第21話 新人議員に用意された席
選挙に勝てば、政治を変えられる。
そう信じていた男が、初めて国会の現実を知る。
一議席の重みと、一議席の限界。
そして、国会議員になった黒崎のもとに、思いがけない誘いが届く。
2035年7月22日、午前8時17分。
東京都千代田区、衆議院議員会館。
「……広いな」
黒崎玲司は、廊下の先を見つめていた。
磨き上げられた床。
整然と並ぶ扉。
行き交うスーツ姿の人々。
数日前まで会社員だった男にとって、そこは別世界だった。
「黒崎さん、こちらです」
桐生美月が、部屋番号を確認した。
黒崎は、少し笑った。
「迷いそうですね」
「すでに一度、反対方向へ歩いていました」
「……見ていたんですか?」
「はい」
美月は、何事もなかったように答えた。
二人は、指定された部屋の前で立ち止まった。
扉の横には、小さな名札があった。
『衆議院議員 黒崎玲司』
黒崎は、その文字を見つめた。
「……本当に、ここに自分の名前があるんですね」
美月は、静かにうなずいた。
「はい」
黒崎は、扉を開けた。
机。
椅子。
書棚。
応接用のソファ。
そして、窓から見える東京の街並み。
想像していたよりも、立派な部屋だった。
「……これも、税金で用意されているんですよね」
黒崎がつぶやくと、美月が答えた。
「そうですね。議員活動に必要な設備として」
黒崎は、机に手を置いた。
「だったら、ちゃんと使わないと」
美月は、少し笑った。
「黒崎さんらしいですね」
その時、廊下から声がした。
「失礼します」
振り返ると、小野寺航が立っていた。
手には、分厚い資料が抱えられている。
「おはようございます」
黒崎は、頭を下げた。
「おはようございます」
小野寺は、資料を机に置いた。
「まず、今後の国会日程と議員活動の基本事項を整理しました」
黒崎は、資料の厚さを見た。
「……これ、全部ですか?」
「一部です」
「一部?」
小野寺は、真顔でうなずいた。
「はい」
黒崎は、思わず天井を見上げた。
「……先が長そうですね」
「長いですよ」
小野寺は、静かに答えた。
「選挙に勝つより、ここからの方が難しいと思います」
* * *
2035年7月22日、午前10時43分。
東京都千代田区、衆議院議員会館。
「国民会計の会を、政党として育てたいと考えています」
黒崎の言葉に、長谷川慎吾は腕を組んだ。
会議室には、黒崎、小野寺、長谷川、そして藤原真琴が集まっていた。
真琴は、会社の休暇を利用して参加している。
長谷川が口を開いた。
「目標は?」
「次の選挙までに、仲間を増やすことです」
「何人?」
黒崎は、少し考えた。
「……まずは、七人」
長谷川は、うなずいた。
「理由は?」
「一人では、政策を実現するための力が足りないからです」
小野寺が補足した。
「国会では、法案提出や委員会での活動など、議員数によって可能になることや、各会派への配分が変わるものがあります」
黒崎は、資料を見た。
「一議席だけでは、できないことが多いんですね」
「そうです。ただし、一人でも質問や調査、政策提案はできます」
長谷川が続けた。
「七人という目標は悪くありません。しかし、今の国民会計の会は、あなた個人への支持が中心です」
黒崎は、うなずいた。
「分かっています」
「では、何をする?」
黒崎は、少し考えた。
「……まず、議員として結果を出します」
長谷川は、静かに言った。
「正解です」
そして、続けた。
「選挙で勝っただけの新人についてくる政治家は、そう多くありません」
真琴が、ノートパソコンを開いた。
「黒崎さん。実は、当選後の問い合わせを整理しました」
「ありがとうございます」
「政治団体への参加希望が増えています。ただし、それ以上に多いのが、ある質問です」
黒崎は、顔を上げた。
「何でしょう?」
真琴は、画面を見せた。
『国会議員になって、最初に何をするんですか?』
黒崎は、しばらくその文章を見つめた。
そして、静かに言った。
「……確かに」
選挙中は、国のお金の使い方を分かりやすくすると訴えてきた。
しかし、当選した今。
それを、どう実現するのか。
具体的な行動が必要だった。
小野寺が、一枚の資料を差し出した。
「そこで、最初の取り組みとして提案があります」
黒崎は、資料を受け取った。
表紙には、こう書かれていた。
『国民向け予算情報公開システム構想』
黒崎は、顔を上げた。
「……これですか」
小野寺は、うなずいた。
「はい」
「選挙中に話していた、国のお金の使い方を見えるようにする仕組みですね」
「そうです」
小野寺は、資料を開いた。
「政府が公開している予算や決算、行政事業の情報は、すでに存在します」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
「しかし、一般の人が必要な情報を探し、比較するには、一定の知識と手間が必要です」
小野寺は続けた。
「そこで、既存の公開情報を整理し、誰でも検索・比較できる仕組みを提案します」
真琴が、画面に試作イメージを表示した。
『JAPAN LEDGER(仮称)』
黒崎は、その文字を見つめた。
「……ジャパン・レジャー?」
小野寺は、うなずいた。
「国の収支を、国民が確認できる台帳という意味です」
真琴が続けた。
「予算額だけではなく、事業目的、実績、評価、過年度との比較まで、できる限り一つの画面で確認できる構想です」
黒崎は、少し考えた。
「……いいですね」
しかし、小野寺は、すぐに言った。
「ただし、問題があります」
黒崎は、顔を上げた。
「何でしょう?」
「政府が保有する情報のすべてを、私たちが自由に取得できるわけではありません」
「……そうですよね」
「公開済みの資料でも、形式が統一されていないものがあります。情報の更新時期も違います」
黒崎は、うなずいた。
「つまり、最初から全部はできない」
「はい」
小野寺は、静かに答えた。
「だから、まずは対象を絞るべきです」
黒崎は、資料を見つめた。
「……分かりました」
そして、はっきりと言った。
「最初の成果として、国民が使えるものを一つ作りましょう」
* * *
2035年7月23日、午後1時16分。
東京都千代田区、国会議事堂。
黒崎は、議場の入口で足を止めた。
赤い絨毯。
高い天井。
歴史を感じさせる建物。
テレビで何度も見た場所だった。
しかし、今は違う。
自分が、ここで働く。
「……すごいな」
黒崎は、小さくつぶやいた。
その時、後ろから声がした。
「黒崎さん」
振り返ると、一人の男性が立っていた。
「……鷹宮さん?」
鷹宮修一だった。
以前、黒崎に百万円の支援を申し出た東京都議会議員。
黒崎は、驚いた。
「どうして、こちらに?」
鷹宮は、少し笑った。
「今日は、党の関係者との打ち合わせがありましてね」
「そうでしたか」
鷹宮は、黒崎を見た。
「まずは、当選おめでとうございます」
黒崎は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
鷹宮は、静かに続けた。
「まさか、本当に勝つとは思いませんでした」
黒崎は苦笑した。
「私も、最後まで分かりませんでした」
「でしょうね」
鷹宮は、少し笑った。
そして、表情を変えた。
「黒崎さん。一つ、忠告してもいいですか?」
「はい」
「国会では、正しいことを言うだけでは、何も変わりません」
黒崎は、静かに聞いていた。
「政策を実現するには、仲間が必要です。議席が必要です。そして、時には妥協も必要になる」
黒崎は、うなずいた。
「分かっています」
鷹宮は、少し意外そうな顔をした。
「……分かっている?」
「はい」
黒崎は、まっすぐに答えた。
「だから、仲間を増やそうと思っています」
鷹宮は、しばらく黒崎を見つめた。
そして、ゆっくりと笑った。
「……なるほど」
黒崎は続けた。
「ただし、政策を発表する自由まで手放すつもりはありません」
鷹宮は、小さく笑った。
「相変わらずですね」
「すみません」
「謝る必要はありません」
鷹宮は、黒崎の肩を軽くたたいた。
「では、頑張ってください」
そして、歩き去ろうとした。
しかし。
数歩進んだところで、振り返った。
「……そうだ」
黒崎は、顔を上げた。
「はい」
「近いうちに、あなたへ会いに来る議員がいるかもしれません」
黒崎は、首をかしげた。
「……誰でしょう?」
鷹宮は、意味ありげに笑った。
「それは、会ってからのお楽しみです」
そう言って、去っていった。
黒崎は、しばらくその背中を見つめていた。
* * *
2035年7月24日、午後4時38分。
東京都千代田区、衆議院議員会館。
「黒崎さん。お客様です」
美月が、部屋の入口から声をかけた。
黒崎は、資料から顔を上げた。
「どなたですか?」
「……榊田修平さんです」
黒崎は、驚いた。
「榊田さん?」
以前、政治活動を始めたばかりの頃に出会った政策研究者。
榊田修平は、静かに部屋へ入ってきた。
「お久しぶりです」
黒崎は、立ち上がった。
「お久しぶりです!」
榊田は、軽く頭を下げた。
「当選、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
二人は、応接用のソファに座った。
榊田は、部屋を見渡した。
「……立派な部屋ですね」
黒崎は、少し苦笑した。
「私も、まだ慣れません」
榊田は、小さく笑った。
そして、すぐに本題に入った。
「黒崎さん。今日は、お願いがあって来ました」
黒崎は、顔を上げた。
「何でしょう?」
榊田は、鞄から一枚の資料を取り出した。
「あなたの国民会計の会に、参加したいと考えています」
黒崎は、驚いた。
「……本当ですか?」
「はい」
榊田は、静かに続けた。
「ただし、条件があります」
黒崎は、少し身構えた。
「……条件?」
榊田は、うなずいた。
「私の政策提案に対して、あなたが納得できない場合は、遠慮なく反対してください」
黒崎は、目を丸くした。
「……それが条件ですか?」
「はい」
榊田は、少し笑った。
「私は、あなたに賛成するためだけに参加するつもりはありません」
黒崎は、しばらく黙っていた。
そして、笑った。
「……むしろ、ありがたいです」
榊田は、うなずいた。
「そう言ってもらえると思っていました」
黒崎は、資料を受け取った。
そこには、榊田が考えた行政改革の提案がまとめられていた。
「……すごいですね」
黒崎は、ページをめくった。
行政事業の評価方法。
予算情報の標準化。
政策効果の測定。
国民向け情報公開の仕組み。
小野寺が提案した構想と、重なる部分が多かった。
黒崎は、顔を上げた。
「榊田さん」
「はい」
「ちょうど、同じようなことを考えていました」
榊田は、少し驚いた。
「……そうですか?」
黒崎は、机の上に置かれた資料を差し出した。
『JAPAN LEDGER(仮称)』
榊田は、資料を見つめた。
そして、ゆっくりと笑った。
「……面白い」
黒崎は、うなずいた。
「ぜひ、一緒に考えていただけませんか?」
榊田は、静かに答えた。
「もちろんです」
* * *
2035年7月25日、午後7時12分。
東京都千代田区、衆議院議員会館。
「……議員が七人?」
高瀬が、驚いた声を上げた。
黒崎は、うなずいた。
「まずは、そこを目指したい」
高瀬は、腕を組んだ。
「でも、今は一人だろ?」
「そうだな」
「あと六人、どうやって集めるんだ?」
黒崎は、少し考えた。
「……政策に賛同してくれる人を探す」
高瀬は、ため息をついた。
「簡単に言うなよ……」
真琴が、資料を開いた。
「ただ、可能性はあります」
黒崎は、顔を上げた。
「何でしょう?」
真琴は、画面を見せた。
そこには、今回の選挙で当選した新人議員の一覧が表示されていた。
「今回の総選挙では、無所属や小規模政党から当選した議員もいます」
小野寺がうなずいた。
「政策ごとに協力関係を築くことは、可能かもしれません」
黒崎は、資料を見つめた。
「……なるほど」
その時。
美月が、部屋に入ってきた。
「黒崎さん。新しい面会の申し込みが届いています」
黒崎は、顔を上げた。
「どなたですか?」
美月は、少し驚いたような表情だった。
「……愛知県選出の新人議員、水野さんです」
黒崎は、首をかしげた。
「水野さん?」
美月は、うなずいた。
「はい。今回、無所属で初当選された方です」
真琴が、すぐに画面を確認した。
「……水野彩香さん。三十五歳。元地方自治体職員」
高瀬が、身を乗り出した。
「何の用だろう?」
美月は、メールの内容を読み上げた。
「『黒崎議員が提案されている行政支出の透明化について、意見交換の機会をいただきたい』とのことです」
黒崎は、少し考えた。
そして、静かに言った。
「……ぜひ、お会いしましょう」
真琴が、うなずいた。
「分かりました」
黒崎は、窓の外を見た。
国会議員になって、まだ数日。
しかし、すでに新しい出会いが始まっていた。
一人では、できないことがある。
だからこそ、仲間が必要だった。
黒崎は、静かに思った。
――七人。
まずは、そこからだ。
その時。
小野寺が、机の上の資料を指さした。
「黒崎さん」
「はい」
「その前に、一つ確認していただきたいものがあります」
黒崎は、資料を受け取った。
そこには、政府が公表した新たな予算方針に関する記事があった。
見出しには、こう書かれていた。
『政府、社会保障財源の確保へ追加負担策を検討』
黒崎は、目を細めた。
「……追加負担?」
小野寺は、静かにうなずいた。
「はい。まだ検討段階ですが、国民負担の見直しが議論されています」
黒崎は、記事を読み進めた。
そして、ゆっくりと資料を置いた。
「……最初の仕事が決まりましたね」
小野寺が、顔を上げた。
「何でしょう?」
黒崎は、まっすぐに答えた。
「国民に負担をお願いする前に、何を検証したのか」
そして、静かに続けた。
「政府に、説明してもらいましょう」
窓の外では、国会議事堂が夕日に照らされていた。
無名の会社員だった男は、今や国会議員となった。
だが、まだ一議席。
法案を成立させる力も、政府を動かす多数派も持っていない。
それでも。
黒崎玲司の、国会での最初の戦いが始まろうとしていた。
第2章「日本を変える男」が始まりました。
選挙で支持を集めることと、国会で政策を実現することには、大きな違いがあります。
一人の新人議員に何ができるのか。そして、信念を曲げずに仲間を増やすことはできるのか。
次回から、黒崎の国会での活動が本格的に動き出します。




