第22話 国会で最初に敵にした男
国会議員になれば、政府に質問できる。
しかし、質問したからといって、答えが返ってくるとは限らない。
一人の新人議員が求めたのは、特別な改革ではなかった。
国民が負担するお金について、誰にでも分かる説明をしてほしい。
ただ、それだけだった。
2035年7月28日、午前9時14分。
東京都千代田区、衆議院議員会館。
「黒崎さん。政府の資料が届きました」
小野寺航が、分厚いファイルを机に置いた。
黒崎玲司は、表紙を見た。
『社会保障制度の持続可能性に関する検討資料』
「……百八十六ページ?」
「はい」
「追加負担の説明だけで、こんなに?」
「追加負担の説明だけではありません。人口推計、医療費、介護費、保険料収入などが含まれています」
黒崎は、ページをめくった。
数字。
グラフ。
専門用語。
また数字。
「……普通の人が読むには、かなり大変ですね」
小野寺はうなずいた。
「内容自体は重要です。ただ、資料を読むために、制度の知識が必要になります」
黒崎は、あるページで手を止めた。
『現役世代の負担の在り方について、幅広い検討を行う』
「この『幅広い検討』というのは?」
「具体的な負担増の方法は、まだ決まっていないということです」
「では、政府は何を増やすつもりなんですか?」
「現時点では、複数の選択肢を検討している段階です」
黒崎は、椅子にもたれた。
「……それなら、何が決まっていて、何が決まっていないのかを、最初に書いてほしいですね」
小野寺は、少し笑った。
「その感覚は、大切だと思います」
その時、桐生美月が部屋に入ってきた。
「黒崎さん。今日の面会予定ですが、水野議員が十一時にいらっしゃいます」
「ありがとうございます」
美月は、資料を見た。
「政府の負担策ですか?」
「はい」
「何か分かりました?」
黒崎は、少し考えた。
「……分からないことが、分かりました」
美月は、一瞬だけ黙った。
「それは、進展したということでしょうか」
「たぶん」
小野寺が、思わず笑った。
* * *
2035年7月28日、午前11時06分。
衆議院議員会館、黒崎事務所。
「初めまして。水野彩香です」
水野彩香は、はっきりとした声で名乗った。
三十五歳。
愛知県から無所属で初当選した新人議員。
紺色のジャケットに、飾り気のない鞄。
黒崎は立ち上がり、頭を下げた。
「黒崎玲司です。本日はありがとうございます」
水野は、席に座るなり言った。
「選挙中の討論会、拝見しました」
「ありがとうございます」
「行政支出を分かりやすくするという考え方には、賛成です」
黒崎は、顔を上げた。
「本当ですか?」
「ただし」
水野は、鞄から資料を取り出した。
「私は、予算を公開すれば無駄が見つかる、という単純な話にはしたくありません」
黒崎はうなずいた。
「私も、そう考えています」
水野は、少し意外そうな顔をした。
「……そうなんですか?」
「はい。以前、地域のイベント費用を調べたことがあります」
黒崎は続けた。
「最初は高いと思った支出も、内容を確認すると妥当な場合がありました」
水野は、静かに聞いていた。
「だから、金額だけではなく、何を実施して、どんな結果があったのかまで確認できるようにしたいんです」
水野は、ゆっくりとうなずいた。
「……それなら、話が合いそうですね」
黒崎は、少し笑った。
「よかったです」
水野は資料を広げた。
「私は自治体職員時代、事業評価に関わっていました」
「はい」
「その時、困ったことがあります」
「何でしょう?」
「評価のために作る資料と、実際に事業を改善するために必要な情報が、必ずしも一致していなかったことです」
黒崎は、身を乗り出した。
水野は続けた。
「数字を公開するだけでは足りません。公開するための事務作業が増えて、現場の負担になるだけなら、本末転倒です」
小野寺がうなずいた。
「既存データを活用して、重複入力を減らす設計が必要ですね」
「そうです」
水野は、黒崎を見た。
「そこで提案があります」
「はい」
「あなたの構想に、現場の行政職員の視点を入れてください」
黒崎は、すぐに答えた。
「ぜひ、お願いします」
水野は、少し笑った。
「即答ですね」
「必要な視点だと思いますから」
水野は、資料を閉じた。
「では、まず政策面で協力しましょう」
黒崎は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
水野は、手を差し出した。
「ただし、私はあなたの部下になるつもりはありません」
黒崎は、その手を握った。
「もちろんです」
水野は笑った。
「それなら、いい関係になれそうです」
* * *
2035年7月30日、午後2時23分。
東京都千代田区、国会議事堂。
臨時国会が始まっていた。
黒崎は、議場の席に座っていた。
周囲には、何度もテレビで見た政治家たちがいる。
与党議員。
野党議員。
閣僚。
そして、議長。
黒崎は、手元の資料を見つめた。
今回の総選挙で、与党は議席を減らした。
それでも、連立政権は衆議院で過半数を維持している。
政権は続く。
しかし、国民負担の見直しを巡り、政府への批判は強まっていた。
議場では、代表質問が続いていた。
「国民生活が厳しい中、政府はさらなる負担を求めるのか!」
野党議員の声が響く。
政府側は、落ち着いた口調で答えた。
「社会保障制度の持続可能性を確保するため、必要な検討を進めてまいります」
黒崎は、手元の資料に目を落とした。
また、同じ言葉だった。
『必要な検討』
『持続可能性』
『丁寧な説明』
どれも重要な言葉だ。
しかし、具体的に何をするのかが見えにくい。
黒崎は、隣に座る無所属議員に小声で尋ねた。
「すみません。こうした答弁について、追加で詳しく確認したい場合は、どうすればいいのでしょうか」
議員は、少し驚いたように黒崎を見た。
「質問主意書という方法もありますよ」
「質問主意書?」
「議員が政府に対して、書面で質問する制度です。手続きに従って提出すれば、政府から答弁書が出ます」
黒崎は、顔を上げた。
「一人でも出せるんですか?」
「もちろん」
黒崎は、静かにうなずいた。
「……ありがとうございます」
その日の夕方。
黒崎は、事務所へ戻るなり言った。
「小野寺さん。質問主意書を作りたいです」
小野寺は、顔を上げた。
「何についてですか?」
「追加負担の検討についてです」
黒崎は、資料を机に置いた。
「政府が何を決めていて、何をまだ決めていないのか。それを明確にしてほしい」
小野寺は、少し考えた。
「……できます」
黒崎は、うなずいた。
「お願いします」
しかし、小野寺は続けた。
「ただし、質問の作り方が重要です」
「どういうことですか?」
「『国民に分かりやすく説明してください』だけでは、一般的な答えしか返ってこない可能性があります」
黒崎は、考え込んだ。
「……では、具体的に聞きましょう」
小野寺が、ペンを取った。
「何を聞きますか?」
黒崎は、三つの項目を書いた。
一、追加負担策について、現時点で決定している事項は何か。
二、検討中の選択肢と、その判断に用いる資料は何か。
三、負担増以外の選択肢について、どのような検証を行っているか。
小野寺は、その紙を見つめた。
「……いいですね」
黒崎は、顔を上げた。
「これなら、答えてもらえますか?」
「政府がどう答えるかは分かりません」
小野寺は、静かに続けた。
「ですが、少なくとも何を確認したいのかは明確です」
黒崎は、うなずいた。
「では、これで進めましょう」
* * *
2035年8月1日、午後4時51分。
東京都千代田区、衆議院議員会館。
「黒崎さん。質問主意書の提出手続きが終わりました」
小野寺の報告に、黒崎は顔を上げた。
「ありがとうございます」
「答弁書は、所定の手続きを経て届くことになります」
黒崎は、うなずいた。
「分かりました」
その時、藤原真琴から連絡が入った。
『今夜、公式サイトで何を発信しますか?』
黒崎は、少し考えた。
そして、返信した。
『質問主意書を提出したことと、質問した三項目を公開したいです』
すぐに返事が来た。
『了解です。ただし、政府が回答する前に、回答内容を決めつけないでくださいね』
黒崎は、小さく笑った。
『もちろんです』
その日の夜。
国民会計の会の公式サイトに、新しい記事が掲載された。
『国民負担の見直しについて、政府に三つの質問を提出しました』
記事には、質問の目的と内容が、簡潔にまとめられていた。
そして、最後に一文。
『回答が届き次第、原文への案内と、内容を整理した説明を掲載します。』
黒崎は、その文章を確認した。
「……これでいいですね」
美月が、うなずいた。
「はい」
黒崎は、椅子にもたれた。
国会議員になって、初めて政府へ正式な質問を提出した。
まだ、何も変えていない。
だが、選挙で約束したことを、少しだけ形にできた気がした。
* * *
2035年8月6日、午前10時12分。
東京都千代田区、衆議院議員会館。
「……答弁書が届きました」
小野寺が、資料を机に置いた。
黒崎は、すぐに受け取った。
「ありがとうございます」
ページを開く。
そこには、政府の回答が記されていた。
追加負担策については、現時点で具体的な制度改正を決定していないこと。
複数の選択肢について、関係審議会などで検討を進めていること。
負担増以外の方法についても、歳出改革や制度の効率化を含めて議論していること。
黒崎は、最後まで読んだ。
そして、静かに言った。
「……決まっていないんですね」
小野寺は、うなずいた。
「少なくとも、現時点で具体的な追加負担策は決定していないという回答です」
黒崎は、資料を見つめた。
「では、ニュースの見出しだけを見て、すぐに負担が増えると思った人もいるかもしれませんね」
「そうですね」
黒崎は、少し考えた。
「……その点は、きちんと伝えましょう」
小野寺は、少し驚いた。
「政府を批判するのではなく?」
黒崎は、顔を上げた。
「批判するべきことがあれば、批判します」
そして、静かに続けた。
「でも、決まっていないことを、決まったように伝えるのは違うと思います」
小野寺は、うなずいた。
「……そのとおりですね」
黒崎は、答弁書をもう一度見た。
「ただ、一つ気になることがあります」
「何でしょう?」
「歳出改革について、どの事業をどう見直すかは、まだ具体的に示されていません」
小野寺は、うなずいた。
「はい」
黒崎は、静かに言った。
「だったら、次はそこを確認したいです」
その時。
美月が、部屋に入ってきた。
「黒崎さん。お客様です」
黒崎は、顔を上げた。
「どなたですか?」
美月は、少し困ったような表情だった。
「……財務副大臣の秘書の方から、面会の申し込みがありました」
黒崎は、驚いた。
「財務副大臣?」
「はい」
小野寺の表情が変わった。
「……ずいぶん早いですね」
黒崎は、首をかしげた。
「何がですか?」
小野寺は、静かに答えた。
「政府側から、新人の無所属議員に接触してくることです」
黒崎は、しばらく考えた。
そして、うなずいた。
「……お会いしましょう」
* * *
2035年8月7日、午後3時08分。
東京都千代田区、衆議院議員会館。
「初めまして。財務副大臣の久世隆臣です」
五十代半ば。
整った髪。
落ち着いた声。
黒崎は、立ち上がって頭を下げた。
「黒崎玲司です。本日はありがとうございます」
久世は、応接用のソファに座った。
「いやあ、選挙の時から注目していましたよ」
黒崎は、少し驚いた。
「そうでしたか」
「給与明細から政治を変える、という話。非常に分かりやすかった」
久世は、笑った。
「ただし、国の財政は、給与明細ほど単純ではありません」
黒崎は、うなずいた。
「承知しています」
久世は、少し意外そうな顔をした。
「……そうですか」
黒崎は続けた。
「だからこそ、国民に分かりやすく説明する仕組みが必要だと考えています」
久世は、静かに笑った。
「なるほど」
そして、鞄から一枚の資料を取り出した。
「今日は、その件でお話ししたいことがあります」
黒崎は、資料を受け取った。
そこには、こう書かれていた。
『財政情報の国民向け発信に関する意見交換会』
黒崎は、顔を上げた。
「……意見交換会?」
「ええ。あなたのような若い議員の意見も、参考にしたいと考えています」
黒崎は、少し考えた。
「それは、ありがたいです」
久世は、うなずいた。
「ぜひ、ご参加ください」
「はい。日程を確認させてください」
久世は、少し身を乗り出した。
「ただし、一つお願いがあります」
黒崎は、顔を上げた。
「何でしょう?」
久世は、穏やかな声で言った。
「政府が進めている財政政策について、必要以上に不安をあおるような発信は、控えていただきたいのです」
黒崎は、黙った。
久世は続けた。
「もちろん、批判するなという意味ではありません。ただ、国民生活に関わる問題ですから、慎重に扱っていただきたい」
黒崎は、少し考えた。
そして、静かに答えた。
「……事実と違うことは、発信しません」
久世は、うなずいた。
「それは、結構です」
黒崎は続けた。
「ただし、政府の説明が不十分だと思った場合は、その点を指摘します」
久世の笑顔が、わずかに止まった。
黒崎は、まっすぐに言った。
「国民に不安を与えないことと、疑問を持たせないことは、違うと思います」
久世は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「……なるほど」
黒崎は続けた。
「意見交換会には、ぜひ参加したいです」
久世は、笑顔を戻した。
「分かりました。では、改めてご案内します」
二人は、握手を交わした。
しかし。
久世が部屋を出る直前。
彼は、黒崎に向かって静かに言った。
「黒崎さん」
「はい」
「政治では、敵を作らないことも大切ですよ」
黒崎は、少し考えた。
そして、答えた。
「……そうですね」
久世は、うなずいた。
「では、失礼します」
扉が閉まった。
黒崎は、しばらくその場に立っていた。
* * *
2035年8月7日、午後4時02分。
衆議院議員会館、黒崎事務所。
「……どう思いますか?」
黒崎が尋ねると、小野寺は腕を組んだ。
「久世副大臣は、黒崎さんを警戒し始めているのかもしれません」
黒崎は、首をかしげた。
「……警戒?」
「はい。あなたの発信が、政府の財政政策への世論に影響する可能性を見ているのでしょう」
黒崎は、少し考えた。
「でも、私は政府を倒したいわけではありません」
小野寺は、うなずいた。
「分かっています」
「ただ、説明してほしいだけです」
小野寺は、静かに答えた。
「その『説明してほしい』という要求が、政治家にとって一番厳しい場合もあります」
黒崎は、黙った。
小野寺は続けた。
「政策の賛否なら、立場を分けて議論できます。しかし、説明責任そのものを否定するのは難しい」
黒崎は、ゆっくりとうなずいた。
「……なるほど」
その時。
美月が、ノートパソコンを持って近づいてきた。
「黒崎さん。国民会計の会の公式サイトに、問い合わせが来ています」
「何でしょう?」
美月は、画面を見せた。
『政府の答弁書を読みました。黒崎議員の説明は分かりやすかったです。ただ、実際にどの事業が見直されるのかも知りたいです。』
黒崎は、しばらく文章を見つめた。
そして、静かに笑った。
「……同じことを考えている人がいるんですね」
美月は、うなずいた。
「はい」
黒崎は、小野寺を見た。
「次の仕事が決まりました」
小野寺が、顔を上げた。
「何でしょう?」
黒崎は、机の上の資料を指さした。
「政府が公開している行政事業の情報を使って、まず一つ、誰でも比較できる形にしてみましょう」
小野寺は、少し考えた。
「JAPAN LEDGERの試作版ですね」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
美月が尋ねた。
「いつまでに作りますか?」
黒崎は、少し考えた。
そして、答えた。
「……二週間で」
小野寺が、目を丸くした。
「二週間?」
黒崎は、うなずいた。
「全部は無理でも、一つならできると思います」
美月は、少し笑った。
「高瀬さんに相談ですね」
黒崎も笑った。
「そうですね」
その時。
黒崎のスマートフォンが震えた。
差出人は、榊田修平だった。
『黒崎さん。少し気になる資料を見つけました。政府の行政事業レビューの中に、毎年予算が増えている事業があります。単純に無駄とは言えませんが、事業評価の方法に確認したい点があります。』
黒崎は、画面を見つめた。
そして、返信した。
『ありがとうございます。資料を送っていただけますか?』
数秒後。
ファイルが届いた。
黒崎は、資料を開いた。
そこには、ある行政事業の予算推移が記されていた。
初年度、十二億円。
翌年度、十八億円。
三年目、二十七億円。
そして、今年度。
四十一億円。
黒崎は、目を細めた。
「……増えていますね」
小野寺が、画面をのぞき込んだ。
「事業内容や対象範囲が変わっている可能性があります。まずは確認しましょう」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
そして、静かに言った。
「数字だけで、無駄とは決めつけない」
小野寺も、うなずいた。
「そのとおりです」
黒崎は、画面を見つめた。
国会議員になって、まだ二週間。
政府に質問し、答弁を受け取り、財務副大臣と会った。
そして今。
国のお金の使い方を、実際に検証する仕事が始まろうとしていた。
黒崎は、静かに息を吐いた。
「……やりましょう」
窓の外では、国会議事堂が夕日に照らされていた。
一議席しか持たない新人議員。
しかし、その一議席が投げかけた問いは、少しずつ政府の中へ届き始めていた。
そして。
その問いが、やがて政権を揺るがすことになるとは。
この時、黒崎自身も、まだ知らなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
政治を変える第一歩は、必ずしも大きな法律を作ることではありません。
すでに公開されている情報を、国民が理解し、判断できる形にすることも重要な仕事です。
次回は、JAPAN LEDGERの試作が動き始めます。
そして、一つの予算資料をきっかけに、黒崎は国会で思いがけない対立に直面します。




