第15話 敵になるはずだった男
政治家を目指す者同士が、必ずしも同じ未来を描いているとは限らない。
同じ問題を見つめていても、選ぶ方法は違う。
そして、信念がぶつかる時、そこには敵意だけではない感情が生まれることもある。
2035年6月21日、午後6時34分。
東京都千代田区、喫茶店。
「あなたが、黒崎玲司さんですね」
神谷蒼士は、そう言って右手を差し出した。
三十四歳。
立憲未来党所属。
元経済政策研究員。
整ったスーツに、落ち着いた物腰。
しかし、その目には、相手を簡単には信用しない鋭さがあった。
黒崎玲司は、立ち上がって握手した。
「初めまして。黒崎玲司です」
「神谷蒼士です。今日はありがとうございます」
二人は向かい合って座った。
少し離れた席には、桐生美月と藤原真琴が同席していた。
神谷は、注文したコーヒーが届くと、すぐに本題に入った。
「黒崎さん。あなたの動画を見ました」
「ありがとうございます」
「三崎議員への質問、よかったと思います」
黒崎は、少し驚いた。
「……そうですか?」
「ええ。国民に負担を求めるなら、まず支出の検証結果を説明すべきだという考えには賛成です」
黒崎は、静かにうなずいた。
「ありがとうございます」
神谷は続けた。
「ただし、一つ気になることがあります」
「何でしょう?」
「あなたは、政治を変えるために、何を最優先にすべきだと考えていますか?」
黒崎は、少し考えた。
「……国民が納得できる政治にすることです」
神谷は、わずかに笑った。
「理念としては、いいと思います」
そして、はっきりと言った。
「でも、それだけでは政治は変わりません」
黒崎は黙って聞いていた。
神谷は続けた。
「法律を変えるには、議席が必要です。予算を変えるにも、議会での多数派形成が必要になる」
「はい」
「つまり、政治を変えるには、まず選挙に勝たなければならない」
黒崎は、ゆっくりとうなずいた。
「その通りだと思います」
神谷は、少し意外そうな顔をした。
「……反論しないんですね」
黒崎は、少し笑った。
「事実だと思いますから」
神谷も、小さく笑った。
「なるほど」
そして、コーヒーカップを置いた。
「では、率直に言います」
黒崎の表情が引き締まった。
「はい」
「今回の東京第八区からの出馬を、見送っていただけませんか」
黒崎は、息を止めた。
美月が、わずかに顔を上げた。
真琴は、黙って神谷を見つめていた。
神谷は、落ち着いた声で続けた。
「現在、野党間で候補者調整が進んでいます」
「はい」
「三崎議員に勝つためには、与党に対抗する票を分散させないことが重要です」
黒崎は、静かに聞いていた。
「あなたが無所属で出馬すれば、改革を求める有権者の票が割れる可能性があります」
神谷は、まっすぐに黒崎を見た。
「それは、結果的に三崎議員を有利にするかもしれません」
黒崎は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……一つ、確認してもいいですか?」
「もちろんです」
「神谷さんは、今回の選挙で何を変えたいんですか?」
神谷は、少し考えた。
「行政改革と、社会保障制度の見直しです」
「具体的には?」
「重複する行政事業の整理。給付制度の効率化。そして、将来世代への負担の先送りを減らすことです」
黒崎は、うなずいた。
「……私の考えと、近い部分がありますね」
神谷は、静かに答えた。
「そう思います」
黒崎は続けた。
「では、なぜ私が出馬を見送るべきなんでしょうか?」
神谷は、少し眉を上げた。
「……どういう意味ですか?」
黒崎は、まっすぐに答えた。
「考えが近いなら、有権者に選んでもらえばいいと思うんです」
神谷は、しばらく黙っていた。
黒崎は続けた。
「もちろん、票が割れるという懸念は理解しています」
「ええ」
「でも、私が出馬するかどうかを、政党間の調整だけで決めるのは違うと思います」
神谷の表情が、少し変わった。
黒崎は、静かに言った。
「最終的に選ぶのは、有権者ですから」
二人の間に、沈黙が流れた。
やがて、神谷が小さく笑った。
「……面白いですね」
黒崎は首をかしげた。
「何がですか?」
「あなたは、思ったより頑固だ」
黒崎は苦笑した。
「よく言われます」
神谷は、コーヒーを一口飲んだ。
「では、もう一つ聞きます」
「はい」
「あなたが落選した場合、その活動はどうするつもりですか?」
黒崎は、少し考えた。
「……続けます」
神谷は、眉を上げた。
「落選しても?」
「はい」
「資金も時間も失うかもしれませんよ」
黒崎はうなずいた。
「分かっています」
そして、静かに続けた。
「でも、国のお金の使い方を分かりやすくすることは、選挙に勝たなければできない活動ばかりではありません」
神谷は、黙って聞いていた。
「国民に情報を伝えることも、行政に質問することも、続けられます」
黒崎は、少し笑った。
「だから、落選したら終わりだとは思っていません」
神谷は、しばらく黒崎を見つめていた。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「……なるほど」
その表情からは、先ほどまでの警戒が少し薄れていた。
* * *
2035年6月21日、午後7時48分。
東京都千代田区、喫茶店前。
「……どうでした?」
美月が、黒崎に尋ねた。
黒崎は、少し考えた。
「……いい人だと思いました」
真琴が、すぐに口を開いた。
「いい人かどうかと、政治的に協力できるかどうかは別ですよ」
黒崎は苦笑した。
「分かっています」
真琴は続けた。
「神谷さんは、あなたを評価しています。でも、同時に、選挙の障害になる可能性があると考えています」
黒崎は、静かにうなずいた。
「そうですね」
美月が口を開いた。
「ただ、話し合いはできそうな方でしたね」
「はい」
黒崎は、少し笑った。
「考え方が違っても、話せる相手だと思います」
真琴は、少しだけ微笑んだ。
「それは、大事なことですね」
その時。
黒崎のスマートフォンが震えた。
差出人は、神谷蒼士。
『本日はありがとうございました。意見の違いはありますが、黒崎さんの考え方には共感する部分もありました。今後、公開の場で政策について議論できる機会があればと思います。』
黒崎は、画面を見つめた。
そして、返信した。
『こちらこそ、ありがとうございました。ぜひ、政策について議論できればと思います。』
送信。
黒崎は、スマートフォンをしまった。
美月が、少し笑った。
「……何だか、楽しそうですね」
黒崎は、驚いた。
「そうですか?」
「はい」
黒崎は、少し考えた。
「……同じ問題を考えている人と話すのは、面白いですね」
美月は、静かにうなずいた。
「そうですね」
* * *
2035年6月23日、午後8時11分。
東京都千代田区、貸会議室。
「……供託金、どうするんだ?」
高瀬直樹が、机の上の資料を見ながら言った。
黒崎は、静かに答えた。
「まだ、足りない」
高瀬は、ため息をついた。
「あと九十三万円だろ?」
「そうだ」
小野寺航が、資料を開いた。
「政治団体に寄せられた資金を、そのまま候補者個人の供託金として扱うことはできません」
美月がうなずいた。
「資金の区分と適法な手続きを確認しながら進めています」
高瀬が、頭をかいた。
「難しいな……」
黒崎は、少し考えた。
「……俺の貯金を、もう少し増やせればいいんだけど」
高瀬が首をかしげた。
「どうやって?」
黒崎は、少し苦笑した。
「今から給料を貯めても、間に合わない」
その時。
長谷川が、静かに口を開いた。
「黒崎さん」
「はい」
「一つ、確認してもいいですか?」
「何でしょう?」
「あなたは、本当に今回の選挙に出たいんですね?」
黒崎は、迷わず答えた。
「はい」
長谷川はうなずいた。
「では、選挙資金の調達方法を、もう一度整理しましょう」
美月が、資料を開いた。
「政治団体の活動資金と、候補者個人の資金を分けて管理することを前提に、専門家にも確認しています」
長谷川は続けた。
「候補者本人が負担する供託金については、適切な方法で資金を確保する必要があります」
黒崎はうなずいた。
「分かっています」
その時。
高瀬が、突然顔を上げた。
「……あっ」
黒崎は振り返った。
「どうした?」
高瀬は、少し考えた。
「お前、車持ってたよな?」
黒崎は、首をかしげた。
「……持ってるけど」
「最近、乗ってる?」
黒崎は、少し考えた。
「……あまり乗ってない」
高瀬は、にやりと笑った。
「じゃあ、売れば?」
黒崎は、言葉を失った。
「……車を?」
「そう」
高瀬は続けた。
「お前、休日も最近は政治活動ばっかりだろ?」
黒崎は、黙っていた。
「車がなくても、生活できるんじゃないか?」
黒崎は、少し考えた。
確かに。
ここ数か月、車に乗る機会は減っていた。
通勤は電車。
買い物も、近所で済ませることが多い。
政治活動では、公共交通機関を利用している。
黒崎は、ゆっくりとうなずいた。
「……確かに」
高瀬が笑った。
「だろ?」
美月が、少し心配そうに口を開いた。
「でも、大切にされていた車では?」
黒崎は、少し笑った。
「……そうですね」
車を買ったのは、数年前だった。
仕事を頑張った自分への、ご褒美だった。
休日にドライブへ出かけることが、数少ない楽しみだった。
しかし。
黒崎は、静かに言った。
「……一度、査定してみます」
高瀬が、嬉しそうに笑った。
「よし!」
長谷川は、静かにうなずいた。
「売却するかどうかは、金額を確認してから判断してください」
黒崎はうなずいた。
「はい」
* * *
2035年6月25日、午後5時26分。
東京都内、中古車買取店。
「……百三十二万円ですね」
査定担当者の言葉に、黒崎は息を止めた。
「……百三十二万円?」
「はい。車両の状態も良好ですし、走行距離も少ないので」
黒崎は、車を見た。
数年前、自分で選んで購入した車。
仕事で疲れた週末。
何も考えずに走った夜の高速道路。
海を見に行った休日。
いろいろな思い出があった。
黒崎は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「……売ります」
査定担当者は、うなずいた。
「ありがとうございます」
黒崎は、契約書を確認した。
必要な手続きが進み、後日、売却代金が振り込まれることになった。
店を出ると、夕方の空が広がっていた。
黒崎は、少しだけ振り返った。
車は、まだ駐車場に停まっている。
もう、自分のものではなくなる。
黒崎は、小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
誰にも聞こえない声で、そうつぶやいた。
* * *
2035年6月27日、午後8時03分。
東京都千代田区、貸会議室。
「……振り込まれた?」
高瀬が、身を乗り出した。
黒崎はうなずいた。
「今日、確認できた」
「いくら?」
「百三十二万円」
高瀬が、椅子から立ち上がった。
「よっしゃ!」
美月が、少し驚いたように笑った。
「本当に売却されたんですね」
黒崎はうなずいた。
「はい」
小野寺が、資料を確認した。
「これで、供託金の不足額は確保できましたね」
黒崎は、静かにうなずいた。
「はい」
長谷川が、腕を組んだ。
「ただし、まだ終わりではありません」
高瀬が振り返った。
「……またですか?」
長谷川は、真顔で答えた。
「当然です」
そして、ホワイトボードを指さした。
『公示日 7月4日』
『投開票日 7月16日』
「立候補の届出まで、あと七日」
黒崎は、息を止めた。
七日。
もう、一週間しかない。
長谷川は続けた。
「必要書類の確認、供託手続き、選挙運動の準備。まだやることは山ほどあります」
黒崎は、静かにうなずいた。
「分かっています」
真琴が、資料を開いた。
「それと、もう一つ問題があります」
黒崎は顔を上げた。
「何でしょう?」
真琴は、画面を見せた。
そこには、ニュース記事が表示されていた。
『東京第八区、野党統一候補に神谷蒼士氏。与党現職との一騎打ちへ』
高瀬が、眉をひそめた。
「……一騎打ち?」
真琴はうなずいた。
「メディアは、黒崎さんを候補者として数えていません」
黒崎は、画面を見つめた。
与党現職、三崎健吾。
野党統一候補、神谷蒼士。
その二人の名前だけが、記事に並んでいた。
黒崎玲司の名前は、どこにもなかった。
高瀬が、悔しそうに言った。
「……まだ出るって決まってないからか?」
長谷川は、静かに答えた。
「それもあります。ただ、政治の世界では、知名度と組織がある候補者が先に注目されます」
黒崎は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
「……だったら」
全員が、黒崎を見た。
黒崎は、はっきりと言った。
「正式に、出馬を表明しましょう」
真琴が、顔を上げた。
「……記者会見ですか?」
黒崎はうなずいた。
「はい」
長谷川が、少しだけ笑った。
「ようやくですね」
黒崎は、仲間たちを見た。
「準備をお願いします」
美月がうなずいた。
「分かりました」
高瀬が笑った。
「よし!」
真琴は、すぐにノートパソコンを開いた。
「では、会見の内容を考えましょう」
小野寺が、資料を取り出した。
「政策の説明も整理します」
黒崎は、ホワイトボードを見た。
『公示日 7月4日』
あと七日。
無名の会社員が、国政選挙に挑む。
その決断を、正式に世の中へ伝える時が来た。
黒崎は、静かに拳を握った。
「……やります」
窓の外では、東京の夜景が広がっていた。
そして、選挙までの時間は、さらに短くなっていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
政治家を目指すという決断は、仕事や生活だけでなく、大切にしてきたものを手放す選択にもつながります。
次回はいよいよ、黒崎が正式に国政選挙への出馬を表明します。
ここから選挙戦は、さらに大きく動き始めます。




