第12話 解散総選挙まで、あと三十五日
政治の世界では、準備が整うまで待ってくれるとは限らない。
資金も、組織も、知名度も足りない。
それでも、挑戦する機会は突然やってくる。
2035年6月6日、午後7時42分。
東京都新宿区、新宿駅西口。
「年収四百万円の会社員が、実際にいくら使えるのか。皆さんは、ご存じでしょうか!」
黒崎玲司の声が、夕方の駅前に響いた。
足を止める人は少ない。
それでも、黒崎は話し続けた。
「給与明細には、所得税、住民税、社会保険料など、さまざまな控除があります。もちろん、社会保障を維持するために必要な負担もあります!」
黒崎は、一枚の資料を掲げた。
「問題は、その負担に見合う説明が、国民に十分届いているのかということです!」
通りがかった男性が、足を止めた。
五十代くらいの、スーツ姿の男性だった。
「兄ちゃん」
「はい!」
「結局、減税してくれるのか?」
黒崎は、マイクを下ろした。
「減税を目指しています。ただし、財源を確認せずに約束するつもりはありません」
男性は、鼻で笑った。
「政治家って、みんなそう言うんだよ」
「そうかもしれません」
「じゃあ、お前は何が違う?」
黒崎は、資料を差し出した。
「まず、どの支出を見直せるのか、根拠を示します。そのうえで、負担を減らす政策を提案します」
男性は資料を受け取った。
そして、しばらく読んだ。
「……数字ばっかりだな」
「すみません。まだ分かりにくい部分もあると思います」
「いや」
男性は、資料を折りたたんだ。
「数字があるだけ、まだマシか」
そう言って、歩き去った。
少し離れた場所で、藤原真琴が腕を組んでいた。
「黒崎さん」
「はい」
「今のやり取り、よかったです」
「本当ですか?」
「はい。ただ、演説より質問に答えている時の方が、ずっと伝わります」
黒崎は苦笑した。
「演説が下手ということですね」
「そうです」
真琴は即答した。
隣で高瀬直樹が吹き出した。
「容赦ないな!」
「褒めているんですよ」
真琴は真顔だった。
その時、高瀬のスマートフォンが震えた。
画面を見た彼の表情が変わる。
「……おい」
「どうした?」
「ニュース速報」
高瀬は、画面を黒崎に向けた。
そこには、大きな文字が表示されていた。
『首相、来週にも衆議院解散の意向。与党幹部に伝達』
黒崎は、息を止めた。
「……解散?」
真琴がスマートフォンを取り出した。
「複数の報道機関が速報を出しています」
高瀬が叫んだ。
「ちょっと待て! 選挙って、こんな急に決まるのか!?」
真琴は、厳しい表情で答えた。
「解散が正式に決まったわけではありません。でも、準備を始める陣営はもう動きます」
黒崎は、マイクを握り直した。
数週間前。
自分は、ただの会社員だった。
政治に不満を抱き、給与明細を見つめていた。
そして今。
国政選挙が、目の前に迫ろうとしていた。
* * *
2035年6月7日、午前10時16分。
東京都千代田区、貸会議室。
「結論から言います」
小野寺航が、資料を机に置いた。
「今のままでは、立候補できません」
高瀬が頭を抱えた。
「分かってるけど、改めて言われるときついな……」
小野寺は、ホワイトボードに数字を書いた。
『供託金 三百万円』
『黒崎の貯蓄 二百七万円』
『不足 九十三万円』
「これは供託金だけの話です。実際には、事前準備や選挙運動に必要な費用もあります」
桐生美月が、資料をめくった。
「それに、候補者としての届出書類、選挙区、活動体制。確認することが山ほどあります」
真琴が口を開いた。
「知名度も足りません」
「……はい」
黒崎は、素直にうなずいた。
真琴は続けた。
「今の支持者は七人。活動への問い合わせは増えていますが、選挙に必要な組織とは別です」
高瀬が腕を組んだ。
「つまり、金も人も時間も足りない」
「そうです」
真琴は、黒崎を見た。
「それでも出ますか?」
会議室が静かになった。
黒崎は、少し考えた。
「……出たいです」
高瀬が顔を上げた。
「玲司」
「でも、出たいだけでは駄目なのも分かっています」
黒崎は続けた。
「だから、期限を決めましょう」
美月が尋ねた。
「期限?」
「立候補の準備を進めます。ただし、必要な資金や体制が整わなければ、無理には出ません」
小野寺がうなずいた。
「現実的な判断です」
黒崎は、ホワイトボードを見た。
「まず、何をすればいいですか?」
美月は、すぐに答えた。
「選挙区を決めることです」
真琴が地図を広げた。
「黒崎さん。あなたがこれまで活動してきた地域を中心に考えましょう」
黒崎は、地図を見つめた。
東京都内の小選挙区。
その一つに、真琴が赤い丸を付けた。
「東京第八区」
黒崎は、顔を上げた。
「……ここですか?」
「はい。まず、この選挙区を調べましょう。現職の実績、過去の得票、地域の課題。地盤のない新人が挑むなら、相手を知らないままでは戦えません」
黒崎はうなずいた。
「分かりました」
高瀬が、少し笑った。
「なんか、急に本物の選挙っぽくなってきたな」
誰も笑わなかった。
それほど、状況は切迫していた。
* * *
2035年6月9日、午後6時28分。
東京都杉並区、地域交流施設。
「国民会計の会の黒崎玲司です。本日はありがとうございます」
黒崎は、集まった人々に頭を下げた。
急きょ開催した地域説明会。
参加者は、四十三人。
これまでで最も多い人数だった。
会場の後方では、美月と高瀬が受付を担当している。
真琴は、参加者の反応を観察していた。
黒崎は、資料を掲げた。
「私は、国の予算を分かりやすくし、必要な支出と見直すべき支出を区別したいと考えています」
前列の女性が手を挙げた。
「質問してもいいですか?」
「もちろんです」
「あなたは、消費税を下げるんですか?」
黒崎は、うなずいた。
「将来的には、税率を引き下げることを目指しています」
「いつですか?」
「今の段階で、時期を断言することはできません」
会場がざわついた。
女性は続けた。
「それじゃあ、他の政治家と同じじゃないですか」
黒崎は、ゆっくりと答えた。
「そう思われるかもしれません。ただ、財源の裏付けがない約束をして、後から撤回することはしたくありません」
女性は、不満そうに腕を組んだ。
その時、後方から別の男性が立ち上がった。
「じゃあ、何のために立候補するんだ?」
黒崎は、男性を見た。
「国のお金の使い方を変えるためです」
「そんなこと、野党の一議員になったところで無理だろ」
黒崎は、少し考えた。
「……一人では、難しいと思います」
男性が笑った。
「正直だな」
黒崎は続けた。
「だから、仲間を増やしたいんです」
会場が静かになった。
「今は、まだ小さな活動です。でも、同じ問題を感じている人が増えれば、政治を変える力になると思っています」
男性は、しばらく黒崎を見つめた。
そして、静かに座った。
説明会が終わった後。
美月が、受付の記録を確認していた。
「黒崎さん」
「はい」
「今日、継続的な活動への参加を希望された方が、十九人いました」
黒崎は、驚いた。
「十九人?」
「はい。連絡先と参加意思を確認できています」
真琴が、静かにうなずいた。
「よかったですね」
黒崎は、思わず笑った。
「……ありがとうございます」
美月は、ホワイトボードに数字を書いた。
『継続的な支持者 26人』
七人から、二十六人へ。
まだ、百人には届かない。
それでも、初めて大きく数字が動いた。
その時。
会場の入口から、一人の男性が近づいてきた。
「黒崎さん」
黒崎は振り返った。
そこにいたのは、榊田修平だった。
「……榊田さん?」
榊田は、軽く頭を下げた。
「久しぶりです」
黒崎は驚いた。
「今日は、来てくださったんですか?」
「ええ。少し、あなたの話を聞いてみたくなりまして」
榊田は、会場を見渡した。
「二十六人ですか」
黒崎は、少し驚いた。
「……聞こえていました?」
「ええ」
榊田は、小さく笑った。
「思ったより、増えていますね」
黒崎はうなずいた。
「まだまだですけど」
榊田は、静かに言った。
「黒崎さん。あなた、本当に選挙に出るつもりですか?」
「はい」
「……そうですか」
榊田は、少し考えた。
そして、鞄から一枚の名刺を取り出した。
「では、一度、この人に会ってみてください」
黒崎は、名刺を受け取った。
そこには、こう書かれていた。
『選挙実務アドバイザー 長谷川慎吾』
黒崎は、顔を上げた。
「……この方は?」
榊田は、静かに答えた。
「選挙の現場を、長く見てきた人です」
そして、少しだけ声を落とした。
「ただし、厳しい人ですよ」
黒崎は、名刺を見つめた。
「……分かりました」
榊田は、微笑んだ。
「本気なら、会う価値はあります」
* * *
2035年6月11日、午後8時02分。
東京都千代田区、貸会議室。
「無理です」
長谷川慎吾は、資料を一通り見ると、そう言った。
黒崎は、思わず聞き返した。
「……無理、ですか?」
「ええ」
長谷川は、五十代半ば。
地方選挙から国政選挙まで、複数の陣営で実務を担当してきたという。
無駄な言葉を使わない男だった。
「知名度がない。資金がない。組織がない」
長谷川は、三本の指を立てた。
「選挙で必要なものが、三つとも足りません」
高瀬が、少し身を乗り出した。
「でも、支持者は増えてきています」
「二十六人でしょう?」
「はい」
長谷川は、首を振った。
「選挙区の有権者は、何十万人もいます」
高瀬は黙った。
長谷川は、黒崎を見た。
「黒崎さん。あなたは、何票取れば勝てると思っていますか?」
黒崎は、少し考えた。
「……前回の選挙結果から考えると、十万票前後は必要になる可能性があります」
長谷川は、うなずいた。
「そうですね。相手の候補者や投票率によって変わりますが、それくらいの規模です」
黒崎は、静かに聞いていた。
「二十六人の支持者から、どうやって十万票に届かせるんですか?」
黒崎は、答えられなかった。
長谷川は続けた。
「政治家になりたいという人は、たくさんいます」
「はい」
「でも、選挙は気持ちだけでは勝てません」
黒崎は、ゆっくりとうなずいた。
「……分かっています」
長谷川は、資料を閉じた。
「では、どうしますか?」
黒崎は、しばらく考えた。
そして、静かに言った。
「……まず、今の活動を続けます」
長谷川は、眉を上げた。
「それだけですか?」
「いいえ」
黒崎は、顔を上げた。
「もっと多くの人に、自分の考えを伝えます」
「どうやって?」
黒崎は、少し考えた。
「街頭活動と、インターネットです」
長谷川は、首を振った。
「それだけでは足りません」
黒崎は黙った。
長谷川は続けた。
「あなたには、まだ一つ足りないものがあります」
「……何でしょう?」
長谷川は、はっきりと言った。
「ニュースになる理由です」
会議室が静かになった。
長谷川は続けた。
「政治に興味のない人は、知らない候補者の演説なんて聞きません」
「はい」
「でも、社会全体が注目する出来事があれば、話は変わります」
黒崎は、静かに聞いていた。
「ただし、炎上させろと言っているわけではありません」
長谷川は、黒崎を見た。
「あなたが何者で、何を変えようとしているのか。それが一度で伝わる行動が必要なんです」
黒崎は、しばらく考えた。
そして、ゆっくりとうなずいた。
「……分かりました」
長谷川は、少しだけ笑った。
「本当に分かりましたか?」
「はい」
黒崎は、まっすぐに答えた。
「今までの活動は、こちらから説明するだけでした」
長谷川は黙っていた。
「でも、もっと多くの人に、国のお金の問題を自分のこととして考えてもらう必要があるんですね」
長谷川は、静かにうなずいた。
「そういうことです」
その時。
高瀬のスマートフォンが鳴った。
「……え?」
画面を見た高瀬の表情が変わった。
「おい、玲司」
「何だ?」
高瀬は、画面を見せた。
そこには、速報が表示されていた。
『首相、衆議院を解散。七月十六日投開票へ』
黒崎は、息を止めた。
「……決まったのか」
長谷川は、腕時計を見た。
「公示日は、七月四日ですね」
黒崎は、顔を上げた。
「七月四日……」
長谷川は、静かに言った。
「立候補の届出まで、二十三日」
そして、黒崎を見た。
「選挙まで、三十五日です」
会議室が静まり返った。
黒崎は、ホワイトボードを見た。
『供託金不足 九十三万円』
『継続的な支持者 二十六人』
『選挙区 調査中』
『政治団体 設立準備中』
足りないものばかりだった。
だが、時間だけは、確実に減っていた。
黒崎は、ゆっくりと立ち上がった。
「……やります」
高瀬が顔を上げた。
「玲司」
「準備を進めます」
美月が、静かに尋ねた。
「本当に、いいんですね?」
黒崎は、うなずいた。
「はい」
そして、長谷川を見た。
「長谷川さん。二十三日で、何ができますか?」
長谷川は、しばらく黒崎を見つめた。
やがて、口元をわずかに緩めた。
「……ようやく、選挙の話になりましたね」
長谷川は、鞄から新しい資料を取り出した。
「では、明日から本気で動きましょう」
黒崎は、深く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
窓の外では、東京の街がいつもどおりに動いていた。
電車が走り、人々が家路を急ぎ、店には明かりがともっている。
その日常の中で、一人の無名の会社員が、国政選挙への挑戦を決めた。
選挙まで、三十五日。
黒崎玲司の人生が、大きく変わろうとしていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
いよいよ、黒崎が国政選挙に挑むための本格的な準備が始まります。
資金、組織、知名度。現実的な壁を前に、どのように支持を広げていくのか。
次回からは、選挙に向けた展開が一気に加速します。




