第13話 無名の男が、現職議員に喧嘩を売った日
知名度も、資金も、組織もない。
そんな無名の新人が、選挙で現職議員と戦うには何が必要なのか。
黒崎は、自分にしかできない方法で、最初の勝負に出ます。
2035年6月12日、午前8時17分。
東京都千代田区、貸会議室。
「まず、会社をどうするか決めてください」
長谷川慎吾は、開口一番そう言った。
黒崎玲司は、少し驚いた。
「会社、ですか?」
「そうです。選挙に出るなら、今までどおりの生活はできません」
長谷川は、ホワイトボードに三つの項目を書いた。
『仕事』
『資金』
『選挙区』
「あなたは会社員です。立候補そのものと、勤務をどう調整するかは別問題です。就業規則も確認する必要がある」
黒崎はうなずいた。
「昨日、上司に相談しました」
「それで?」
「有給休暇の取得と、今後の働き方について、今日正式に話す予定です」
長谷川はうなずいた。
「いいでしょう。では次です」
ホワイトボードの『資金』に丸を付ける。
「供託金の不足額は九十三万円。これだけ集めても、選挙運動はできません」
高瀬直樹が腕を組んだ。
「じゃあ、最低いくら必要なんですか?」
「何を自分たちで行い、何を外注するかで変わります。ただ、今の予算では相当厳しい」
長谷川は黒崎を見た。
「前に百万円の支援を断ったそうですね」
「はい」
「後悔していますか?」
黒崎は少し考えた。
「……資金が足りないことは痛感しています。でも、判断は変わりません」
「結構」
長谷川は、意外にもあっさりうなずいた。
「なら、その判断を選挙でも貫いてください」
黒崎は顔を上げた。
「どういう意味ですか?」
「あなたは、資金の透明性を訴えている。それなら、選挙資金の集め方も、他の候補者との違いになる」
隣に座る桐生美月が口を開いた。
「政治団体の設立届は、必要事項を確認して提出する段階です。資金を集める方法についても、法令に沿って整理しています」
長谷川はうなずいた。
「それでいい。ただし、金を集める前に、もう一つ決めなければならない」
「何でしょう?」
長谷川は、東京の選挙区地図を広げた。
「誰と戦うのか、です」
* * *
2035年6月12日、午後7時31分。
東京都杉並区、地域交流施設。
「東京第八区には、現職の三崎健吾議員がいます」
藤原真琴が、スクリーンに写真を映した。
五十四歳。
衆議院議員、当選五回。
与党所属。
地元の商工団体や各種組織との関係が深く、選挙に強い政治家として知られている。
高瀬が、資料を見ながらつぶやいた。
「……勝てる気がしない」
真琴は、即答した。
「普通に戦えば、まず勝てません」
「もうちょっと希望のある言い方してくれよ」
「希望が欲しいなら、勝つ方法を考えましょう」
真琴は、次の資料を表示した。
『三崎健吾議員 政治資金収支報告書』
黒崎は、画面を見つめた。
「……これが?」
「はい。公開されている資料を整理しました」
真琴は続けた。
「三崎議員は、企業・団体との関係が深い。もちろん、合法的な政治資金のやり取り自体を問題視することはできません」
小野寺航がうなずいた。
「重要なのは、資金を受けたことではなく、政策判断や説明責任との関係ですね」
真琴は、別の資料を映した。
そこには、三崎議員の過去の発言が並んでいた。
『国民負担の増加は避けられない』
『社会保障制度を維持するため、幅広い負担をお願いしたい』
『財政健全化に向けた努力が必要』
黒崎は、黙って読んだ。
どれも、間違っているとは言い切れない。
高齢化。
医療費。
社会保障。
財政赤字。
現実に存在する問題だった。
しかし。
「……国民に負担をお願いする前に、政府の支出をどこまで検証したのか」
黒崎がつぶやいた。
小野寺が顔を上げた。
「そこが論点になりますね」
黒崎は続けた。
「負担が必要な場合もあると思います。でも、その理由を、国民が納得できる形で説明する責任があるはずです」
真琴は、少し笑った。
「では、それを三崎議員に直接聞きましょう」
黒崎は顔を上げた。
「……直接?」
「はい」
真琴は、スクリーンに次の予定を表示した。
『6月14日 公開政策討論会』
主催は、地域の市民団体。
登壇予定者には、三崎議員の名前があった。
高瀬が、驚いた声を上げた。
「えっ、ここに行くの?」
「そうです」
「でも、黒崎は登壇者じゃないだろ?」
真琴はうなずいた。
「だから、一般参加者として質問します」
長谷川が、腕を組んだ。
「悪くない」
黒崎は、資料を見つめた。
現職議員。
当選五回。
圧倒的な知名度と組織。
その相手に、自分は何を聞くべきなのか。
黒崎は、ゆっくりと口を開いた。
「……質問を、一つに絞りましょう」
真琴がうなずいた。
「何を聞きますか?」
黒崎は、はっきりと答えた。
「国民に負担を求める前に、何を検証したのか」
会議室が静かになった。
長谷川は、わずかに笑った。
「いいでしょう」
そして、黒崎を見た。
「ただし、覚悟してください」
「何をですか?」
「相手は、何度も選挙を勝ち抜いてきた政治家です」
長谷川は、静かに続けた。
「質問したつもりが、逆にあなたの弱点を突かれることもあります」
黒崎はうなずいた。
「分かっています」
「それでも行きますか?」
「はい」
黒崎は、迷わず答えた。
「行きます」
* * *
2035年6月14日、午後2時06分。
東京都杉並区、区民ホール。
会場には、約三百人が集まっていた。
壇上では、三崎健吾議員がマイクを握っている。
「国民の皆様に負担をお願いすることは、私たち政治家にとっても苦渋の決断です」
落ち着いた声。
丁寧な言葉。
経験を感じさせる話し方だった。
「しかし、少子高齢化が進む中、社会保障制度を維持するためには、必要な財源を確保しなければなりません」
会場から拍手が起こった。
黒崎は、後方の席で話を聞いていた。
隣には美月。
少し離れた場所に、高瀬と真琴がいる。
真琴は、黒崎に小さくうなずいた。
やがて、質疑応答が始まった。
司会者が言った。
「それでは、会場からご質問を受け付けます」
数人が手を挙げた。
黒崎も、静かに手を挙げた。
最初の質問者は、高齢の女性だった。
年金制度についての質問。
次は、中小企業の経営者。
社会保険料の負担についての質問だった。
三崎議員は、それぞれ丁寧に答えた。
そして。
「では、後方の男性の方」
司会者が、黒崎を指した。
黒崎は、ゆっくりと立ち上がった。
「ありがとうございます」
マイクが渡された。
黒崎は、一度だけ深呼吸した。
「黒崎玲司と申します。現在、国民会計の会という政治団体の設立準備を進めています」
会場の何人かが顔を上げた。
三崎議員も、黒崎を見た。
「三崎議員に質問があります」
黒崎は続けた。
「先ほど、社会保障制度を維持するため、国民に負担をお願いする必要があるとおっしゃいました」
三崎はうなずいた。
「はい」
「私も、必要な財源を確保することは重要だと思っています」
黒崎は、資料を見た。
「ただ、その前に、政府の支出をどこまで検証したのか、お聞きしたいんです」
会場が静かになった。
黒崎は続けた。
「国民に追加の負担を求める前に、どの事業を見直し、どの支出を維持すべきだと判断したのか」
そして、まっすぐに三崎を見た。
「その根拠を、国民が確認できる形で示すべきではないでしょうか」
三崎は、しばらく黒崎を見つめた。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「ご質問、ありがとうございます」
落ち着いた声だった。
「もちろん、政府の支出については、毎年度の予算編成や行政事業レビューなどを通じて、検証が行われています」
黒崎はうなずいた。
「はい」
「また、国会においても、予算委員会などで議論が行われています」
三崎は続けた。
「そのうえで、必要な財源を確保することが重要だと考えています」
黒崎は、少し考えた。
「……ありがとうございます」
司会者が、次の質問へ移ろうとした。
その時。
黒崎が、もう一度口を開いた。
「すみません。一点だけ、確認させてください」
司会者が、少し困った顔をした。
三崎は、手を上げた。
「構いませんよ」
黒崎は、まっすぐに言った。
「検証が行われていることは、理解しています」
「はい」
「私が聞きたいのは、その結果です」
三崎の表情が、わずかに変わった。
黒崎は続けた。
「例えば、どの事業を見直した結果、どれだけの財源を確保できたのか。そして、なぜそれ以上の見直しが難しいのか」
会場が静まり返った。
「その説明がなければ、国民は追加負担が本当に必要なのか判断できません」
三崎は、しばらく黙っていた。
やがて、静かに答えた。
「個別の事業については、詳細な資料を確認する必要があります」
黒崎はうなずいた。
「はい」
「ただ、政府全体として、不断の見直しを行っていることは申し上げたいと思います」
黒崎は、少し考えた。
そして、静かに言った。
「……では、その結果を、もっと分かりやすく公開していただきたいです」
三崎は、黒崎を見つめた。
「それは、重要なご指摘だと思います」
会場から、小さな拍手が起こった。
黒崎は、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
席に戻ると、美月が小さく言った。
「……よかったと思います」
黒崎は、少し息を吐いた。
「緊張しました」
美月は、微笑んだ。
「見ていて分かりました」
黒崎は、苦笑した。
* * *
2035年6月14日、午後4時28分。
東京都杉並区、区民ホール前。
「黒崎さん!」
会場を出たところで、一人の男性に声をかけられた。
四十代くらいの会社員だった。
「さっき質問していた人ですよね?」
黒崎はうなずいた。
「はい」
男性は、少し興奮した様子で言った。
「俺、ああいうことを聞いてほしかったんですよ」
「……ありがとうございます」
「負担が必要なのは分かる。でも、何に使ってるのか、よく分からないんです」
黒崎は、静かにうなずいた。
「そうですよね」
男性は続けた。
「あなた、選挙に出るんですか?」
黒崎は、一瞬だけ迷った。
しかし、はっきりと答えた。
「準備を進めています」
男性は、少し笑った。
「じゃあ、頑張ってください」
黒崎は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
その直後。
別の女性が近づいてきた。
「すみません。国民会計の会の方ですか?」
「はい」
「ウェブサイト、見ました」
黒崎は驚いた。
「ありがとうございます」
女性は続けた。
「活動に参加するには、どうすればいいですか?」
黒崎は、思わず美月を見た。
美月は、すぐに案内用のカードを差し出した。
「こちらからお問い合わせいただけます」
女性は、カードを受け取った。
「ありがとうございます」
その後も、数人が声をかけてきた。
質問。
意見。
批判。
そして、活動への参加希望。
真琴は、その様子を静かに見つめていた。
「……いい流れですね」
高瀬が笑った。
「すごいな。質問しただけなのに」
真琴は、首を振った。
「質問しただけではありません」
「え?」
「黒崎さんが、何を問題だと思っているのか。それが、初めて大勢の人に伝わったんです」
高瀬は、少し考えた。
「……なるほど」
その時。
真琴のスマートフォンが鳴った。
画面を見た彼女の表情が変わる。
「……来ましたね」
黒崎が顔を上げた。
「何がですか?」
真琴は、画面を見せた。
そこには、地域ニュースサイトの記事が表示されていた。
『無名の政治家志望者、現職議員に予算検証の結果を問う』
黒崎は、息を止めた。
記事には、先ほどの質疑応答が紹介されていた。
真琴は、静かに言った。
「黒崎さん」
「はい」
「これが、最初のニュースです」
黒崎は、画面を見つめた。
自分の名前が、記事になっている。
それだけで、胸が高鳴った。
だが、真琴は続けた。
「ただし、ここからが重要です」
「……どういうことですか?」
「一度ニュースになっただけでは、支持は増え続けません」
真琴は、まっすぐに黒崎を見た。
「次に何をするかで、評価が決まります」
黒崎は、静かにうなずいた。
「……分かりました」
* * *
2035年6月15日、午後9時13分。
東京都千代田区、貸会議室。
「……八十二人」
高瀬が、画面を見つめていた。
黒崎は、顔を上げた。
「何が?」
「活動への参加希望者だよ」
高瀬は、興奮した声で続けた。
「昨日から今日までで、五十六件も新しい問い合わせが来てる!」
美月が、すぐに補足した。
「ただし、問い合わせ件数です。実際に継続して参加する意思を確認できた方は、まだ三十九人です」
黒崎は、ホワイトボードを見た。
『継続的な支持者 39人』
二十六人から、三十九人。
十三人増えた。
真琴は、腕を組んだ。
「順調ですが、まだ足りません」
黒崎はうなずいた。
「はい」
長谷川が、静かに言った。
「それより、資金の方はどうなっていますか?」
美月が資料を開いた。
「政治団体の設立手続きを進めています。寄附の受け入れについては、適用される規制や必要な管理方法を確認中です」
長谷川はうなずいた。
「では、急ぎましょう」
黒崎は、ホワイトボードを見つめた。
選挙まで、三十一日。
供託金不足、九十三万円。
支持者、三十九人。
まだ、勝てる状況ではない。
しかし。
「……やることは、はっきりしましたね」
黒崎が言った。
高瀬が笑った。
「そうだな」
真琴は、次の資料を開いた。
「では、明日から活動を増やします」
小野寺がうなずいた。
「政策資料も、さらに分かりやすくしましょう」
美月は、予定表を開いた。
「日程を調整します」
黒崎は、仲間たちを見た。
数週間前。
自分は、一人で給与明細を見つめていた。
だが今は、同じ目標に向かって動く仲間がいる。
黒崎は、静かに頭を下げた。
「……皆さん、ありがとうございます」
高瀬が笑った。
「何だよ、急に」
黒崎も笑った。
「いや、言っておきたくて」
その時。
美月のスマートフォンが震えた。
画面を確認した彼女は、少しだけ表情を変えた。
黒崎は、その変化に気づいた。
「……美月さん?」
「はい」
「何かありましたか?」
美月は、少し考えた。
そして、静かに答えた。
「……会社からです」
黒崎は、黙って続きを待った。
美月は、スマートフォンを伏せた。
「異動の件で、正式な回答期限が決まりました」
「……いつですか?」
美月は、黒崎を見た。
「明日です」
黒崎は、息を止めた。
選挙まで、三十一日。
そして。
美月が自分の人生を選ぶまで、あと一日。
黒崎は、静かにうなずいた。
「……分かりました」
美月は、少しだけ微笑んだ。
「大丈夫です。自分で決めますから」
その声は、いつもどおり落ち着いていた。
しかし、黒崎には分かっていた。
彼女もまた、大きな決断を前にしている。
政治の世界では、数字が重要になる。
支持率。
得票数。
予算。
資金。
だが、その数字の向こうには、一人ひとりの人生がある。
黒崎は、静かに思った。
自分が政治家になるなら、そのことだけは忘れたくない。
窓の外では、東京の夜景が広がっていた。
そして、国政選挙までの時間は、容赦なく過ぎていった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
無名の新人が現職議員に挑むには、政策だけでなく、それを伝える力も必要になります。
一方で、政治活動が広がるほど、支える仲間たちにも大きな決断が求められていきます。
次回もお楽しみいただければ嬉しいです。




