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支持率0%の男が、日本を作り直すまで  作者: 霜月 七日
第1章 怒れる納税者

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第17話 たった一票を奪いに行け

選挙は、演説の上手い人間が勝つとは限らない。

組織、知名度、実績。新人にはないものを、現職議員はすべて持っている。

それでも、投票用紙に書かれる名前を決めるのは、有権者自身だ。

2035年7月4日、午前8時31分。

東京都杉並区、選挙事務所。

「黒崎さん、出発します!」

桐生美月(きりゅうみづき)の声に、黒崎玲司(くろさきれいじ)は立ち上がった。

白いシャツ。

紺色のネクタイ。

胸元には、まだ何も付いていない。

「緊張してる?」

高瀬直樹(たかせなおき)が笑いながら尋ねた。

「昨日から、ずっと」

「顔、硬いぞ」

「分かってる」

黒崎は苦笑した。

事務所の壁には、一枚の紙が貼られていた。

『7月16日 投開票』

十二日後。

自分が政治家になれるかどうかが決まる。

「黒崎さん」

長谷川慎吾(はせがわしんご)が、書類の入った封筒を差し出した。

「届出書類の最終確認は済んでいます。供託の証明書類も入っています」

黒崎は封筒を受け取った。

「ありがとうございます」

「一つだけ、言っておきます」

「はい」

長谷川は、黒崎の目を見た。

「今日から、あなたの発言はすべて候補者として受け取られます」

黒崎はうなずいた。

「分かっています」

「失言は一瞬です。しかし、取り消すには何倍もの時間がかかる」

「はい」

「だからといって、何も言わない候補者にはならないでください」

黒崎は顔を上げた。

長谷川は、わずかに笑った。

「あなたの武器は、正直に答えることです」

黒崎は、深く頭を下げた。

「行ってきます」

* * *

2035年7月4日、午前10時18分。

東京都内、選挙管理委員会の届出会場。

黒崎は、係員から書類を受け取った。

「届出を受理しました」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。

衆議院議員総選挙。

東京第八区。

無所属。

黒崎玲司。

正式に、候補者となった。

会場の外に出ると、美月が待っていた。

「お疲れさまでした」

「……終わりました」

「いいえ」

美月は、少し笑った。

「始まったんですよ」

黒崎も笑った。

「そうですね」

高瀬から電話が入った。

『玲司! ポスター、準備できてるぞ!』

「ありがとう」

『あと、事務所に人が集まり始めてる!』

「何人くらい?」

『今、三十人くらいかな』

黒崎は驚いた。

三十人。

初めて駅前で演説した日、足を止めてくれた人は数えるほどだった。

それが今、自分の選挙を手伝うために集まっている。

『早く戻ってこいよ!』

「ああ。すぐ戻る」

電話を切ると、美月が言った。

「黒崎さん」

「はい」

「今日から、呼び方を変えた方がいいでしょうか」

「呼び方?」

「候補者ですから、黒崎先生、とか」

黒崎は、思わず顔をしかめた。

「やめてください」

美月が笑った。

「冗談です」

「本当に、やめてくださいね」

「分かりました。黒崎さん」

その何気ないやり取りに、黒崎は少しだけ救われた気がした。

* * *

2035年7月4日、午前11時46分。

東京都杉並区、駅前広場。

「皆様、おはようございます!」

黒崎の声が響いた。

駅前には、約八十人が集まっていた。

支持者。

通行人。

報道関係者。

そして、様子を見に来た人々。

黒崎の後ろには、白い選挙カーが停まっている。

車体には、大きく名前が書かれていた。

『黒崎玲司』

その下に、短い言葉。

『働いても、お金が残らない。』

藤原真琴(ふじわらまこと)が考えた言葉だった。

黒崎は、マイクを握り直した。

「私は、昨日まで政治家ではありませんでした!」

通行人が、数人振り返った。

「数か月前までは、普通の会社員でした。毎月、給料をもらい、家賃を払い、生活費を計算していました!」

黒崎は続けた。

「その中で、ずっと疑問に思っていたことがあります!」

少し間を置いた。

「国民に負担を求める前に、国は、自分たちのお金の使い方を十分に説明しているのか!」

前列の男性が、腕を組んだ。

黒崎は、その男性を見た。

「私は、税金をすべてなくせと言っているわけではありません!」

声を強める。

「必要な医療、年金、教育、防災。守るべきものは守らなければなりません!」

会場が静かになった。

「だからこそ、何にいくら使い、どんな成果があったのか。それを国民が確認できる政治にしたい!」

黒崎は、マイクを握りしめた。

「私は、政治家になりたいから立候補したのではありません!」

一瞬、言葉を止めた。

「政治を、国民の手に取り戻したいから立候補しました!」

拍手が起こった。

大きな拍手ではなかった。

しかし、確かに聞こえた。

黒崎は、深く頭を下げた。

「十二日間、よろしくお願いいたします!」

* * *

同日、午後0時22分。

東京都杉並区、別の駅前広場。

「政治には、経験が必要です!」

三崎健吾(みさきけんご)は、大勢の支持者を前に演説していた。

五期にわたり国政を担ってきた現職議員。

周囲には、地方議員や後援会関係者が並んでいる。

「国の予算は、家計簿のように単純なものではありません!」

拍手が起こった。

「社会保障、外交、防衛、経済。複雑な課題に責任を持って向き合うことが、政治家の仕事です!」

三崎は、聴衆を見渡した。

「耳ざわりのよい言葉だけで、国を動かすことはできません!」

再び、大きな拍手。

演説を終えた三崎に、秘書が近づいた。

「先生。黒崎候補の第一声ですが、動画が出ています」

三崎は、スマートフォンを受け取った。

画面には、黒崎が映っていた。

『私は、政治家になりたいから立候補したのではありません!』

三崎は、最後まで映像を見た。

そして、スマートフォンを返した。

「……なるほど」

秘書が尋ねた。

「何か対応しますか?」

三崎は、首を振った。

「必要ない」

「しかし、ネットでは注目されています」

「ネットで注目されることと、選挙に勝つことは違う」

三崎は、遠くの駅を見た。

「選挙は、十二日間の人気投票ではない」

そして、静かに続けた。

「十年以上かけて築いた組織が、最後にものを言う」

* * *

2035年7月6日、午後5時37分。

東京都杉並区、住宅街。

「もう結構です」

玄関先の女性は、そう言って首を振った。

黒崎は、深く頭を下げた。

「お時間をいただき、ありがとうございました」

女性が家に戻る。

黒崎は、ゆっくりと息を吐いた。

その日の活動は、街頭でのあいさつと、あらかじめ案内した公開の政策対話が中心だった。

ところが、会場へ向かう途中、声をかけてくれた住民から厳しい言葉を浴びせられた。

『新人に何ができるの?』

『減税できるかも分からないんでしょう?』

『三崎さんは、昔から地元のために動いているのよ』

反論できない部分もあった。

実績がない。

組織も小さい。

政策の実現には時間がかかる。

それは、事実だった。

「……きついな」

黒崎がつぶやくと、隣を歩く高瀬が笑った。

「そりゃ、そうだろ」

「慰めてくれないのか?」

「事実だし」

黒崎は苦笑した。

高瀬は、少しだけ真面目な顔になった。

「でもさ、玲司」

「何だ?」

「最初は、話すら聞いてもらえなかっただろ」

黒崎は、うなずいた。

「そうだな」

「今は、文句を言ってくれる人がいる」

「……文句か」

「そう。興味がなければ、何も言わずに通り過ぎるよ」

黒崎は、少し考えた。

そして、小さく笑った。

「……そうかもしれないな」

その時、後ろから声がした。

「黒崎さん!」

振り返ると、先ほどの女性が立っていた。

黒崎は驚いた。

「……はい?」

女性は、少し困ったような顔をしていた。

「一つ、聞き忘れたんだけど」

「何でしょう?」

「あなた、当選したら、ここにまた来る?」

黒崎は、少し考えた。

「……はい」

女性は、眉を上げた。

「選挙の時だけじゃなくて?」

黒崎は、まっすぐに答えた。

「はい。落選しても、活動は続けるつもりです」

女性は、しばらく黒崎を見つめた。

「……そう」

そして、小さくうなずいた。

「じゃあ、覚えておくわ」

それだけ言って、家に戻った。

高瀬が、黒崎の肩をたたいた。

「一票、増えたかもな」

黒崎は、首を振った。

「分からないよ」

「そうか?」

「あの人が、誰に投票するかは、あの人が決めることだから」

高瀬は、少し笑った。

「……お前らしいな」

* * *

2035年7月8日、午後8時54分。

東京都杉並区、選挙事務所。

「厳しい数字です」

真琴の言葉に、事務所が静かになった。

スクリーンには、地域メディアが実施した情勢調査の概要が表示されていた。


東京第八区・選挙情勢調査

三崎健吾         43%


神谷蒼士         38%


黒崎玲司         4%


未定・その他       15%


※回答者の現時点での投票意向。実際の得票率を示すものではありません。


「……四%」

黒崎は、画面を見つめた。

高瀬が、思わず言った。

「低すぎないか?」

長谷川は、静かに答えた。

「無名の新人なら、むしろ名前を挙げてもらえただけ前進です」

真琴が続けた。

「ただし、残り八日で、この差を埋める必要があります」

高瀬は、腕を組んだ。

「どうやって?」

真琴は、別の資料を開いた。

「今までの動画は、政策に関心がある人を中心に見られていました」

黒崎は、うなずいた。

「はい」

「でも、選挙で勝つには、政治に関心が薄い人にも届かなければなりません」

小野寺が、静かに言った。

「政策を簡単にしすぎると、誤解を招く可能性もあります」

真琴はうなずいた。

「だから、内容を削るのではなく、入口を変えます」

黒崎は、顔を上げた。

「入口?」

真琴は、スクリーンに一枚の画像を表示した。

それは、給与明細だった。

もちろん、個人情報は伏せられている。

「黒崎さん。あなたが政治家を目指したきっかけです」

黒崎は、黙って画面を見つめた。

真琴は続けた。

「国の予算の話から始めるのではなく、生活の話から始めましょう」

高瀬が、少し身を乗り出した。

「それなら、分かりやすいな」

真琴は、うなずいた。

「次の演説では、数字を使ってください」

「数字?」

「はい。給与から何が引かれ、生活費を払うと、いくら残るのか」

黒崎は、少し考えた。

「……自分の給与明細を使ってもいいですか?」

真琴は、驚いた。

「ご自身の?」

「はい」

黒崎は、静かに続けた。

「政治家になろうと思ったきっかけなので」

美月が、少し心配そうに言った。

「個人情報は、十分に確認してくださいね」

黒崎は、うなずいた。

「もちろんです」

長谷川は、しばらく考えていた。

そして、静かに口を開いた。

「……やってみましょう」

黒崎は、顔を上げた。

長谷川は続けた。

「ただし、数字だけを見せて終わらせないことです」

「はい」

「税金や社会保険料が、何のために必要なのか。それも説明してください」

黒崎は、うなずいた。

「分かりました」

* * *

2035年7月9日、午後6時42分。

東京都杉並区、駅前広場。

「皆さん!」

黒崎は、マイクを握った。

「これは、私が会社員だった頃の給与明細です!」

大型モニターに、給与明細の一部が映し出された。

個人情報は伏せられている。

『総支給額 412,000円』

『手取り額 約310,000円』

黒崎は続けた。

「ここから家賃十一万円を払います!」

『残り 約200,000円』

「食費、光熱費、通信費、日用品。生活に必要なお金を払います!」

黒崎は、聴衆を見渡した。

「そして、残ったお金で、将来に備えなければなりません!」

足を止める人が増え始めた。

「もちろん、給与から引かれるお金には理由があります。年金、医療、介護、公共サービス。必要な制度です!」

黒崎は、少しだけ声を強めた。

「ですが、皆さんは、そのお金がどのように使われ、どんな成果を生んでいるのか、十分に知ることができていますか!」

前列の若い男性が、スマートフォンを向けた。

黒崎は続けた。

「私は、税金を払いたくないと言っているのではありません!」

一瞬、言葉を止める。

「払ったお金が、どう使われたのか知りたいんです!」

聴衆の中から、拍手が起こった。

黒崎は、マイクを握り直した。

「政治家に必要なのは、国民に我慢をお願いすることだけではありません!」

そして、はっきりと言った。

「その我慢に、どんな意味があるのか説明することです!」

拍手が、少しずつ大きくなった。

黒崎は、深く頭を下げた。

「私は、その説明から逃げない政治家になります!」

演説が終わると、数十人が黒崎の周りに集まった。

質問。

意見。

握手を求める人。

その中に、一人の若い女性がいた。

「黒崎さん」

「はい」

「私、今まで選挙に行ったことがありません」

黒崎は、静かに聞いていた。

女性は続けた。

「誰に投票しても、生活は変わらないと思っていたので」

「……そうですか」

「でも、今日の話を聞いて、少し考えが変わりました」

黒崎は、顔を上げた。

女性は、小さく笑った。

「今回、投票に行ってみようと思います」

黒崎は、深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

女性は、少し驚いた。

「まだ、黒崎さんに投票するって決めたわけじゃないですよ?」

黒崎は、笑った。

「それでも、嬉しいです」

女性も笑った。

「……変な人ですね」

そう言って、歩き去った。

黒崎は、その背中を見つめた。

一票。

まだ、自分に入るとは限らない。

それでも、政治に関心を持つ人が一人増えた。

黒崎は、静かに思った。

それだけでも、今日ここに立った意味があった。

* * *

2035年7月10日、午後9時26分。

東京都杉並区、選挙事務所。

「……黒崎さん」

真琴が、画面を見つめたまま言った。

「はい」

「昨日の演説動画ですが……」

高瀬が、横からのぞき込んだ。

「……え?」

黒崎は、顔を上げた。

「どうした?」

高瀬が、叫んだ。

「百二十万回!」

黒崎は、言葉を失った。

「……何が?」

「昨日の演説動画だよ!」

真琴が、うなずいた。

「複数の投稿を合わせると、再生回数が急増しています」

黒崎は、画面を見つめた。

そこには、自分の演説が映っていた。

『払ったお金が、どう使われたのか知りたいんです!』

コメント欄には、数え切れないほどの意見が並んでいた。

『これ、普通の会社員の感覚だよな』

『税金の使い道を説明してほしい』

『減税を約束しないのは物足りない』

『でも、話は分かりやすい』

『東京第八区の人、どうするんだろう』

高瀬は、興奮していた。

「玲司! これ、すごいぞ!」

黒崎は、すぐには答えなかった。

百二十万回。

自分が想像していた以上の人々に、言葉が届いていた。

その時。

長谷川のスマートフォンが鳴った。

彼は画面を確認し、表情を変えた。

「……黒崎さん」

「はい」

「明日の夜、公開討論会があります」

黒崎は、うなずいた。

「はい。三候補が参加する予定の」

長谷川は続けた。

「主催者から、正式な連絡がありました」

「何でしょう?」

「討論会の様子を、全国向けのニュース番組でも取り上げるそうです」

会議室が静かになった。

真琴が、ゆっくりと顔を上げた。

「……全国放送?」

長谷川は、うなずいた。

「ええ」

黒崎は、息を止めた。

三崎健吾。

神谷蒼士。

そして、黒崎玲司。

三人が、同じ壇上に立つ。

長谷川は、黒崎を見た。

「これが、最後の大きな機会になるかもしれません」

黒崎は、静かにうなずいた。

「……分かっています」

真琴が、資料を閉じた。

「では、準備しましょう」

小野寺が、政策資料を取り出した。

美月は、予定表を確認した。

高瀬が、拳を握った。

黒崎は、窓の外を見た。

選挙まで、あと六日。

情勢調査では、わずか四%。

それでも。

まだ、選挙は終わっていない。

黒崎は、静かに言った。

「……勝負は、ここからです」

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

一人の言葉が、どこまで届くのか。

選挙は数字の戦いであると同時に、人の心を動かす戦いでもあります。

次回は、三人の候補者が同じ壇上に立つ公開討論会。

それぞれの政治に対する考え方が、真正面からぶつかります。

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