すぐ増やしてみろよ」
周囲の人々が足を止めた。
黒崎は、少し考えた。
「……今すぐには、できません」
男性は、鼻で笑った。
「ほらな」
黒崎は、続けた。
「だから、まずは必要な財源と制度を調べています」
「そんなの、いつまでかかるんだ?」
黒崎は、答えた。
「年内に、実現可能な案をまとめたいと思っています」
男性は、黙った。
黒崎は続けた。
「ただし、できないと分かった場合は、できないと説明します」
男性は、少し驚いた。
「……できないって言うのか?」
「はい」
黒崎は、うなずいた。
「その場合は、別の方法を考えます」
男性は、しばらく黒崎を見つめた。
そして、ため息をついた。
「……変な政治家だな」
黒崎は、少し笑った。
「よく言われます」
周囲から、小さな笑いが起こった。
男性は、背を向けた。
しかし、数歩進んだところで振り返った。
「……本当に月五千円増えたら、次はあんたに入れるよ」
黒崎は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
男性は、手を軽く上げて去っていった。
黒崎は、その背中を見つめた。
月五千円。
誰かにとっては、外食一回分かもしれない。
しかし、別の誰かにとっては、月末を乗り切るための大切なお金だ。
その数字を、簡単に扱ってはいけない。
* * *
2035年10月17日、午前11時04分。
東京都千代田区、衆議院議員会館。
「黒崎さん。試算がまとまりました」
小野寺航が、資料を差し出した。
黒崎は、受け取った。
そこには、複数の制度案が並んでいた。
所得税の負担軽減。
低所得者への給付。
社会保険料負担の一部軽減。
中小企業の賃上げ支援。
黒崎は、資料を読み進めた。
「……どれも、課題がありますね」
小野寺は、うなずいた。
「はい」
「所得税の軽減は、もともとの納税額が少ない人には効果が限定されます」
「はい」
「給付を組み合わせれば対象は広がりますが、財源と事務費が必要です」
黒崎は、ページをめくった。
「社会保険料の軽減は?」
「医療や年金の財政を維持するため、別の財源を確保する必要があります」
黒崎は、静かに息を吐いた。
「……なるほど」
その時、高瀬直樹が、ノートパソコンを持って入ってきた。
「玲司、ちょっといいか?」
黒崎は、顔を上げた。
「どうした?」
高瀬は、画面を見せた。
「JAPAN LEDGERに、新しい機能を付けてみた」
黒崎は、画面をのぞき込んだ。
そこには、政策ごとの財政影響を比較する試作画面が表示されていた。
「……これは?」
高瀬は、少し得意そうに笑った。
「例えば、所得税を減らす場合、どれくらいの税収減になるか。公表されている統計を使って、概算を表示できる」
黒崎は、驚いた。
「……そんなことができるのか?」
「もちろん、正確な制度設計がないと概算にしかならないけどな」
高瀬は、続けた。
「前提条件も表示する。数字だけが独り歩きしないように」
小野寺が、画面を確認した。
「……これは使えますね」
黒崎は、うなずいた。
「政策の比較にも使えそうです」
高瀬は、笑った。
「だろ?」
黒崎は、画面を見つめた。
JAPAN LEDGER。
最初は、政府のお金の使い道を分かりやすくするための仕組みだった。
しかし今。
自分たちの政策を検証するためにも、使えるようになろうとしている。
黒崎は、静かに言った。
「……これ、公開したいですね」
高瀬は、うなずいた。
「準備するよ」
* * *
2035年10月20日、午後2時18分。
東京都千代田区、国会記者会館。
「私たちは、働く人の手取りを月五千円増やすことを目標に、政策案の検証を始めます」
黒崎の声が、会見場に響いた。
背後には、六人の議員が並んでいた。
黒崎は、資料を掲げた。
『手取り五千円増加プロジェクト』
記者たちが、一斉にカメラを向けた。
黒崎は続けた。
「ただし、現時点で財源が確保できたわけではありません」
会場が、少しざわついた。
記者が質問した。
「……つまり、実現できるか分からないということですか?」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
記者は、驚いた。
「では、なぜ発表したのですか?」
黒崎は、静かに答えた。
「政策を作る過程も、国民に見てもらいたいからです」
そして、続けた。
「政治家が完成した政策だけを発表するのではなく、何を比較し、何が難しいのかも公開したいと思っています」
別の記者が尋ねた。
「財源は、どこから確保するのですか?」
黒崎は、資料を開いた。
「現在、複数の案を検証しています」
「具体的には?」
「既存事業の見直し、税制の調整、給付制度の組み合わせなどです」
記者が続けた。
「消費税の減税も含まれますか?」
黒崎は、うなずいた。
「将来的な選択肢としては考えています。ただし、今回の月五千円という目標とは、分けて検証します」
会場が、静かになった。
黒崎は、はっきりと言った。
「減税すれば、必ず生活が楽になる。そんな単純な話ではありません」
そして、続けた。
「誰の負担が減り、誰に影響が出るのか。そこまで確認したいと思っています」
会見が終わると、記者たちが一斉に動き始めた。
その日の夕方。
ニュース番組は、黒崎たちの提案を大きく取り上げた。
『無所属七議員、手取り月五千円増を目標に』
『財源未確保の段階で政策検証を公開』
『黒崎氏、減税の実現可能性を検証へ』
しかし、反応は賛否に分かれた。
『五千円でも増えるなら助かる』
『財源もないのに発表するな』
『少なくとも、できると言い切らないのは評価できる』
『結局、何も決まっていないじゃないか』
黒崎は、それらの意見を静かに読んでいた。
* * *
2035年10月23日、午後4時36分。
東京都千代田区、財務省。
「……月五千円ですか」
久世隆臣財務副大臣は、資料を見つめた。
秘書が、うなずいた。
「はい。黒崎議員らが政策検証を始めています」
久世は、少し笑った。
「面白いですね」
秘書が、顔を上げた。
「……面白い、ですか?」
久世は、うなずいた。
「ええ。今までの黒崎先生は、政府の政策を検証する立場でした」
そして、資料を机に置いた。
「しかし、今回は自分たちの政策を検証される立場になった」
秘書は、静かに聞いていた。
久世は続けた。
「政治家として、次の段階に進んだということでしょう」
秘書が尋ねた。
「……どう対応されますか?」
久世は、少し考えた。
「まずは、見守ります」
そして、静かに笑った。
「ただし、財源の説明が不十分なら、こちらから質問しましょう」
秘書は、うなずいた。
久世は、窓の外を見た。
「……彼が、本当に政策を作れる政治家なのか」
そして、静かに言った。
「これから分かります」
* * *
2035年10月27日、午後6時12分。
東京都千代田区、衆議院議員会館。
「……黒崎さん。少し問題が起きています」
真琴が、資料を持って入ってきた。
黒崎は、顔を上げた。
「何でしょう?」
真琴は、ノートパソコンを開いた。
そこには、国民会計の会の公式サイトに寄せられた意見が並んでいた。
『月五千円増やすなら、いつからですか?』
『来年から始まるんですよね?』
『黒崎さんが約束したと聞きました』
黒崎は、眉をひそめた。
「……約束した?」
真琴は、うなずいた。
「一部のSNSで、政策目標が実施決定のように広まっています」
高瀬が、顔をしかめた。
「……そんなこと言ってないだろ」
小野寺が、静かに答えた。
「説明が十分に伝わっていない可能性があります」
黒崎は、しばらく考えた。
そして、静かに言った。
「……私たちの伝え方にも、問題があったかもしれません」
真琴が、顔を上げた。
「どうしますか?」
黒崎は、はっきりと答えた。
「もう一度、説明しましょう」
そして、続けた。
「目標と、決定した政策は違うということを」
真琴は、うなずいた。
「分かりました」
その夜。
黒崎は、自分の言葉で短い動画を撮影した。
「黒崎玲司です」
カメラをまっすぐに見つめる。
「現在、私たちは手取りを月五千円増やすための政策を検証しています」
そして、続けた。
「ただし、実施が決まったわけではありません」
黒崎は、一度言葉を切った。
「期待してくださっている皆さんには、申し訳ありません」
そして、はっきりと言った。
「私は、実現できると確認できていないことを、約束するつもりはありません」
動画は、その日の夜に公開された。
反応は、再び分かれた。
『期待してたのに』
『結局、何もできないのか』
『ちゃんと説明するのは大事』
『財源が決まるまで待つ』
黒崎は、それらのコメントを静かに読んだ。
* * *
2035年10月30日、午後7時41分。
東京都千代田区、衆議院議員会館。
「……支持率、少し下がりましたね」
真琴が、資料を見ながら言った。
黒崎は、うなずいた。
「そうですね」
高瀬が、少し不満そうに言った。
「正直に説明したのに、下がるのかよ」
黒崎は、少し笑った。
「……仕方ないよ」
小野寺が、静かに言った。
「政策への期待が高まった分、実現までの時間が長く感じられるのかもしれません」
黒崎は、うなずいた。
「そうですね」
その時。
美月から、メッセージが届いた。
『今日も遅くまで仕事ですか?』
黒崎は、少し笑った。
『もう少しで終わるよ』
すぐに返信が届いた。
『ちゃんと夕飯食べてくださいね』
黒崎は、画面を見つめた。
そして、静かに笑った。
『ありがとう』
その時。
小野寺が、部屋に入ってきた。
「黒崎さん。新しい情報です」
黒崎は、顔を上げた。
「何でしょう?」
小野寺は、資料を差し出した。
「政府が、来年度の税制改正について、所得税の控除制度を見直す方向で検討を始めたようです」
黒崎は、資料を読んだ。
「……所得税の控除?」
「はい。働く人の税負担を軽減する案も含まれています」
黒崎は、顔を上げた。
「……それなら、私たちの政策と重なる部分がありますね」
小野寺は、うなずいた。
「はい。ただし、政府案の内容はまだ確定していません」
黒崎は、少し考えた。
そして、静かに言った。
「……政府案が出たら、比較しましょう」
高瀬が、顔を上げた。
「……黒崎の案と?」
黒崎は、うなずいた。
「うん」
そして、続けた。
「政府の案の方が良ければ、そちらを支持してもいい」
高瀬は、少し驚いた。
「……いいのか?」
黒崎は、静かに答えた。
「目的は、私たちの政策を通すことじゃない」
そして、はっきりと言った。
「国民の手取りを増やすことだから」
会議室が静かになった。
小野寺は、ゆっくりとうなずいた。
「……そのとおりですね」
黒崎は、窓の外を見た。
国会議事堂が、夜の光に照らされている。
月五千円。
たった五千円。
しかし、その五千円を実現するためには、税制も、社会保障も、国会の多数派も動かさなければならない。
黒崎は、静かに息を吐いた。
「……まだ、始まったばかりですね」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回、黒崎たちは「手取り月五千円増加」という具体的な目標を掲げました。
しかし、政策目標と実現の約束は違います。
政治家が数字を示すことの責任と、国民の期待にどう向き合うのか。
次回は、政府が進める税制改正を巡り、黒崎たちが初めて政策実現の機会を迎えます。




