第2話 働いても残らない金
毎月、当たり前のように振り込まれる給料。
けれど、その金額の裏側にある数字を、私たちはどれほど理解しているのでしょうか。
一枚の給与明細から始まった小さな疑問が、少しずつ大きな行動へと変わっていきます。
2035年4月26日、午前7時18分。
東京都内、黒崎の自宅。
「……三百万円?」
黒崎玲司は、スマートフォンの画面を二度見した。
衆議院小選挙区の供託金。
三百万円。
昨夜、政治家になる方法を調べ始めた黒崎が、最初にぶつかった現実だった。
「立候補するだけで、こんなに必要なのか」
もちろん、供託金は一定の得票を得れば返還される。
だが、得票が基準に届かなければ没収される。
しかも選挙に必要な金は、それだけではない。
事務所。
印刷物。
交通費。
選挙運動を支える人員。
法律で定められた範囲内とはいえ、活動には金がかかる。
黒崎は銀行アプリを開いた。
普通預金、八十七万円。
定期預金、百二十万円。
合計、二百七万円。
「……足りないな」
自分の全財産を投じても、供託金に届かない。
画面を閉じかけたところで、通知が表示された。
『政府、社会保障制度の持続可能性について議論』
また、その言葉だった。
持続可能性。
黒崎は昨日から、この言葉が気になっていた。
国の制度を維持することは大切だ。
しかし、制度を支える国民の生活が維持できなければ、何のための制度なのだろう。
「政治家になる前に、調べることがあるな」
黒崎はノートを開いた。
昨日書いた二行。
『国民が払った金を、国民が理解できる形で見せる』
『国民の手取りを増やす政治家になる』
その下に、新しい言葉を書き加えた。
『まず、現実を知る』
* * *
2035年4月26日、午後0時16分。
東京都港区、オフィスビルの社員食堂。
「また値上げかよ」
向かいの席で、高瀬直樹がため息をついた。
黒崎と同じ会社で働く、三十二歳のシステムエンジニアだ。
高瀬が見つめていたのは、食堂のメニュー表だった。
日替わり定食。
昨年までは六百二十円。
今年から六百八十円。
そして来月から、七百二十円になるという。
「去年から百円も上がるのか」
「給料は月五千円上がったんだけどな」
高瀬は苦笑した。
「定食代だけじゃない。電気代も、米も、家賃も上がってる。昇給した実感なんか全然ないよ」
黒崎は箸を置いた。
「直樹、毎月いくら引かれてるか知ってるか?」
「何が?」
「税金と社会保険料」
「十万円くらいじゃないか?」
「明細、ちゃんと見てる?」
「手取りしか見てないな」
高瀬は笑った。
黒崎はスマートフォンを取り出し、昨夜作った簡単な表を見せた。
額面給与。
健康保険料。
厚生年金保険料。
所得税。
住民税。
そして、手取り額。
「これ、俺の明細を基にした数字なんだけどさ」
「……結構引かれてるな」
「だろ?」
「でも、税金ってそんなもんじゃないの?」
黒崎は、その言葉に引っかかった。
そんなもん。
仕方がない。
みんな払っている。
昨日までの自分も、同じことを思っていた。
「じゃあ、その金が何に使われてるか知ってる?」
「年金とか、医療費とか、道路とか?」
「そう。でも、具体的にいくら使って、どんな結果が出たかは?」
高瀬は首をかしげた。
「知らないな」
「俺も知らなかった」
黒崎は画面を切り替えた。
昨夜から調べていた国の予算資料だ。
「調べれば公開されてる。でも、普通に働いてる人が簡単に理解できるようにはなってない」
「まあ、役所の資料って難しいよな」
「俺たちは毎月払ってるのに、使い道を理解するには専門知識が必要なんだ」
高瀬はしばらく画面を眺めた。
そして、何気なく言った。
「だったら、お前が分かりやすくまとめてくれよ」
黒崎は顔を上げた。
「……俺が?」
「そう。お前、昔から数字を整理するの得意だろ」
高瀬は定食の最後の一口を食べた。
「政治家の演説より、俺は自分の給料がどうなるのか知りたいんだよ」
その言葉が、黒崎の胸に残った。
政治を変える。
日本を変える。
そんな大きな言葉を、昨夜はノートに書いた。
だが、目の前の同僚が求めていたのは、もっと単純なことだった。
自分の給料が、なぜ増えないのか。
そして、どうすれば増えるのか。
黒崎はスマートフォンをしまった。
「分かった」
「何が?」
「作ってみるよ。誰でも分かるやつ」
高瀬は笑った。
「期待してるぞ、先生」
「先生じゃない」
黒崎も笑った。
「ただの会社員だよ」
* * *
2035年4月27日、午後3時42分。
東京都内、コワーキングスペース。
「これは……違うな」
黒崎は、パソコンの画面に表示されたグラフを消した。
休日を使って、国の予算と家計負担を説明する資料を作っていた。
最初は簡単だと思っていた。
国の予算を調べる。
税金の内訳を整理する。
無駄な支出を見つける。
そして、減らせる金額を示す。
しかし、実際に作業を始めると、想像以上に難しかった。
国の予算には、一般会計と特別会計がある。
税金だけでなく、保険料や国債など、財源の種類も異なる。
ある事業の予算が大きいからといって、すべてが無駄とは限らない。
前年度より支出が増えていても、利用者が増えた結果かもしれない。
黒崎は、ある行政事業の資料を見つめた。
前年度予算、約二十八億円。
当年度予算、約三十四億円。
六億円の増加。
「これだけ見たら、無駄遣いに見えるよな」
だが、説明資料を読み進めると、対象地域が拡大していた。
利用者も増えている。
単純に六億円を削ればいいという話ではなかった。
黒崎は自分のメモを消した。
『予算増加=無駄』
その横に、新しく書く。
『増えた理由と成果を確認する』
「……危ないところだった」
数字は嘘をつかない。
だが、数字の見せ方で、人を誤解させることはできる。
黒崎は、それを自分自身でやりかけていた。
政治家を批判するために、都合のいい数字だけを選ぶ。
そんなことをすれば、自分も同じになる。
「だったら、全部見せるしかないな」
黒崎は新しいファイルを作った。
ファイル名は、まだ決めていなかった。
最初のページに、大きく一文を入力する。
『あなたが払ったお金は、どこへ行くのか』
続いて、もう一文。
『分からないものは、分からないと書く』
それが、後に黒崎の政治活動を支える考え方になる。
* * *
2035年4月28日、午後6時27分。
東京都新宿区、駅前広場。
「すみません、少しだけお話を聞かせてもらえませんか?」
黒崎は、駅から出てきた男性に声をかけた。
男性は足を止めずに通り過ぎた。
「……ですよね」
黒崎は小さくつぶやいた。
手には、昨日作った資料が十枚。
政治団体もない。
選挙に立候補する予定も、まだ決まっていない。
ただ、働く人が何に不満を感じているのか、直接聞いてみたかった。
「すみません。税金や社会保険料について――」
「結構です」
「少しだけ――」
「急いでるんで」
十分。
二十分。
三十分。
誰も立ち止まらない。
黒崎は時計を見た。
午後七時を過ぎていた。
「……そりゃそうか」
知らない男が、駅前で税金の話をしている。
怪しまれて当然だった。
帰ろうとした、その時だった。
「それ、何の資料ですか?」
振り返ると、二十代後半くらいの女性が立っていた。
仕事帰りなのだろう。
肩には大きなバッグを掛けている。
「税金の使い道を、分かりやすくまとめた資料です」
「政治家の方ですか?」
「いえ。普通の会社員です」
女性は少し驚いた表情を浮かべた。
「会社員なのに、どうして?」
黒崎は一瞬、答えに迷った。
立派な理由を言おうと思えば、いくらでも言える。
日本の未来のため。
次世代のため。
社会を変えるため。
だが、口から出たのは違う言葉だった。
「……給料が、思ったより残らなくて」
女性が目を丸くした。
そして、吹き出した。
「それ、私もです」
黒崎は思わず笑った。
「ですよね」
「昇給したんですけど、全然余裕がなくて。最近、スーパーに行くのも嫌なんです」
女性は資料を受け取った。
「これ、持って帰ってもいいですか?」
「もちろんです」
「ありがとうございます」
女性は数歩進んでから、振り返った。
「こういうの、もっと広めたらいいと思いますよ」
黒崎は何も言えなかった。
女性が人混みに消えてから、手元を見た。
残り九枚。
たった一枚。
一時間近く立って、配れた資料は一枚だけだった。
それでも、黒崎は不思議と嬉しかった。
自分が考えていることを、誰かが必要としてくれた。
たった一人でも。
「……もう少し、やってみるか」
黒崎は、残りの資料を持ち直した。
その時、スマートフォンが震えた。
高瀬からのメッセージだった。
『この前の資料、同僚に見せたら結構評判よかったぞ』
続けて、もう一通。
『ところで、お前さ。本当に政治家になるつもりなの?』
黒崎は画面を見つめた。
昨夜までなら、冗談だと答えただろう。
今朝までなら、まだ考え中だと答えたかもしれない。
だが、今は違った。
黒崎は短く返信した。
『なるつもりだ』
送信。
数秒後、すぐに返信が来た。
『マジかよ』
黒崎は笑った。
そして、もう一通送った。
『ただし、最初に何をすればいいのか分からない』
今度は、少し間が空いた。
やがて高瀬から、電話がかかってきた。
「玲司」
「何だ?」
「お前、本気ならさ」
高瀬の声は、いつになく真剣だった。
「一人でやるなよ」
黒崎は黙った。
「政治なんて、俺にはよく分からない。でも、資料を作るくらいなら手伝える」
「……直樹」
「その代わり、変なこと始めたら止めるからな」
黒崎は笑った。
「頼むよ」
電話を切ると、黒崎は駅前を見渡した。
数え切れないほどの人々が行き交っている。
誰も自分の名前を知らない。
誰も、自分が政治家になろうとしていることを知らない。
それでも、昨日までとは違っていた。
資料を受け取ってくれた一人。
協力すると言ってくれた一人。
たった二人。
しかし、ゼロではなくなった。
黒崎は、手元の資料を見つめた。
そして、駅から出てきた次の人に声をかけた。
「すみません。少しだけ、お話を聞かせてもらえませんか?」
今度は、声が震えなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
政治というと遠い世界の話に感じるかもしれませんが、その入り口には、給料や買い物、日々の生活があります。
本作では、そんな身近な疑問から始まる主人公の挑戦を描いていきます。
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