第14話 彼女の決断と、百万円の奇跡
人生には、どちらを選んでも何かを失う決断があります。
安定した未来か、まだ形になっていない可能性か。
そして、選挙を目前に控えた黒崎にも、避けて通れない現実が迫っていました。
2035年6月16日、午後6時43分。
東京都千代田区、オフィスビル。
「……本当に、よろしいんですね?」
人事部長の言葉に、桐生美月は静かにうなずいた。
「はい」
机の上には、異動に関する書類が置かれていた。
大阪支社への転勤。
管理部門の責任者候補。
今後の昇進にもつながる、会社からの評価だった。
「今回の異動は、あなたに期待しているからこその話です」
「承知しています」
「それでも、辞退すると?」
美月は、まっすぐに答えた。
「はい。今回は辞退させてください」
人事部長は、小さく息を吐いた。
「理由を聞いても?」
美月は、少し考えた。
「今、東京で取り組みたいことがあります」
「仕事に関係することですか?」
「いいえ。社外での活動です」
人事部長は、眉を上げた。
「政治活動、ですか?」
美月は、少し驚いた。
「……ご存じだったんですね」
「社内でも話題になっていますよ。黒崎玲司さんという方を手伝っているそうですね」
美月は、静かにうなずいた。
「はい」
「その方のために、異動を断るんですか?」
美月は、すぐには答えなかった。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……その方のため、というだけではありません」
人事部長は、黙って聞いていた。
「今まで、私は会社の中で与えられた役割を果たすことに集中してきました」
「ええ」
「それは、今でも大切な仕事だと思っています」
美月は続けた。
「でも、社外でさまざまな人と接するうちに、自分が関わりたいと思う分野が見えてきたんです」
人事部長は、しばらく考えた。
「……なるほど」
美月は、少しだけ笑った。
「もちろん、今すぐ会社を辞めるつもりはありません」
「それを聞いて安心しました」
「今の仕事にも、引き続き責任を持って取り組みます」
人事部長は、書類を閉じた。
「分かりました。今回の異動は、いったん見送る方向で調整しましょう」
美月は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
会議室を出た美月は、廊下で立ち止まった。
大きな決断だった。
将来の昇進。
安定したキャリア。
それらを、完全に捨てたわけではない。
ただ、今は東京に残ることを選んだ。
美月は、スマートフォンを取り出した。
黒崎へのメッセージを書きかけて、指を止める。
そして、画面を閉じた。
「……直接、話そう」
小さくつぶやき、歩き始めた。
* * *
2035年6月16日、午後8時12分。
東京都千代田区、貸会議室。
「……本当に?」
黒崎玲司は、思わず聞き返した。
美月は、少し笑った。
「はい。大阪への異動は、辞退しました」
黒崎は、しばらく言葉を失った。
「……そうですか」
「はい」
「後悔していませんか?」
美月は、少し考えた。
「後悔するかどうかは、これから次第ですね」
黒崎は、ゆっくりとうなずいた。
「……そうですよね」
美月は、少しだけ首をかしげた。
「黒崎さん」
「はい」
「もしかして、私が東京に残ることを、喜んではいけないと思っていますか?」
黒崎は、驚いた。
「……え?」
美月は、静かに微笑んだ。
「顔に出ています」
黒崎は、少し困ったように笑った。
「……正直、嬉しいです」
美月は、黙って聞いていた。
「でも、美月さんの将来に関わることなので、簡単に喜んでいいのか分からなくて」
美月は、少しだけ笑った。
「大丈夫です」
「……本当に?」
「はい。私が決めたことですから」
黒崎は、静かにうなずいた。
「……ありがとうございます」
美月は、少し照れたように視線を落とした。
「それと、黒崎さん」
「はい」
「一つ、お願いがあります」
黒崎は、姿勢を正した。
「何でしょう?」
美月は、まっすぐに彼を見た。
「私を、特別扱いしないでください」
黒崎は、少し驚いた。
「……特別扱い?」
「はい。活動に関する意見が違えば、遠慮なく反論してください」
「もちろんです」
「私も、黒崎さんが間違っていると思ったら、はっきり言います」
黒崎は、少し笑った。
「それは、今までどおりですね」
美月も笑った。
「そうですね」
二人の間に、穏やかな沈黙が流れた。
その時。
会議室の扉が勢いよく開いた。
「おい! 大変だ!」
高瀬直樹が、息を切らして入ってきた。
黒崎は振り返った。
「どうした?」
高瀬は、スマートフォンを掲げた。
「昨日の討論会の動画、すごいことになってる!」
* * *
2035年6月16日、午後8時19分。
東京都千代田区、貸会議室。
「……十八万回?」
黒崎は、画面を見つめた。
高瀬がうなずいた。
「そう! 再生回数十八万!」
画面には、先日の公開政策討論会の映像が表示されていた。
黒崎が、現職の三崎健吾議員に質問している場面。
『検証が行われていることは理解しています。私が聞きたいのは、その結果です』
その部分が、短い動画として切り抜かれていた。
藤原真琴が、画面を確認した。
「……想定以上ですね」
黒崎は、少し戸惑った。
「こんなに見られるとは思いませんでした」
真琴はうなずいた。
「ただし、再生回数がそのまま支持につながるわけではありません」
高瀬が笑った。
「分かってるって!」
真琴は、別の画面を開いた。
「でも、今回は反応が違います」
そこには、ウェブサイトのアクセス数が表示されていた。
昨日までと比べ、急激に増加している。
「問い合わせも増えています」
美月が、メールの一覧を開いた。
「活動への参加希望、政策への質問、取材依頼……」
黒崎は、驚いた。
「取材依頼も?」
「はい。地域メディアだけでなく、全国向けのネットニュースからも来ています」
高瀬が、興奮した声で言った。
「玲司! これ、いけるんじゃないか!?」
黒崎は、すぐには答えなかった。
十八万回。
それは、自分の言葉が多くの人に届いたことを意味していた。
しかし、同時に。
「……批判も増えていますね」
黒崎が言った。
真琴はうなずいた。
「はい」
コメント欄には、さまざまな意見が並んでいた。
『よく聞いた』
『こういう質問をする議員が必要』
『具体的な政策がない』
『新人が偉そうに質問しているだけ』
『財源をどうするつもりなんだ?』
黒崎は、画面を見つめた。
どれも、無視できない意見だった。
真琴が、静かに言った。
「黒崎さん」
「はい」
「今、あなたは注目されています」
黒崎はうなずいた。
「はい」
「でも、ここで勢いだけで動くと、失敗します」
「……どうすればいいですか?」
真琴は、はっきりと答えた。
「次の政策を出しましょう」
黒崎は、顔を上げた。
「政策?」
「はい。批判に対して、感情ではなく内容で答えるんです」
小野寺航が、資料を取り出した。
「ちょうど、試算を進めていたものがあります」
黒崎は、資料を受け取った。
そこには、こう書かれていた。
『国民負担と行政支出の見直しに関する基本方針』
小野寺は続けた。
「まだ、具体的な減税額を約束できる段階ではありません」
「はい」
「ですが、どのような順序で財源を検証するかは示せます」
黒崎は、資料を読み始めた。
行政事業の効果検証。
重複する支出の確認。
社会保障の持続可能性。
そして、負担軽減の優先順位。
黒崎は、ゆっくりとうなずいた。
「……これを、もっと分かりやすくしましょう」
真琴が微笑んだ。
「そのつもりです」
* * *
2035年6月18日、午後7時04分。
東京都杉並区、地域交流施設。
「黒崎さん。今日は、どうしてここに?」
男性記者が、マイクを向けた。
黒崎は、少し緊張しながら答えた。
「政策の説明会です」
「先日の動画が話題になっていますね」
「ありがたいことだと思っています」
記者は続けた。
「現職議員を批判することで、知名度を上げようとしているのでは?」
黒崎は、少し考えた。
「……そう見える方もいると思います」
記者は、少し驚いた。
黒崎は続けた。
「ただ、私は三崎議員個人を批判したいわけではありません」
「では、何が目的ですか?」
黒崎は、まっすぐに答えた。
「国民に負担を求めるなら、その根拠を分かりやすく説明してほしい。それだけです」
記者は、うなずいた。
「では、黒崎さん自身は、どのような政策を実現したいと?」
黒崎は、資料を掲げた。
「まず、国の支出を分かりやすく公開する仕組みを作りたいと考えています」
「具体的には?」
「行政事業ごとの目的、支出、成果、見直し状況を、国民が比較できる形で整理することです」
記者は、少し考えた。
「それで、国民の生活は変わりますか?」
黒崎は、うなずいた。
「変えるための第一歩だと思っています」
そして、続けた。
「無駄を見つければ、すぐに減税できるという単純な話ではありません。でも、何にお金を使っているか分からなければ、どこを変えるべきかも判断できません」
記者は、静かにうなずいた。
「なるほど」
黒崎は、少しだけ声を強めた。
「私は、国民に負担をお願いする政治から、負担の理由を説明できる政治へ変えたいんです」
記者は、マイクを下ろした。
「ありがとうございました」
取材が終わると、真琴が近づいてきた。
「……よかったです」
黒崎は、少し息を吐いた。
「本当ですか?」
「はい。前より、ずっと伝わるようになりました」
黒崎は、少し笑った。
「ありがとうございます」
真琴は、すぐに続けた。
「ただし、まだ長いです」
黒崎は苦笑した。
「……厳しいですね」
「選挙まで時間がありませんから」
真琴は、真顔だった。
* * *
2035年6月20日、午後8時36分。
東京都千代田区、貸会議室。
「……百二十七人」
美月が、静かに言った。
黒崎は、顔を上げた。
「……え?」
美月は、もう一度確認した。
「継続的な活動への参加意思を確認できた方が、百二十七人になりました」
高瀬が、椅子から立ち上がった。
「百人超えた!」
黒崎は、思わず笑った。
「……本当ですか?」
「はい」
美月は、微笑んだ。
「五月末までに百人、という最初の目標には間に合いませんでしたが、ようやく達成しました」
黒崎は、ホワイトボードを見た。
『継続的な支持者 127人』
一人。
七人。
二十六人。
三十九人。
そして、百二十七人。
少しずつ積み重ねてきた数字だった。
高瀬が笑った。
「すごいじゃん! もう選挙に出られるんじゃないか?」
長谷川が、静かに口を開いた。
「まだです」
高瀬は、振り返った。
「……またですか?」
「当然です」
長谷川は、資料を開いた。
「選挙区の有権者は何十万人もいます。百二十七人では、まだ組織として小さい」
黒崎はうなずいた。
「分かっています」
長谷川は続けた。
「ただし、重要な変化があります」
「何でしょう?」
「今までは、あなたの活動を知っている人が少なかった」
黒崎は、静かに聞いていた。
「でも、今は違います」
長谷川は、画面を見た。
「動画が広まり、取材も増えた。名前を知っている人が、確実に増えています」
真琴がうなずいた。
「ここからは、知名度を支持に変える段階です」
黒崎は、少し考えた。
「……分かりました」
その時。
美月が、別の資料を取り出した。
「それと、資金についてご報告があります」
黒崎は、顔を上げた。
「……資金?」
美月はうなずいた。
「政治団体の設立手続きを終え、法令に沿った方法で寄附の受付を始めました」
高瀬が、身を乗り出した。
「おお!」
美月は続けた。
「寄附者の情報や入金内容を確認しながら、会計記録を整理しています」
黒崎は、静かにうなずいた。
「はい」
「そして、現在までに受け付けた寄附の合計額ですが……」
美月は、資料を確認した。
「百八万円です」
会議室が静まり返った。
黒崎は、思わず聞き返した。
「……百八万円?」
「はい」
高瀬が、叫んだ。
「百万円超えてるじゃん!」
黒崎は、しばらく言葉を失った。
百万円。
数週間前、自分はその支援を断った。
その時は、もう二度と手にできないかもしれないと思っていた。
しかし今。
百二十七人の仲間と、多くの人からの支援によって、それを超える資金が集まった。
黒崎は、ゆっくりと口を開いた。
「……本当に、ありがたいですね」
美月は、静かにうなずいた。
「はい」
長谷川が、資料を確認した。
「ただし、これは団体の活動資金です。候補者個人の供託金とは、扱いを分けて考える必要があります」
黒崎はうなずいた。
「分かっています」
長谷川は続けた。
「資金の使途と管理を整理し、供託金については別途、適切な方法で確保しましょう」
黒崎は、静かに答えた。
「はい」
真琴が、少し笑った。
「それでも、大きな前進です」
黒崎は、仲間たちを見た。
高瀬。
小野寺。
真琴。
そして、美月。
誰もが、それぞれの仕事や生活を抱えながら、活動を支えてくれている。
黒崎は、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
高瀬が笑った。
「だから、そういうのは当選してからにしろって!」
会議室に笑い声が広がった。
その時。
長谷川のスマートフォンが鳴った。
画面を確認した彼は、表情を変えた。
「……黒崎さん」
「はい」
「少し、予定が変わりそうです」
黒崎は、顔を上げた。
「どういうことですか?」
長谷川は、画面を見せた。
そこには、速報が表示されていた。
『東京第八区、野党候補一本化へ。無所属新人の出馬に影響か』
黒崎は、息を止めた。
「……候補一本化?」
長谷川は、静かにうなずいた。
「ええ」
真琴が、すぐに資料を確認した。
「……これは、厄介ですね」
高瀬が首をかしげた。
「何が?」
長谷川は、はっきりと答えた。
「野党側が候補者を一本化すれば、無所属新人が入り込む余地は、さらに小さくなります」
黒崎は、画面を見つめた。
せっかく、支持者が増えた。
資金も集まり始めた。
ようやく、選挙への道が見えてきた。
しかし。
政治の世界は、簡単には進ませてくれない。
長谷川は、黒崎を見た。
「……どうしますか?」
黒崎は、しばらく考えた。
そして、静かに答えた。
「……まず、相手の話を聞きましょう」
真琴が、少し驚いた。
「相手?」
「はい」
黒崎は、画面を見た。
『野党候補一本化へ』
その文字を見つめながら、続けた。
「同じ選挙区で戦う人が、何を考えているのか知りたいです」
長谷川は、少しだけ笑った。
「……いいでしょう」
そして、静かに言った。
「では、会ってもらいましょう」
黒崎は、顔を上げた。
「……誰にですか?」
長谷川は、はっきりと答えた。
「立憲未来党の若手候補、神谷蒼士です」
黒崎は、その名前を繰り返した。
「……神谷蒼士」
その名が、後に自分の人生を大きく変えることになるとは。
この時の黒崎は、まだ知らなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
一人の決断が、誰かの行動につながり、やがて大きな力になっていく。
政治の世界では、資金や組織だけでなく、人との出会いも重要になります。
次回は、新たな人物との出会いを通じて、黒崎の政治に対する考え方が試されます。
引き続きお楽しみいただければ嬉しいです。




