第23話 四十一億円の行方
国の予算が増えることは、必ずしも悪いことではない。
必要な事業なら、むしろ増やすべき場合もある。
だが、その四十一億円が何を変えたのか。
一人の新人議員が答えを求めた時、思いがけない人物が動き始める。
2035年8月8日、午前9時12分。
東京都千代田区、衆議院議員会館。
「……四十一億円?」
高瀬直樹が、ノートパソコンから顔を上げた。
黒崎玲司は、机の上の資料を指さした。
「今年度の予算額だ」
「何の事業なんだ?」
小野寺航が答えた。
「地域医療情報連携基盤整備事業。複数の医療機関が、患者の同意に基づいて診療情報を共有するための仕組みです」
高瀬は、うなずいた。
「それなら、必要そうだけど」
「私もそう思います」
小野寺は、資料をめくった。
「ただ、気になる点があります」
黒崎が尋ねた。
「何でしょう?」
「予算は増えていますが、成果を示す指標が途中で変更されています」
高瀬が首をかしげた。
「どういうこと?」
小野寺は、ホワイトボードに書いた。
初年度。
参加医療機関数。
二年目。
情報連携システムの導入施設数。
三年目。
基盤整備の進捗率。
今年度。
システムの稼働状況。
高瀬は、しばらく眺めた。
「……毎年、違うものを測ってる?」
「正確には、事業の段階に応じて評価指標を変えているようです」
小野寺は続けた。
「指標を変えること自体は問題ではありません。ただ、過去と現在を比較しにくくなっています」
黒崎は、資料を見つめた。
「つまり、四十一億円が無駄かどうかは分からない」
「はい」
「でも、何がどれだけ改善したのかも、すぐには分からない」
「そうです」
高瀬は、腕を組んだ。
「……それ、国民が判断するのは難しいな」
黒崎は、うなずいた。
「だから、調べたい」
その時、桐生美月が部屋に入ってきた。
「黒崎さん。榊田さんから連絡がありました」
「何でしょう?」
「今日の午後、事業に関する追加資料を持って来られるそうです」
黒崎は、うなずいた。
「分かりました」
美月は、少し考えた。
「ただ、黒崎さん」
「はい」
「この事業、医療に関わるものですよね」
「そうです」
「もし必要な事業なら、予算が増えたことだけを問題にしないでくださいね」
黒崎は、静かに笑った。
「もちろんです」
そして、資料を閉じた。
「無駄を探すためじゃない。何に使われて、何が良くなったのかを知るためです」
* * *
2035年8月8日、午後2時18分。
衆議院議員会館、黒崎事務所。
「この資料を見てください」
榊田修平が、ファイルを広げた。
そこには、事業に参加した自治体と医療機関の一覧があった。
黒崎は、資料を見つめた。
「……全国で実施されているんですね」
「はい。ただし、地域ごとに進み方が違います」
榊田は、一つの自治体を指さした。
「こちらは、システム導入後、救急搬送時の情報確認が早くなったという報告があります」
黒崎は、顔を上げた。
「それは、大きな成果ですね」
「そう思います」
榊田は、別の資料を出した。
「一方で、こちらの地域では、システムを導入したものの、実際の利用件数が少ないという報告があります」
高瀬が尋ねた。
「使われていないってこと?」
「十分に使われていない可能性があります。ただ、理由までは分かりません」
小野寺が、うなずいた。
「利用する医療機関が少ないのか、既存システムとの連携に問題があるのか。あるいは、対象患者が少ないだけなのか」
黒崎は、資料を見比べた。
「……同じ予算事業でも、地域によって成果が違う」
榊田は、うなずいた。
「そうです」
黒崎は、少し考えた。
「では、成果が出ている地域と、出ていない地域を比較できるようにしたいですね」
高瀬が、画面を操作した。
「それなら、試作版に入れられる」
黒崎は、顔を上げた。
「本当か?」
「公開されているデータだけなら、できる。ただし、データの形式がバラバラだから、手作業で整理する部分はある」
小野寺が、静かに言った。
「出典と更新日も必ず表示してください。異なる条件の数字を、そのまま順位付けしないことも重要です」
高瀬は、うなずいた。
「了解」
黒崎は、画面を見た。
そこには、まだ何もない簡単な検索画面が表示されていた。
『JAPAN LEDGER』
国のお金の使い方を、誰でも確かめられる仕組み。
まだ、ほんの試作品。
それでも、黒崎には大きな一歩に見えた。
* * *
2035年8月11日、午後4時32分。
東京都千代田区、衆議院議員会館。
「黒崎さん。少し、問題が起きました」
小野寺の声が、いつもより硬かった。
黒崎は、顔を上げた。
「何でしょう?」
小野寺は、タブレットを差し出した。
そこには、ニュース記事が表示されていた。
『無所属新人議員、医療情報基盤事業の予算増を問題視』
黒崎は、眉をひそめた。
「……問題視?」
記事を読み進める。
『黒崎議員は、予算が十二億円から四十一億円に増加した事業について調査を開始。医療情報基盤への投資に疑問を呈している』
黒崎は、静かに言った。
「……私は、投資が不要だとは言っていません」
小野寺は、うなずいた。
「そうですね」
その時、電話が鳴った。
美月が受話器を取る。
「はい。黒崎玲司事務所です」
数秒後。
美月の表情が変わった。
「……承知しました。担当者に確認いたします」
電話を切る。
「黒崎さん。医療関係者の団体からです」
「何でしょう?」
「『必要な医療投資を削減するつもりなのか』と」
黒崎は、黙った。
高瀬が、思わず言った。
「そんなこと言ってないだろ!」
藤原真琴が、画面を確認しながら答えた。
「でも、記事だけを読めば、そう受け取る人もいるかもしれません」
黒崎は、少し考えた。
「……説明しましょう」
真琴が、顔を上げた。
「公式サイトで?」
「はい。ただし、文章だけではなく、関係者の話も聞きたいです」
小野寺が、うなずいた。
「事業を実施している医療機関への聞き取りですね」
黒崎は、答えた。
「お願いします」
その日の夜。
黒崎は、公式サイトに短い説明を掲載した。
『医療情報連携基盤整備事業について、現時点で予算削減を求めている事実はありません。事業の必要性を認識したうえで、成果と課題を確認しています。』
投稿後、批判がすべて消えたわけではなかった。
それでも黒崎は、調査をやめなかった。
* * *
2035年8月13日、午後1時46分。
東京都内、地域医療センター。
「……正直に言います」
医療センターの事務長は、黒崎をまっすぐに見た。
「この事業を、無駄だと言われるのは困ります」
黒崎は、深く頭を下げた。
「そのつもりはありません」
事務長は、腕を組んだ。
「では、なぜ調べているんですか?」
黒崎は、静かに答えた。
「必要な事業なら、何が必要なのかを国民に説明したいからです」
事務長は、少し表情を変えた。
黒崎は続けた。
「予算が増えている理由も、実際に役立っていることも、改善すべき点も知りたいんです」
事務長は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「……分かりました」
案内されたのは、救急医療の情報管理室だった。
職員が、画面を操作している。
事務長が説明した。
「以前は、搬送された患者さんの服薬情報や既往歴を確認するために、複数の医療機関へ問い合わせることがありました」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
「今は、患者さんの同意など必要な条件が整えば、連携している医療機関の情報を確認できます」
黒崎は、画面を見た。
「……便利ですね」
「便利です。現場では助かっています」
しかし、事務長は続けた。
「ただし、問題もあります」
「何でしょう?」
「参加していない医療機関の情報は、当然ながら確認できません」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
「それに、システムごとに操作方法が違う場合もあります。職員の研修も必要です」
黒崎は、メモを取った。
「つまり、導入すれば終わりではない」
事務長は、強くうなずいた。
「そうです」
そして、静かに言った。
「国会議員の先生方には、導入件数だけで成果を判断しないでいただきたい」
黒崎は、顔を上げた。
「……分かりました」
事務長は続けた。
「使えるようにすることと、実際に使われることは違います」
その言葉に、黒崎は手を止めた。
「……ありがとうございます」
黒崎は、深く頭を下げた。
「今日、一番聞きたかったことかもしれません」
* * *
2035年8月15日、午後8時27分。
東京都杉並区、高瀬の作業部屋。
「……できた!」
高瀬が、椅子から立ち上がった。
黒崎は、画面をのぞき込んだ。
「本当か?」
「試作版だけどな」
画面には、シンプルな検索ページが表示されていた。
『JAPAN LEDGER』
『国のお金の使い方を、調べる。比べる。確かめる。』
検索欄に、事業名を入力する。
すると、予算額、事業目的、公開されている成果指標、出典資料への案内が表示された。
黒崎は、目を見開いた。
「……すごいな」
高瀬は、少し得意そうに笑った。
「だろ?」
小野寺が、画面を確認した。
「出典も表示されていますね」
「もちろん」
「更新日もあります」
「言われたとおりにした」
真琴が、画面をスクロールした。
「説明も分かりやすいです」
美月は、静かにうなずいた。
「専門用語に説明が付いているのも、いいですね」
黒崎は、画面を見つめた。
数か月前。
給与明細を見て、国のお金の使い方に疑問を持った。
その時、自分が欲しかったもの。
それが、今、目の前にあった。
まだ、一つの事業しか十分に整理できていない。
全国の予算を網羅しているわけでもない。
それでも。
「……これを、公開したい」
黒崎が言うと、高瀬はうなずいた。
「できるぞ」
小野寺が、静かに言った。
「ただし、公開前に確認が必要です」
黒崎は、顔を上げた。
「何でしょう?」
「事業の評価について、私たちが独自に結論を出したように見えないことです」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
「公開情報を整理したものであること。未確認の部分は未確認と表示すること。そして、誤りがあれば訂正できる仕組みを用意すること」
高瀬が、うなずいた。
「訂正履歴も付ける」
黒崎は、静かに笑った。
「……お願いします」
その時。
真琴のスマートフォンが震えた。
画面を見た彼女の表情が変わった。
「……黒崎さん」
「はい」
「財務副大臣の久世さんが、記者会見で発言しています」
黒崎は、顔を上げた。
「……何と?」
真琴は、記事を読み上げた。
『一部の政治家が、国の財政を単純な数字だけで評価しようとしている。国民に誤解を与えないよう、慎重な議論が必要だ』
高瀬が、眉をひそめた。
「……これ、黒崎のことじゃないか?」
小野寺は、静かに答えた。
「名前は出ていません」
黒崎は、記事を見つめた。
「……そうですね」
真琴が尋ねた。
「どうしますか?」
黒崎は、少し考えた。
そして、静かに答えた。
「予定どおり、試作版を公開しましょう」
高瀬が、驚いた。
「いいのか?」
「はい」
黒崎は、画面を見た。
「ただし、国の財政を単純な数字だけで判断できるとは、私も思っていません」
小野寺が、うなずいた。
「その点は、明記しましょう」
黒崎は続けた。
「むしろ、数字の背景まで確かめられる仕組みにしたいんです」
高瀬は、少し笑った。
「……分かった」
黒崎は、静かに言った。
「公開してください」
午後8時41分。
JAPAN LEDGERの試作版が、公開された。
* * *
2035年8月16日、午前7時52分。
東京都千代田区、財務副大臣室。
「……何だ、これは」
久世隆臣は、タブレットの画面を見つめていた。
秘書が、静かに答えた。
「黒崎議員が公開した、予算情報の検索サイトです」
久世は、画面を操作した。
事業名。
予算額。
成果指標。
出典。
そして、現場への聞き取りを踏まえた説明。
久世は、しばらく黙っていた。
「……よくできているな」
秘書は、少し驚いた。
「評価されるのですか?」
久世は、画面から目を離さずに答えた。
「技術的には、評価できる」
そして、静かに続けた。
「だが、問題はそこではない」
秘書が尋ねた。
「……何でしょう?」
久世は、タブレットを机に置いた。
「国民が、このサイトを見て、政府の事業を一つずつ評価し始めたらどうなる?」
秘書は、少し考えた。
「……行政への関心が高まるかと」
久世は、うなずいた。
「それ自体は、悪いことではない」
そして、表情を変えた。
「しかし、数字だけが独り歩きすれば、必要な事業まで批判される可能性がある」
秘書は、うなずいた。
「はい」
久世は、静かに言った。
「黒崎議員に、もう一度会いたい」
「承知しました」
「今度は、私の方から提案する」
秘書が顔を上げた。
「……提案ですか?」
久世は、窓の外を見た。
「彼を、政府の情報発信に協力させる」
秘書は、少し驚いた。
「……黒崎議員を?」
「そうだ」
久世は、静かに続けた。
「敵に回すより、こちら側にいた方がいい」
* * *
2035年8月16日、午後3時14分。
東京都千代田区、衆議院議員会館。
「黒崎さん。大変です」
高瀬が、息を切らして部屋に入ってきた。
黒崎は、顔を上げた。
「どうした?」
高瀬は、ノートパソコンを見せた。
「JAPAN LEDGERのアクセス数が、想定を超えてる!」
黒崎は、驚いた。
「……どのくらい?」
「公開から一日も経ってないのに、十万アクセスを超えた!」
黒崎は、言葉を失った。
「……十万?」
真琴が、すぐに補足した。
「延べアクセス数です。同じ人が複数回見ている可能性があります」
高瀬は、うなずいた。
「それでも、すごいだろ!」
黒崎は、画面を見つめた。
そこには、利用者からの意見が届いていた。
『こんなサイトが欲しかった』
『予算額だけでなく、何をしたか分かるのがいい』
『もっと多くの事業を見たい』
『成果が出ている事業も紹介してほしい』
『間違いがあったら、きちんと訂正してほしい』
黒崎は、静かにうなずいた。
「……ありがたいですね」
その時。
美月が、部屋に入ってきた。
「黒崎さん。久世副大臣から、正式な面会依頼が届きました」
黒崎は、顔を上げた。
「……またですか?」
「はい」
美月は、メールの内容を確認した。
「今回は、政府の財政情報発信に関する協力のご相談だそうです」
小野寺の表情が変わった。
「……なるほど」
黒崎は、首をかしげた。
「何か問題がありますか?」
小野寺は、静かに答えた。
「政府と協力すること自体は、問題ありません」
「はい」
「ただし、どこまで独立して情報を発信できるかは、確認した方がいいでしょう」
黒崎は、うなずいた。
「分かりました」
そして、静かに言った。
「お会いしましょう」
高瀬が、少し不安そうに尋ねた。
「……大丈夫か?」
黒崎は、少し笑った。
「話を聞くだけだよ」
しかし。
その日の夜。
黒崎のもとに、もう一通の連絡が届いた。
差出人は、医療関係者の団体だった。
『JAPAN LEDGERに掲載された事業情報について、意見交換をお願いしたい』
黒崎は、画面を見つめた。
政府。
医療関係者。
そして、国民。
一つの試作サイトを公開しただけで、これほど多くの人が動き始めた。
黒崎は、静かに息を吐いた。
「……思っていたより、大きなことになりましたね」
美月が、隣でうなずいた。
「はい」
黒崎は、画面を見つめた。
「でも、やめません」
美月は、少し笑った。
「そう言うと思いました」
黒崎は、静かにうなずいた。
「国のお金の使い方を、誰でも確かめられるようにする」
そして、はっきりと言った。
「そのために、国会議員になったんですから」
窓の外では、東京の街に夜の明かりが灯り始めていた。
一議席しか持たない新人議員。
しかし、彼が公開した小さなサイトは、確実に人々の関心を集め始めていた。
そして、その動きを止めたい者と、利用したい者が、静かに動き始めていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
予算の増加は、必ずしも無駄を意味しません。重要なのは、その支出によって何が実現したのかを確かめられることです。
JAPAN LEDGERの試作公開によって、黒崎の活動は国会の外にも広がり始めました。
次回は、政府からの協力提案を巡り、黒崎が難しい選択を迫られます。




