第19話 選挙前夜、三万人が動いた
選挙戦は、最後まで何が起こるか分からない。
数字が動き始めた時、人は希望を抱く。
しかし、勝利が近づいたように見える時こそ、その人間の本当の姿が試される。
2035年7月12日、午前9時18分。
東京都杉並区、選挙事務所。
「十八%!?」
高瀬直樹の声が、事務所中に響いた。
藤原真琴は、ノートパソコンの画面を確認した。
「落ち着いてください。速報値です」
「でも、四%だったんだぞ!」
「分かっています」
真琴は、画面を黒崎に向けた。
『東京第八区・選挙情勢調査』
三崎健吾――37%
神谷蒼士――35%
黒崎玲司――18%
未定・その他――10%
黒崎玲司は、しばらく画面を見つめた。
「……十八%」
数日前まで、四%だった。
それが今、十八%。
しかし、トップとの差は十九ポイントもある。
長谷川慎吾が、資料を机に置いた。
「喜ぶのは、まだ早いです」
高瀬が振り返った。
「分かってますよ!」
「本当に?」
長谷川は、全員を見渡した。
「この数字は、投票結果ではありません。調査対象も限られている。実際の得票がどうなるかは、まだ分からない」
小野寺航がうなずいた。
「数字が急激に変化した時ほど、慎重に見なければなりませんね」
黒崎は、静かに答えた。
「はい」
長谷川は続けた。
「それと、もう一つ」
「何でしょう?」
「今日から、あなたへの攻撃が増えます」
黒崎は、顔を上げた。
「……攻撃?」
「十八%まで伸びた候補者を、他の陣営が放っておくと思いますか?」
黒崎は黙った。
長谷川は、はっきりと言った。
「ここからが、本当の選挙です」
* * *
2035年7月12日、午後1時26分。
東京都杉並区、駅前広場。
「黒崎さん!」
街頭演説を終えた黒崎に、一人の男性が近づいてきた。
五十代くらいの、作業着姿の男性だった。
「昨日の討論会、見たよ」
黒崎は、頭を下げた。
「ありがとうございます」
男性は、少し険しい顔をしていた。
「でも、あんたに一つ言いたいことがある」
「はい」
「税金の使い道を公開するって、そんなことして何が変わるんだ?」
黒崎は、少し考えた。
「公開するだけでは、生活は変わらないと思います」
男性は、眉を上げた。
「……じゃあ、意味ないじゃないか」
黒崎は、首を振った。
「いいえ。公開した情報をもとに、必要な支出と見直すべき支出を判断できるようにしたいんです」
男性は、腕を組んだ。
「俺は、もう六十近い。今さら政治が変わるって言われても、信じられないんだよ」
黒崎は、静かに聞いていた。
「何十年も働いてきた。給料からいろいろ引かれて、それでも真面目にやってきた」
男性は、少しだけ声を落とした。
「なのに、生活は楽にならない」
黒崎は、うなずいた。
「……そうですよね」
男性は続けた。
「だから、あんたに聞きたい」
「はい」
「俺たちは、いつまで我慢すればいいんだ?」
黒崎は、すぐには答えられなかった。
その質問に、簡単な答えはなかった。
しかし。
「……我慢をお願いするなら、政治家も結果を示さなければいけないと思います」
男性は、黒崎を見た。
黒崎は続けた。
「私は、すぐに生活を楽にできるとは約束できません」
「……そうか」
「でも、何を変えようとしているのか、どこまで進んだのか、結果が出なければなぜなのか。それを隠さず説明することは約束できます」
男性は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「……あんた、政治家に向いてないかもな」
黒崎は苦笑した。
「そうかもしれません」
男性は、小さく笑った。
「普通は、もっと景気のいいこと言うもんだろ」
「……そうですね」
男性は、黒崎の肩を軽くたたいた。
「でも、嫌いじゃないよ」
そう言って、歩き去った。
黒崎は、深く頭を下げた。
その様子を見ていた桐生美月が、近づいてきた。
「黒崎さん」
「はい」
「今日、何人目でしょうね」
「何がですか?」
「『嫌いじゃない』って言ってくれた人です」
黒崎は、少し笑った。
「……数えてないですね」
美月も笑った。
「そうですね」
* * *
2035年7月13日、午前7時42分。
東京都杉並区、選挙事務所。
「……これ、見てください」
真琴の声が、いつもより低かった。
黒崎は、画面をのぞき込んだ。
そこには、匿名の投稿が表示されていた。
『黒崎玲司は、政治活動のために会社を辞めたと言っているが、実際は勤務態度に問題があったのでは?』
続けて、別の投稿。
『政治資金を私的に使っているという話もある』
高瀬が、机をたたいた。
「何だよ、これ!」
真琴は、静かに言った。
「根拠が示されていない投稿です」
黒崎は、画面を見つめた。
「……誰が書いたんでしょう」
「分かりません」
真琴は続けた。
「ただ、拡散されています」
高瀬が、怒った声で言った。
「反論しよう!」
長谷川が、すぐに止めた。
「感情的に反応しないでください」
「でも!」
「事実を整理して、必要な説明を出します」
美月が、資料を開いた。
「会社の退職については、本人の意思で合意したものです。政治資金についても、記録があります」
小野寺がうなずいた。
「確認できる事実だけを示しましょう」
黒崎は、少し考えた。
そして、静かに言った。
「……お願いします」
真琴が顔を上げた。
「黒崎さん?」
「説明を出しましょう。ただし、投稿した人を探して攻撃することはしないでください」
高瀬が、驚いた。
「何でだよ!」
黒崎は、まっすぐに答えた。
「疑問を持つこと自体は、悪いことじゃないから」
高瀬は、言葉を失った。
黒崎は続けた。
「もちろん、事実と違うことは訂正します。でも、批判した人を敵扱いしたくありません」
真琴は、しばらく黒崎を見つめた。
そして、うなずいた。
「……分かりました」
その日の午前中。
国民会計の会の公式サイトに、説明が掲載された。
『黒崎玲司の退職および政治活動資金について』
退職の経緯。
本人の資金と政治団体の会計の区分。
公開可能な範囲での収支情報。
個人情報を除いた資料も添えられた。
投稿は、その後も残った。
しかし、少なくとも黒崎たちは、説明から逃げなかった。
* * *
2035年7月13日、午後8時16分。
東京都杉並区、選挙事務所。
「……三万人?」
黒崎は、思わず聞き返した。
高瀬が、画面を見せた。
「そう。討論会の動画をきっかけに、黒崎の活動を紹介する投稿をしたアカウントが、確認できただけで三万以上あるんだ」
真琴が、すぐに補足した。
「ただし、同じ人が複数投稿している可能性もあります。三万人の支持者がいるという意味ではありません」
黒崎は、うなずいた。
「分かっています」
高瀬は、興奮した様子で続けた。
「でも、すごいことだろ?」
黒崎は、画面を見つめた。
そこには、さまざまな投稿が並んでいた。
『東京第八区の候補者、政策を比べてみた』
『黒崎玲司って誰?』
『政治資金の説明を出しているのは評価できる』
『まだ政策が弱いと思う』
『三崎、神谷、黒崎。今回は迷う』
黒崎は、静かに言った。
「……ありがたいですね」
真琴は、うなずいた。
「はい。ただ、重要なのはここからです」
「何でしょう?」
「この人たちは、黒崎さんの支持者とは限りません」
黒崎は、顔を上げた。
真琴は続けた。
「でも、政治について話しています」
黒崎は、少し考えた。
「……それは、嬉しいです」
真琴は、わずかに笑った。
「黒崎さんらしいですね」
その時。
事務所の電話が鳴った。
美月が受話器を取った。
「はい。黒崎玲司選挙事務所です」
数秒後。
美月の表情が変わった。
「……承知しました。確認いたします」
電話を切る。
黒崎が尋ねた。
「どうしました?」
美月は、静かに答えた。
「明日の街頭演説に、神谷さんが来るそうです」
会議室が静かになった。
高瀬が、驚いた。
「……神谷蒼士が?」
真琴は、すぐに尋ねた。
「何のために?」
美月は、首を振った。
「詳細は、まだ分かりません」
長谷川が、腕を組んだ。
「……何かありますね」
黒崎は、しばらく考えた。
そして、静かに言った。
「……会いましょう」
高瀬が振り返った。
「大丈夫か?」
黒崎は、少し笑った。
「話をするだけだよ」
長谷川は、静かに言った。
「選挙戦の最終盤です。相手も、ただ話をしに来るわけではないでしょう」
黒崎は、うなずいた。
「分かっています」
* * *
2035年7月14日、午後3時28分。
東京都杉並区、駅前広場。
「黒崎さん」
演説を終えた黒崎の前に、神谷蒼士が現れた。
黒崎は、少し驚いた。
「……神谷さん」
神谷は、軽く頭を下げた。
「お疲れさまです」
「ありがとうございます」
神谷は、周囲を見渡した。
「ずいぶん、人が集まるようになりましたね」
黒崎は、少し笑った。
「ありがたいことです」
神谷は、静かにうなずいた。
「……正直、驚いています」
「何がですか?」
「あなたが、ここまで支持を伸ばすとは思っていませんでした」
黒崎は、黙って聞いていた。
神谷は続けた。
「最初に会った時、私はあなたに出馬を見送ってほしいと言いました」
「はい」
「今でも、票が分散することへの懸念はあります」
黒崎は、うなずいた。
「分かっています」
神谷は、少し考えた。
そして、まっすぐに黒崎を見た。
「ですが、あなたが選挙に出た意味も、理解できるようになりました」
黒崎は、驚いた。
「……そうですか?」
神谷は、うなずいた。
「あなたがいなければ、今回の選挙で行政支出の透明化がここまで注目されることはなかったかもしれません」
黒崎は、静かに聞いていた。
「それは、認めます」
黒崎は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
神谷は、少し笑った。
「ただし、私は負けるつもりはありません」
黒崎も笑った。
「私もです」
二人は、握手を交わした。
その様子を、周囲の人々が撮影していた。
神谷は、黒崎の手を離すと、静かに言った。
「選挙が終わったら、一度ゆっくり話しましょう」
黒崎は、うなずいた。
「ぜひ」
神谷は、軽く頭を下げて立ち去った。
その背中を見つめながら、高瀬がつぶやいた。
「……敵なのか、味方なのか分からないな」
黒崎は、少し考えた。
「今は、選挙の相手だよ」
「今は?」
黒崎は、静かに答えた。
「選挙が終わったら、また違う関係になるかもしれない」
高瀬は、少し笑った。
「……お前、変わってるな」
黒崎も笑った。
「よく言われる」
* * *
2035年7月15日、午後7時56分。
東京都杉並区、駅前広場。
選挙戦、最後の街頭演説。
駅前には、これまでで最も多くの人が集まっていた。
仕事帰りの会社員。
買い物帰りの家族。
学生。
高齢者。
そして、黒崎の活動を支えてきた人々。
黒崎は、マイクを握った。
「皆さん!」
声が、夜の駅前に響いた。
「十二日間、本当にありがとうございました!」
拍手が起こった。
黒崎は、ゆっくりと聴衆を見渡した。
「私は、政治家としての実績がありません!」
会場が静かになった。
「国会で法律を作ったことも、予算を審議したこともありません!」
黒崎は続けた。
「だから、経験豊富な候補者と比べれば、足りないものがたくさんあります!」
少し間を置いた。
「それでも、私は立候補しました!」
黒崎は、声を強めた。
「国民に負担を求める政治が、必要な説明を十分に果たしているのか。その疑問を、見過ごしたくなかったからです!」
拍手が起こった。
「私は、明日の選挙で勝ちたい!」
黒崎は、まっすぐに前を見た。
「ですが、私が当選したからといって、日本が明日から変わるわけではありません!」
会場が静かになった。
「政治を変えるには、時間がかかります。議論も必要です。時には、間違えることもあるでしょう!」
黒崎は、マイクを握りしめた。
「だからこそ、皆さんにお願いがあります!」
一度、息を吸った。
「明日、投票に行ってください!」
大きな拍手が起こった。
「私に投票しなくても構いません!」
黒崎は続けた。
「三崎さんでも、神谷さんでもいい。政策を比べて、自分で選んでください!」
拍手が、さらに大きくなった。
「そして、選挙が終わっても、政治家を見続けてください!」
黒崎は、ゆっくりと頭を下げた。
「政治は、投票したら終わりではありません!」
そして、最後に言った。
「国のお金は、政治家のお金ではない!」
声が、駅前に響いた。
「皆さんが働いて、納めたお金です!」
黒崎は、まっすぐに前を見た。
「その使い道を、皆さんが確かめられる国にしたい!」
一瞬の静寂。
そして。
大きな拍手が起こった。
黒崎は、深く頭を下げた。
「十二日間、本当にありがとうございました!」
* * *
2035年7月15日、午後11時18分。
東京都杉並区、選挙事務所。
「……終わったな」
高瀬が、椅子にもたれかかった。
黒崎は、静かにうなずいた。
「……ああ」
選挙運動の終了時刻までに、予定していた活動はすべて終えた。
事務所では、スタッフが片付けを進めていた。
長谷川が、資料を閉じた。
「皆さん、お疲れさまでした」
小野寺が、静かにうなずいた。
「明日は、結果を待つだけですね」
真琴は、ノートパソコンを閉じた。
「投票日には、選挙運動に当たる発信をしないよう、関係者への確認も済ませています」
美月が、予定表を見た。
『7月16日 投開票』
黒崎は、その文字を見つめた。
数か月前。
自分は、ただの会社員だった。
給与明細を見て、ため息をついていた。
それが今。
国政選挙の候補者として、投票日を迎えようとしている。
黒崎は、仲間たちを見た。
「……皆さん」
高瀬が笑った。
「また、お礼か?」
黒崎も笑った。
「そうだよ」
そして、深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
誰も、すぐには言葉を返さなかった。
やがて、美月が静かに言った。
「黒崎さん」
「はい」
「まだ、終わっていませんよ」
黒崎は、顔を上げた。
美月は、少しだけ微笑んだ。
「明日があります」
黒崎は、静かにうなずいた。
「……そうですね」
その時。
長谷川のスマートフォンが震えた。
画面を確認した彼の表情が変わった。
「……黒崎さん」
「はい」
「最後の情勢調査が、関係者向けに届きました」
会議室が静かになった。
高瀬が、身を乗り出した。
「……何%ですか?」
長谷川は、しばらく画面を見つめた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「三崎候補、三十四%」
高瀬が、息を止めた。
「神谷候補、三十二%」
黒崎は、黙って聞いていた。
長谷川は、顔を上げた。
「……黒崎候補」
一瞬、間を置いた。
「三十%です」
会議室が静まり返った。
高瀬が、思わず叫んだ。
「……三十%!?」
長谷川は、うなずいた。
「未定・その他が四%。上位三人の差は、調査の誤差を考えても、予断を許さない状況です」
黒崎は、言葉を失った。
四%。
十八%。
そして、三十%。
わずか数日で、ここまで来た。
しかし。
まだ、勝ったわけではない。
黒崎は、静かに息を吐いた。
「……明日ですね」
長谷川は、うなずいた。
「ええ」
そして、はっきりと言った。
「明日、すべてが決まります」
黒崎は、窓の外を見た。
東京の夜。
街は、いつもどおりに動いていた。
しかし、明日。
その街の人々が、一枚の投票用紙に名前を書く。
三崎健吾。
神谷蒼士。
黒崎玲司。
誰が選ばれるのか。
まだ、誰にも分からない。
黒崎は、静かに目を閉じた。
そして、心の中でつぶやいた。
――どうか、皆が自分の意思で選んでくれますように。
選挙まで、あと一日。
無名の会社員だった男の、最初の戦いが終わろうとしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
選挙は、候補者の努力だけで結果が決まるものではありません。
どれだけ言葉を届けても、最後に判断するのは有権者です。
次回、第20話で第1章「怒れる納税者」は完結します。
黒崎玲司の最初の選挙が、いよいよ決着します。




